第十四話:おちた
その日以来、ボクと信濃はいつも一緒に行動するようになった。信濃の受験前以外、いつも一緒にいたように思う。
ボクは信濃を“相棒”と呼んだ。信濃はあまりボクを相棒とは呼ばなかったけど、呼ばれるのは嫌ではなさそうだった。
しかし、そんな関係はある事件をきっかけに亀裂が入った。それはボクが高校一年生になった今も修復されていない。
「
六月のある晴れた日、当時小学五年生だったボクは家に来ていた信濃に言った。
「いいよ。けど少し遠い。電車使わないと」
信濃は大学四年生。出会った当初に比べて、メイクや服装などが大人びていた。ただ、髪の毛は黒のままだった。一度明るい茶色にしたことがあったが、ボクが「見慣れないね」と言ったらすぐ黒に戻した。以来、ずっと黒だ。
歯に衣着せぬ物言いに関しては、あまり変わらない。しかし、幾分か柔らかくなったようには思えた。それに、ボクの言うことにはいつも微笑を浮かべて応えてくれた。思春期に入り、周囲からの評価を気にし始めたボクにとってそれがとても嬉しかった。彼女だけはボク自身と、ボクの好きなことを認めてくれる。そう確信していた。
「じゃあ一緒に電車乗ろ、咲ねえ」
そして、この頃には信濃を“咲ねえ”と呼んでいた。ボクにとって彼女は姉のように心強くもあり、何でも一緒にしてくれる友人でもあった。
「うん。じゃあ行こうか」
支度をして家を出る。自然に、信濃はボクの手を握っていた。彼女の顔を見て握り返すと、信濃はとても嬉しそうだった。
「咲ねえ、ボクといるの楽しい?」
「うん」
「彼氏とか作らないの?」
「いらない。小春ちゃんがいい」
「そっか」
そう言われると、ボクも素直に嬉しかった。
電車に乗って渕河へ。伊谷からは五駅、およそ二十分くらいで到着した。
そして渕河駅から北に歩いて三十分。駅付近には多かったビルはなくなり、そこは鬱蒼と茂る森だった。
「ここは……」
「さ、行くよ咲ねえ!」
「え、ちょっと」
少し気乗りしない様子だった信濃の手を引き、ボクは渕河の森をずんずん歩いていく。
天気は晴れなのに、森の中はとても暗かった。羽虫が飛び、湿気が体にまとわりつく。不快指数は明らかに高かったはずだが、ボクは一切気にせず進んだ。
「ちょっと小春ちゃん、どこまで行く気」
信濃がたまらずと言った口調で聞く。
「今日は、渕河のフェンスの調査だよ!」
「渕河のフェンス……?」
それは、ボクが通っていた小学校で聞いた話だった。
渕河の北にある森、その奥には立ち入り禁止を意味するフェンスがある。ある日、その森で虫取りをしていた同級生が、フェンスの向こうに人影を見た。その人影はすぐに消えたため、彼あるいは彼女が一体何をしようとしていたのかはわからなかった、という都市伝説だ。
「なるほど。でも……」
ボクの話を聞き、何かを言いかけた信濃だったが、それを飲み込んだ。
「え、何かあったかい?」
「……ううん。なんでもない」
そう言って、信濃はぎゅっとボクの手を握り返した。彼女の様子は少し不審に映った。しかし謎の調査に意識が向いていたため、それについて深く考えることはなかった。
それから一時間ほど森の中を歩いただろうか。木々の中に、不意に白色のフェンスが現れた。ただ、それはフェンスと言うよりは“壁”だった。工事の際に敷地を囲うもので、小学五年生の二倍の高さがあった。
「これがフェンス?」
隣で信濃が眉をひそめる。彼女はすっかり汗だくで、顔の横の髪が頬に引っ付いていた。息も少し荒い。
「フェンス……というより壁だね」
「違うところに来たんじゃない?」
「いや、場所は合ってるはずなのだよ。この森で何か工事してるって話はなかったし」
「じゃあフェンスから壁に変わった?」
「そういうこと……なのかな。でも見てみないとわからないしな……」
しかし掴まれそうな箇所は壁にはない。一応手を当ててみるが凹凸は一切なく、ヤモリでないと登るのは無理だろう。
どうにかできないかと周囲を眺める。壁よりも高い木がひたすらに生い茂っている。その中で、とある木が目に留まった。ちょうどボクの背丈と同じくらいの高さに太い枝があり、壁を少し超えるように木の幹が伸びていた。
「あ!」
「え、ちょっと小春ちゃん」
思い立ったが吉日、ボクはその木に向かって駆け寄り、枝に飛びついた。
「んしょ……よし、登れるぞ!」
「え、まさか木に登って壁を超えるつもり?」
「そう!」
「危ない。降りて」
「大丈夫!ほら、咲ねえも!」
「え……でも」
「いいから早く!」
ボクは幹にしがみつきつつ、信濃に手招きした。彼女は少し渋ったが、観念したようにため息を吐き、登り始めた。
信濃が登ったのを確認して、ボクは木の幹の上を尺取虫のように進んでいった。
「気を付けて」
「大丈夫!」
地上約二.五メートルではあったが、ボクはそれほど恐怖を感じていなかった。木の幹がボクが抱き着くにはちょうどいいサイズで、落ちる気が全くしなかったからだ。
危なげなくボクは壁の近くまで進んだ。この先に謎がある。わくわくしてボクはその向こうを覗き込んだ。
「えっ……」
壁の向こうには、人がいた。
白い装束のような衣装で、フードを被った男達が三人、ボクを見上げていた。
侵入者に対して彼らは怒ることもなく、不快そうな表情を浮かべることもなかった。何の感情もないような目で、ボクを見るだけだった。
その時ボクが感じたのは、とてつもない恐怖だった。
彼らが人間であることは間違いない。しかし、ただの人間ではない、何か人が持ってはならないものを秘めた者たちだと直感した。
「う、うわあああああ!!」
「小春ちゃん!?」
ボクは木の幹の上で、踵を返して逃げようとした。しかし手を滑らせ、バランスを崩してしまった。
まず、腕と幹との摩擦がなくなった。無理やり引っかかろうとするが、体がぐるりと右に回転し始める。視界も回転する。幹に巻き付けていた脚が、遠心力でほどける。
あっ。
と思った刹那、先ほどまで掴まっていた木の幹が遠くなっていく。背中から落下し始めていた。
「小春ちゃん!」
ボクの背後、つまり下から信濃の声が聞こえた。
ボク、ここで死ぬかも。
そのときボクはやけに自分を客観視していた。落下している現実を受け入れたくなかったのかもしれない。
「ぐっ!!」
背中に堅いものがあたり、肺から息が吐きだされた。
一瞬のことだったから、詳しいことまでは覚えていない。けど気づいたとき、ボクは仰向けになった状態で自分がさっきまで登っていた木を見上げていた。
自分は生きているのか、それとも死んだのか、わからなかった。それを確かめるのが怖かった。体を動かそうとして動かなかったら、それは死んだってことだから。
しかし、額にかいた汗が目に入り、その痛みで瞬きをした。それで気付いた。ボクは生きている。
地面に手をつこうとして、何か柔らかいものがボクに触れた。それは温かさを持っていた。
「小春、ちゃん……」
ボクのすぐそばから声が聞こえた。
「咲ねえ!」
それでボクは跳ね起きた。そして自分がどういう状況にあったのかを理解した。
信濃が地面に寝転がっていた。先ほどボクの肩があった場所に、信濃の左腕があった。彼女がボクを助けようと下敷きになったことは明白だった。
「よかった、小春ちゃん……」
「咲ねえ!ご、ごめん、大丈夫……?」
「ぐ、ああぁぁっ!!」
起こそうと信濃の左腕に触れると、彼女は苦悶の表情を浮かべた。ポーカーフェイスな信濃が、そのような顔を見せたのは初めてだった。
よく見ると、シャツの袖を押し上げるように、信濃の左ひじが大きく腫れていた。
それだけでなく、彼女の左肩から手の先まで、異様なほどに力が入っていなかった。ボクはその時、「脱臼」という単語を思い出した。強い衝撃を受けて、関節が外れてしまうケガだ。
ボクのせいだとわかった。
ボクが落ちたのを助けようとして、信濃は身を投げ出した。受け身を取る余裕がなく、左肩から落ちた。それだけでなく、左腕にボクがのしかかったことで左ひじに衝撃が加わった。
ボクのせいで、ボクの好きな人が大ケガをした。
小学生でもそれが理解できた。
「さ、咲ねえ!咲ねえ!う、嘘だ、嘘だ嘘だ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
ボクはパニックに陥った。思考が全くまとまらず、ただただ涙が流れ続けた。罪悪感で心臓が潰されそうだった。
そこから後のことはよく覚えていない。
立ち上がれない信濃の指示に従って、救急車を呼んだ。救急隊が来て、救急車に乗って、渕河の病院に行った。
診断は左肩の脱臼と左ひじの複雑骨折だった。脱臼は左肩から落ちたことが、骨折はボクと地面に挟まれるような形で衝撃を受けたのが原因だった。
病院に着いて、信濃の病室に入ってからも、ボクはずっと泣き続けた。命に別状はなかったが、そんなことは関係なかった。どうしていいのかわからなくて、泣くことしかできなかった。
しばらくして、連絡を受けたボクの両親と、信濃の両親が来た。
「申し訳ありませんでした」
ボクの父さんも母さんも、信濃と彼女の両親に向かって頭を下げた。ボクもそうした。自分のせいで誰かを傷つけただけでなく、その責任を親に取らせたことに対する罪悪感で、もう心はいっぱいいっぱいだった。
しかし信濃の両親はそんなボクに対し容赦はしなかった。
「二度と咲音と関わらないで」
彼らはボクに向かってそう言った。そのときボクの中で何かがプツンと切れた。視界が真っ暗になった。
そこから何があったのかは、丸っきり記憶がない。
次に気付いた時、ボクは自分の部屋で寝ていた。そして、傍らに母さんがいた。母さんは少し複雑な顔をした後にぎゅっと抱きしめてくれた。
母さんも、娘がしたことの大きさはわかっていたのだと思う。ボクが起きたら叱ろうと思っていたのかもしれない。けどボクがどれだけの罪悪感とショックを抱えていたかも理解していたのだろう。だから、何も言わずに抱きしめてくれた。
子供ながらに母親の心情を理解したボクは、その時に誓った。もう誰かを自分の趣味に巻き込むのはやめようと。
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