ふたつの星の物語り<前>

 春を思わせる晩秋の穏やかな光が、二町を有する広大な屋敷へ降りそそいでいた。


 たっぷりとした日差し受けて、恥じらうように紅葉する色彩豊かな庭は、日中でも薄暗い母屋もやの奥へかすかな光の残余を届けている。


 その日、右京大夫が出仕する、摂政・近衛基実もとざねの東三条殿はめずらしく静かで、基実の北政所である盛子も、おとなしく手習いをしていた。


 数えで九歳だった平盛子が、二十二歳の基実に輿入れしたのは去年のこと。


 盛子とは親子ほど年の離れた兄である平重盛が、右京大夫の亡くなった祖父に書を習っていた縁で、十一歳だった右京大夫に女房勤めの話が舞い込んだ。


 六波羅から手配された女房たちはみな年かさで、ふたつしかちがわない右京大夫を盛子はいたく気に入ったらしい。出仕をはじめて以来、ずっとそばに置くようになっている。


 いまも半刻ばかりつづけている手習いに飽きたのか、ちらちらと右京大夫へ視線を送っては、疲れたといわんばかりにため息をついていた。


 もっちりとした頬が不満げにふくらみ、ちょんと唇をとがらせる様子がなんとも愛らしい。


 だからといって、ここで甘い顔を見せては、監督不行き届きで右京大夫が年配の女房たちに叱られてしまう。こういうときに助けになるのは、代わる代わる盛子の御機嫌伺いに日参する平家の若者たちだった。


(そろそろ、いらしてもいい頃だけど……)


 盛子の甘えた視線に耐えきれなくなってきた右京大夫は、すがる思いで来客の気配を探った。


 ややあって、ざわざわと重なるいくつもの衣擦れの音と、途切れ途切れに「お待ちください」という女房たちの声が聞こえてきて、静かだった東三条殿がにわかに息を吹きかえした。


 ぱっと表情を明るくした盛子につられて、右京大夫も安堵の笑顔を向ける。あの騒々しい登場の仕方は、もう覚えた。


(小松殿の御嫡男がいらしたのね。今日はなにをしてくださるのかしら)


 右京大夫を東三条殿へ紹介してくれた平重盛の嫡男は、盛子よりもまだ幼く、元服も済ませていない。その気軽さゆえか、先触れもなく盛子の住まう北対へ駆けこんでくることがあった。


 やがて、妻戸を開ける音がして、庇の間にいる女房たちの手をかいくぐった紅顔の童子が、御簾のあいだからひょっこりと身体をすべらせてきた。


 とたん、日差しの届かない母屋もやに日なたの匂いがあふれる。


「北政所さま、お土産をお持ちしました! ぼく、父上の狩りにお供したんです!」


 興奮した声で頬を紅潮させる童子は、籠いっぱいのイガグリを床へぶちまけた。割れたイガグリの中から、うねうねと白い芋虫が数匹現れ、女房たちが細い悲鳴をあげる。


 童子は芋虫をつまみ上げると、女房のひとりへ「怖くないよ?」と言いながら背伸びをして目の前まで近づけた。


 声もなく卒倒した女房へ「あなたにあげるね」と胸もとに芋虫を置いて、童子は散らばったイガグリを器用に避けながら盛子の前にすわった。


 まだ五歳にしかならない童子にも、武門の嫡孫という矜持があるのか、肩を張って顎を上げる姿がほほえましい。けれど、水干の袴から伸びる脚も、形のよい小さな頭を支える首も、まだ頼りなくほっそりとしている。


(ほんとうに、いつ拝見しても可愛らしい方だわ。北政所さまが弟君のように寵愛なさるのも、無理のないことね)


 すっきりと品の良い童子を、右京大夫は好ましく見やった。


 童子には母の異なる兄がいるが、その兄もまた美しいことで評判だった。母の身分ゆえに次男である童子が嫡男となっているが、そのせいか兄はなにごとにも控えめな性分で、東三条殿へも滅多に顔を見せない。


 兄と対比するように明るく奔放な童子の性格は、その容姿をいっそう華やかなものへと引き立て、多少の粗相はもとより、いまのような過度のいたずらでさえも愛らしいと、女房たちは許してしまうのだった。


 童子はイノシシ狩りの様子を得意げに語っていたが、盛子の手元にある真っ黒に塗りつぶされた手習いの反故紙に気づくと、あっと声をあげた。


「ぼく、箏を習っています! いまから、北政所さまにご覧にいれてもいいですか?」


 盛子はにこにこと了承すると、自分の箏を貸し与えた。童子は一人前にむずかしい顔をつくって調弦を行い、小さな手でぎこちなく爪弾いたが、当然ながら聴けたものではなかった。


 女たちはそれでも健気だと誉めそやしたが、思ったように弾くことができなかったことで童子は不貞腐れた。盛子は困ったように首をかしげると、右京大夫へにこりと笑いかけてから、童子へ提案した。


「そこにいる右京大夫は、箏がとっても上手なの。ここにいるときは、あなたが右京大夫を独り占めしてもいいから、教えてもらうといいわ」

「いいんですか!? わぁ、よろしくお願いします!」


 主人あるじの思いがけない言葉に、右京大夫は目を丸くした。


 楽人の家系であった彼女の母は、その箏の腕前で弟子を多く取っている。右京大夫も父とともに母に師事しており、箏には多少の自信はあった。


 しかし、人に教えるとなれば話は別だ。それに、彼女の母の演奏はいささか独創的で、平家の嫡孫が覚えるのに相応しいとは思えなかった。


 そのことを伝えた上で辞退しようとしたのだが、子どもの遊びに付きあうだけなのだから、堅苦しく考える必要はないと一蹴された。


「右京大夫は、ほんとうに真面目なんだから。あなたが弾く箏は、あんなに自由なのにね」


 ふたつしか違わないよわい十歳の女主人にそう言われ、さらには童子が期待に目を潤ませて見上げるのに根負けした右京大夫は、しぶしぶ承知した。

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