月のいたずら

 つい先だって催された、後白河法皇の五十歳の御賀。

 その華やかな余韻から、いまだ宮中の人びとが醒めやらぬ春の宵。


 右京大夫は、御簾のむこう側に人の気配を感じて目をこらした。簀子で柱に背中をあずけた人影が、しきりに深いため息をくりかえしている。

 おぼろげな月明りに浮かぶ若い公達の横顔を、右京大夫は知っていた。


(──資盛さま? どうされたのかしら)


 そう思ったけれど、顔を見知っているだけの相手では、こちらから声をかけることもためらわれる。

 やがて右京大夫の薫物の香りに気づいた資盛が、びくりと肩を震わせて「だれ!」と声をあげた。


「失礼いたしました。中宮さまにお仕えしております、右京大夫と申します」

「ああ、中宮さまの。そう……」


 気の抜けた返事をした資盛は、それきり右京大夫への興味を失ったのか、ふたたび月を見上げるように柱へもたれかかった。

 その顔は月を愛でるというよりも、怒っているような、苦痛に耐えているような、なんとも物憂い表情をしている。

 右京大夫が目を離せずにいると、資盛はひとり言のように話しかけてきた。


「兄上の青海波は、とても美しかったね。宮中にいると、その話ばかりだ」

「そうでございますね」


 先日の御賀で青海波を披露した資盛の兄は、みなが息を呑むほどに美しく、光源氏もかくやと絶賛された。

 数日たったいまでも、女房たちは目を潤ませ、悩ましいため息をこぼしている。


「御賀のあいだ、ぼくがなにをしていたか知ってる?」

「……いいえ。申しわけございません」

「いいんだ。ぼくの役目はね、給仕と献上馬を引いたことだけ。弟ですら、舞人を務めたのに。──みんな、ぼくがいたことに気づかなかったんじゃないかな」


 晴れ舞台できらびやかに活躍する兄弟への嫉妬を抑えているのか、資盛は奥歯を噛みしめるように唇をひき結んでいる。

 そしてふたたび、大きなため息をつきながら言った。


「それに兄上は、中宮さまの舟遊びでも笛を披露して……褒められて……」


 みるみるしおれていく資盛に、右京大夫は相槌だけのつもりがつい口をはさんでしまった。


「資盛さまは、筝の琴がとてもお上手だとうかがっております。妙音院流の方の中でも、かなりの腕前をお持ちだと、母が申しておりました」

「え……あ、右京大夫どの? そうか、あなたなんだね。ぼくも聞いてるよ。中宮さまの女房に、稀に見る才媛がいるって」


 得意の琴の腕前を褒められて気をよくしたのか、資盛はすっと御簾の前へ移動してきた。

 その瞬間、じらすように月を隠していた雲が去り、右京大夫の目には資盛が光をまとって現れたように見えた。


(光る君……)


 美貌の兄にも劣らぬ端正な顔立ちが、冴え冴えと際立って見える。

 ぼうっと見惚れていた右京大夫は、ふと資盛が目を見ひらいてこちらを凝視していることに気づいた。


「あ──」


 あふれんばかりの月明りが御簾の内まで射しこみ、彼女の姿を露わにしている。

 とっさに右京大夫は、身をよじって髪を垂らし、顔を伏せた。


「どうか、隠さないで」


 資盛が御簾へ手をのばす。


「……お許しください」


 ささやくように答えた右京大夫へ、年若い資盛はそれ以上は踏みこんでこなかった。


「──そうだね、今日はやめておくよ。その代わり、またいつか、あなたの琴を聴かせてほしいな。あなたとなら、話が合いそうだ」

「もったいない仰せでございます。わたくしなど、数ならぬ身でございますれば……」

「謙遜しなくていいよ。いいかい、約束だよ。それと、また今夜みたいにあなたが油断したりすれば、今度は遠慮しないからね」

「まあ……」


 いたずらな笑みをこぼす資盛に、右京大夫はあきれて言葉を失った。


(きっと、どなたにでも、そのようなことをおっしゃっているのね)


 そうは思っても、すべてを許してしまいたくなるような愛嬌のある笑顔に、右京大夫も頬をゆるめてくすりと笑った。

 それを了解のしるしと解釈したのか、資盛は「約束だからね」と念を押して、足どりも軽やかに立ち去った。

 右京大夫は資盛の後ろ姿を目で追っている自分に気づいて、あわてて表情をひきしめる。


(──わたしは、うわついた恋なんてしない)


 背筋をのばして居ずまいを正した右京大夫は、宮仕えをはじめたときに自分自身で決めたことを心の内でくりかえした。

 けれど、やさしく月明りが降りそそぐ簀子を見つめるうち、目蓋には資盛の面差しが浮かび、耳には「隠さないで」と言ったやわらかな声がよみがえる。

 高鳴る胸の鼓動を耳もとで感じながら、右京大夫は自分が恋に落ちる未来を予感した。


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