第五話:要求
どうして。
どうしてこんなところにいるのか。
鼓動が急激に速くなる。
緑の瞳は一切おれから視線を外そうとしない。
予想はできていたはずなのに、その現実を受け入れきれない。おれは反射的に彼女から目を逸らした。
「こちらに来て下さい」
おれと彼女は二十メートルほど離れている。しかしその声はいやに耳についた。
「逃げたり攻撃してこなければ危害は加えません」
つまり、言う通りにしなければ危害を加える可能性は十分あると。
「わ、わかったよ」
ゆっくりと木の陰から出て行く。それだけのことなのに、丸腰で虎がいる檻に放り込まれたような気分だった。
実際は、丸腰なのは彼女のほうだ。昨日聞いた不審者像そのままに、一糸まとわぬ姿だ。すらりとした脚も、曲線美を描く腰回りも、全てをさらけ出している。
それなのに、相手に丸裸にされているのは自分のように感じてしまう。
「貴方は何故ここに来たのですか」
問いかけてくる。
「……」
上手く答えられない。脳と体のつながりを断ち切られてしまったかのように、声が出ない。
「貴方は何故ここに来たのですか」
先ほどと全く同じトーンで、機械のように繰り返す。
その人間性が欠落した様子に恐怖する。
見た目は紛れも無くヒトなのに、人間ではない。
おれが今相対しているのは、人間ではない。
「貴方は何故ここに来たのですか」
またしても同じトーンで同じ質問。
何度も聞くと、多少は慣れが生じる。怖れは消えないが、体の自由は少しずつ戻ってくる。足に力を入れられる。自分の腕を掴むことが出来る。
体が動けば、頭も回り出す。
彼女はおれが何か返答するまで質問を繰り返すつもりに違いない。そして彼女に従う限り、攻撃してはこないだろう。
「君は、誰なんだ……?」
しかし、おれの口から出たのはそんな言葉だった。
冷や汗が背中を伝う。
違う、そんなことは聞くべきじゃない。
脳裏に彼女がおれを殺しにくる姿が浮かんだ。それはあまりにも鮮明だった。そう判断されれば、彼女は一切の躊躇なくおれを殺す。
「質問に答えてください」
「なんで、ここにいるんだ……?」
違う、だから言うべきことはそれじゃない。
わかっているのに、言葉が勝手に出てくる。
「質問に答えてください」
そんなおれに対し、彼女はおれを襲うようなことはせず、至って淡々としていた。
その姿に一抹の安堵を感じつつ、今度は余計なことを言うな、と自分に言い聞かせる。
「……ここに、来たかったから」
彼女の気に障らず、かつ嘘はつかない答えを提示する。
間違ったことは言っていない。彼女がいたから、という点は隠しているが、決して嘘ではない。
「スマートフォンは持っていますか」
何の脈絡も無く聞いてくる。
「スマホ……?それがどうかしたのか?」
「スマートフォンは持っていますか」
何だかよくわからないが、これはチャンスじゃないか。
スマホを使えば小春に連絡が取れる。
今のところ大人しくしているが、だからって彼女が安全だとは言えない。一刻も早く味方が欲しい。
それに小春なら、催涙スプレーを持っているはずだ。有事の際にこちらから打って出られる。
とりあえず従っていれば安全ということがわかり、少しはおれも落ち着いたらしい。思考が回るようになってきた。
「スマートフォンは持っていますか」
「も、持ってるよ」
ポケットからスマホを取り出す。画面を確認すると、小春から何通もメッセージが来ていた。好都合だ。通知から直接小春にメッセージを送れる。
「渡してください」
彼女がこちらに向かって手を差し出す。
「わかった、じゃあ電源切るからちょっと待って……」
そう言って、画面に触れた次の瞬間だった。
前から肩を強く押されたと思ったら、叩き付けるような衝撃が背中を襲った。
「……っ、はっ!」
肺から息が押し出される。全く状況が飲み込めない。視界もグラグラと揺れて、暗い。
「不必要な操作がありました」
目の前から声が降ってくる。
降ってくる?
自分の認識に違和感を覚える。
ゆっくりと、だが確実に焦点があってくる。
何秒か経ってから、ようやく理解した。
おれは彼女に、押し倒されていた。
自分が置かれたこの状況で、真っ先に浮かんだのは深夜に見たあの動画だった。
この少女が、同じ緑髪の青年の首に手を掛けて持ち上げていたシーン。
体が震え出すのを止められなかった。
やばい、殺される。
スマホを片手に、こちらを見下ろす少女。
「これがあれば私を記録したり誰かに連絡を取ったりすることが出来ます。今そうされるわけにはいきません。不用意に使わせるわけにはいきません」
無感情に、無表情に告げてくる。
至近距離で向けられる、切れ長の緑色の目。直視することは出来なかった。長い間目を合わせると全てを見透かされ、吸い込まれて戻れなくなってしまいそうな、そんな得体の知れない恐怖。
「何故貴方は私と目を合わせようとしないのですか」
本当に、こちらの心を読んだかのようなタイミングだった。
「今まで私を見た人は常に私を凝視していました。それがヒトにとっての普通だと考えています。しかし貴方はそうではない。理由を教えて下さい」
「そ、それは……うっ……!」
もたついていると、顎を掴んで無理矢理目を合わせようとしてきた。抵抗を試みるが、華奢な体型と解離した怪力がそれを許さない。
「答えて下さい。私はそれに応じて行動する必要があります」
強制的に顔を合わせられ、じっと覗き込まれる。
「あ、ああ……」
ダメだ、わからない。何を言えばいい?どうすればおれは助かる?このままじゃ確実に殺される。けど間違ったことを言っても殺される。彼女の言う“行動”とはつまりそういうことだ。
明確に、自分が“死”と隣り合わせであることを意識する。
逃げなければならない。しかし逃げようとすればこの少女はおれを追及し、“行動”するだろう。
かと言って、このまま時が過ぎるのを待っていても何も始まらない。逃走を図った場合と結果は同じだろう。
「……もし、だ」
「はい」
「もし質問に答えたら、解放してくれるのか?」
「回答によります」
涼しげに言う。組み伏せるほどの力を青年に加えているとはとても思えない。
「……このまま何も言わなかったら?」
「貴方が言うまでこのままです」
……言う以外に選択肢はないのかもしれない。
おそらく、彼女はおれが言うまで本当にこのままでいるつもりだ。一日でも、一週間でも、一か月でも。
一呼吸おいて、彼女の顔を見る。
宝石のように曇りなく、全てを見通すとすら思える翠眼。
少し見ただけなのに背中が強張る。
しかしここで言わなければならない。
ずっと逃げ続けてきたおれに対するタイムリミットが来た、ということなのだろう。
「おれは……」
「カイト!」
後方から、聞きなれた声がした。わざわざ向く必要は無い。
「カイトから離れろ!」
小春だ。それがわかっただけで、とても心強さを感じた。
「貴女は誰ですか」
おれの顔から手を離し、みどりさんは至って機械的な口調で問う。
「ボクなんてどうだっていいだろ!カイトに何する気だ!」
「この状況で最優先すべきは貴女だと理解しました。そのため今この男性には何もしません」
「じゃあ早くどきたまえ。何なら、ここで警察を呼んだっていいんだ」
「そうですか」
と言うと、みどりさんは空いている手で、いきなりおれの首を掴んできた。
「……っ!」
物凄い力で絞められ、一切空気が通らなくなる。すぐに意識が朦朧としてきた。頭の中に霧が立ち込めていくような、そんな嫌な感覚がする。抵抗しようとするが、脳との接続を遮断されたように四肢が一切動かない。まずい、死ぬ、怖い。
「な、何するんだ、やめろ!」
「では警察へ連絡するという発言を撤回してください」
「で、でも……」
「わかりました」
みどりさんはおれのスマホを放りなげ、両手に全体重を乗せるように首を押し潰そうとする。
おれは完全に呼吸を奪われていた。視界が徐々に真っ白になっていく。死にたくない、という思いすら消えていく。
「ま、待って、やめて!カイトが……!!」
「では撤回すると言って下さい」
「撤回する!!撤回するからもうやめて!!」
喉が張り裂けるのではないかと感じるほどの、悲痛な小春の叫び声だった。
「……っ!」
突然喉に空気が入る。激しくむせたせいで、意識が強引に引き戻された。首を絞められていたせいか、酷い頭痛がする。その痛みが、自分が生きていることを知らせていた。
「はっ、はっ……んぐっ」
みどりさんは苦しむおれを、無言で見下ろしていた。そこには自分が人に手をかけたという興奮も、罪悪感も何も無かった。文字通りの“無”だった。まるで人の命を虫と同程度か、壺のようを力加えれば壊れるモノとしか思っていないように見えた。
その時確信した。
この少女は、間違いなくやっている。
あの動画は、本当に殺人の瞬間を捉えたものだったのだ。
そう認識した瞬間、自分の全てが恐怖に支配された。
次何か彼女の気に障るようなことをすれば、もう終わりだ。容赦など一切なく、おれは殺される。
「……や、めろ、やめろ、やめてくれ!殺さないでくれ!」
「殺しません」
「じゃあなんでおれの上に乗ってるんだよ!何もしないんだったら、離れてくれよ!」
「それはダメです。あちらの女性は貴方の仲間だと理解しました。二対一になると不利なので私は貴方を拘束し続けます」
わかっている。ここで彼女を刺激することがどれだけ危険かは、誰よりもおれが重々承知している。
けど無理だ。
命の危機に冷静になれるほどの経験なんてない。
そして、自分がすべきでない行動を取っていることに焦りが生じ、どんどんパニックが悪化する。
「なんでだよ!やめてくれ、おれが悪かった、謝るから、何でもするから殺さないでくれ!」
「カイト落ち着いて!」
「動かないで下さい」
小春の動きを見てか、再びおれの首に手を当てる。
「……っ!」
手が当てられただけで、おれは動くことも、何かを言うこともできなくなった。恐怖で凍り付いた。
「今この方は何でもすると言いました。貴方はどうしますか」
「ど、どうするってなんだよ……や、やめてくれ、カイトを殺さないで」
小春の声も震え、不安定だった。パニック寸前なのは明白だった。
「私の要求に応じれば貴女達にこれ以上危害は加えません」
つまり、応じなければ殺すつもりでいる、ということなのだろう。首に当てられた彼女の手がいやに冷たく感じる。
「わ、わかった。ボクに出来ることなら。だからカイトを殺さないで」
「承諾しました。まず聞くべきことがあります。貴方達の目的は私ですか」
「ああ、そうだ。キミだよ」
「私を狙う理由を話してください」
「……ボクと、今キミの下にいるのはオカルト研究部のメンバーだ。ボク達の活動は都市伝説について調査することで、今回その調査対象がキミなんだ」
「つまり貴方達は私の正体の検討がついているということですか」
「……ああ」
「それを誰かに話しましたか」
「いや、知ってるのはボクとそこの男だけだ」
「今後もそれは話さないでください。もし話したらこの男性と貴女の両方を殺します」
「わかった、わかったから、早くカイトの上からどいてくれ、お願いだから……!」
「いいえ。貴女を殺す考えはありませんが彼を殺す考えはあります」
「そんな……カイトはもういいじゃないか!さっき殺しかけただろ!」
「いいえ。この取引において彼の命は重要な材料です」
死とは別に、彼女に対して恐怖を感じた瞬間だった。
この少女は脅迫というものをよく知っている。
交渉にあたる本人ではなく、その人と関係が深い者、つまり今回はおれの命をベットすることで、小春は要求を吞まざるを得なくなる。
「じゃあボクは何をすればいいんだい!?早く言って、カイトを開放してくれ!!」
「私の保護を要求します」
不安定でパニック状態の小春とは対極にあるような、静かな声音でそう告げた。
「ほ、保護……?」
「はい。この街に出てから私は常にヒトの目に晒されています。このままだと私の正体が暴かれてしまうかもしれない。だからその前に安全な場所を見つける必要があります」
「ボクたちの安全は?」
「私の保護により危機に晒されることはあるでしょう。しかし貴方達の用心棒はします」
「そ、それを呑めば、ボクもカイトもキミに殺されることはないんだね?」
「はい」
「ホントだね!?」
「はい」
「……」
小春は押し黙る。
下唇を噛み、じっと考え込んでいる姿が想像できる。きっと今、次にすべき行動を思案する冷静さと、殺人者を目の前にした恐怖が衝突しているのだろう。
「……わかった。キミの言うことを受け入れる」
「わかりました」
希望が叶ったというのに笑み一つ見せず、みどりさんは頷く。そして立ち上がり、ようやくおれの上からどいた。
「カイト!」
起き上がろうとするおれの背中を、後ろから小春が支えてくれる。
「小春……本当にありがとう」
立ち上がる。頭痛は残っているが、意識はしっかりしている。
「いいよ、とにかくキミが無事でよかった。……あ、首はさすがに赤くなってるね。ちょっと内出血もしてるみたいだ」
小春が、今度は前からおれの首元を覗き込んでくる。その顔を見ると、ほっと胸を撫で下ろすことが出来た。おれは助かったのだ、という思いがふつふつと湧き上がる。実際、彼女が来なかったらもっと酷い目に遭っていたに違いない。
「けど骨が折れているとか、そういうことはなさそうだね。……ホントによかった」
小春がふう、と息を吐いた。表情からも少し緊張が抜ける。かなり彼女もストレスを感じていたらしい。よく見ると、涙目にもなっていた。
「ホントに助かったよ……にしても、よくここにいるってわかったな」
足跡を見つけた時に小春に連絡はしていたが、その時は焦っていたので場所までは伝えられなかったはずだ。
「これだよ」
そう言うと、小春は自分のスマホを取り出した。
「!」
ぎくりと、体が反射的にみどりさんの方を向く。
「……」
しかし彼女は微動だにせず、おれと小春を見つめている。
「あ、あれ?」
「どうかしたのかい、カイト」
「いや、さっきおれ、スマホ出したら奪われたから、今回もてっきり……」
「貴方達は今私の敵ではありません。スマートフォンを出したくらいでは何もしません。もし私の写真を撮るのなら止めます。インターネット上にアップロードされては困ります」
「絶対しない。しないから、何もしないでくれ」
はあ、と息を吐いた。
別にそんな気はないが、彼女の前でスマホを使う時は気を付けよう。また首を絞められても困る。
「……まあいいか。で、なんでスマホ?」
「これだよ」
小春は画面をいじり、何かのアプリを起動した。向けられた画面を見てみると、青い丸が二つ、極めて近くに表示されている。そしてその周りは緑色になっていて自然をほうふつとさせる。
「……ああ、スマホの追跡アプリか!」
一か月前、“悩みを解決するアカウント”の調査をしたときに「非常用に」と入れたものだ。まさかこれが命を救うとは思いもしなかった。
「キミからメッセージが来て、すぐ返信したんだ。でも既読も付かなかったから、もしやと思って」
そういえば、小春の頬に汗で髪が張り付いている。駅から走って来たのだろうか。背中にリュックも背負っているのに、よく立っていられるものだ。
「凄い体力だな」
「ま、踏んできた場数が違うのだよ。……とは言っても、体力以外ついたものはなかったけどね」
「少しよろしいでしょうか」
普段通りに小春と喋っていたところ、みどりさんが話し掛けてくる。
「ん、なんだい」
「何も用が無ければ一刻も早くここを離れるべきです。私は多くのヒトに追われている身です」
「ま、それもそうだね」
「それと最後に確認したいことがあります」
「なんだい」
「貴方達は私の正体の検討がついていると言いました。今後の為にそれを聞いておきたいです」
「そうだね。答え合わせをしておこうか。キミは……」
そう言うと、小春は静かにみどりさんを指差した。
「感情のない植物人間だ」
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