第十五話:なんで?

 あの日以来、ボクは信濃と関わらなくなった。

 当時ボクは子供用のスマホを持っていたが、信濃と連絡を取ろうとはしなかった。彼女からも連絡は来なかった。

 そんなある日だった。

 ボクが家で留守番をしていた時、呼び鈴が鳴った。荷物でも届いたのかと思い、インターホンで応対する。

「……っ」

 そこに映っていたのは、信濃だった。

「小春ちゃん、私」

 スピーカーから聞こえてきたのは、紛れもなく信濃の声だった。

「え……咲ねえ?」

「うん。今ちょっといい?」

「え、で、でも……」

「いいよね?」

「う、うん……」

 インターホンを切り、玄関へ向かう。その足は重かった。

 ボクは複雑な気持ちだった。もう二度と会えないと思っていた信濃と会える。そのこと自体は嬉しかった。けどもう会うなと彼女の両親には言われていた。脳裏には彼女を傷つけてしまったことが蘇る。そのネガティブな感情で、信濃に会えるというポジティブな感情は上塗りされていた。

 それに、少し引っかかるところがあった。

 ボクの家のインターホンにはモニターがある。しかしそれは家の中から外が見えるものであり、外からは誰が取ったかわからない。なのになんで、信濃は応対したのがボクだとわかったんだろう。

 その違和感の正体に、たった十年とちょっとしか生きていない小学五年生のボクがわかるはずもなかった。

 玄関でサンダルを履き、外に出る。扉に隠れるようにして外を窺う。

「小春ちゃん……!」

 信濃はボクを見て心の高まりを抑えきれない様子だった。どちらかと言えばポーカーフェイスな彼女がそんな表情を見せるのは珍しかった。

 そして、彼女の左腕は三角巾で吊られていた。二の腕の真ん中から手首の手前くらいまで、ギプスで覆われていた。それを見て、渕河の森でのことがフラッシュバックした。急に息が苦しくなり、胸に何かがせり上がってくるような感覚に襲われる。

「小春ちゃん大丈夫!?」

「う、うん……」

 本当は大丈夫じゃなかったが、呼吸を繰り返して無理やりこらえた。何だかここで弱みを見せてしまうと、信濃が家に押し入ってくるように思えたからだ。以前までだったらそれは歓迎すべきことだった。だけど今、直感がボクにそうさせてはならないと告げていた。

「……それで、どうしたの、咲ねえ」

「どうしたの、じゃない。小春ちゃん、なんで私に何の連絡もないの?」

「それは、咲ねえの親にもう会うなって言われたから……」

「会うなって言われただけでしょ。連絡くらいできる」

「ご、ごめんなさい……でもボク、決めたんだ。もう誰かと調査には行かない」

「え……?」

 信濃の顔から血の気が引く。

「なんで……急にそんな……」

「……ボクのせいで、また誰かをそんな目に遭わせるのは嫌なんだ」

 そう言って、ボクは信濃の左腕を見た。命に別条がなくとも、それが大きなケガであることは小学生でもわかる。もしまた信濃にこんなケガをさせてしまったら……考えるだけで頭を抱えたくなる。

「いいよ、そんなこと」

 しかし、信濃はそう否定した。

「私にとって大事なのは小春ちゃん。小春ちゃんと離れるくらいなら、この腕も、脚も折れたって平気」

 信濃は薄く笑った。

 そのとき、ボクが感じたのは恐怖だった。自分の体を顧みず、ボクと一緒にいようとする彼女が怖かった。

「な、なに言ってるんだよ。ギプスまで巻いてるのに……」

「全然平気。ほら」

 信濃が三角巾から左腕を抜く。そして、体ごとこちらに近づき、“左手”で、戸を掴んでいたボクの手を握った。

「つかまえた」

「っ!?」

 戸から手を離し、家の中に逃げようとする。しかし出来ない。肩を脱臼し、肘を骨折したはずなのに、信濃の力は異様に強かった。

「さ、咲ねえ、離してよ咲ねえ!」

「ふふ、あぁ、痛いなあ。腕痛いなあ。ふふ、ふふふ」

 信濃が口角を吊り上げて笑う。しかし、目は笑っていなかった。むしろ、黒く粘々としたヘドロのように濁っていた。

 そしてその時、彼女の体からタバコの臭いがした。今までタバコを吸っているところなど見たことがなかったし、喫煙者だと聞いたこともなかった。

 だからボクは、目の前の人が信濃咲音ではない誰かなんじゃないかと思った。もしそうであれば、彼女の行動が“実は他人だから”で片付けられる。

 しかし何度見ても、目の前にいるのは信濃咲音だった。

「……ねえ小春ちゃん。私、今どういう気持ちだと思う?」

「き、気持ち……?わからないよ……!」

「あのね……凄く怒ってる」

 信濃が体ごと左腕を引く。ボクも抵抗したが、体格差には勝てず外に引きずり出される。そして信濃は空いていたほうの手でボクの胸倉を掴んだ。

「……ねえ小春ちゃん。都市伝説って、何だと思う?」

「え……?」

 信濃が黒い両目でじっとボクを見る。

「と、都市伝説は、ボクの好きなもので……現実の後ろにある謎で……」

「違うよ」

 ぴしゃりと言った。

「都市伝説はね、ただのお話なの」

「え……?」

 信濃のその言葉は、ボクの脳を砕いた。もう会わないと決めていたけど、味方で相棒だった信濃に、ボクの大事なものを否定されたショックはあまりにも大きかった。

「な、何言ってるの咲ねえ……?ボクたちあんなに一緒に調査行ったよ……?」

「最初からずっと思ってた。都市伝説なんてただのお話。私はそんなものに興味はなかった。小春ちゃんが熱中できる意味も全くわからなかった。調査なんてどうせ無駄なんだし、もっと違うことで遊びたかった。けど小春ちゃんが望むことだから従った。貴方が小学一年生のときから四年間もずっと。ずっと小春ちゃんに付き合ってたんだよ?……だったら、私の望みも聞いてよ!!」

 信濃が両手でボクの胸倉を掴み、鬼のように歪んだ顔をボクに近づけた。

「なんで!?私は貴方のためにこんなにも我慢してるのに、なんで貴方は私のことを無視するの!?」

「う、うわあぁぁぁっ!!」

 ボクは無我夢中で体を振り回した。そのとき、たまたま蹴り出した足が信濃に直撃した。

「う゛っ……!」

 ボクの胸倉を掴んでいた手から力が抜ける。信濃がお腹を押さえてその場に崩れ落ちる。どうやらボクの足がみぞおちに直撃したようだった。

「小春ちゃん、どうして……!」

 信濃が苦し気に顔を上げる。その表情には痛みが込められていた。今思い返せば、そこには身体的なものだけでなく、拒絶されたことに対する精神的な痛みも含まれていた。

「っ!」

 その時のボクに、信濃を気遣う余裕はなかった。転がり込むように玄関に入り、戸のカギを閉め、玄関から一番遠い自分の部屋に逃げた。

「小春ちゃん……小春ちゃん!!」

 しかし、戸をガンガンと叩く音と、信濃がボクを呼ぶ声が聞こえてきた。ボクは部屋の隅に座り込み、ずっと耳を塞いでいた。なのに戸を叩く音と信濃の声がやまなかった。

 その日以来、信濃はボクの家には来なくなった。

 そしてボクは、人を調査に誘うことをやめた。知らず知らずのうちに人を傷つけるような人間は、他人と一緒にいてはいけないと思った。

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