第二十話:引き出し
体の痛さで目が覚めた。
関節という関節がぎしぎしと軋み、首は少し動かしただけでずきりと痛んだ。
生きてる。
意識はまだおぼろげだが、それだけは確かだった。
床に手をつき、起き上がる。体が鉛のように重たい。上げた腕がごとり、と床に落ちてしまうような、そんな感覚がする。
殺風景な部屋は、あまりに静かだった。少しの時間とはいえ高砂、小春、おれの三人で一緒にいたのが夢のようだった。
小春はずっと泣いていた。あの心が切り刻まれたような顔と泣き声を思い出すだけで、赤熱した槍で貫かれたような痛みが胸に走る。けど小春が受けた痛みはその比ではなかったに違いない。
自惚れではなく、小春にとって味方と言える存在は家族を除いておれしかいなかった。そして、そんなおれに裏切られた。絶交だけで終わったのが不思議に思える。もっと罵声を叩きつけてきてもおかしくなかったし、おれを殴ったとしてもその痛みとは釣り合っていただろう。
「おれはなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう、どうしようもない人間だ」、なんて自己陶酔に浸る気にもならない。許されるわけがないから、許してほしいとも思わない。けどそう思えば思うほど、今まで小春と一緒にいたときのことを思い出す。もう一度彼女と一緒にいたいと思ってしまう。いっそのこと、殺されたほうがよっぽどマシだったのかもしれない。
そして、高砂は怨んでいた。ため込んでいた全ての感情をぶつけ、殺そうとしてきた。あれはきっと振りではない。本当に彼女はおれを殺す気だった。あと三秒長く首を絞められていたら、今日のおれはいなかっただろう。
しかし最終的に高砂はおれを殺さず、不可解な言葉を残して去っていった。
“……だから、芦引小春とはもう二度と会わない方がいい。死にたくなかったら”。
文字通りに受け取ると、小春に会えば死ぬということだ。しかし、それが何を意味するのかがわからない。
今まで、おれと小春は散々一緒にいた。だから、例えば小春がおれを殺すチャンスなんて山ほどあったはずだ。しかし、少なくとも今おれは生きている。とすると、小春がおれを殺そうとしている、というわけではない。
彼女と一緒にいることはおれが命を落とすような場面に遭遇する可能性を高める、という解釈が正しいのだろうか。実際、昨日はボタニカロイドの調査で高砂に殺されかけた。だが、そうだとしてもしっくりこない。高砂はなぜ“芦引小春とはもう二度と会わない方がいい”などという言い方をしたのか。はっきりと伝えるなら、“芦引小春に会うな”よりも“調査はするな”のほうが妥当な気がする。
ただ、あの時の高砂は明らかに様子がおかしかった。伝えたかったことを言葉にできなかった可能性も大いにあるだろう。
どっちにしろ、これ以上ボタニカロイドの件に首を突っ込めば死ぬということに変わりはない。何が理由であれ、それだけは確かだ。
ベッドサイドにもたれかかり、天井を見上げる。今となっては見慣れた、おれの部屋の天井だ。
高砂は、あの日から何を見て生きてきたのだろう。
拉致されて、感情のないボタニカロイドにさせられた。ボタニカロイド自体に感情はない。しかしボタニカロイド“九番”の裏に、“高砂莉子”という人格は残っていた。ボタニカロイドになってから、彼女は一体何を感じて生きていたのだろう。自分の体を持つ他人が動き、言葉を発する様は、彼女にとっての煉獄であったに違いない。それはきっと、死ぬよりも更に深い苦しみを彼女に与えた。その苦しみには、最低でもおれの死が見合うのだろう。
……そうか。
答えは既に出ていた。
おれができること。
それはボタニカロイド事件の解決と、おれ自身の死だ。全て丸く収めるには、これが一番だ。
テーブルに手をついて立ち上がる。
その時、勉強机の鍵のかかった、二段目の引き出しが目に入った。
逡巡する。
もう二度と開けず、葬り去るはずだったその中身。
今を過ぎると、もうその中身を二度と見ることはない気がする。しかし全てを終わらせるためには、きっとこれが必要だ。
「……」
一段目の引き出しを開ける。小さな箱の中にある鍵を取り出す。その鍵で、二段目を開錠。
知らず、息を呑んでいた。胸が苦しい。背中に嫌な汗が、脳裏にあの日の映像が浮かぶ。
今まで面倒くさいことは避けてきた。その性格は今後も変わらないだろうし、変えられるとは思えない。
けど今だけは。
目の前の事に立ち向かわねばならない。
引き出しの中には、それだけがぽつんとあった。
最後に入れた時から何も変わっていない。あの時から止まっていた、おれの心のように。
手を伸ばし、それを掴んだ。
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