ふたつの星の物語り<後>
右京大夫が盛子の甥に箏を手ほどきするようになって、二度目の夏。
彼女の自由で勢いのある箏の音を童子は面白がり、盛子のもとを訪れたときは少しも右京大夫を放そうとしなかった。
昨年には、盛子は夫だった近衛基実の死去により十一歳で寡婦となり、東三条殿から白河
童子は元服して官位を授かり、資盛と名乗るようになっている。それでもまだ七歳。資盛は実の姉を訪ねるような気安さで、白河押小路殿を出入りしていた。
「右京! 右京大夫はどこ? ぼくが来たよ! いっしょに箏を弾いて?」
元服を済ませたのだから、大人らしく言動を慎むようにといくら言われても、資盛の快活な性格はそれを受けいれなかった。
それどころか、苦言を呈する女房へ「あなたは、ぼくがお嫌いなの?」と寂しそうに言っては、あっけなく篭絡してしまうという有様で、白河押小路殿のだれもが彼を慈しんだ。
そのように周囲から愛される資盛が、ことのほか自分を慕ってくれているというのは、右京大夫にも悪い気はしない。女房たちから「小さな恋人のようですわね」などと言われることも、うれしいとすら思う。
もちろん、それを真に受けるほどお人よしではないが、もう、ずいぶんと前から、資盛が来る日を待ち遠しく思うようになっていた。
「資盛さま、きょうは七夕でございますよ。ごいっしょに、梶の葉へお願いごとを書きつけましょう」
「箏は? 右京の箏が聴きたいよ」
「ええ、あとでごいっしょに白河殿(盛子)に聴いていただきましょうね」
「……うん、あとでね。わかった」
七夕の行事へうながす言葉を素直に聞き入れた資盛は、右京大夫の手を取って「梶の葉はどこ?」と連れて行こうとした。その手はまだ小さくてか細く、きゅっと握られた指のいとけなさに、右京大夫はこれまでになく資盛が愛しく思われた。
通りかかる女房たちに「あら、うらやましいこと」と声をかけられながら、ふたりは簀子縁で梶の葉に願いごとをした。
「右京大夫は、なにをお願いしたの?」
「よくある願いごとですよ。裁縫が上達しますように、歌が上達しますように、箏も
「うわぁ、いっぱいだ! 右京大夫はよくばりなんだね」
「わたしは、まだまだ半人前ですから。いろんなことを、きちんと身につけておきたいのです」
「どうして? どうしてそんなに、たくさん覚えるの?」
「──そうですね、わたしが生きていくための手だてになるから、でしょうか」
右京大夫の言葉が理解できなかったのか、資盛は「ふうん」と言って梶の葉をくるくると回した。
資盛の細いうなじが薄闇の中で浮かびあがり、その清らかな白さは少年の育ちの良さや、家柄の良さを表しているように見えた。
(わたしには、ないものだから。……だから、わたしは努力をするの)
右京大夫の父を遡れば、一条天皇の時代に『
けれど、公卿であったのも今は昔で、曾祖父の代からは四位や五位の諸大夫にとどまり、家業の入木道でどうにか体面を保っていた。
それに、十四歳ともなれば、自分の容姿がそれほどでもないことくらいは、右京大夫にもわかる。家柄も容姿も期待できないのであれば、あとは自身の才能を頼りに生きていくしかない。
(いつかは結婚をするかもしれないけど、ひとりでも生きていけるようにしておかないとね)
水を張った盥をのぞきこみ、梶の葉を無邪気にもてあそぶ資盛を見ていた右京大夫は、われながら可愛げのないことだとため息をついた。
それに気づいて心配するように首をかしげる資盛も、いずれは可愛らしい姫を正室に迎えるのだろう。右京大夫では遠く及ばない、高貴で美しく、年若い姫を──。
じわりと胸にわいた苦い思いを押しとどめ、右京大夫は資盛へ笑顔をつくると、いっしょに盥をのぞきこんだ。
「資盛さまは、なにをお願いされたのですか?」
「ぼくもいっぱいお願いした。右京大夫みたいに箏が上手になりたいし、馬にも乗れるようになりたい。あと、また父上と狩りにも行きたい!」
「まあ、資盛さまも欲張りですこと」
声を立てて笑いながら、ふたりは盥の水に映った星合いの空を眺めた。
西に傾く上弦の月がゆらめく水面に、
やがて、お互いの息づかいを感じるほどに頬を寄せあうと、資盛がもじもじと身体を動かし、小さな声で言った。
「それとね、右京大夫を北の方にできますようにってお願いした」
「……え」
「だから、ぼくがもっと大きくなるまで、だれとも結婚しないでね?」
「そんな、わたしにはもったいないことです」
相手が相手だけに、右京大夫は戯れにも受け入れることができなかった。
資盛の幼い恋心を思えば可愛らしく、その相手が自分だということも誇らしく感じる。でも悲しいかな、平家の嫡孫である資盛と右京大夫では、家格も年ごろもまったく釣り合わなかった。
それでも──
「ね、約束して。右京大夫は、ぼくが迎えにいくからね」
真剣な顔で、けれど甘えた声で言う資盛に、右京大夫は肩の力が抜けた。
いまだけでもいい。精いっぱいの背伸びをした幼い恋に寄り添って、つかの間の夢を見ていたいと思った。
まさか自分が平家の正室に迎えられる未来など、夢見ることすらおこがましいとわかっている。でも、この瞬間だけは、それを許される気がした。
「ええ、お約束いたします。資盛さまが大人におなりになるまで、右京大夫はお待ち申し上げております」
「ぜったいに、約束だよ?」
「はい、約束です」
叶わぬことだと知りながら、重ねられた資盛の小さな手を、右京大夫はやさしく握りかえした。
◇ ◇ ◇
きかなばや ふたつの星の 物語り
たらいの水に うつらましかば
了
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