第二十四話:助けて

 白色の壁と床に、それを照らす白い蛍光灯。

 過剰なまでの清潔感も相まって、廊下は病院のそれに近かった。

「……はあ」

 小春は先ほどまでいた部屋の鍵を閉めると、嘆息した。信濃との関係を断ち切ったように見えたが、くすぶり続ける思いはあるだろう。

 おれのことだってそうだ。小春とは二度と関わらないだろうと思っていた。なのに今、彼女はここにいる。おれは許されたのだろうか。昨日の涙を思い出す限り、簡単に心変わりしたとは考えられない。

「なあ、小春……」

「動くな」

 小春に話しかけようとしたが、左から低く、鋭い声が刺さる。視界の端に黒光りするものが映り、思わず両手を上げた。

 小春も両手を上げ、まじまじと高砂を見つめる。

「キミは……もしかして高砂莉子、なのかい?」

「そうだけど」

 高砂はふん、と鼻を鳴らす。

「……高砂、何が目的だ?」

「精算」

 高砂は銃を持つ右腕を前に突き出す。その照準の先は、おれ。

「今までの全部を精算して、私は自由になりたい。そのために、必ずお前を殺さないといけない」

「……そうか」

 こんな状況でありながら、おれは妙に冷静だった。

 痛む首が、昨晩の高砂を思い出させた。

「言っとくけど、本気だから。今日は絶対に殺す」

「……ああ、おれもそのつもりで来たんだ」

 頷くおれを見て、高砂は一瞬目を見開く。しかしその感情を振り切るように、銃を握る手に力を込めた。

 もはや、おれに何も未練はなかった。

 元から死ぬために来たのだ。それに、おれは高砂に自分の思いを伝えられた。これ以上は何も望まない。

 今のおれに成し遂げたいことはない。生きたいという欲もない。死んで悲しむ人もいない。

 だから……。

「嫌だ」

 それを拒んだのは、小春だった。彼女はおれの前に入る。額に銃口を向けられているのに、その背中は一切震えていない。

「何のつもりだ」

 高砂の顔が険しく歪む。

「見てわかるだろう。カイトを守ってる」

「どけ。お前に用はない」

「ボクもキミに用はない。けどカイトに言わなきゃいけないことがある。それを邪魔するなら、キミを殺してでもボクは生きる」

 小春は右手でスタンガンを構える。だらりと垂らした左手の先から、血がぽたり、ぽたりと落ちていた。

 それでもなお銃口の前に立ち続ける彼女からは、並々ならぬ決意を感じさせた。

「カイト、一度だけ聞く。答えて」

 小春は振り返らずに問うた。

「ボクと一緒にいた時、キミがずっと見ていたのは誰?」

「……」

 小春だ、と言いかけて止まる。

 本当に?

 確かにおれは小春とたくさんの時間を過ごした。オカルト研究部に入ってからは、彼女と一緒にいない時間の方が短かったとさえ言える。そういう意味では、おれの隣にいたのは小春だ。

 だけどおれは、本当に小春を見ていたのだろうか。

 おれが見ていたのは、芦引小春という一人の人間だったのだろうか。

 小春と一緒にいると楽しかった。嫌なことを、自分の罪を忘れさせてくれた。彼女がおれを求めてくれるたびに、過去の罪が消えていくような感覚すらあった。

……あぁ、そうか。

おれが見ていたのは、小春じゃない。

「おれが見ていたのは……おれだ」

 おれは小春に対して、おれに救われる彼女ばかりを求めていた。そうであれば、高砂を救えなかった罪悪感を慰められた。だから人を助けることをやめた人間が、芦引小春という一人ぼっちの人間に関わった。

 けど、おれはそれ以外の小春を何も見ていなかった。

 今ならわかる。おれは小春に対して過去の罪を白状しなかった。それは、自分を飾ることで小春に頼られるため。

 むしろ傷ついた彼女の隣にいて、慰めることで、おれの罪悪感は消えていった。

おれにとって彼女は、自分の心の傷を癒す薬でしかなかった。

 そう、おれは信濃と同じように、小春に依存していたのだ。その証拠に、おれは昨日まで小春に「大丈夫?」と言ったことがない。

「……そうかい」

 改めて、これで完全に小春との仲は切れたと思った。

 彼女の隣にいつつ、自分のことしか考えていないような人間とは関わるべきではない。至極当然だ。

 しかし小春はふっ、と笑ったように見えた。表情は窺えないが、彼女の空気が和らいだ気がした。

「その答えだけで十分だ。ボクは絶対に、キミを殺させない」

「黙れ!」

 高砂が叫び、銃の引き金に指をかけた。

「部外者はどけよ!これは私とそいつの問題だ!」

「絶対にどかない!木瀬開人はボクの大事な、大事な、たった一人だけの存在だ!」

「お前、そんなに死にたいなら本気で殺すぞ……!」

「……待ってくれ」

 小春を押し除けて、高砂の目の前に出た。

「悪いな小春。高砂の言う通り、これはおれと高砂の問題だ」

「カイト、でも」

 と、何かを言いかけたところで小春はそれを飲み込んだ。

「いや、何でもない。キミがそう言うなら、従おう」

「……ああ。本当にありがとう」

 改めて高砂に向き直る。怒りか、それとも他の感情か、彼女が向けてくる銃口は震えていた。

「おれを殺したいのなら、すればいい。高砂にはその権利がある」

 ぎり、と高砂が歯噛みしたのがはっきりと聞こえた。

「鬱陶しい。本当に鬱陶しい。鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい!その全部知ったような態度!小学校の時からそう、まるで世界の中心が自分だって言ってるみたいで、本当に嫌い!!」

 高砂は両手で銃を構える。

「殺してやる……!お前を殺して、私も……!!」

 引き金にかかった指に力が込められる。

「っ!」

 発砲の瞬間、両手で彼女の拳銃を掴み、強引におれの額から射線をずらした。

 弾丸は、背後の壁に当たった。

「このっ!」

 おれの手を振り解き、高砂は再度トリガーを引く。しかし銃は火を吹かず、かちり、かちり、と虚しい音だけが廊下に響いた。

「弾切れだ。さっき信濃があと一発だって言ってただろ」

「……くそっ、卑怯者!卑怯者卑怯者!殺してやる!!」

「ストップ。……さすがにこれくらいはさせてもらうよ」

 飛びかかってこようとする高砂に対し、小春がスタンガンを向けた。

「もし一歩でも動いたらこいつを使う。さっき信濃を見ただろう?まともに食らったらおそらく十五分は動けない。その間に、キミを殺すことだって可能だ」

「殺す……!殺してやる、殺してや、る、殺して……」

 高砂はおれたちを睨みつける。ただ、その目からはみるみると炎が消えていく。

「殺して、や……」

 そして、不意に膝から崩れ落ちた。

「高砂……?」

「…………」

 項垂れ、じっと床を見つめる高砂。目を開いたまま呆然としている。先ほどの殺意に満ちた表情とはまるで違う。糸が切れた人形のようだった。

「おい、どうしたんだ高砂」

 しゃがみ、彼女の顔を覗き込む。どろりと、もうろうとした目でこちらを見る。

「…………つかれた」

「疲れた……?」

「精神的なものだろうね」

「どういうことだ?」

「……簡単な話だよ。彼女は今まで、どれだけ少なく見積もっても三年間は、心を感じていなかった。偶然なのか故意なのかはわからないけど、この何日かでいきなりそれを感じられるようになった。それも殺意みたいに強烈な感情を。長時間も耐えられるわけがない。何かしらのダメージはあるだろう」

「あ……」

 小春の説明を聞き、昨晩のことを思い出す。あの時、高砂は本気でおれを殺そうとしていた。しかし突然体が不調を起こし、最後には足元もおぼつかない様子で出て行った。

「……つまり今、高砂は自分の心に体が追い付いてない……」

「そういうことだ。……高砂さん、ボクの声がわかるかい」

「……」

 おれを見たまま、高砂が緩慢に首を縦に振る。

「キミ、出来るだけ早くボタニカロイドに戻った方がいい。そうしないと、負担に耐え切れなくなって二度と高砂莉子に帰ってこれない可能性だってある。……心って、思い通りにならないから」

「……そんなこと……心が思い通りにならないことなんて、言われなくても……私が一番わかってる」

 小さな声で、しかしはっきりと言う。そして、立ち上がろうとする。

「高砂」

「……やめ、て」

 高砂を支えようとするが、拒絶されてやめる。

 それを見て彼女は、僅かに口の端を上げて冷笑を浮かべる。

「……今の貴方は、たった一度の拒絶だけで、私を助けないのね」

 壁にもたれながら、生気を失ったような様子でなおれのことを視線に捉え続ける高砂。

「小学生の、時なら……私が何と言おうと、助けてくれたのにね」

 長い前髪の間から、緑の瞳がこちらを窺う。その視線は、かつてのクラスメイトの高砂莉子を思い起こさせた。

「……もう六年二組のヒーローやってた木瀬開人はいないんだ。それに……おれは高砂があの日から今日まで、どんな生活をしてきたのか知らない。なのに軽々しく高砂を救う、なんて言えるわけがない」

「……そんなの、どうでもいいよ」

 高砂は力が入らず震える手をおれに向かって差し出す。

「今の木瀬開人がどうとか、あの日からの私がどうとか……そんなの関係ないよ。……ねえ、教えてよ。私は、貴方を殺したい……でも、同じくらい、ずっと一緒にいたい……わからない、わからないよ……今だって、貴方のことを殺したい、この世に残った最後の未練を消して、私も一緒に消えたい。……けど生きたい、開人君を殺したくない……でも生きたくても、私には生きる意味がない……誰かの人形の、奴隷の私が生きたって、意味なんてこれっぽっちもない……」

「高砂……」 

「助けて、開人君……助けて……」

 彼女の心からの言葉を受け、おれの目から自然と涙が溢れた。涙を流し続ける彼女のことを、無意識に抱きしめていた。 

 あの日から、いや、それよりもずっと前から、高砂はずっと誰かの助けを待っていた。一人ぼっちの自分を助けてほしい、クラスメイトにいじめられる自分を助けてほしい、ボタニカロイドになった自分を助けてほしい……。そんな終わりなき地獄に苦しみ続けていた。

 おれのような、“相棒”を裏切るような人間では彼女の救いにはなれないだろうし、なってはいけない。

 けどきっと、受け止めることはできる。

 助けて、と手を伸ばす人を受け止めることだけはできる。

「……誰もが納得する生きる意味なんて、きっとこの世にはない。みんなじゃなく、自分がこう生きたいって思えたら、それでいいんだ。もしなくても、生きちゃいけないわけじゃない。見つかるまで生きて、見つかったらまた生きればいいだけだ」

「生きる……」

 嗚咽を混じらせ、高砂は静かに泣く。

「生きていいのかな……?私みたいなのが、生きていいのかな……?」

「ああ」

「私、いつか開人君を殺してしまうかもしれない……それでも……?」

「……ああ」

 ずっと抱え込んでいたものが、流れる雫の一つ一つに溶けて消えていくようだった。

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