第五話:温かな食卓
「……まさか、ここに来るとは思わなかったなあ」
そして放課後。普段通り最終下校の八時まで部室にこもってから、小春と共に学校を出た。
まず向かった先はおれの家。そこで言われるがままに着替えや洗面用具をリュックサックに詰め込んだ。
そして小春の自転車に乗せられ、向かった先は住宅街。その中でも周囲とは違って和風の家。塀や柱に何も色が付けられておらず、素材である木がどこか温かな印象を抱かせる。屋根の瓦も、昔の屋敷に使われていそうで趣がある。
そして表札には“芦引”とあった。
「おや、今日はしっかり準備すると言っただろう?最終下校の八時までで時間が足りるわけがないのだよ」
「つっても、今日いきなり小春の家に泊まるのはさすがに予想外だ」
「ま、前回泊まれなかったからカイトの家でもよかったんだけど、母さんが是非にってね」
「そうなのか……」
小春の母、夏花さんを思い出す。物腰穏やかだが、時たま冷静さを覗かせる独特な人だった。
にしても、こんなにも堂々と女子の家に入って大丈夫なのだろうか。
いくら同じ部活に所属しているとはいえ、おれは男である。もう結構夜も遅いのに、娘が同級生の異性を連れてきたとなっては家族的には戸惑うんじゃないだろうか。いかがわしいことをするつもりはない。だが小春の家族だ。おれの表情から邪な考えを察知してくるかもしれない。より一層気を引き締めなくては。
「……そういえばさ、カイト。あの時は来てくれてありがとうね」
ふと、小春が遠い目をする。
「あの時……ああ、一か月前の」
「せっかくキミみたいな子と仲良くなれたのに、ボクまたやっちゃったって……本気でもうキミには会わす顔がないと思ってたんだ。けどキミの方から来てくれて、受け入れてくれて……感謝してもしきれない」
「お、おう」
急に改まって言われると照れてしまう。変なところに気を張っていた自分が恥ずかしくなる。
けどそう言ってくれると素直に嬉しい。こんなおれでも彼女の役に立てているのだ、と思える。
「できる限りのことはするよ。何せ相棒だからな」
「……うむ!しっかりとボクのことを助けたまえ!」
胸に手を当て、にかっと歯を見せた。
「さて、そろそろ入ろうか」
「そうだな。お母さんにも、改めてちゃんと挨拶しないと」
「おや、殊勝な心掛けだね」
「そりゃな。だって娘が学校帰りのこんな遅い時間に男友達を連れてくるんだ、母親からすりゃ何かしら警戒するだろ」
「そうでもないよ。ほら」
小春が玄関の引き戸を指さす。ガラスの部分から明かりが漏れている。
「えっ!?」
そこに何やら不穏な影を見つけて、思わず飛びのく。静かな住宅街に、おれの声が滑稽に響いた。
影は引き戸の新聞受けから目をのぞかせ、おれと小春の方をガン見していた。
「あれは……」
「母さん」
「え、小春のお母さん!?」
「あっ、バレちゃった」
家の中から女性の声が聞こえ、新聞受けがぱたんと閉じる。そして今度はがらりと引き戸が開けられた。
そこにいたのは、瞳の大きい細目が印象的で、娘と似た体格の女性。芦引夏花だった。
「母さん……今時ドラマでもないよ、あんな覗き方」
「えー、でも、娘の大好きな人を見定めるのも母親の務めじゃない?」
「あのね母さん、別にボク、カイトのことが好きだとは一言も言ってないし!」
「そうなの?まあいいけどー?」
口元を隠して含み笑いをする夏花さん。その様子を見るに、おれと小春の関係を多少勘違いしているように見える
これが鬱陶しいクラスメイトだったら何かしら反論しているところだったが、小春の母親だったらまあいいだろう。
「お久しぶりです」
「あら、木瀬君こんばんは。いつも小春ちゃんがお世話になってます」
ゆったりと頭を下げる夏花さん。おれもつられて会釈する。一か月前に会ったときは違い、少し茶目っ気が感じられる。小春の様子を見ても、普段はこんな感じのようだ。
「さあさ、とりあえず入って。木瀬君の分もご飯あるよ」
「え、そうなんですか、わざわざそんな……」
「いいのいいの、食べてって食べてって」
白いエプロン姿にサンダルをつっかけた夏花さんがやってきて、おれの背中をぐいぐいと押す。
「あ、えーと、おじゃましまーす……」
「どうぞどうぞ」
押されるまま芦引家に上がり、板張りの廊下を進む。見るに、上等そうな木が使われているようだ。うっすらと漂う木の香りが心を穏やかにしてくれる。
「カイトは普段晩御飯は一人なんだろう?せっかくだし共に食べようじゃないか」
先を歩いていた小春が引き戸を開けると、ダイニングルームにつながっていた。キッチンのカウンターに接するように置かれたテーブルに、四人分の食事があった。今日の献立はカレーライスらしい。そしてテーブルには、既に一人の男性がついていた。四、五十代くらいだろうか。黒色の髪を後ろになでつけ、体格は細くもなく太くもない。全体的に清潔で整った印象がある。
「あ、父さん!」
「お帰り、小春」
彼はにっこりと柔和な笑みを小春に向ける。そして、静かにおれを見た。
「初めまして。キミが木瀬開人君だね?」
「あ、はい、初めまして」
「私は小春の父、芦引大秋だ。会えて嬉しいよ」
大秋さんが徐に差し出した右手を両手で取る。話し方は堂々としているが、仕草や表情に威圧的なところは見られない。彼が紳士であることがわかる。
「父さん、今日は早かったんだね!」
「ああ」
対面に座った娘と父親が笑顔を交し合う。その光景は、とても尊いものに見えた。うらやましささえ感じるほどだ。
「小春は部活か。六年前からのあの件を?」
「うん」
大秋さんはわざとぼかしたように言った。夏花さんの手前、行方不明者の件を調べているとは言いづらいのだろう。
「ほら、カイトも座りたまえ!ボクの隣ね!」
「お、おぉ……」
小春の隣の席に着く。それを見て夏花さんは空いた席、おれの対面に座る。
「ふふ、じゃあいただきましょうか」
夏花さんがにこやかな表情を浮かべる。笑うと母親と娘はそっくりだった。邪気の無い心からの笑い。一緒にいるとこっちも笑顔になる。
「いただきます!」
「いただきます」
「い、いただきます」
「召し上がれ」
食事の挨拶をして、スプーンでカレーライスを口に運ぶ。
……美味しい。
こんなにも味がある晩御飯はいつぶりだろう。
普段食べているものにも当然味はあるけれど、何と言うか、今食べているカレーはそれ以上に美味しかった。空腹だけでなく、心までもが満たされていくように感じる。
小春もスプーンを持ち、美味しそうにカレーにぱくついていた。自然と頬が緩んでいる。
そして、おれと小春、大秋さんを見る夏花さんも、とても柔らかい笑みを浮かべていた。その表情は小春とは似ていないけれど、見守る者の温かさでいっぱいだった。
ふと視線を感じ、小春の方を向く。彼女はおれを見て、笑った。
「美味しいね」
彼女にしてみれば何気ない一言だっただろう。でもその言葉が、おれの心に届いた。
何年ぶりだろう、こんな風に誰かと食卓を囲むのは。
幼い頃、その時も家族の団欒なんてあってないようなものだったが、それでも両親と、おれと、妹と食事を共にすることはまれにあった。けどいつからか、おれは一人で食べるようになった。親から受ける視線の痛さに耐えられなかった。物心ついた頃から感じていた、“優れた人間になれ”という呪縛。そのプレッシャーに気付き、あきらめた時から、おれは家族の輪から弾き出されたのだ。
でもこの家族は違った。
おれのようなよそ者がいるのに温かさで満ちていた。
「……うん、美味しい」
そのときおれはどんな表情をしていただろう。小春はこちらを見て少し目を丸くし、すぐまた彼女らしく朗らかに笑った。
「……あれ、お母さんは食べないんですか」
ふと目を向けると、正面に座る夏花さんが自分の食事には手を付けず、両肘で頬杖をついておれと小春をじっと見ていた。
「食べるよ。でも、もう少しだけ見てようかな。二人ともとっても美味しそうに食べるから、つい」
「そ、そうですか……」
思わず小春と顔を見合わせる。おれも彼女も、そんなに楽しそうな顔をしていただろうか。
けど、その通りかもしれない。
小春も同じことを考えていたようで、二人で笑みを交し合ったのだった。
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