第二十二話:私

 目を覚ますと、はじめに飛び込んできたのは白だった。

 床も壁も天井も照明も、何故か目の前に一脚だけ置いてある椅子も、何もかもが白。まるで白い空間の中に自分が浮いているような感覚。

反射的に嫌悪感を覚えた。ここにいると自分の存在が白く塗りつぶされ、自我が消えてしまいそうな気がする。さっさと移動しなければ。

 しかし動けない。

 意味がわからず、目を動かして周囲を見る。そこでようやく、自分が壁に磔にされていることに気付いた。それぞれの手首と両足首、首、頭が金属製のベルトのようなもので固定されている。

「くそっ……!」

 体を捩るが、当然そんなことで拘束は解けない。少しパニックになっていると自分でもわかるが、止められない。

 一体どうなっているのか。

 そもそもおれはこんなところで何をしているのか。

 ぼんやりと、少し鈍痛のする頭で思い出す。

 ……そう、確かおれは伊谷高校旧校舎に来ていたはずだ。

 ということは、ここは旧校舎なのか?

 外から見た時は、ただの古びた建物でしかなかった。ここが、小春が言っていた地下なのだろうか。こんな白塗りの部屋、悪趣味すぎる。人間を改造する研究をしていたとしても、何らおかしくない。

「そうだ、高砂!」

 弾かれたように顔を横に動かす。しかし、高砂はいない。こちらを侵食せんとばかりの白色と沈黙だけが返ってくる。

 胃のものが胸元ほどまで迫り上がってきた。とにかく気持ちが悪かった。白に溶かされ、感覚から思考まで、自分の全てが曖昧になっていく。この空間そのものが、拷問を体現しているようですらあった。

「おい、誰かいないのか!」

 叫ぶが、聞こえてくるのは反響した自分の声だけ。それすら人を殺す超音波のように感じてしまう。

「くそっ、ふざけるな!」

 汗がでた。

 顔にも、背中にも、体全体に。

 汗が流れていくのすら、不快だ。気持ち悪い、気持ち悪い。

 自分の息が、反響しているかのようにとても大きく、多く聞こえる。

 ひゅうひゅうと、おれがたくさんいて、みんながいち度にそろって呼吸しているような感覚。

「う、あ、ぐああぁぁぁ!」

 くびを振り、その妄想をかき消す。

 だけど今どは、首をふっているおれがたくさんいた。

 目のまえにも、隣にも、後ろにも。全いんがくびをふっている。さっきと違って、ばらばらに。さけびごえがなん重にもなって、あたまをなぐってきた。がんがんと、なぐりつけられる。

 はいた。

 どろどろと、くちからたさんくでた。あいかろだった。でたものもさんでけいた。

 目をつっぶても、だめ。ぎくゃに、そのほうがえこはいたっかた。

 たけすて。

 たてすけ。

 たすけて。

「あははははははははは!」

 とつ然わらい声が聞こえた。

 目を開けると、椅子に座った女がおれを見て愉快そうに笑っていた。

「うっ……はあ、はあ……」

 段々と意識がはっきりしてくる。

 もう叫び声は聞こえない。分裂もしていない。赤色の吐瀉物も、床には落ちていない。

 何だったんだ、今のは。幻覚なのか。

「楽しかった。ここまで笑ったのは久しぶり」

 口の端を吊りあげ、しかし彼女は敵意に満ちた目を向けてきた。

「気分は?」

「貴方は……」

 この白い空間に墨を落としたように黒い髪に、意志の強さを感じさせる瞳。黒い狼という印象を受けるその女性は。

「信濃さん……?」

「気安く呼ぶな。殺すぞ」

 視線が槍と化したかのように、信濃はこちらを睨んだ。

「なんで貴方が……それにここって、伊谷の旧校舎……ですよね?」

「そう。ここは旧校舎の地下。拉致してきた検体の心を殺す作業場」

「っ!」

 心を殺す。おれはそれをつい先ほど経験した。全てが白で、自分しかいない世界。恐怖と幻覚で狂ってしまいそうだった。

「ってことは、高砂もここで……」

 先ほど見た幻覚を思い出し、また吐き気がした。全てが白い部屋に放置させられるだけだった。しかし人間、何か刺激がないと生きていけない。刺激がなければ、自分で刺激を作り出す。その幻覚に耐え切れず、心が死んでいく。あれは、そういう拷問だ。

高砂はそれにより、心を殺されてしまったのだ。きっと、おれが経験したよりも長かったのだろう。今だからこそわかる。それは、地獄だ。

「高砂?誰?」

「……ボタニカロイドの九番、あの子の本名ですよ」

「ふうん」

 何の感傷も示さず、今日の天気でも聞いたようにさらりと流す信濃。

 それを見て怒りを覚えると同時に、はっきりとわかった。彼女は施設側の人間だ。ボタニカロイドがどのような存在かを知っている。

「……それにしても、九番と一緒にお前を釣れたのはラッキー」

「ラッキー?」

「お前さえいなくなれば……小春ちゃんはまた私のところに」

 信濃は頬を上気させ、笑みを浮かべる。それはあまりに醜悪だった。まるで……そう、クスリを目の前に出された中毒者のように無気味な。

 以前、小春から信濃のことを聞いた。そして、目の前にいる、小春を欲している彼女を見て思う。

 信濃の小春に対する思いは、愛ではない。

 一方的に自分の望みを押し付けるだけの、ただの依存だ。

「そういえばお前、小春ちゃんは?何故一緒にいない?」

「……おれはもう小春の相棒じゃありませんから」

「えっ……?」

 信濃は大きく目を開くと、ぶるりと身を震わせた。

「やった……」

 立ち上がり、うっとりとした表情で両手で自分の頬に触れる。

「小春ちゃん……私を選んでくれた……小春ちゃん……!」

「……」

 まあ、その可能性もあるのかもしれない。

 謎を追う上で、協力者の存在は小春にとって価値がある。おれが二度と相棒にならないだろうことを考えると、なし崩し的に信濃が選ばれるのかもしれない。

「……なんだその顔」

 悦びに身を委ねていた信濃が険しい表情でこちらを睨む。

「……なんですか」

「お前、小春ちゃんの相棒は私には無理だと思ってる!」

 怒鳴りつけ、足を鳴らして近づいてくる。そして信濃はおれの右横の壁を殴った。

「なにを……っ!―!」

 両手両足、首に何千本もの針が刺さり、それが血管を引き裂きながら体内を暴れ回る。そんな激痛が全身を襲い、声にならない叫びが溢れた。

「小春ちゃんには私が必要!小春ちゃんの役に立てるのは私だけ!小春ちゃんが愛しているのは私だけ!この世で小春ちゃんを愛しているのは、私だけ!」

「―!!」

 痛みだけに心が支配される。

「お前なんかいなければ!お前さえいなければ!」

 信濃が壁を殴る。すると、身を蹂躙していた痛みは消えた。

「くっ……あぁ……」

 がくりと力が抜ける。

 突然痛みが消えた反動でか、何も考えられない。何も感じられない。

 心が死んでしまったようですらあった。

「……殺す」

 般若のような表情の信濃。腰の辺りから何かを取り出す。それは拳銃だった。

 彼女は何の躊躇いもなく、おれに対し銃口を向けた。

「……いや、違う」

 信濃はふうと一息吐くと、かぶりを振った。

「こんな男、殺したくない」

 信濃は銃を下ろし、今度はおれの左横の壁を殴った。

「うっ、ま、待ってくれ!」

 あの、全身を針でずたずたにされていくような痛みがフラッシュバックする。何も感じなかった心が、途端に恐怖を思い出す。反射的に目を閉じ、肩に力が入る。

 しかし痛みはない。代わりに、おれの左横でばたっと、人が倒れたような音がした。

「立て九番。お前の仕事だ」

 目を開けると、信濃が高砂の髪を掴み、こちらに文字通り引っ張って来ていた。おれと同じように磔にされていたのか。

「高砂……!」

「……」

 彼女はおれを見ても怨みの表情を浮かべない。髪を引っ張られているのに眉一つ動かさない。

「おい待て、そんな乱暴に……!」

「何?ボタニカロイドは道具。壊れなければ使い方は自由」

「あんた……警察官だろ」

「お前を殺す方が重要」

 信濃は高砂と拳銃をおれの足元に投げ捨てた。

「九番、命令だ。この男を殺せ」

「わかりました」

 高砂はぞんざいな扱いなどなかったかのように、淡々と拳銃を拾う。そしておれに向かって構えた。

「高砂……」

 彼女の名を呼ぶ。しかし何の反応も示さない。

 ピタリと心臓に銃口が向けられる。もともと死ぬ気で来たのだし、この部屋で幻覚と痛みを経験してしまったから、もはや恐怖など感じない。

「……殺すなら、殺してくれ。けど……ならせめて、ボタニカロイドじゃなくて、高砂莉子として殺してくれないか」

 けど、殺され方だけは選びたかった。

 最期の最期におれを殺せたなら、高砂の人生は少しだけでも報われるはずだ。

 高砂は真っすぐにおれを見据える。今の言葉がどういう風に届いたのか、そもそも高砂莉子に届いていたのかすらわからない。

「ん……?」

 その時、おれのズボンのポケットから、ぱさりと落ちたものがあった。

「何だこれは?」

 信濃が足下に流れてきたものを拾う。

 セロテープでかろうじて形を保った封筒だった。ピンク色で、“開人君へ”とあて名書きがされている。

「やめろ、拾うな!」

 心が感情を思い出し、信濃に向かって叫ぶ。

 ……それは、高砂がおれに渡すはずのものだった。

 あの日、破られた封筒はそのままゴミ箱に捨てられた。おれはその破片を集めて、テープで何とか繋げて、家で読んだ。そこには高砂がおれに伝えたかった言葉が、思いが綴られていた。

 その言葉の全てを、おれは覚えている。

“開人君へ

 高砂莉子です。

 いきなり手紙送ってごめんね。メッセージとか、せめてメールで送れって感じだよね。

 けどどれもしっくりこなくて、でも直接言うのは恥ずかしくて……だから、手紙にしました。

 私はずっと一人ぼっちでした。

 話すのが苦手で、見た目も悪くて、運動も勉強もできなくて、教室のすみっこで本ばかり読んでた。

 そんな私に声をかけてくれて、ありがとう。

 本当はね、本なんて読んでなかった。ふりをしてた。ただすわってるだけよりも、そうしてれば、ちょっとでも気分がましだったから。

 最初に話してくれた時、何も返事できなくてごめんなさい。全部聞こえてた。だけどどう反応していいかわからなかった。せっかく話してくれたのに、友だちになれるチャンスだったのに。このまま、また一人ぼっちなんだろうなって思ってた。

 けど開人君はずっと話しかけてくれた。

 校外学習の班に誘ってくれた。

 校外学習の当日には、顔を出したらいいよって言ってくれた。

 私のことを受け入れてくれた。

 本当に、本当に、うれしかったです。

 だから、好きになりました。

 私は開人君のことが好きです。

 もし開人君も私を好きでいてくれるなら。

 私のことを名前で呼んでください。

 (この手紙は、私と開人君のヒミツにしてください)”

 その手紙には、何度も何度も消しゴムをかけた跡が残っていた。高砂を救えなかった後悔と、自分に対する不甲斐なさで涙が止まらなかったことは忘れられない。その日以来、人を救う、なんて思わなくなったことも。

「……あの日からずっと逃げてた。めんどくさいを理由にして、自分に降りかかる責任とか、結果とかを引き受けたくなくて。けど高砂のことも、自分のやったことも、忘れた日は一日もなかった!」

 おれにとってその手紙は一生背負うべき罪だった。しかし今までずっと目を逸らして、机の引き出しに閉じ込めていた。けどもし今日死ぬのだとしたら、最期は罪に焼かれながら死のうと思った。

 だからここに持ってきた。

「どうでもいい」

 信濃はそのつぎはぎだらけの手紙を、煙草の吸殻のように投げ捨てた。

「殺せ」

 再び、信濃は高砂に命令する。

「……」

 しかし高砂は動かない。じっと信濃の捨てた封筒を見ている。

「何をしている。殺せ」

「申し訳ありません」

 高砂は謝り、再度おれを向き、拳銃を構える。しかしその銃口は震えていた。それだけでなく、彼女の全身が震えていた。

「申し訳ありません」

 再度謝ると、高砂は銃を降ろした。

「奴隷のくせにどういうつもり」

「申し訳ありません。命令を遂行できる状態にありません。再度処置をして下さい」

「はあ?」

 信濃は舌打ちし、高砂の脛を蹴った。

「さっさと壁に行け」

 高砂が足を引きずり、おれの左横の壁に向かう。そして拘束される。

「高砂!」

 信濃が高砂の右隣の壁を殴る。バチバチと、何かが爆ぜるような音が響く。実際に受けた時はわからなかったが、これは電流だ。しかも、かなり強い。

 音を聞いているだけで、身が震えた。

 同時に、胸を引き裂かれるような苦しみが襲った。 

 先ほどおれが受けた時、あまりの激痛で、電流が止まってからおれは何も感じられなかった。たった一回だけでもそうなのに、それを何十回、何百回と続けたらどうなる?恐怖、苦しみを感じないように、人は心を閉じるだろう。痛みを思い出さないように、記憶も捨てる。

この白い部屋の毒で傷つけられた心を抉り、そのショックからの逃避を無理やり引き起こされ、ボタニカロイドという無心人格を生まされる。

 ……高砂は四年間ずっと、こんな目に。

 おれがあの時、高砂の味方が出来れば、彼女は無事だったかもしれないのに。

 再度、信濃が壁のボタンを押す。処置が終わり、高砂がふらついた様子でおれの目の前に来る。

「殺せ」

「……」

 背後の信濃の命令で、高砂が銃を上げる。今度は震えなどない。

「高砂……?」

 しかし構えたまま、彼女はトリガーを引かない。

 緑色の目と視線が合う。

 その瞳には、宿るものがあった。

「ふっ!」

 高砂が回転する。勢いを載せて蹴り上げられた彼女の足が、信濃の頬を直撃した。

「ぐぁっ!?」

 信濃はよろめき、後退する。

 そんな彼女に向かって、高砂は容赦なく拳銃を発砲する。

「くそっ!」

 しかしさすが警察官と言うべきか。高砂が二発、三発と銃を撃つが、信濃は飛び退いて銃弾を避ける。

「奴隷のくせに!」

 信濃が低い体勢でタックルを仕掛ける。銃弾を当てることに注力していた高砂は動きが遅れる。下腹部にもろに喰らい、壁に叩きつけられる。

「このっ……!」

 高砂はもがいて逃れようとする。しかし信濃は流れるような動きで高砂を床に伏せさせ、銃を奪い取る。

「ボタニカロイドが人間に勝てるなどと思うな」

「違う!私はボタニカロイドでも九番でもない!!」

 高砂は叫ぶ。

「私の名前は、高砂莉子だ!!」

 その声には、力があった。自分は生きている、ということを雄弁に語っていた。

「そう」

「高砂!」

 心からの叫びを、信濃は一切意に介さない。高砂の後頭部に銃を突きつける。

「ぐっ……!くそ……!」

「その男の後に殺すつもりだったけど、お前も今ここで殺してやる」

「やめろ、咲ねえ」

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