第十話:八÷ⅲ

「あー、あの話か」

 父親との会話の内容を話すと、小春は少しうんざりしたように目を細めた。

「小春にも話してるのか?」

「うん、何回もね。正直、いまいち意味がわからないんだよなあ。なんで怪物を学ぶことで、怪物になってしまうのか。仮に怪物を謎だとしたら、ボクは謎そのもの。つまり犯人のような立場になるってことだろう?それのどこに魅力があるのか、ボクはわからないね」

 首を横に振る。

 小春が犯人、か。

 実際、あまりイメージはつかない。謎に対してのめり込んでいても、犯人側のやり口や、目的に感化されるようなことはない。

 大秋さんは小春を将来怪物になるものと捉えていた。正直、今の彼女の話を聞くとその可能性はかなり低そうに感じる。

果たして今の彼女を止める必要性があるのか。もし無理やり止めたとしたら、また四月の彼女に逆戻りするだけだろう。あんな痛々しい姿になるのが正解だとは思えない。

「まあでも、小春が事件の犯人だったら色々と困るな。手ごわそうだ」

「……安心したまえ。そんな事は万に一つとないよ」

 苦笑する小春。その声が住宅街の静寂にしんとに染み込んでいく。相変わらず、出歩いている人は少ない。平日の真昼間という事もあろうが、やはりきゅうの件を不安視しているのだろう。

「っ!」

 突然、息を呑む音と共に、小春が背後を振り向く。どさっ、と彼女が持っていた荷物が道に落ちる。

「っ、どうした!」

 その強い剣幕につられて、思わずおれも後ろを見る。

 しかしそこには住宅街の一本道が続く限りだ。唯一何かあるとすれば、塀の上の猫だろうか。おれと小春が凝視しているのは気付いているはずだが、全く気にしない素振りで悠々と歩いている。

「なんだ……?猫じゃないか。何かあったのか?」

「い、いや……別に。物音がして、びっくりしちゃった」

 たはは、と頭を掻き、荷物を拾う小春。

 そういえば、小春は考え込んでいる時に話し掛けられたりすると仰天する。この後どう調査を進めていくかについて、頭を巡らせていたのだろうか。

 ほどなくして、アパートに戻ってきた。時間はちょうど昼時。何だかんだで、小春の家に長いことお邪魔してしまった。

「ただいまー」

 一〇四号室の鍵を開け、中に入る。

「おかえりなさい」

 廊下の先の居間から、きゅうの声が聞こえてくる。そういえば、「ただいま」「おかえり」と挨拶を交わしたのはいつ以来だろう。この部屋に来てからは勿論、実家にいる時もほとんどしていなかった気がする。

「っておい、きゅう!」

 きゅうは窓から入る日光で光合成していた。全裸で。

「なんでしょうか」

 緑色の髪の毛が彼女の背中から尻へと流れている。その蠱惑的な体のラインとは対照的に平然とした態度だ。

「なんで脱いでるんだよ!頼むから服を着てくれ!」

「ここは室内なので他人に見られることはないです」

「おれらに丸見えなんだよ……」

「構いません」

「はあ?」

「見るくらいならいくらでも構いません。ただし手を出せば殺します」

「極端すぎるんだよ……。とりあえず、ジャージを着てくれ」

 床に脱ぎ捨てられていたジャージをきゅうに押し付ける。彼女の緑の髪が揺れて、シャンプーなどはしていないはずなのにふわっと良い匂いが鼻をくすぐった。

「わかりました」

 自分の魅力に当然無自覚なきゅうは、いそいそとジャージを着始める。

「カイト」

 不意に、背中に硬くて丸いものが当たる。小春の頭だった。彼女は自分の頭をぐりぐりとおれの背中に押し当てている。

「何してるんだ?」

「ボクの髪も嗅いだら?」

なんでそんなことまでわかるんだろう、この親子は。

「……また今度な」

「なんで。きゅうちゃんの髪の毛は嗅げてボクの髪はダメなのかい」

「いや、今のは不可抗力だから」

「……」

 小春はおれに頭を押し付けたまま動かない。ちゃんと断ろうとして体ごと彼女の方を向くと、腹に頭を押し付けてきた。髪の毛を嗅ぐまで許さないらしい。

「……」

 そして、この様子をきゅうがじっと見ていた。不潔だとかクソ男だとか言わないからそれは良いが、こうもガン見されると小春の髪を嗅がないことが悪いことのような気分になってくる。

 ……まあ、それで気が済むならいいか。

 小春の頭に手を置き、鼻を近づける。いつか浴びるほど嗅いだ、リンゴとブドウを混ぜたような独特の匂いがした。

「……これでいいか?」

「許す」

 そう言って、小春はやっとおれの体から頭を離した。まだ少し拗ねているようだが、寛大な判決が下されたらしい。

「ところできゅうちゃん、下着持って来たよ。よかったら着けたまえ」

 小春が背負っていたリュックから白色のパンツを取り出す。

「ありがとうございます」

 きゅうが今しがた履いたジャージのズボンをもう一度脱ぎ、パンツを履き始める。

「そういえば、きゅうちゃんブラのサイズは?ボクはHなんだけど」

「Cです」

「あちゃー、じゃあボクのは合わないか。母さんはIだしなあ」

 Iカップ!?総質量四リットルのIカップ!?

「またどっかで買って来るね」

「わかりました」

 彼女たちの会話を聞いていて思う。おれはどういう気持ちでここにいればいいのだろうか。そしてこの度、夏花さんがIカップであることを知ってしまった。今度会った時、変な目を向けないようにしなければならない。

 それにしても、こういう毎日が続くのだと考えると自然にため息が出た。自分の部屋だというのに、非常に肩身が狭い。

 きゅうの髪の匂いを認識しただけでちょっと拗ねられたし、身の振り方を考えなければならない。

「ふわああ~っ。にしても、そろそろ眠くなってきたなあ」

 大きく口を開け、あくびをする小春。

「そういえば、昨日は寝てるのか?」

「いんや。そろそろ寝ようかな、って思ってた時に例の動画が上がったからさ。完徹だよ」

 よくもまあ、その状態できゅうを探し回る気が起きたものだ。下手すれば、そのまま学校に行くはめになっていたかもしれないのに。

「寝るか?」

「そだねー」

 目をこすりながら頷くと、ベッドにばたんと倒れこんだ。

「……あのさ小春、実はおれも眠たいんだ」

「ん~?そうなの?じゃ一緒に寝よ……ふわあ、カイトの匂い……」

 その言葉を最後に、小春は掛け布団に抱き着いて寝息を立て始めた。ベッドのど真ん中で。ご丁寧に枕までしっかりと使っている。

 ……おれの場所が一切ない。

 一応こっちも三時起きなのだ。それに、つい何時間か前まで文字通り死にそうになっていた。疲れていないわけがない。

「なあ小春、ちょっと端に寄ってくれ」

 小春を押して、スペースの確保を試みる。

「……嫌だあ」

 そう言って、布団を更にきつく抱き締める。

「嫌じゃなくて。おれも寝たいんだよ」

「嫌だあ。カイトから離れたくないぃ」

「それは布団だ。おれじゃない」

 残念ながら、とっくに寝言をこぼしている。もう滅多なことでは起きなさそうだ。

「……はあ」

 今日何度目かのため息をつき、おれは床に転がったのだった。 

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