第十五話:一人ぼっちのあの子
五年前の九月。
内埜小学校六年二組と言えば木瀬開人、というくらいに、おれはクラスの中心にいた。
成績はトップクラス、少年野球チームのエースでキャプテンを務め、異性からの評判も上々。輝く小学校生活を送っていた。
そんな立ち位置にいたから、人を助けることが自分の役目、などと勘違いしていた。
「あいつ、いつも本読んでるよな」
始まりは昼休み、クラスメイトの何気ない発言だった。
その時まで、教室の隅で一人で過ごしている彼女のことなど気にも留めていなかった。クラスメイトのことすら理解していない時点で人としての浅さが知れるが、当時はそんな考えなど少しもなかった。
愚かにもその少女を見た時、おれはこう思った。
かわいそう、と。
彼女はいじめられていたわけではなかった。しかし引っ込み思案で、六年生になった時に誰かに話しかけることはなく、話しかけられても返事の一つもしなかった。空気のような存在だった。
「寂しくないのかな。いつも一人で」
「さあ。ほっとけばいいんじゃない?暗いし、何考えてるかわかんねーもん」
「……ちょっと行ってくる」
「あ、おい開人!」
友人の制止を振り払い、廊下側、一番前の席に座る彼女の元へ向かう。
高砂莉子は、おれが目の前に立っても本に顔を向けたままだった。
「高砂」
名字を呼ぶが、一切反応はない。というか、視線の向きすらわからない。
当時から、高砂莉子は髪が長かった。顔を髪が隠していて、眉頭から顎にかけての狭いラインしかはっきりと見えなかった。
あと、彼女は読んでいる本にいつもカバーをつけていた。身にまとう雰囲気も相まって、それは何だか他者を拒絶しているように思えた。
「何の本を読んでるの?」
「……」
「その本、面白い?」
「……」
「読書が好きなの?」
「……」
問いかけるが、高砂は身じろぎ一つしない。
人は皆、人と話すのが好きだ、なんて独りよがりなことを信じていたおれは、うんともすんとも言わない彼女に困惑した。
どうすればいいか、全くわからなかった。大体の人間と仲良くなれた当時の馬鹿にとって、それくらい高砂莉子という存在は異様だった。
だから、こんなことを言ってしまった。
「寂しくないの?」
「……」
彼女からすれば、迷惑でしかなかっただろう。
別に他人と仲良くしようがしまいが、それは当人の勝手だ。寂しいんじゃないか、かわいそう、とかは他人が他人の価値観を押し付けているに過ぎない。小学生とは言え、当時はそんなことすらわからなかった。
ただ、無駄に鋭かったおれは気づいた。
寂しくないかと聞かれて、高砂が少し肩に力を入れたことに。
その後すぐ、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。放課後は友達と遊んでいたので、その日は高砂とそれ以上接触しなかった。
おれが普通の生徒だったら、話はそれで終わりだった。あの友人のように「あいつ何考えてるかわかんないわ」と言って、高砂と関わらず卒業していただろう。しかしおれは次の日も、昼休みに彼女の席へ向かった。
「今日も本読んでるんだね」
「……」
相変わらず、高砂は何の反応も示さなかった。髪の毛で顔は隠れていて、視線すらわからなかった。
しかし前日とは違い、その本にはカバーが付いていなかった。
それに気付いた時は凄く嬉しかった。高砂が少しだけ、自分に心を開いてくれたように感じた。
今考えると、たまたまその日はつけ忘れていたんだと思う。あるいは、いちいち聞かれるのが鬱陶しいから最初から外しておいたか。
「どういう本なの?心の話?」
その時高砂は、確か夏目漱石の“こころ”を読んでいた。
「……」
「夏目漱石の話は前に国語の授業でやったけど、おれにはよくわからなかったなあ」
確か、クラムボンがプカプカ浮かんだ、とかいう話だったと思う。
「……」
「そんな昔の本を読めるなんて、すごいね」
「……」
それくらい話したところで、その日はチャイムが鳴った。
次の日も、その次の日も高砂の席に話しかけに行った。反応はなかったし、後で友達には冷やかされたけど、全然めげなかった。むしろ、「おれは今孤独なクラスメイトを救おうとしている」と自分に酔っていた。
そうして一週間経った頃だった。
「今日の給食のカレー美味しかったね」
いつもいつも本の話ばかりしていては退屈だろうと、おれは他愛ない普段の話をするようになっていた。
「……」
相変わらず反応はない。けど気にしない。傍から見ると、永遠に空気に向かって問い続けているようにすら見えていたかもしれない。
ただ、その日は少し違った。
「高砂の好きな食べ物は何?」
「……」
そう聞くと、高砂が顔を少しだけ、おれの方に向けた。表情は見えなかったが、明らかに首を動かして、こちらを見たのがわかった。
その時の衝撃たるや。
壁打ち状態に慣れてしまっていたおれは、高砂が反応したことに素直に驚いてしまった。
「……」
彼女は、扉のように重たい前髪越しにこちらを見てくるだけで何も言わない。
「……」
おれも驚きのあまり、無言で彼女を見返してしまう。
「……」
その時間は僅かだった。高砂はまた“こころ”に顔を向けた。
次の日から、高砂は継続しておれの方に顔を上げるようになった。
これといったタイミングがあったわけではなかった。ただ、いつものように話していると、徐に顔を上げ、こちらを見つめるのだ。
そして、その時間は日を追うごとに増えていった。
最初の日は戸惑ったものの、おれは彼女の反応が変わったことに手ごたえを感じていた。
残った時間は少ないけれど、このままいけば、きっと高砂もこのクラスの一員としてなじめるようになると確信していた。
そんなある日、校外学習の班決めがあった。
「じゃあ、五、六人で集まってください。出来るだけ男女混合になるようにお願いします」
先生の合図で生徒はほぼ一斉に立ち上がる。普段仲の良い友達同士で、教室内に塊が出来ていく。
「木瀬!同じ班なろうぜ!」
「おっけ」
「開人君、私も!」
「うん」
まがりなりにもクラスの中心にいた自分の元には、ほどなくして四人ほど集まった。男子は勿論のこと、女子もいた。詳しくは覚えていないが、当時その女子、野村がおれのことを気にしているという噂があった。多分、野村自身がおれ以外のクラスメイトに言っていたのだろう。彼女はクラスヒエラルキーの上位にいるような存在だったので、自分の好きな人を発信することで他の女子を押さえつけていたのだと思う。告白めいたことはしてこなかったので、当時のおれはただの噂だろうと気にしなかったが。
ただ、班決めで野村がどこにいようがあまり興味はなかった。
おれは教室の隅にいる、高砂のことが気になって仕方がなかった。
「じゃ、残りのメンバーどうしようか?」
「あ、それなんだけど」
誰かが班に入りたいと言い出す前に、口をはさむ。
「高砂を、この班に入れたいんだ」
「え?」
周りにいたクラスメイトは、揃って目を丸くして固まった。
彼らも、おれが昼休みに高砂に声をかけていたことは重々承知していただろう。とは言え、つきっきりでべったりだったわけではない。他の時間は高砂以外の友達と日々を過ごしていた。まさか、校外学習の班に招くほど仲が良いとは思っていなかったのだろう。
別に、おれも高砂と凄く仲が良いとは思っていなかった。
ただ、何か大きなイベントの時なら彼女も話してくれるのではないか、みんなと仲良くなれるのではないかと考えたのだ。
思い立ったが吉日、高砂の席に向かう。
案の定と言うべきか、彼女の周りには誰もいなかった。ぽっかりと、見えない壁があるようだった。
そこに、ずけずけと踏み込んでいく。
高砂は、座ったままじっと机の上を見ていた。肩をすぼめて、何かに怯えるように腹の前で手を組んでいた。
「高砂」
声をかけると、彼女はおそるおそる顔を上げた。
「校外学習、一緒の班になろうよ」
「……」
何も言わない。
しかしその時、明らかに高砂は普段と違っていた。いつもならすぐ下げるのに、顔をじっとこちらに向け続けていた。
その姿は、まるで助けを請うているようだった。
「嫌だったら別にいい。けど、同じ班になってくれると嬉しい」
「ダメ」
その強い拒絶の声は、高砂ではない。
先ほどおれと同じ班になった野村が、いつの間にか傍らに立っていた。
「ダメって、どうしてさ」
「ダメなものはダメ。こいつ喋らないし」
思い返すと、その時決まっていた班の構成は男子が三で女子が一だった。おそらく、事前に自分以外の女子が班に来ないように言っていたのだと思う。
「喋らなくたっていいじゃないか。おれはただ、高砂と一緒の班が良いなって思ったんだよ」
「……っ!」
その女子が、明らかに苦い顔をする。六年生の間ではほぼアイドルのような存在だった彼女にとって、真正面から自分以外の女子と仲良くされるのは屈辱だったのだろう。
「で、どうする?高砂さえ良ければ」
「……」
ほんの僅か。
きっとミリ単位だったと思う。
それでもちゃんと見た。
高砂が、頷く姿を。
「っ!ホントに!?」
凄く嬉しかった。
月並みな感想だけど、本当に嬉しかった。
高砂がついにクラスの一員になれたかもしれないことが。ちゃんとおれの言葉が伝わっていたことが。おれが彼女を救えただろうことが。
ただ、思い返してみれば。
彼女は一人でいたほうが幸せだったのかもしれない。
一人でいれば、少なくとも高砂莉子として今も生きていただろう。
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