第十七話:どうしようもなかった

 翌日。

 起きると体がだるかった。背中がずぶずぶとベッドに沈み込んでいくような、そんな感覚がした。昨日飲まされた睡眠薬の影響もあるのだろう。

 しかしこのだるさを引き起こしているのは、それだけではなかった。体だけでなく、心も泥水の中にあるように陰鬱としていた。

 体ごと、顔を横に向ける。いつも通り誰もいないおれの部屋。昨日はここに小春がいた。そして彼女は自分の過去について語った。

 おれもおれ自身の過去について語った。しかし、それは全てではなかった。一番大事なところを隠した。そのことが、ずっと胸の奥で滞っていた。

 小春にとって、信濃との関係を語るのは決して楽なことではなかったはずだ。その話に対して、おれが幻滅し、関係が消滅する可能性だってあった。それを乗り越えて、今後のために小春は自分の失敗を話した。

 なのにおれはその気持ちに応えなかった。昨日小春が帰ってから、ベッドの上でずっとこの調子だ。

 そして考えれば考えるほど、“どうしようもなかった”という答えに行きつく。

 ただ単に互いの過去を告白するだけならよかった。しかし“悩みを解決するアカウント”という謎が関わってしまったことで、何も話せなくなった。話せば小春はおれを糾弾し、挙句の果てに絶縁になるだろう。

 その未来を想像して、身が震えた。

 小春だけでなく、おれも“相棒”の関係に縋って生きているということだろう。

 ――願わくば。

 何かが起こって、“悩みを解決するアカウント”の調査が終わってしまえばいいのに。そう思ったときだった。

 ベッドサイドに置いていたスマホに着信があった。画面を見ると小春だった。その名前を見てドキッとした。

 一体何の用だろうか。普段彼女とはチャットでやり取りをしている。昨晩はちゃんと返信したし、何か怒られるようなことはないはずだが。

「もしも……」

「カイト!今すぐ駅まで来てくれ!」

 こちらの都合など一切確認せず、小春は電話越しに喚き立てた。耳に大声が突き刺さり、思わず顔をしかめた。

「な、なんだいきなり……」

「大変なんだよ!喫茶店ノワールが、ない!」

「はっ……?」

 一瞬、意味がわからなかった。彼女の言葉の意味がわかったのは、少し後だった。

「の、ノワールがないって、どういうことなんだ!?」

「ボクもわからない!とにかく駅まで来たまえ!」

「わ、わかった!」

 ベッドから跳ね起き、準備も早々に部屋を出る。

 ひょっとすると、このまま“悩みを解決するアカウント”の調査がなくなるのではないか。

 そう考えてしまった頭を振り、とにかく伊谷駅に向かって駆け出した。

 駅に着くと、既に小春がタクシーを捕まえていた。それに乗り込み、喫茶店ノワールがあった場所へ向かった。

「咲ねえ!」

 細い路地を曲がった先、小さな店舗の前に信濃がいた。いつか見たパトカーとは違い、傍らには黒いセダンがあった。信濃はその車に寄りかかり、煙草を吸っていた。

「小春ちゃん」

 信濃は小春を見てふっと紫煙を吐き出す。煙がおれと二人の間を分かつように漂う。

「咲ねえ、どういうことなんだい!?」

「見ての通り」

 信濃が顎で指すよりも早く、小春は店舗の前へ。おれも彼女に続く。

「嘘、でしょ……」

「なっ……」

 二人とも、声が漏れるのを抑えきれなかった。

 その場所は、確かに昨日訪れた場所と同じだった。部屋の奥の個室に通され、睡眠薬を盛られた記憶は新しい。

 実際、キッチン、カウンター、奥の個室と、店舗のレイアウトは同じだった。何度見ても、ここが喫茶店ノワールのはずだ。

 しかし、店舗の窓に掛けられていたのは、『テナント募集中』という看板だった。

「ど、どうなってるんだい!昨日の今日じゃないか!」

 小春が動揺を露わにしたまま、信濃に歩み寄る。

「残念だけどこれが全てだから」

 小春に対し、信濃はそっけなく答える。

「そんな……くそっ!だったら今ここで入って調べてやる!」

 小春は再び空の店舗に向かっていく。その姿を見て、先月学校に侵入しようとしたことを思い出した。まずい、暴走している。

「ま、待て小春!」

「どいてカイト!ここまで来て戻れるわけが……」

 と、店舗の窓ガラスを蹴り割ろうとしたところで、ガチャリ、と音が鳴った。

「それは見逃せない」

 いつの間にか信濃が小春の背後に立っていた。そして、小春の右手には手錠が掛けられている。

「咲ねえ!」

「言っとくけど、不法侵入だから。現行犯逮捕できるけど?」

「……っ!」

 その言葉を聞いて、さすがの小春も身を固くした。

「残念だけど、喫茶店ノワールはもうない」

 信濃は、静かにそう言った。

「終わり……?」

 小春が小さく呟いた。

 それが、“悩みを解決するアカウント”の結末だった。

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