第八話:水面に沈む
道の真ん中で話し込むわけにもいかないので、移動することにした。二十分ほど歩くと、池が見えてきた。周囲を柳の木がまばらに囲い、少し離れたところに五重塔が見える。寺のすぐ近くにあるこの池は、
「……ここなら、いいかな」
おれと芦引は池の外周の一角にある芝生に腰を下ろした。ここからだと、池が一望できた。今日のように晴れた日には柳と五重塔の虚像が水面に映っている。この景色も、観光スポットたる所以なのだろう。
しかし、今のおれにそんなものを楽しむ余裕はなかった。
「やめるって、どういうことなんだ?」
座るや否や、芦引に問う。彼女が「話は池に着いてから」と言ったからここまでの道中では何も聞かなかったが、はやる気持ちはもう限界だった。
「謎を追うのが好きだって、あんなに言ってたのに」
「……それはもちろんだよ」
芦引は膝を抱え、水面に目を落とす。
「ボクは謎が好きだ。調査してるときはいつもワクワクしてるし、できるなら毎日やってたいよ。昨日の旧校舎の謎がダメだったのは残念だけどね」
「じゃあ、どうして……」
「ボクは、人を傷つけてしまう」
自分の両手を見て、顔をゆがませる芦引。
「ボクはこの世の何よりも謎が好きだ。けどそのせいで、ボクは周りにいる人たちを傷つけてしまう」
その言葉を聞いて思い出す。昨晩、芦引がおれを突き飛ばした後のことを。あの時、芦引は完全に狼狽していた。おれは多少息を詰まらせただけだったのに、「ごめんなさい」と繰り返していた。
そのことを思い出し、推測が頭に浮かんだ。彼女は昔、調査中に誰かを傷つけてしまったのではないだろうか。打撲や捻挫程度ではなく、かなり重めに。だからおれを突き飛ばしただけで、あれほどのパニックに陥ってしまった。
「……自分でもわかってるんだ。ボクが暴走しなければいいだけだって。一歩引けさえすれば、何も問題は怒らないって。だけどダメなんだ。謎を目の前にした時、ボクはどうしても止まれない。何回何回調査に行っても、それだけがどうしてもできない。昨日だってそうだ。今考えれば、ハンマーでガラスを割って侵入するなんてどうかしてる。けどあの時のボクはそういうことを全く考えられなかった。そしてあのざまだ。……だから、決めたんだ」
芦引はこちらに笑顔を向ける。
「ボク、もう謎を追うのはやめる。これからは周りの高校生みたいに勉強して、流行りのものでも追おうかなって思うんだ」
「……」
「ね、いい考えでしょ?これでも一応勉強はできるし、まあ、それほど顔も悪くないとは思ってる。だから多分、頑張ればボクも皆と同じようになれると思うんだ。それも楽しそうだって思わない?」
相変わらずの“笑顔”で続ける芦引。
「オカルト研究部の部室は好きに使ってよ。ボクしかいなかったから、そんなに物は置いてないけどね。でもまあ、いいスペースだと思うよ。お昼食べる時とかさ」
自分がどんな表情をしているか、彼女は気づいていないのだろうか。
「別に新しい人呼んでくれたって構わないよ。ボクは基本的に誰も入れるつもりはなかったけど、もうボクはいないわけだし」
逃避するように焦点の合っていない瞳。下がっていない目じりと、逆に吊られたように上がったままの口角。声を出すにも苦労している震えた唇。
そんな顔を見て、彼女が本心で語っていると判断する人間がどこにいるのだろう。
「……わかった」
芦引は自分に嘘をついているのだろう。しかし、それが彼女なりに考え、出した結論だ。そこに至るまでに様々な葛藤があったはずだ。嘘だからと言ってそれを頭ごなしに否定していいとは思えない。
「……そっか、ありがとう。本当に、キミは優しいね」
ほっと顔を緩ませる芦引。先ほどよりも、明らかに本心からの表情をしている。
「……」
だからこそ、次の言葉を告げるべきか迷った。これを言うことで、彼女はまた表情を曇らせてしまうだろう。
しかし、これだけはどうしても聞かないといけない。
そうしなければ、前に進めない。
「芦引、一つだけ聞かせてくれないか」
「うん、何かな?」
「もう謎を追うのは、好きじゃなくなったのか?」
それを聞いた芦引の顔が固まる。細いのどが絞まり、ひゅぅっ、と息を呑む音が漏れる。
「……な、何言ってるんだよ。ボク、もう謎を追うのはやめるって言ったじゃん。ひ、人の話はちゃんと聞きたまえ」
「聞いてたよ。だからこそはっきりさせたい。……自分でもわかってるんじゃないのか?“謎を追わない”っていうのは、“謎が嫌い”と同じじゃないって」
「……っ」
視線をそらし、自分の膝に顔を埋める芦引。
「ち、違う、よ。ボクは……ボクは、謎はもう追わない。だから、それは……」
膝の前で組んだ指が真っ赤になるほど、強く手を握る。自分の額を膝につけ、首を横に振っている。
その姿は、先日の体育館でのことを思い出させた。
「別におれは、芦引のことを問い詰めようとか、そんなつもりはまったくないんだ。ただ、正直な気持ちが聞きたいんだ。自分に素直であることが、自分を幸せにする第一歩だと思うから」
「……やめてよ……。だから謎を追うのはやめるって言ってるでしょ……ボクは、ボクは……!」
風が吹き、池の水を撫でる。水面に映る五重塔が揺らぐ。周囲の木や空との境界が曖昧になって、水に溶けた絵の具のように混ざり合う。
「……ボクは、ボクのせいで誰かを傷つけたくない。特に、キミのことを傷つけたくない」
芦引は膝に額をつけたまま、口を開いた。くぐもって風にかき消されそうだったが、その声は自分の奥底にある本心を打ち明けていていた。
「誰かを傷つけて、その周りの人に避難されるのも嫌。けど本当に嫌なのは、ボクなんかに味方してくれる人をボクが傷つけてしまうこと」
風が強く吹く。水鏡に映った景色が原型をとどめないほどに歪む。
「ボクは自分から人と仲良くなるのが得意じゃない。たまに仲良くしてくれる人がいたとしても、大抵はボクの素顔を見て去っていく。そんなボクの隣にいてくれる人たちは、本当にかけがいのない存在だ。キミも当然その一人。なのに、ボクはそんな人を傷つけてしまう。謎を追って、我を忘れて」
水面が大きく波打つ。
「だったら、ボクが謎を追うのをやめてしまえばいい。全部捨ててしまえばボクは苦しむことはないし、キミも傷つかない。……そうやって、ボクは何度も自分の気持ちを捨てようとしてきた。けど……捨てられなかった。どんだけ捨てようと思っても、次の朝には無意識に都市伝説を探してる。しばらくして、昨日今度こそ捨てようって決めたじゃないかって思う。けどそのときには、もう謎を追う楽しさが勝ってしまっている。だったら一人でやろうって思った。一人なら誰も傷つけないって。けどそしたら、どんどん辛くなった。好きなことを誰かと共有できないのが、苦しくて苦しくてダメだった。じゃあ次はもう間違えないって思うけど、結局同じことを繰り返してしまった。……ホントにダメだな、ボクは」
芦引が徐に顔を上げる。顔色は悪いが、目の前の揺らぐ水面にしっかりと目を向ける。
「キミの言うとおりだよ。ボクは、まだ謎を追うことが好きだ。そしてそれを……キミと一緒にやりたい」
今の彼女にとって、それがもたらす苦痛はとても重いものなのだろう。自分や他人を巻き込む元凶を捨てることも憎むこともできず、抱えて生きていくしかないのだから。
けど自分の気持ちを受け入れたその表情は、ただのメッキではない、強い輝きを持っているように感じた。
「……ありがとう。言ってくれて」
そう伝えると、芦引は目を丸くしてこちらを見た。
「どうしたんだ?」
「まさか、お礼を言われるとは思ってなかったから」
「そうか?でも嫌なのに自分の気持ちに向き合えって言ったのはおれなんだし、やっぱりありがとう、じゃないかな」
「じゃあ、ボクのほうからも言わせてよ。ありがとう」
にっこりと笑う。その表情は、池の傍に咲いた花のようだった。決して派手ではないし、風が吹いたら花弁は散ってしまうかもしれない。しかし堂々と、自然体で「自分はここにいる」と主張するその色は、とても美しかった。
「なんていうか、芦引のその笑顔って、すごくいいなって思う」
「その笑顔?」
芦引は自分の頬に指を当てて、少し口角を上げる。
「うん。なんか、上手くは言えないけど」
「そうかい。ボクも、キミがボクのことを正面から見てくれて、とても嬉しいよ」
ただそう言いつつ、芦引はまた少し暗い顔をする。
「けどやっぱり、不安だよ。あ、でも勘違いしないで、キミのことが嫌だって言ってるわけじゃない。これだけは絶対。怖いのは、またキミを傷つけてしまうんじゃないかって……」
「大丈夫だよ、気にしないし。それに、最初からわかってりゃ何とかなる」
昨日は突然のことで戸惑ってしまったが、人間予測さえできればある程度のことには対応できる。
「……怒ったりしない?」
「しない」
「ボクのこと嫌いになったり、離れてったりしない?」
芦引が芝生に手をつき、こちらに近寄ってくる。リンゴとブドウを混ぜたような、彼女の独特の匂いをふわりと感じる。
「う、うん、しない」
「ホント?ボクのこと、裏切ったりしない?」
「しないよ。っていうか近いんだけど……」
三十センチに満たない距離まで詰められ、思わず後ずさる。彼女の顔が間近にある。少し濡れた瞳から向けられる視線が糸のようにおれを捉え、桃色の薄い唇が物憂げに開く。
「ねえ、後ろ下がらないでよ……ホントはボクのこと嫌なんじゃ……」
「いや、そうじゃなくて……さすがにこの近さは恥ずかしいから、物理的な距離を取りたいだけだ。決して心の距離を取りたいわけじゃない」
「ホント?」
「嘘なわけない」
「……」
じっと見つめてくる芦引。震え一つ見逃さない、とでも言うように、瞬きもせずただ凝視してくる。
まるで品定めされている魚のようだ。お眼鏡にかなわなかったら、ごみ箱に投げられるのかもしれない。
「……そっか」
芦引はまた笑った。
「ごめんね、キミみたいに言ってくれる人初めてだったから、ちょっと動揺しちゃって」
「いや、別にいいよ。っていうか、あんなにじっと見て、何かわかったのか?」
「うん。キミが嘘をついてないって」
少し誇らしげに言う。そういえば、先回りしたように芦引がおれの思考に応えることが昨日や一昨日からあった気がする。先ほど夏花さんと話したときも何だか見透かされているような感覚があった。親譲りの能力なのかもしれない。
「ねえ、今誰のこと考えてるの?」
「えっ?」
「今ボクじゃない人のこと考えてたでしょー。わかるんだぞー」
口を尖らせ、むすっとした表情をする芦引。
ドキリとする。確かに今彼女の母親のことを考えていたが、そんなピンポイントに当てられるものなのか。
「いや、芦引のお母さんのこと考えてたんだよ」
「お母さん?」
「芦引のその表情読みの能力は、あの人の遺伝なんだろうなって」
「ああ、なるほどね」
合点がいった、と頷いている。
「ま、確かに母さんと話すとすぐ色々ばれちゃうんだよね。けど、どっちかっていうとキミがそうさせてるんだよ。キミ、思ってることすぐ顔に出るから」
「そういえば、昨日もそんなこと言ってたような」
思わず自分の頬に触れる。十五年生きてきてあまり言われたことはない。
「だからまあ、これからは自分の言いたいことをはっきり言ったらいいよ。ボクも、それで怒ったりしないからさ」
「……わかった」
わざとらしく両手を上げる。降参のポーズだ。変に遠慮して彼女を不安にさせるくらいなら、堂々と言ってしまったほうがいいのかもしれない。勿論、それでも節度はあるが。
「じゃあ、決まりだ。これからよろしくね、相棒」
「相棒?また大きく出たな。」
「それくらい、ボクはキミのことを、カイトのことを信頼してるんだよ」
「そ、そうか……」
恥ずかしくなるようなセリフを、よくもまあそんな自然に言えるものだ。
「ん?おやおやカイト君、少し顔が赤くなってるね。キミ、人当たりは良いけど誰かと仲良くなるのは不得手なんだね」
「……あまり慣れてないんでな」
「ふうん。じゃあ相棒としての第一ステップ。ボクのことを名前で呼ぶんだ」
「名前で?」
「そう、名前で。さあ呼びたまえ、さあ!」
芦引がまたしてもぐっと近寄ってくる。こちらも、思わず後ろに身を引く。
「あっ」
そのとき、嫌な感覚があった。正確に言えば、本来あるはずの感覚がなかった、だろうか。
気づいたときには遅く、自分の体が後ろへと流れていく。振り向くと、水面が近づいてきていた。
いつの間にか、芝生のぎりぎりまで来ていたらしい。
「カイト!」
芦引がおれの右手首を掴む。しかしすっかりおれの体に勢いがついてしまっていたため、彼女もバランスを崩して前のめりに倒れた。
体が宙に投げ出される。
体がふわっと軽くなったように感じた。
背中に衝撃を感じた刹那、ごぼごぼと泡が耳周りにまとわりつく。落ちていくスピードがゆっくりになる。どんどん落ちていく。水面越しに見える太陽がどんどん遠ざかる。
どうやら、池に落ちてしまったらしい。
水の中で、右手に感じる温かさだけが頼りだった。だけどそのぬくもりさえあれば、池だろうと海だろうと底まで行ける。そんな気がした。
「……ぷはっ!」
水面から顔を出す。
まあ池の底と言っても、蟹河池は決して深くなく、腹くらいまでしかない。
「……っはあっ!」
遅れて、右側から芦引が顔を出す。おれより頭一つ分身長は小さいが、さすがにこの池で溺れるようなことはなかったらしい。
「ああ……びっくりした」
「うう、ごめんよ。ボクも池のギリギリにいること忘れてたよ」
「まさか高校生にもなって水の中に落ちるとは思ってなかったけど、別にいいよ。むしろ……」
思わず笑いが込み上げてくる。
「何かいいな、こういうの。高校生活始まったって感じで」
「うん?池に落ちることがかい?」
「ああ、そうだよ。ふふ、ははは」
自分でもよくわからない。
けどこうして誰かと一緒にいるのはとても楽しかった。生きてるって、そう強く実感できた。だから自然に笑えた。
「……そうかい」
そんなおれを見て、彼女はにこっと笑った。
「ボクまたやっちゃったって思ったけど……キミはこうして一緒に笑ってくれた。そんなキミと、ボクは一緒にいたいよ。カイト」
「ああ。これからよろしくな……小春」
水の中で小春がおれの手を強く握る。おれも彼女の手を強く握り返した。
「二人とも、大丈夫?」
気づくと、周囲に少し人だかりができていた。おれたちが落ちるのを見て駆けつけてくれたのかもしれない。
「へっくし!」
隣で小春がくしゃみをして、少し体を震わせた。暖かい日だが、水にぬれるとさすがに冷たい。
「さて、まずはこっから出ないとな」
「うん、そだね……なんかあったかいのが飲みたいよ」
池の中を並んで歩く。彼女の隣がおれの場所なのだと実感する。
水面に映るおれと小春は、一つに重なっていくように見えた。
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