第二部:キミだけは、失いたくないから

第一話:すし詰め

 まずはっきりしているのは、匂い。

 リンゴとブドウを混ぜたような独特の甘い匂いが、頭の奥まで埋め尽くしてくるような感覚。

 そして互いの息遣い。狭く静かな空間の中、おれと彼女の小さな呼吸音だけが響く。反射する音は、どれが自分のもので、どれが彼女のものかをあいまいにする。

 最後に、体。背中を密着させたこの空間の中では、少し身じろぎするだけでそれが相手に伝わってしまう。真っ暗な中にいるので、なおさらだ。その程度のことを気にする間柄ではないが、気恥ずかしくて自然と体が固まってしまう。

「んっ……」

 おれと背中を合わせる芦引小春あしびきこはるが、狭そうに身をよじる。

「……っ」

 相手の姿は見えず、幅が五十センチもないこの空間では、互いの動きに敏感になる。

「……小春、急に動かないでくれ、びっくりするから」

 小声で諭す。振り向くこともできないので、体勢的には目の前の、金属の壁相手に話すような格好になっている。

「そうは言っても狭いんだよ、キミと違ってボクはおっぱいが幅を取ってるから!だからあれほど正面で抱き合うほうがいいじゃんって言っただろう!」

 ささやき声だが、感情を露わにした声音で話す小春。

「んなことできるわけないだろ!」

「なんだい!ボクのおっぱいが揉めないって言うのかい!ボクはキミのちんちんくらい、タマごと余裕で握れるぞ!」

「んーな話はしてねえ!」

 当然ながら、そんなことを承諾できるわけがない。大体、背中合わせの今ですら小春の尻とおれの尻を擦り合わせているような格好で、なんだか変な気分なのだ。正面から抱き合うような日には、出してしまってもおかしくない。

「そもそも、なんで掃除用のロッカーなんだよ!トイレとか、他に隠れる場所は山ほどあるだろ!」

「それはここに入る前に説明したじゃないか!とにかく、今が……えーっと、十一時二十分だから、あと四十分我慢!」

「死にそうだ……」

 おれは今年で十六歳。まだまだ若輩者とは言え、これまでの人生で酸いも甘いも様々なことを経験してきた。

 だがしかし、予測できるはずもなかった。

 女の子と二人、掃除用のロッカーに四時間こもることになるなど。

 ――三時間ほど前の記憶がよみがえる。

 放課後、オカルト研究部に所属するおれと小春は部室で膝を突き合わせていた。

「今日は『夜に学校に忍び込んで行方不明になった生徒がいる』の調査をしようと思う」

 オカルト研究部の活動は都市伝説のような謎に挑むことだ。おれがここに入部してからかれこれ一か月になるが、毎日の活動は大抵部長である芦引小春の一声で決まる。

 そして今彼女が言った『夜に学校に忍び込んで行方不明になった生徒がいる』は、我々が通っているこの伊谷高校の七不思議の一つだ。

 小春の話によれば、深夜肝試しか何かで忍び込んだ生徒数名がそろって翌日から行方不明になった、という話らしい。いかにも都市伝説という感じの内容だ。

 と、調査対象のことを聞くまではまともだった。

 問題は、そのあとすぐの小春の発言から始まった。

「さて、じゃあ先生たちから隠れる場所を探さないとね」

「……え?」

 思わず、聞き返す。

「先生から隠れる場所って……普通に今から最終下校まで、学校の中をうろうろするだけじゃだめなのか?」

「ダメに決まってるだろう!いいかいカイト君!ボクたちはそんじょそこらのお遊び探偵団とは違うのだ!最終下校なんて生ぬるい考えは捨てたまえ!」

「いや、普通にルールなんだけどな」

「ルールは謎の前に無力!」

 立ち上がり、力強く拳を握る。言ってることがまともなら、選挙演説のように見えたかもしれない。選挙演説がまともか否かはともかく。

「作戦はこうだ。最終下校の八時から明日の零時まで、先生に見つからないよう隠れてやり過ごす。そして誰もいない校舎内で謎の痕跡を探す!」

「まじか」

 いくら何でもと思ったが、こと謎に関しては常にこちらの予想の斜め上を行く小春だ。これくらいは日常茶飯事とも言える。

 ばれたら絶対面倒なことになりそうだが、まあ付き合うだけ付き合ってやろう。

 おれは都市伝説そのものに強い興味があるわけではない。しかし都市伝説がなぜ人を引き付けるのか。都市伝説は一体何を持っているのか。それには興味がある。今はまだ「ただ面白いから」以外の何かは見つけられていない。しかし小春と一緒にいれば、それがわかるのかもしれない。

 だからまあ、今回のように学校に潜伏するような突拍子もないことでも乗ることにしている。

 というか、おれが賛同しなかったとしてもおそらく小春は一人で勝手にやる。そうなると彼女は暴走して何をしでかすかわからないので、のちの面倒を避けるためにお守りをしておく必要がある。

「……で、具体的にはどういう場所がいいんだ?」

「そうだねえ。やはり、ボクたちの姿を隠せるというのは基本かな。加えて“人目につかない”、“カギを掛けられる”、こういう要素があればベストだ」

「一番に思いつくのはトイレか。個室ならカギもかけられる」

 妥当な案ではないかと思ったが、小春は難色を示した。

「いや、それは先生も思いつくところだろう。夜の見回りで、各階のトイレはきっちり確認するはずだ。急場しのぎにはなるかもしれないけど、長くいれば必ず見つかる」

「んー、じゃあどこだ?体育倉庫?」

「人目を隠すっていう意味では最適だけど、バレー部とかバドミントン部の出入りがあるしねえ」

「簡単そうで難しいな」

「個人的にはカギの管理ができるこの部室が一番楽なんだけど、外からだと微妙に見えるからなあ」

 小春が部室のドアを見やる。ドアの窓には“オカルト研究部”と書かれた紙の看板が貼ってあるが、廊下に面した窓は特に何も手が施されていない。すりガラスにはなっているものの、部屋の中に人がいれば気づかれるかもしれない。

 机の下は二人隠しきるには天板の大きさが足りないし、棚もかくれんぼには向かない。

「なんか上手いこと二人一緒に隠れられる場所……あ」

 小春は掃除用具入れのロッカーに目を向けた。

 ――そして、かれこれ三時間以上すし詰めになっている。

 伊谷には柿の葉寿司という、すしを柿の葉で巻いた名産品がある。なぜいきなり柿の葉寿司なのかというと、あれは売られるとき隙間がないくらいぎゅうぎゅうに詰められるのだ。本当にノミすら通さないレベルなので、一つ取り出すのも苦労する。

 とにかく、それくらいおれと小春は密着している。

「……なあ、そろそろ十二時なんじゃないか?」

「まだ十一時二十五分だよ」

「嘘だろ……体感で一時間経ったぞ」

「いくら何でもそれは言い過ぎだ……あ。そういえば、こんな話があるよ……」

 小春が身を捩る。おれの太ももを彼女の手が下から上へ撫で上げる。一瞬何かされるのかと身構えたが、どうやら彼女の癖の、上に人差し指を向ける仕草をしようとしたらしい。

「人は光も音も遮断されると、3日と持たないそうだ。幻覚が生じたりするらしい」

「なぜその話を今ここでする……」

 ここから出たときにまともでいられるか不安になってくる。

「話は最後まで聞きたまえ。その実験は感覚を遮断された場合の話だ……つまり、こうして会話をし、お互いの背中を感じている限り、心が壊れることはないとボクは思う……」

「ああ、なんかいける気がしてきたような……してこないような……」

 ただ、壊れることはないにしても疲弊はする。人間とは弱いもので、余裕があるときは倫理的・道徳的に振舞えるが、そうでなくなると途端に心のブレーキが利かなくなってくる。

 今おれは目の前のロッカーの側板に、肩の高さくらいで手のひらをぺたりと付けている。だがふとした折に、この手を下げて小春の尻に触れたいという欲求が湧く。たぷたぷととろけそうなほど柔らかいのか、あるいは引き締まって弾力があるのか。彼女のアクティブさから考えると、おそらく後者だろうと思う。

「……そ、そういえばさ」

 と、頭が欲に支配されそうになったところで口を開く。何か喋って気を紛らわせなければ。

「なんだい?」

「小春って何カップ?」

 何を聞いてるんだおれは!?

 確かに話題は何でもよかったけどさ、これはなくない!?

 失態を呪う。自らを支配する情欲の力を侮っていた。まさか咄嗟に出てくる話題がカップ数だとは思わなかった。

「あ、わ、悪い、疲れて変なこと……」

「H」

「うん、反省してる、許してくれ……」

「だからH」

「わかってる、おれが変態だって言いたいんだろ?本当に申し訳ないことを……」

「違う違う、ボクのおっぱいでしょ?Hカップだけど?」

「……え?」

 H!?

 Hカップ!?

 トップとアンダーの差が二十七.五センチの、Hカップ!?

「ほえー……」

 驚きすぎて、変な声を出してしまった。

 さて。とすると、今おれはHカップの女の子と背中合わせに立っていることになる。この五十センチ四方の面積の中に、Hカップがいる。

「……」

 何だろう、いきなりドキドキしてきた。

 聞かなければよかった。いや、明らかにテンションは上がっているが、こんな時に聞くべきではなかった。

 欲を紛らわせるための会話で、逆に欲を揺り起こしてしまった。

 ロッカー内に満ちた彼女の匂いや、合わせている尻の感触をやけに官能的に感じる。自分の顔に両手の爪を立て、それらから無理やり意識を逸らす。

「……ごめん」

「うん?なんかよくわからないけど、別にボク怒ってないよ?」

「ああ、うん……ありがとう」

 苦笑いしかできなかった。

 正直、もう少し怒るか引くかくらいしてくれたほうがよかったかもしれない。くそ狭いロッカーに一緒に隠れるような間柄ではあるが、それでもセンシティブなことを聞いたら多少はネガティブな反応を見せるものではないだろうか。

 それほどまで信頼されているのか、そういうことに無頓着なのか……あるいは、他に何か理由があるのか。

 少なくとも、今この疲弊した頭で考えるべきことではなさそうだ。

 それからは、ただひたすらに耐えた。

 自分は修行僧になったのだと自己暗示し続けた。

「……よし、十二時だ!」

 小春の号令を合図に外へ飛び出す。

「や、やった、外だ……!」

 ロッカーの暗さに慣れてしまったせいか、夜なのに部室内は光に満ちているように見えた。

 とてつもなく心地よい解放感に身が包まれる。両手を大きく広げて深呼吸すると、室内なのにやけに空気が爽やかに思えた。

「カイト君!感慨に浸るのはまだ早いぞ!」

 ロッカーに四時間詰められていたとは思えないほどはきはきとした声で小春が言う。

「今からが本番!さあ、さっそく校舎内を探索するぞ!夜に学校に忍び込んで行方不明になった生徒がいるのか!」

「いや、さすがにもうちょっと待ってくれ、体がだるい。何なら先に……」

「何を言ってるんだい。相棒のキミがいなくちゃ、調査できないだろう!さあほら!」

「うっ」

 首根っこを掴まれ、無理やり立たせられる。まったく強引な。

 ただ、それにしても小春は楽しそうだ。調査のときはいつもそうだが、特に今日ははしゃいでいるように見える。

「いやー、学校の門限を破って調査するなんて、こんなシチュエーション滅多にないしね!じゃ、調査開始!」

 首根っこを掴まれたまま引きずられる。

 面倒なことにならないよう、先生たちに見つからないことを願うばかりだ。

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