第九話:決行日

「よし、じゃあ最終確認だ」

 翌日。五月の第二土曜日。

 伊谷駅から少し離れた、薄暗い路地におれと小春はいた。

「ボクたちは”悩みを解決するアカウント”の中の人と今から会って、アカウントにまつわる都市伝説と伊谷市の行方不明者増加との関係について、何らかの情報を得る。そしてボクたちは上手くいっていない高校生のカップルを演じる。ボクは鈴鹿亜矢、キミは竹田和樹だ。イメージ的には昨日練習した通りでOK。演じ始めるタイミングはこの路地から出たら」

「イエスマム」

 決行直前、最後の確認を行う。今までの調査とは違い架空の人物を装う必要があるため、緊張してくる。バレないようにしなければならない。

 ちなみに、カップルを演じる以上今回は服装にも気を使っている。

 普段制服とジャージしか着ないあの小春が、黒のレース調でハイネックのブラウスを着て、白のワイドパンツを履いている。

 前々から容姿の良さは感じていたが、いざこういう格好をするとそれがよくわかる。

 おれは白黒の横縞の半そでシャツに七分丈の黒いカーディガンを羽織り、ジーンズを履いている。これがおしゃれかどうかはよくわからないが、ネットに落ちていた画像から適当に考えてみた。

 二人並んでみれば、一般的な高校生のカップルに見えなくもないだろう。

「そういえばキミ、なんか今日は真剣だね」

「えっ?真剣って?」

「調査にだよ。いつもだったら“ここまでするのか……”みたいな顔してるのに」

「そうか?ま、今日は演技するんだし、失敗できないからな。そりゃ真剣にもなる」

 偽装カップルがバレようものなら、相手が未成年誘拐の実行犯だろうがそうでなかろうが厄介なことになる。それを避けたいのは本心だ。

「他には?」

「他にって?」

「調査に真剣な理由」

「別にないよ」

 この場では必要のないことだ。

「ほら、そろそろ時間だ。行こう」

 小春の横を通り過ぎ、路地の先から出る。今からおれは“竹田和樹”として振舞わなければならない。

「ふむ……ま、なんだろうと真剣になってくれるのはいいことだ。じゃあ行こう。調査開始だ」

 小春も続いて路地から出る。

 土曜の昼前ともなれば、人の往来は活発だった。ざっと見渡しただけでも、老若男女様々だ。デートを楽しんでいるだろう若いカップル、リュックを背負って複数人で歩く運動部らしき男子中学生、パチンコにでも行くだろう老人。少子高齢化で人口は減り続けていると言うが、人はこんなにもいるのだと実感する。路地とは全くの別世界だ。

「……和樹君、今日はごめんね。けど、どうしても話し合いたかったから……」

 隣を歩く小春が鈴鹿亜矢を演じつつ、徐に口を開く。いつもの小春なら「カイト!」と笑顔を浮かべているだろうが、今は違う。目線は下を向き、少し首をすくめている。表情も、先ほどおれ達がいた路地のように暗い。

「めんどくせえ。お前だけで行けよ」

 おれも竹田和樹として、舌打ち交じりで応える。打ち合わせ通り、今朝インストールしたソシャゲをしながら歩く。普段はそのリスクを考えて歩きスマホはなるべくしないが、今は状況が別だ。小春が隣にいるので、目を画面に落としていてもナビゲートはしてくれる。

「ご、ごめんなさい、でも私だけじゃなくて、二人で話し合うのが大切だと思うの……あ、待ち合わせ場所、ここだから」

 小春に合わせておれも足を止める。改札口に面した噴水の縁に、彼女と肩を並べて座る。

「……」

 お互いに何も話さない。上手くいっていないカップルを演じるための一つの戦略だ。

 小春はキョロキョロと視線をさまよわせ、所在なさげにする。しっかりと鈴鹿亜矢を演じている。先月、旧校舎の調査でテンパった時とは大違いだ。あの時はたまたま悪いスイッチが入ってしまったということだろう。今日は無事に終わるといいのだが。

 少し待っているうちに、スマホの時計が十二時を示した。約束の時間だ。

「こんにちは。鈴鹿さんですか」

白いシャツに黒のスラックス姿の男性が現れる。年齢は比較的に若い。おれや小春よりも少し上くらいだろうか。印象的なのは、肩くらいまでの髪を首の後ろでまとめているところだ。耳が隠れているので、男性の中では比較的長い髪の部類に入ると思う。

「あ、はい、そうです」

 小春が立ち上がる。

「本日鈴鹿さんと竹田さんのカウンセリングに参りました。高橋と申します」

 高橋、と名乗るその男は軽く頭を下げた。

「こちらこそこんにちは、鈴鹿です。こっちが彼氏の竹田和樹です。……ほら和樹、向こうの人来たから……」

「うっせえな……あぁ、こんにちは。竹田です」

 おれはスマホを手に持ち、座ったまま挨拶をする。高橋の機嫌を損ねるだろうが、クソ男のレッテルを貼らせるにはこれくらいがちょうどいいだろう。

「こんにちは。それでは行きましょう。こちらです」

 ただ、高橋はおれの無礼を受け入れるでもなく非難するでもなく、淡々としていた。ロボットが目の前の作業を処理するような、そんなイメージだ。

「わかりました。和樹、行くよ」

「ああ……わかってるよ」

 高橋の態度に拍子抜けして思わず素が出そうになった。一瞬ヒヤッとして高橋の方を見るが、彼はこちらのことなど気にせず歩き始めている。

 小春と彼に続いて移動し始める。

 思わずため息をついた。この演技、かなりきついかもしれない。小春に対する罪悪感はもちろん、不審なところは無いか自分の所作の一つ一つに気を配らねばならない。普段のクラスメイトに対して自分の外面を保とうとするのとはわけが違う。想像以上に消耗する。

「……」

 おれを含め、三人は無言で歩く。高橋についていくと、駅前のロータリーと一般道の交差点に来た。彼は停車してあった白いセダンの後部座席を開ける。

「ではお乗りください」

 高橋に促され、おれと小春は灰色のシートに腰掛ける。内装を確認するが、特に不自然な点はない。至って普通の乗用車だ。

「ここから少し離れたノワールという喫茶店に行きます。カウンセリングはそちらで行います」

 高橋が運転席に乗り、セダンを発進させる。駅の正面の道路を行き、途中のT字交差点で右に曲がる。

 耳慣れない店だからスマホで“喫茶店ノワール”を調べてみるが、店のWebページや位置情報は特にない。

『ノワールって知ってる?』

 小春からココアが来た。

『いや、知らない。小春は?』

『ボクも知らない』

『個人がやってる小さい店ってことか?』

『わからない。けどおかしいな』

『おかしいって?』

『ボク小学校のときから伊谷は調査してたんだ。最近できたとこ以外はお店も大体知ってるはずなんだけどな』

「高橋さん」

 小春が前の運転席に座る高橋に声をかける。

「はい」

「その、今から行くノワールって最近できたところなんですか?」

「……」

 高橋は答えない。

 もしかして、何かマズイことを聞いたのだろうか。

「最近でもないです。半年前にオープンした店です」

 しかし、おれの不安をよそに高橋は何事もなかったかのように答えた。妙に返事まで間が空いたように思えたが気のせいだろうか。いや、もしかするといつノワールができたか思い出していたのかもしれない。

「そうですか、わかりました」

『半年前だとちょっとボクもわからないな』

 すかさず小春からココアが来る。

『これ、大丈夫なのか?』

『どうだろうね。けど今は演技に集中したまえ。最悪の場合の手は考えてるから』

『わかった』

 “最悪の場合の手”が何か気になるところではあるが、確かに今は竹田和樹の演技に集中すべきだ。

 まあ、こっちは最初から“何かある”と疑っているので、些細なことを奇妙だと思い込んでしまったのかもしれない。実は何もありませんでした、は都市伝説検証番組のテンプレみたいなものだ。

 車は緩い上り坂を進み、途中で右折。細い道に来たことで車や人通りが一気に少なくなったように感じた。

 もう一度右折すると、ちょうど車が一台通れるくらいの細い道に来た。奥は行き止まりで、木造の小さい店があった。店の前には白地に茶色の文字で“ノワール”と書かれた、比較的地味な看板があった。

「到着しました」

 店の隣の駐車場にセダンが停まり、おれたちは車から降りた。

「こちらです」

 高橋がノワールのドアを開ける。カランカランという、乾いた音が響いた。彼に続いておれと小春が入る。

「いらっしゃいませ。三名様でしょうか」

髪の長い女性の従業員がこちらを向き、事務的に言う。

 店内はそれほど広いわけではなかった。キッチンに面したカウンター席が五つ。その向かいの壁側にテーブル席が三つ。奥には、個室が二つ左右に並んでいた。テーブル席では帽子を被った女性がコーヒーを飲んでいる。

「はい」

「では奥の個室へどうぞ」

 促されるまま、三人で個室に入る。中は木造りのテーブルが一卓。そのテーブルの前後を挟むように、二脚ずつ椅子が置かれていた。あとは机の上にメニューと小さな時計があるくらいで、特におかしなところはない。

「どうぞ奥へ」

 高橋に言われるまま、おれと小春は肩を並べて座る。高橋はおれたちの対面、右側の椅子に座った。

「お二人はコーヒーは飲めますか」

「ああ、俺は飲めます」

「ごめんなさい、私はちょっと……」

「わかりました。ではコーヒー二つとオレンジジュース一つお願いします」

 オーダーを聞いた店員は「かしこまりました」と言って、個室のドアを閉めて去った。

「ではお話を聞かせてください」

 店員がいなくなると、すぐ高橋は話を切り出した。

「あ、はい、わかりました。えっと、私たちは付き合い始めて三か月なんですけど……」

 小春も彼の唐突さに少々面食らったようだが、事前に考えていた和樹と亜矢の話をし始める。おれはその間、だるそうに頬杖をついておく。

「和樹さんが自分の言うことを聞いてくれないということですね。どんなことがありましたか」

「はい……私が買い物してると早く終われって言うのに、私がソシャゲやめてって言うと怒ったり……」

「あ?お前の買い物が長いのがわりぃんだろ」

「で、でも和樹君ソシャゲ一時間もやってるじゃん……私の買い物なんて十五分くらい……」

 聞けば聞くほどクソ男だな和樹。

「お前の買い物より俺のゲームのが大事に決まってんだろ。馬鹿じゃねえの」

「そんな、私には大切なことなのに……!」

「知るかよ、んなこと」

 小春演じる亜矢は、おれの演じる和樹に涙目で訴える。それに対し和樹は突っぱねるような態度を取る。

「二人とも落ち着いてください」

 見かねてか、高橋がなだめた。

「……すいません」

 不承不承といった感じで高橋に頭を下げる。いい感じだ。彼にはおれ達が全く上手くいっていないカップルに見えているだろう。

「事情はわかりました。亜矢さんは和樹さんにどうしてほしいですか」

「私は、和樹君を従わせたいわけじゃないんです。ただ、ちょっとだけでいいから、私のことを見てほしいんです……」

「見てほしいってなんだよ」

「……言葉通りの意味だよ」

 小春がおれの両腕を掴む。

「……ねえ、和樹君。貴方は私のことをどう思ってるの?」

「どう思ってるって、俺の彼女だろ」

「それだけ?」

「どういう意味だ」

「……ごめんなさい、私の聞き方が悪かった。和樹君」

 小春は何かを言おうとして開いた口を閉じる。しばし目を伏せてじっと考え込むような仕草をした後、意を決したようにおれを見た。

「本当は、私じゃなくてもよかったんじゃないの?」

「……」

 その言葉は、演技だ。

 設定に則って鈴鹿亜矢が自らの思いを竹田和樹にぶつけた、というストーリーに過ぎない。

 しかし、何故かその言葉は深くおれの心に刺さった。

「私ね、もしかしたら和樹君は私のこと興味ないんじゃないかって思うの」

「馬鹿なこと言うなよ、彼女だろ」

「じゃあさ。私の誕生日、言える?」

「えっ……?」

 ちょっと待て、そんな設定は聞いていない。答えられようがない。

 それは小春もわかっているはずだ。ただ、小春の表情に“間違えた”、という焦りはない。

 と、いうことは。

「……知らない」

「だよね」

 小春は眉尻を下げて悲しみを表現しつつ、同時にわかりきっていたかのような諦観を示す。

 どうやらこの回答が正解だったらしい。まさか本番でアドリブを入れてくるとは思わなかった。内心胸を撫で下ろした。

「そう。和樹君は私の誕生日も知らないし、好きな食べ物も、得意な科目も、趣味も知らない。彼女なのに」

「うっせえな、んなもん知らなくてもいいだろ」

「そうだね」

 突き放すような和樹の発言に対して、亜矢は笑顔を浮かべた。

「実際、今まで私たちはそれでやっていけてた。でも……私はもっと知ってほしい。私がどういう人間で、何を考えて、どれだけ貴方を必要としているかを」

 そう言うと小春はおれの腕から手を離し、高橋のほうを向いた。

「高橋さん、これが私の望みです。和樹君に、私のことをもっと知ってほしい」

「わかりました。ありがとうございます。では竹田さんは鈴鹿さんにどうしてほしいですか」

 亜矢の話はもう結構、とでも言わんばかりに高橋がすぐさまおれに聞いてくる。

 それには少し違和感を覚えた。悩みを解決すると謳っている以上、もう少し亜矢の話を聞こうとするとか、せめて今の亜矢の望みに対して一言添えるべきではないだろうか。

 ただ、もしかするとこういうものなのかもしれない。だから高橋の無愛想な点に関してはここでは無視することにした。

 今考えるべきは、和樹が亜矢に望むことだ。

「……俺は……」

 正直、おれが和樹の立場だったら必ず「俺が悪かった。これからはお互いのことをもっと知っていこう」と言うだろう。

 しかし、今のおれは竹田和樹だ。

 彼はどういう人間か。それは昨日の話し合いで決まっている。

「亜矢がこれから、今言ったようなことを言わないでほしいです」

「えっ……?」

 亜矢が顔を強張らせる。

「あ……そっか、わかった。それって、“これからは今みたいなことを言わせないように頑張る”ってことだよね?ね、そうだよね、和樹君?」

「は?アホなこと言うな。そのまんまの意味だ。二度と、“私を知って”とか言うんじゃねえ。ウザいんだよ」

「えっ……なんで、どうして?」

 小春の目に涙が浮かぶ。それを見ていると、罪悪感で胸が引き裂かれそうになる。だけどこれは演技だ。小春だって、本心で傷ついているわけじゃない。

「私、和樹君ともっと仲良くなりたいだけなの、なのに……」

「あんな、鬱陶しいから一回だけ言う。お前は俺の言うことだけ聞いてろ。他のことは考えるな」

「そんな……じゃあ私って何なの……?私、和樹君のことちゃんと好きなのに……」

 俯く小春に対して舌打ちをし、スマホをいじる。これ以上話し合う気はないというサインだ。それを察したのか、小春も閉じた両ひざの上で手を組んで黙った。演技ではあるが、見ているだけでも痛々しい姿だ。

「わかりました。ありがとうございます」

「……?」

 ただ、先ほど同様に高橋の態度は淡々としていた。亜矢に対する同情もなければ、和樹に対する怒りもない。まるで道を走る車を見ているかのような、そんな感情のない視線だった。

 目の前で相談相手が喧嘩しているのに、相談者にあるまじき態度のように感じられる。こちらも本気で相談しているわけではないので怒りなどは湧かないが、さっきから違和感はある。問いただすべきだろうか。いや、案外カウンセリングとはこういうものなのだろうか?

「お待たせしました」

 しかし、そのときタイミングを計ったかのように店員が入ってきた。テーブルにコーヒーカップが2つとオレンジジュースが置かれる。

「ひとまず飲み物を飲んで落ち着きましょう」

「……はあ」

 彼の淡々とし過ぎた態度について聞こうとしたが、タイミングを逃してしまった。とりあえずコーヒーカップを手に取り、中身を飲む。違いがわかる人間ではないので高級かどうかなどはわからないが、コーヒーだな、と思った。

「……」

「鈴鹿さんは飲まれないんですか?」

 小春は目の前に置かれたオレンジジュースのグラスを見つめるだけで、手をつけようとはしない。

「すいません、今はいらないです」

「飲んだほうがいいです。落ち着くと思います」

「でも……」

「……」

 高橋は、難色を示す小春をじっと見つめ続ける。飲むまで先に進まない、ということか。

「……わかりました」

 諦めて頷くと、小春もオレンジジュースのグラスを口につけた。

「今話を聞いてお二人には話し合いが必要だと思いました」

 小春がジュースを飲んだのを見て、高橋は切り出した。

「……確かに、私もその通りだと思います。けど……」

 小春は憂いを帯びた目でちらりとこちらを見る。なるほど、話し合いはしたいが和樹がそれを承諾するはずがない、ということか。

「別に、そんなのいらないでしょう。今のままで十分です」

 おれは一貫して亜矢を支配したいだけの和樹を演じる。

「必要です。お二人は対話ができていない。対話ができていないからすれ違いが生じています」

「……その通りだと思います」

「……ちっ」

 高橋に賛同した小春に対して舌打ちをする。それを聞いて小春は首をすくめた。

「か、和樹君、お願い……話し合おうよ」

「するわけねえだろ」

「きょ、今日がダメなら、また違う日で……」

「しねえよ。この“カウンセリング”にももう来ねえ」

「そんな……」

 小春は肩を落とす。

 わかっていたことではあるが、演技でも彼女を傷つけ続けるのは堪えた。メンタルが削られたせいか、少しだるくなってきた。正直もうやめてしまいたい。

「竹田さんは今後は来られないということですか」

 高橋が聞いてくる。

「……え?何ですって?」

「竹田さんは今後は来られないということですか」

「ああ……はい。そのつもりですけど」

 うっかりして高橋の言ったことを聞き逃しそうになった。何だか頭も重い。ふらふらしてきただけでなく、思考が回らない。まずい、ちゃんと演技しないと。

「そうですか。では問題は今日のうちに解決しましょう。わたしたちは施せつをもっています。あなたのような人たちがたくさんいます。そこでおふたりにはなっとくできるまではなしあってもらいます」

「……は?」

 なんだ?今なんて言った?

 高橋が“今日のうちに解決しましょう”と言ったあたりからうまく理解できなくなった。何かを言っていたのはわかるし、音は聞き取れた。しかし意味が全く把握できなかった。

 目が開かなくなり、視界が白くぼやけ始める。意識がもうろうとしてくる。これは、眠気……?

 そのとき、コーヒーカップが移った。先ほど少し飲んだため、運ばれたときよりも量が減っている。

 まさか、この中に何か入っていた?

 ということは、さっきオレンジジュースを飲んだ小春も……。

「カイト!!」

「っ!?」

 突然耳元で叫ばれ、意識が戻る。

「こ、小春?」

 しまった、今は鈴鹿亜矢だ。と思ったが、隣にいた小春は立ち上がり、明らかに鈴鹿亜矢とは異なる態度で高橋を睨みつけていた。

「……睡眠薬だな?」

「……」

「答えろ、高橋!!」

 怒りを露わにする小春。対して高橋は座ったまま眉毛一つ動かさない。

「沈黙は肯定……ということだね?」

「……」

「“悩みを解決する”とか言って、ボク達を眠らせて施設とやらに連れていく気だったんだ。そうだな?」

「……」

「六年前から増えている未成年の行方不明者も、お前達の仕業なのか?」

「……」

 相変わらず高橋は口を一切開かない。やはりそれは肯定を表すのか。

 ということは、六年前から増えた未成年の行方不明事件は“悩みを解決するアカウント”によるものだったのか?

 そんな馬鹿な。可能性は否定できないとは言え、“悩みを解決するアカウント”はあくまで都市伝説であり、それを伊谷市の行方不明者数と小春がくっつけたに過ぎない。

 しかしこの状況。悩みを相談しにきた者に睡眠薬を飲ませたこの状況は、単なるお話でしかなかった都市伝説が真実だと告げているようなものじゃないか。

「入ってきてください」

 高橋は小春の質問には答えず、ぽつりと一言呟く。

「……なっ!?」

 すると個室のドアが開き、店員と客と思しき女性二人が入ってきた。

「まさかこの店の全員がグルなのか!?」

「カイト、目と口を閉じて!」

 小春の手に黒いスプレー缶が握られていた。それが何かを瞬間的に思い出す。すぐさま目を閉じ、口を袖で覆う。

「……うっ!」

 シュー、と缶の中身が噴き出し、一瞬のうめき声のあとに激しくむせる声が上がった。彼女の持っていた催涙スプレーが命中したのだ。

「カイト、行くよ!」

 小春の声に合わせて目を開け、立ち上がろうとする。

「ぐっ!」

 しかし、体に力が入らない。膝が抜けたように、机に崩れ落ちてしまう。睡眠薬の効果が予想以上に強い。

「カイト!」

 小春に手を引っ張られるが立ち上がれない。脳と体の接続が切られてしまったかのように動かない。

「わ、悪い、体が……」

「わかった、肩貸す!ちょっとだけ頑張って!」

 小春がおれの右脇に首を挟むようにして、肩を貸してくれる。机に手をつき、何とか立ち上がる。

 しかし個室の、しかも奥側の席に座っていたことが災いした。“アカウント”側の者達がドア付近に集まってしまっている。催涙スプレーを食らってうずくまっているから危険度は低いが、睡眠薬を飲んだ今のおれでは乗り越えられない。

「えっ!?」

 しかも、アカウント側のうちの一人、女性の店員が起き上がろうとしていた。小春の話では一時間はまともに動けなくなるはずなのに。

「くそっ、ちゃんと当たらなかったのか……!?」

 小春と共に後ずさる。しかし個室は狭く、すぐ背中に壁が当たる。

「……」

 ゆらりと起き上がる店員。目は真っ赤に充血し、涙をこぼしながらじり、じり、と近づいてくる。

「小春、催涙スプレーは!?」

「さっき使ったので最後だよ!」

 小春が視線で床を示す。そこには黒いスプレー缶が転がっていた。

 万事休すだ。このままでは捕らえられ、彼らの言う“施設”に小春ともども連れ去られてしまう。この状況を打破する画期的なアイデア……なんてものはない。

 唯一の攻撃手段はなくなり、おれは睡眠薬でまともに動くことさえできないお荷物だ。

「な、なんだ、やめろ……!」

 近づいてきた店員が、おれの首めがけて手を伸ばす。その表情があまりにも無機質で、却ってそれが恐怖を駆り立てる。

 店員の手が触れそうになる、その時だった。

「咲ねえ!!」

 隣にいた小春が、そう叫んだ。

「動くな!」

 すると、ドアにいた高橋たちを飛び越え、背の高い女性が個室に入ってきた。彼女は流れるような動きでおれに近づいてきた店員を組み伏せた。

「あ、貴方は……」

 スーツ姿で黒髪をうなじの辺りで留めたその女性には見覚えがあった。

 深夜、おれと小春が調査から帰るときに出会った警察官、信濃だ。

「午後零時四十七分、誘拐未遂の現行犯で逮捕する」

 信濃は店員に手錠をかけ、腕時計を確認してそう言った。

「そこにうずくまってる二人もパトカーに乗って署まで来ること。いいな?」

 信濃がドア付近にいた高橋と客らしき男性に声をかける。二人は丸まったまま動かないが、耳は聞こえているだろう。

「……助かったよ、咲……信濃さん」

 小春の例に対し、信濃は満面の笑みで応えた。

「小春ちゃん、礼ならいい。貴方を支えることが私の役目だから」

「……そうだね」

 小春は笑ったようにも困ったようにも見える、曖昧な表情をした。

「……小春、どういうことなんだ?」

「今日、高橋の車で“最悪の場合の手は考えてる”って言ったの覚えてる?」

「ああ、ココアで」

「その“手”っていうのが彼女さ。囮にさせられたんだから、多少はこっちの言うことも聞いてもらわないと。演技の邪魔になるとよくないから、キミには話してなかったんだ」

「そういうことか……」

 店員以外の二人に手錠をかけ、どこかに連絡を取っている信濃を見る。

「とりあえず署の方に連絡は取れた。一応、二人にも来てもらうから」

「了解。お勤めご苦労様」

「うん」

 信濃は満ち足りたような表情で小春に向かって頷いた。

「……」

かと思ったら、小動物なら殺せるような視線をこちらに向けてきた。理由は定かではないが、相変わらずいい印象を持たれていないらしい。

「さて、とりあえず警察の応援が来てくれるのを待とうか」

「ああ、そう、だ、な……」

「っ、カイト!」

 と、そこで緊張の糸が切れたのか、肩で支えてもらっていたにも関わらず立っていられなくなった。そのまま床に倒れこむ。

「カイト!カイト……」

 小春の声がだんだん遠くなる、と感じたのが最後だった。

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