とこしえの約束

「右京大夫どのは、ついぞ出家をなさいませんでしたな」


 まるでまもなく寿命が尽きるかのような言い草に、右京大夫は苦笑した。

 自身が選者を務める勅撰和歌集の件で訪れていた藤原定家は、そろそろ出家を考えているのだと言う。

 お互い、長寿と言うに相応しい年齢になっているのだから、無理もない。 

 右京大夫は枯れ木のように細くなった首をかしげて、やわらかく笑った。


「──考えなかったわけでは、ありませんのよ」

「ほう……」


 定家は興味を引かれたように、几帳のむこう側でわずかに身を乗りだした。

 平家滅亡のあと、夫や恋人を亡くして出家した女は多かった。もちろん、すべての女がそうであったわけではなく、まもなく宮仕えにもどった女たちもいる。

 都に残って恋人の無事を祈りつづけた右京大夫も、後年、宮中へ再出仕したうちのひとりだった。

 しかし、それもずいぶんと前に退官し、いまは洛外にひっそりと暮らしている。


「あの頃は、生きていることもつらく、この世から消えてしまいたいと思うこともありました。──けれど、あの方の菩提を弔うことは、生前からの約束でしたから……。いっそ出家して、現生への思いを断ち切ることができれば、とも考えました」

「なぜ、そうなさらなかったのですかな」

「そうですね……たとえ出家したとしても、あの方への恋心までは断ち切ることができない、と思ったから──でしょうか。いい年をして、わたくしはまだ、あの方に恋をしているのですよ。おかしいでしょう」


 口もとにくっきりとしたシワをつくる頬を染めて、右京大夫は笑った。年を重ねて落ちくぼみ、小さくなった目も少女のように潤んでいる。

 定家もまた、白くなった髭をちょいと撫でつけ、首を左右に振った。


「──いいえ。生涯の恋人を忘れ得ぬ心は、だれの身にも覚えのあること」

「定家さまにも?」

「さて……、それはどうでしょうか」


 答えをはぐらかした定家へ、それでも右京大夫はおなじ思いを感じた。


「じつはわたくし、これまでに詠んだ歌をまとめたいと考えています」

「おや、家集ですか。それはいいですな、ぜひとも拝見したい」

「家集だなんて、そんなたいそうなものではありませんわ。折々に書き留めておいたものを、まとめようと思い立っただけです。いつか後世の人たちの目にふれて、少しでもご一門の方たちのことを思ってくれたら、それだけでも供養になるかと思いまして」

「──なるほど。あの頃を知る人たちも、ずいぶんと少なくなりました。わたしたちもまた、老いましたからな……。のちの人びとへ、ご一門の供養を託すということですか」

「ええ……」


 右京大夫は短く答えた。

 あの華やかな日々をともに過ごした彼らのことを、百年後、千年後の人たちへ伝えたい。彼らの人となりを知った人たちが、わずかでも供養の気持ちを抱いてくれたら、それでいい。

 それに──

 右京大夫がもうひとつの願いへ思いをめぐらせたとき、定家が暇を告げた。


「では、このたびの勅撰集には『建礼門院右京大夫』というお名前で、歌を選ばせていただきます。平家の方がたのお名前も、今回は隠さず記したいと考えています」

「まあ……そのようなことをなさって、大丈夫ですの?」


 右京大夫の問いに、定家は意外そうな顔をしてみせた。


「右京大夫どのは、生涯の恋人と名を連ねたくはないのですか?」

「それは、もちろん……あの方と同じ、勅撰歌人として名を残すことができれば、これほどうれしいことはございません」


 定家は満足げにうなずいた。


「そうでしょうとも。のちの世の人たちへ、ご一門の供養を託すこと、わたしにもお手伝いをさせてください」

「──ありがとうございます」


 右京大夫は深く頭を下げて、定家を見送った。

 やがて人の気配がすっかりなくなると、右京大夫は硯にむかった。

 はるか先の世に生きる人たちへ、女院のもとで過ごした輝かしい青春の記憶を伝えたい。その思いに嘘はない。

 けれど、本当に伝えたい相手は、ただひとり──。


「資盛どの……」


 その名前を口にするたび、いまでも恥ずかしいほどに胸がさわぐ。


(ほんとうに、いい年をして、わたくしときたら……)


 右京大夫は心を落ち着かせるように、ゆっくりと墨を磨りはじめた。

 するすると硯を撫でるように滑らせるうち、心地よい墨の香りがふっと立ちのぼり、資盛と交わした文のひとつひとつが思いだされた。


「あなたは来世でも、わたくしを見つけてくださるかしら。──もしかすると、なにも覚えておいでにならないかもしれないわね。でも……お互いに今生での恋を忘れていても、この草子を読めばきっと思いだすわ。そしてまた、めぐり会うの」


 あふれる思いを含ませるように、つやつやとした墨へそっと筆を下ろす。

 じわり、と、ふくよかに墨を吸いこんだ穂先をととのえると、ためらうことなく筆を運んだ。


 家の集などいひて

 歌よむ人こそ書きとどむることなれ

 これは ゆめゆめさにはあらず


「ただ、あはれにも、かなしくも……」


 いつの日か、ふたたび資盛と出会うための道しるべとなるように。後世の人たちが、いつまでもふたりの恋を覚えていてくれるように──。

 右京大夫は、ひと筆ごとに祈りをこめる。


「──何度でも、生まれ変わるたびに、わたくしはあなたに恋をするわ。だから、あなたもわたくしを見つけて。きっと、約束よ」


◇ ◇ ◇


ことの葉の もし世にちらば しのばしき

昔の名こそ とめまほしけれ


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