第十六話:助けてくれて、ありがとう

 そして、校外学習の当日。

 内埜小学校六年生は、伊谷駅の付近に来ていた。

 時間内に周囲を散策し、道中の何となく歴史のありそうな古いものや、特別な意味がありそうな石碑を見つけては適当にメモしていく。

 そして午後四時ごろ、おれ達六年二組は二列になり、駅から少し離れた川沿いを歩いていた。川の両側に道があり、そのまた両側は傾斜のついた林があった。高校生になって歩くと精々丘くらいのイメージだが、小学生の時はそれが険しい山に見えていた。

「あー、疲れたね、開人君」

 おれの隣を歩く、班員の野村がだるそうに肩を落とす。彼女は白いキャップを被り、首の後ろで束ねた髪は少しウェーブがかかっていた。今思えば、この日のためにおしゃれをしていたのかもしれない。

「確かに。まあでも、あとは山を登るだけだしね。高砂も疲れたんじゃない?」

 後ろをついてくる高砂を振り返る。彼女はぎこちなく、首を横に振った。相変わらず髪の毛で顔がよく見えないが、それでも普段よりは生き生きしているように見えた。

 この校外学習の時間中、おれは意識して高砂に話しかけていた。喋るのが苦手な高砂を仲間外れにしたくなかった。

「そっか、凄いね。運動はよくしてるの?」

 高砂はまた、ぎこちなく首を横に振る。

「ふうん、いいなあ。おれ野球やってるのにもう脚パンパンだわ」

「おいおいエースだろ木瀬!もっと鍛えろよ!」

 班員の男子がちゃかし、おれ達は笑った。

 扉のように重たい前髪で、高砂が笑っているかはわからなかった。この校外学習で、一回くらいは彼女の表情が見られたらいいのにな、とうっすら思っていた。

 そうこうしているうちに、丘を登る階段に着いた。列の先頭にいる先生から、順に登っていく。

「うわあ、ここ暗いね。気をつけてね開人君」

「うん、ありがとう」

 日光が鬱蒼と茂る木々に遮られ、階段は暗かった。不用意にこけたりしたらドミノ倒しになりそうだった。

「高砂、大丈夫?足元見えてる?」

 聞くと、高砂は頷く。

 普段、僅かに見えている顔の部分が完全に陰になり、何だか黒い仮面を被っているようだった。

「あ、頂上!」

 先を行く生徒の誰かが声を上げた。

 顔を上に向けると、階段の終わりのところから光が差していた。疲れていたはずだけど、それを見ると少し力が湧いてきた。心なしか、一行の歩みも速くなったように感じた。

 ほどなくして、頂上に着いた。光を木々に遮られていたためか、とても爽快な気分だった。

「うわあ、綺麗だなあ」

 頂上を取り囲む柵に近づくと、稜線に落ちる夕日に照らされた伊谷市を一望できた。高校生になっても、あの景色が本当に美しかったことはよく覚えている。

「本当だね開人君!わあ、見て!あれ伊谷駅だよ!」

 隣に来た野村が、柵に身を乗り出して指を差す。普段は高飛車な彼女でも、こういう時は素直に感動できるんだな、と意外だった。

「はーい、じゃあ班ごとに写真撮っていくよー」

 先生の声で、まず一班が撮影に向かう。おれ達は五班だから、それまで時間があった。

 だからせっかくだし高砂と話でもしようと思ったが、彼女は近くにはいなかった。

「あれ?」

 周囲を見渡す。すると、広場の一番端、登ってきた階段から一番遠いベンチに座っていた。

「高砂」

 後ろから声をかけると、彼女は振り向いた。

「隣、座っていい?」

「……」

 高砂は小さく頷く。それを見ておれは、彼女から半人分くらい間を空けて隣に座った。

「やっぱり疲れてた?」

「……」

「でもこの眺め見てると、疲れも消えた感じがするよね」

「……」

 高砂は相変わらず答えない。ただ、景色には目もくれず、おれの方を凝視していた。

「……どうしたの?」

 髪の間から僅かに見える高砂の表情。それは、最初に話しかけた時以上に緊張しているようだった。

 もしかしたら、何かを伝えようとしているのかもしれない。

 何となくそう感じたおれは、じっと押し黙ることにした。

 それからどれくらい経っただろうか。

「なんで」

 最初、その声が誰のものなのかわからなかった。しかし一文字だった口が開いているのを見て、それが高砂の声だと悟った。

「なんで、私と、仲良くしてくれるの?」

 声は、非常にかぼそかった。風が吹けば消えるんじゃないかと錯覚させてしまうほどに。

 おれはかなり動揺した。高砂がしゃべるなんて思ってもいなかった。

「それは、ね」

 一度呼吸を整えて、しっかりと高砂の方を向く。

「高砂が、困ってるように見えたから」

「困ってる……」

「うん。いつも本読んでたでしょ?何かその姿が、困ってるように見えた。だから、助けたかった」

「……」

「そんな人は放っておけないよ。二組にいて良かったって、皆が思えるようにおれは頑張りたいから。それにさ」

「……?」

「……高砂と、仲良くなりたかったし」

 はは、と思わず照れ笑いしてしまう。

 正直、思春期入りたての頃にそんな赤裸々なことを言うのは凄く恥ずかしかった。けど、今しか正直に話すチャンスは無い、とも思ったのだ。

「……」

 高砂は小さく口を開け、それを閉じ、また開ける、というのを繰り返す。

 おれはまた無言で、彼女の次の言葉を待った。

「……ありがとう」

小さくて凄くかぼそい声だったけど、高砂ははっきりと言った。

「私、寂しかった。助けてくれて、ありがとう」

「高砂……」

この時おれがどんな気持ちだったか、語るまでもない。

 本当に嬉しかった。自分のやってきたことが報われて、感無量だった。高砂がクラスの一員になる、その第一歩の手伝いができた。

「……少しだけ、怖かったけど」

「怖かった?このクラスに怖い人がいるってこと?」

 この時、おれと仲良くなれれば自然と高砂がクラスに溶け込めるだろうと考えていたから、彼女の言葉の意味には気づけなかった。

「……ううん、何でもない。……そういえばさ、私まだちゃんと自己紹介してないよね」

 高砂は一つ咳ばらいをした。そして改めてこちらを向いて、けど少し恥ずかしかったのか、斜め下を向いた。

「は、初めまして、高砂莉子です。これから、な、なか、仲良くしてほしいです」

 その時、風が吹いた。

「あ……」

 高砂の、扉のように重たい前髪を開けるには十分だった。

 呆然と、目と口を開く彼女の素顔はとても美しかった。

 少し細い整った眉毛と切れ長な目は、普段の彼女の雰囲気とは逆。しかし控えめな口元と、薄いとすら感じるほどに白い肌はイメージの中の高砂莉子にマッチしていた。

「あ……その」

 顔を見るくらいどうということはないのに、何だかいけないものを見てしまった気分になった。

「……あ、ご、ごめんなさい、顔、見るのいやだったよね……」

 それを察してか、高砂も前髪を押さえて顔を隠す。

「あ、ち、違う!全然嫌じゃない!」

 おれの反応で彼女が傷ついたんじゃないかと思い、慌ててそう言う。

「嫌じゃ、ない。っていうか……せっかくだし、顔、出したらいいんじゃないかな。これからも」

「あ……う、うん、が、がんばってみるね」

 照れ隠しで言っただけだったが、意外にも高砂は肯定した。

 髪の間から見える口元は、笑っていた。

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