第十七話:死ね

 校外学習の日以降も、おれと高砂の関係は続いた。

 ただ、校外学習の日は高砂なりにかなり頑張っていたらしく、口数はまだまだ少なかった。おれ自身気恥ずかしさもあって、しばらくの間は上手く会話出来なかった。

「高砂」

「……」

 それでも、高砂は声をかけると本を閉じ、顔を上げるようになった。

「あれ、今日も“こころ”読んでるの?」

「……うん」

 ある日からはおれの話に頷くようになった。

「前も読んでたよね?」

「……うん。好きだから」

 ある日から返事をするようになった。

「そうなんだ。おれあんま本読まないからなあ」

「……面白いよ。まあ、この本はそれだけじゃないけど……」

「面白いだけじゃないってこと?」

「あ……何でもない……えへへ」

 ある日から、笑うようになった。

「そっか、じゃあまた読んでみるよ」

「うん」

 唯一変わらなかったことと言えば、扉のように重たい前髪だろうか。それも少しずつ、開いているように思っていた。

 その扉が開く時が、何故あの日でならなければならなかったのだろうか。

 この日も予感はあった。おれはそれに気付けなかった。

「開人くーん!遊びに行こ!」

 野村だ。

 校外学習の日以降、高砂と話していると野村が来て、おれを外に連れ出したりするようなことが増えていた。

 野村の少し強引なところは日常の一つだったから、それに特別気を払うようなことはしなかった。

「ずっと教室にいてもつまらないじゃん!ほら、グラウンド行こ!私、鉄棒苦手だから教えてほしいな。今度テストもあるしぃ?」

 いやにテンションが高く、思い返してぞくりとしてしまうような猫撫で声だった。

「ごめん野村、おれ高砂と……」

「イヤ!」

 その一瞬、人が変わったように野村は険しい表情で拒絶する。

「……私、このままじゃ体育の成績悪くなっちゃう〜」

 またしても甘えるような雰囲気で、指を目の下に当てて泣いているような仕草をする。

「開人君なら、助けてくれるよね?」

 クラスのリーダーでありたいと考えていたおれにとって、その言葉は呪いだった。

 リーダーである自分は、クラスみんなが楽しく過ごせるために行動しなければならない。差し伸べられた手を、振り払ってはいけない。

「……私、また本読んでるから」

 とてもか細い声で、高砂が言う。

「高砂……わかった。野村、行こうか」

「うん!」

 この時、野村が本当に体育で困っているのだと疑わなかった。だから、彼女が高砂に対して憎しみを抱いていたなんてわかるわけがなかった。

 そして、その日がやって来た。

 今でも、日付まで鮮明に覚えている。

 四年前の一月二十九日。

 その日、おれは普段通りに八時十分に登校した。八時三十分の朝礼まではまだ余裕があった。

 そうして気を抜いていたおれは、教室に入った時の光景に驚愕した。

「ねえ、聞いてんの。もう話すなっつってるの」

「何か言えよ!」

「きもっ。喋れよガイジ」

 ドアを開けてすぐの場所に生徒が集まり、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言が叩きつけられていた。

 人が壁になってよく見えなかったが、その矛先が高砂に向けられていたことは明白だった。

「お、おい!何なんだこれ!」

 たまらずおれが声を上げると、真っ先に高砂の目の前にいた野村が振り返った。

「開人君。今、こいつに色々聞いてるところなの。邪魔しないで」

 猫撫で声とは別の意味で背筋が凍りつくような、そんな口調と表情だった。何より怖かったのは、野村に続いて振り向いた取り巻き達も、同じように恐ろしい顔をしていたことだった。

 当時の木瀬開人にとって、あれほどまでの悪意の塊は初めてだった。

「……聞いてるって、な、何を?」

 声が震えた。膝も震えていた。

「私の許可も取らないで、どうして急に開人君と話すようになったのか」

 今思うと、あまりに傲慢過ぎる物言いだ。

 ただ後になって知ったことだが、どうやら野村は女子に「木瀬開人と二人で話す時は私に許可を取ってから」と通達していたらしい。ただ、誰とも話さない高砂には言わなかった。だから高砂は、野村からの悪意の矛先が向いていることは知っていても、その戒律は知らなかった。

そもそも人と会話するのに許可を取らせるのもどうかと思うが、許可制にしていたのであれば、それを事前に伝えなかった野村が悪いだろう。

 なのに、この場にいたほとんどの人間が「悪いのは高砂だ」と言っていた。

 何より、高砂に話しかけたのはおれだ。もし責めるのであれば、おれに対してでなければおかしいのだ。

「……」

 それを、言わなければならなかったのに。

 見えない圧力が、それをさせなかった。

「おい、いい加減何か言えよ!」

 男子のしゃがれた声が響き、がたっ、と大きな音がした。

「やめて!」

 椅子を蹴飛ばしたような音がして、耳をつんざく悲鳴が上がった。高砂の声だった。

「何だよ、離せよ!」

「やめて!やめ……うっ」

 体が激しく机に当たる音がして、苦しそうな高砂の声が聞こえた。

「んだよ、ずっとランドセル持って、きめえんだよ!」

 最初に声を上げた男子が、高砂から奪い取っただろう赤いランドセルを抱えていた。

「やめて……返して!」

「何?もしかして、学校に持って来ちゃいけないものでも入ってんの?」

「ふーん」

 にやりと野村が笑った。その笑みもまた、醜悪極まりなかった。

「それ貸して」

 そう言って、野村が男子からランドセルを奪う。

「ねえ高砂。荷物チェックしようか」

 そしてあろうことか、野村はランドセルを開け、中身を床にぶちまけた。教科書やノートが散乱する。そしてその中に、一通のピンク色の封筒があった。

「ん?何これ?」

「待って!」

 野村がその封筒を拾い上げると、高砂が野村に飛びつく。

「おい、暴れんな!」

 しかし、取り巻き達が高砂を羽交い締めにする。

「高砂……」

 人の壁が動いたことで、高砂の姿が見えた。

 彼女は前日までと全く違っていた。

 あの、扉のように重たかった前髪が、少し目にかかるくらいで切り揃えられていた。

 高砂莉子の表情が、目線が、露わになっていた。

「開人君……」

 彼女がすがるような目を向けてきた。それは、初めておれの名を呼んだ瞬間でもあった。

「ま、待て、野村!さすがにやり過ぎだろ!」

「何言ってるの開人君?」

 野村は不審そうな表情を隠さない。

「これは貴方のためにしていることなんだよ?」

「おれの……ため?」

「そう。最近開人君、この女の話し相手にさせられてるでしょ?」

「は……?」

「そう、させられてるの。こいつはね、人と話せないふりをしているだけなの。そうやって同情を引いて、まんまと開人君と仲良くなるようにした。そんなこと許せる?私は許せない!」

 野村は目の前の高砂の机を強く叩いた。

「だから、ここで罰を受けさせるの!」

「いや、それは違う!おれは自分から高砂に話しかけたんだ!」

「違う!開人君は、高砂に話すようにさせられたの!そうでしょ、みんな!」

 野村が声を上げると、取り巻き達も「そうだそうだ」の大合唱を始めた。

 ……おれは今でも、違うと信じている。高砂は本当に人と話すのが苦手だっただけで、おれと話すように仕向けていたわけではないと。

 しかしあの場では、「高砂が話すように仕向けた」という真実が成り立っていた。悪いのは高砂になっていた。

「じゃあ、ペナルティひとつ目。これの中身、今ここで読む」

「っ!待って!お願いそれだけはやめて!」

「おい、動くんじゃねえよ!」

「うっ……痛い、痛い……!」

 羽交い締めにしている男子に力を込められて、高砂が顔を歪める。見ると、彼女の頬を涙が伝っていた。

「野村!お前らも、いくら何でも……!」

「うるっさいなあ!開人君は黙ってて!」

 野村が、手が空いている取り巻き達を見て、顎でおれを指す。すると、彼らはおれのことも羽交い締めにしてきた。

「おい、待てって!」

「動くな木瀬!」

 校外学習の日に同じ班だった男子がおれの腕をがっちりとロックする。振り解こうにも出来なかった。

「……は?」

 そして封筒の表側を見た野村が、ウジ虫でも見たような顔をした。

「おい。これどういうことだよ」

 ずかずかと歩いて行き、高砂に封筒を突きつける。

「開人君へって、何?もしかして告白?ふざけんなよお前!」

 野村は激情に任せて封筒を中身ごと破り裂き、投げ捨てた。

「……っ」

 涙を垂れ流したまま、大きく目を見開く高砂。苦しそうに嗚咽を漏らすと、がくりと項垂れた。

 彼女の様子を見ているだけで、おれは心が張り裂けそうになった。

 どうしてこんなことになっているんだ?

 おれは、彼女がクラスに溶け込めるようになって欲しかっただけなのに。

 おれは、高砂と仲良くなりたかっただけなのに。

 高砂のことが、好きだっただけなのに。

「お前なんかが、開人君を好きになるんじゃねえ!死ねよブス!」

 激昂した野村は、高砂の顔に平手を叩きつけた。ビンタなんて生やさしいものではなかった。平手で殴った、という言い方が正しいだろう。

「……」

 高砂は項垂れたまま。もはや抵抗する気力もないのか、両手を拘束されたまま、膝を床についていた。

「二度と私の目の前に現れるな。消えろ」

 そう最後に吐き捨てると、野村は高砂に背を向けた。取り巻き達が野村の為に道を空ける。

 こうして、この一件は幕を閉じたと思った。

 おれは呆然として、何も考えられない状態だった。

 だから、あんなことになるなんて思いもしなかった。

「うあああぁぁぁぁぁ!」

 項垂れていた高砂が突然大声を上げ、自分を羽交い締めにしていた男子の足を思い切り踏みつけた。

「うっ、痛ぇ!」

「ああああああぁぁぁぁぁ!」

 一瞬の隙をつき、高砂が拘束を振り解く。そして近くにあった椅子の背もたれを掴み、背を向けていた野村に向かって駆け出した。

「高砂、待て!」

「死ねえええぇぇぇぇ!」

 高砂は、その椅子を野村に向かって振り下ろした。

「えっ?」

 反撃があると思っていなかったのだろう、野村は驚いた表情で振り向くが、もう遅かった。

 高砂の振り下ろした椅子の脚が、野村の額を直撃した。

「う、ああぁぁ!」

「死ね、死ね、死ね、死ね!!」

 床に崩れ落ち、のたうち回る野村。

そんな彼女を、高砂は椅子で二度、三度と殴りつけた。

「おい止めろ!やばいって!」

 クラスメイトが高砂を止めようとする。おれも拘束を解き、高砂のもとへ駆け寄る。

「来るな!来るな!!」

 高砂が椅子を思い切り横に薙ぐ。一人の男子の側頭部に椅子の脚が直撃し、倒れ込む。

 周囲を見る高砂の目つきは凶悪で、本気の殺意に満ちていた。今まで教室の隅で静かに本を読んでいた人間とはまるで違っていた。

 怯えた生徒達は高砂から離れる。それを確認した高砂は、足元で頭を抱えてうずくまる野村を見下ろす。

 予感がした。

 このままでは、高砂は野村を本当に殺す。

「待て!高砂!!」

 高砂に飛びかかり、止めようとする。

「来るなぁぁぁ!!」

 振り向きざまに、高砂は椅子を斜め下に振り下ろした。

「ぐぁっ!」

 首の付け根と、耳の上辺りに椅子の脚が叩きつけられ、思わずその場に膝をつく。相当な衝撃で、頭がふらついて立ち上がれなかった。

「あ……」

 そんなおれを見て、高砂の目から暴力的な光が薄れていった。みるみる内に顔が青ざめていく。

「開人君……ご、ごめんなさい……私、そんなつもりじゃ……!」

「……」

「開人君、開人君!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「……」

 高砂に声をかけようとするが、上手く声が出せない。

「高砂ぉ!」

 その時、どこからか怒号が放たれ、高砂の首の左を回転した何かが通過した。彼女の背後の窓にそれが当たり、床に落ちる。ハサミだった。しかも、刃が開いていた。

「……つっ!」

 少し遅れてから、呆然としていた高砂は椅子を手放し、首元を押さえる。そこから肩のあたりに、血が流れていた。それほど量は多くないが、彼女は苦痛に顔を歪めていた。

「……っ!」

 そして高砂は、教室から飛び出していく。

 止めなきゃいけないのに、おれは声を出すことも、身動き一つ取ることも出来なかった。

 気づくと、床に倒れていた。

 薄れゆく意識の中で、おれの胸にはただ“どうして”という思いがあった。

 この間まであんなに楽しかった学校生活が、どうしてこんなことに。

 今までクラスのリーダーとして、みんなが楽しく六年二組で過ごせるように頑張っていた。なのに、こんな結果を招いてしまった。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 おれが今までやっていたことって何だったのだろう。

 意識を失う直前、最後に浮かんだのは「ごめんなさい」と謝る高砂だった。

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