第八話:押し入れの中
芦引家の風呂を借り、久々に湯船に浸かった。普段はシャワーのみで済ませていたので、体の疲れはよく取れたような気がした。
風呂から脱衣所に出ると、洗濯機の上にスウェットが置いてあった。ホテルみたくサービスが行き届いている。
着替えて、持ってきていた歯ブラシで歯を磨く。
思えば、友人の家に泊まるなんて何年ぶりだろう。小学校の頃は野球やらその他もろもろの習い事で忙しかったから、そんな暇は少しもなかった。そういえば、宿泊するという行為自体、中学校の修学旅行以来だ。あの時はクラスの男子全員が大部屋に入れられた。あれは最悪だった。いじめられていたわけではないが、基本的にクラスメイトからは避けられていた。だからみんなが楽しそうに話をしていたり、控えめに枕投げをしているのを寝たふりしてやり過ごすしかなかった。嫌な思い出だ。
こういう記憶や感情をなくすことが出来たら、意外と楽に生きられるのかもしれない。人生には辛いイベントが多すぎる。
そう考えると、“悩みを解決するアカウント”に相談する人がいることも頷けた。別に彼らは悩みを消してしまうわけではないだろうが、“解決する”と言われれば縋りたくなるのも人の心だろう。
今解決したい問題と言えば……小春の下着姿を見たことだろうか。
”何をされても文句はないね?”と言っていたが、一体おれは何をされるのだろう。金を強請られたりするのだろうか。しかし先ほどダイニングで会ったときは全くもっていつも通りだった。それに、小春が何かの代償に金銭を要求するとは思えない。
「……」
何か逆に怖くなってきた。もしかすると金なんかよりも恐ろしい責め苦が待っているのかもしれない。
それに、問題はそれだけではない。先ほど、小春がおれと一緒に寝ようとしていたことが判明した。夏花さんの話を踏まえると性的な意味ではなく単に添い寝をしたいくらいの意味だろうが、だからってオールOKというわけではない。Hカップの女子と一夜を共にするというシチュエーション、想像するだけで落ち着かない。
いっそのことこのまま帰ってしまいたくなるが、それこそ問題をややこしくするだけか。目を逸らすのは良くない。問題と向き合う機会を閉じ込めることになるからだ。瞬間的に見れば楽かもしれないが、常にじわじわと首を絞められるような不快感に身を侵されることになってしまう。
まあ、たかが一緒に寝るか寝ないかの話で大げさかもしれないが。
問題は他にもある。いや、むしろこちらのほうが重要だ。
夏花さんの言っていた、“必ずしもハッピーエンドではない”こと。
正直、風呂に入っている間はその言葉が頭から離れなかった。夏花さんはおれたちの関係が崩壊すると断言していたわけではなかったし、彼女自身が言っていた通り思い過ごしの可能性だってある。しかし、その日が明日だったら?一週間後は?一か月後は?小春と仲たがいすることを想像しては、焦りとも、恐怖とも言える何かが全身を傷つけていった。
だから、体の疲れは取れた感じがするものの、風呂に入ってもリラックスできなかった。
歯を磨き終わり、脱衣所から出た。
「失礼しまーす……」
小春の部屋の襖を開けて、そっと中へ。
「あれ?」
部屋の中は暗く、豆電球が線香花火みたいにポツンと点いているだけだった。
「くー……くー……」
静かな呼吸音が足元からする。
「寝てるのか……」
わずかな明かりの中で目を凝らすと、並べた敷布団にまたがるように小春が寝ていた。しかも、形が潰れるほど強く枕を抱いている。当然もう一つの枕は彼女の頭の下だ。
……あれ、おれの場所は?
二人分敷け、と言われたからそうしたのに、これでは寝られない。
どうしたものかと思っていた時、押し入れにもう一セット布団があったことを思い出す。
足元に転がる小春を踏まないようにして、押し入れまでたどり着く。開けると、下の段にまだ布団が一人分残っていた。
しかし問題は残っている。シンプルかつ最大の難関だ。この部屋に新たに布団を敷くスペースが無い。現状、ブロックを積むゲームのように家具と布団が配置されている。全消しでボーナスがもらえそうなほどだ。
さて、どうしたものか。
まず一つ、小春と一緒に寝る。
うん、やめておこう。
下着姿を見られても怒らなかったが、自分が寝ている間に男が隣で寝ているなどさすがに言語道断だろう。彼女とのコンビを解消する原因になりかねない。このままダブルサイズの布団で寝ていてもらおう。
次に二つ目。布団を持ち出し、廊下や他の部屋で寝る。
これはかなり現実的だ。
雨風さえしのげりゃ大抵の場所では眠れるものだ。畳よりは堅いだろうが、廊下でも十分だ。この時期は気温も悪くない。
ただ、もし小春の両親に見られたら面倒だ。たまたま借りた部屋が、誰かの秘密を隠した場所のことだってある。廊下で寝ているのを見られたら、変人扱いされるか、何か小春と喧嘩でもしたのかと勘繰られそうだ。それに、友人を追い出した、と誤解されたら小春も親に怒られるかもしれない。これも却下。
というわけで三つ目の案。押し入れで寝る。
色々考えるとこれが一番楽そうだ。
押し入れの上の段には小春の私物が置いてあるが、下の段は布団以外なかった。元々収納されていた布団三セットのうち二つは小春が使っている。もう一つは今おれの目の前にある。ちょうどこれを広げられるくらいのスペースは押し入れにある。
明日起きた小春に“そんなことしても二十二世紀には行けないよ”とか言われそうだが、まあ許容範囲だろう。少なくとも一緒に寝るよりはましだ。既に、寝るときに下着は着けているのか、とかわけのわからないことを考え始めている。事案を引き起こす前に、物理的に自分を隔離してしまいたい。
そう思い、押し入れの中に布団を敷こうとした時だった。
「いってぇ!」
がつっ、と確かな手ごたえがして、小指に電撃が走った。思い切り柱にぶつけてしまった。思わずその場でうずくまる。足元がお留守だった。
「くー……ん、んんー……」
背後ですやすやと立っていた寝息が止まり、ごそごそと衣擦れの音が聞こえる。
「……あれ、カイト……何してるんだい、そんなとこで」
振り返ると、小春が寝転がって枕を抱いたまま、こちらを窺っていた。
「ああ……いや、たまには押し入れで寝ようかと」
「んぅ……そんなことしても二十二世紀には行けないよ……」
目をこすりながらそんな事を言う小春。想像していた通りの内容だった為、つい吹き出しそうになった。
「ほら、あれだよ。おれの実家押し入れ無かったからさ、ちょっと憧れなんだよ」
「何言ってるかわからないよ……」
それもそうだろう。おれだって何を言っているのかわからない。
「……というかボク、いつの間に寝ちゃってたんだろ……カイト待ってたはずなのにな」
小春は大きくあくびをした。
「別に待つ必要なかったのに。そのまま寝てていいよ。おれはこっちで寝るし」
「えぇっ、本気で押し入れで?」
「そのつもりだよ。一緒に寝るわけにもいかないだろ……じゃ、おやすみ」
「ん、うー……」
眠そうな小春に手を振り、そそくさと押し入れに布団を敷き、中に入った。
当然ながら、押し入れの中は真っ暗だった。先日、掃除用具入れにすし詰めになったことを思い出す。我ながらよく耐えたものだ。いまだに小春の匂いと体の柔らかさが感覚に残っている。あれを経験したからか、押し入れは非常に快適だ。案外ぐっすりと眠れるかもしれない。
何はともあれ、とりあえず寝よう。
また明日も調査だ。変に疲れを残してはなるまい。
掛け布団にくるまり、目を閉じる。すっと体の力が抜け、意識は深い海の底へ……
がらっ!
「え、何!?」
「……」
おれの足元側のふすまが開いている。膝をついて小春がじっとこちらを見ていた。
「小春?どうした?」
「……ボクも一緒に寝る」
「は?」
おれの思考が追い付かない内に、小春は押し入れに入ってきた。
「いやちょっと待て、狭いだろ」
「いい」
よくない!と言う隙も無く、小春は押し入れを閉めた。
まずい、暗い。何も見えない。
ただ、足先の方でごそごそと蠢いていることだけがわかる。
「う、うおぉ!?何やってんだよ!」
掛け布団の中に入り込んできた。両足の間からもぞもぞとこちらに向かってくる。
「へぅっ」
モグラのように進んでくる小春の手が、股間を直撃した。おれ史上ワーストスリーに入るみっともない声を出してしまった。しかし許してほしい。視覚が使い物にならないせいで、触覚が敏感になっているのだ。
「……何だい今の、変な声」
「誰のせいだ、誰の」
「……キミのせい」
小春は少し拗ねたように言う。
「なんで押し入れなんかで寝るんだよ。ボクは今日、キミと寝たかったのに」
「ふぁっ」
またしてもワーストスリーに入る声が出た。股間のやや上を、人間の体とは思えないほど柔らかく、それでいて質量のある何かがこすっていく。それがゆっくりと上ってくる。腹から胸へ。
「あ、いた」
手の平がおれの頬に触れた。そこから探るように、腕がおれの首に回される。
「はぁ~……やっぱりカイトは落ち着く……」
あろうことか、小春はおれに乗るように抱き着いてきた。
「お、おいおい、何やってるかは知らんけど、とりあえず下りてくれないか」
「嫌だ」
首の後ろにあった手がおれの頬を掴み、ぎゅっと横に引っ張る。
「いて、いててて、何してるんだ」
「キミに裸見られたとき、“何をされても文句はないね?″って言ったじゃないか」
「それはそうだけどさ」
「あと明日の練習してる時、慰謝料払ってもらう、とも言った」
「けどいくら何でもこれはないだろ」
「これしかないよ」
小春は再び、おれにぎゅっと抱き着いた。
「だって、こうしたくて、キミを家に呼んだんだもの」
そう言われ、どくん、と心臓が大きく鳴った。
「あ、今ドキッてした」
「……しょうがないだろ」
「えへへ……」
小春の顔がおれの胸に埋められる。すー、すー、という彼女の熱い吐息を感じる。
「カイトだぁ……カイト……」
「あの、くすぐったいです」
「嫌かい?」
「別に嫌じゃないけど……」
「じゃあもうちょっと」
そう言って顔をおれの胸に埋め続ける。
「カイトはいつも、ボクが言ったことに応えてくれる。キミはボクにとって本当にかけがえのない相棒だ」
「……おれも、小春は大切だって思ってるよ」
「ありがと。……でもキミがいない時、怖くなるんだ」
小春がぎゅっとおれと密着する。
「怖い?」
「……うん。今ボクは夢を見ていて、いつか覚めて全部なくなってしまうんじゃないかとか、キミはボクが作り出した妄想なんじゃないかとか、キミは本当はボクのこと嫌いなんじゃないかとか……」
沼から溢れる瘴気のように、小春は自分の不安を吐露する。彼女はぎゅうぎゅうと自分の体をおれに押し付ける。僅かばかりの隙間もなくそうとする。
「誰だっけ、キミの席の前の女子。あの人言ってたでしょ、“あんな子といて何が楽しいの”って」
ホームルームでの田波か。確かにあいつ、何も知らないくせにそんなことを言っていた。
「ふとしたときにその言葉を思い出すと、止まらなくなるんだ。それにさっき、夢を見たんだ。ある日“もうついていけない”って言って、ボクの前からカイトがいなくなる夢。ボクがどれだけ泣いて説得しても、キミは聞いてくれない。教室で独りぼっちのボクを見て“消えろ”って言って、ずっと田波と喋ってて、ボクは暗闇の中に飲み込まれていく。そんな、そんな夢ばかり!嫌だよ、ボク一人になりたくないよ。隣にいる代わりに何かしろって言うならボク何だってやるよ」
「小春」
「だからお願い、ボクの傍から離れないで」
「小春」
彼女の震える体を、彼女に負けないくらい強く抱きしめた。
「おれは夢の中のキャラクターでも、妄想でもない。ましてや、小春のことが嫌いだなんて少しも思ってない。それに、小春はおれにとって、一緒にいて誰よりも楽しいと思える存在だよ」
「……ホントだよね?嘘じゃないよね?」
「ああ。おれが小春から離れるなんてことはきっとないよ」
「きっとじゃダメ……誓って。ボクも誓う。芦引小春はずっと木瀬開人の傍にいる」
「わかった。木瀬開人も、ずっと芦引小春の傍にいる」
「うん。ボク達は、ずっと相棒だよ」
そう言うと、おれの首に回していた小春の腕が緩み、力の抜けた体が布団の上に落ちていく。そして彼女は深く、静かに呼吸し始めた。不安がなくなったことで、ふっとリラックスできたのかもしれない。
それはおれも同じで、意識がゆっくりと沈んでいくのを感じた。
小春が隣にいると、満たされた気分で眠ることができた。
大丈夫。おれ達に、悪い結末は訪れない。
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