第七話:晴れの日
晴れだった。
朝から空は青く、昼頃にもなると春の陽気が身を包んだ。
それは今のおれの心とは真逆。太陽に嘲笑されているかのようですらあった。
「この辺りだと思うんだけどな……」
旧校舎の調査翌日、おれは閑静な住宅街をさまよっていた。大まかにいえば、駅を真ん中にして伊谷高校から真っすぐ三十分ほど歩いた場所だ。
芦引が自分の家の場所だと言っていた辺りだ。
昨日旧校舎を出てから、芦引は一言も喋らなかった。ただ俯いて、おれの問いかけにも一切反応しなかった。謎がただのお話でしかなかったことが原因の一つなのだろう。ただ、それにしてもショックが大きすぎていた。他人のことを勝手に判断するべきではないのかもしれないが、もしかすると謎以外にも彼女のパニックを引き起こす要因があったんじゃないかと思う。
昨晩と今朝にメッセージを入れたが、一切反応はない。既読すらつかない。それで不安になり、いてもたってもいられず彼女の家に直接行くことになったというわけだ。
“…………そんな”。
最後に彼女が発した言葉が、表情とともに何度も繰り返される。ガラスが割れる瞬間のような表情だった。
「……」
反復されるたび、胸の内に嫌なものが込み上げてくる。唾を飲み込んで、それを押し戻す。
一人の人間の心が砕かれる瞬間は、いつ見ても苦しい。小学生だろうが高校生だろうが、変わらない。
芦引がそうなるところを見たくなかったから、オカルト研究部に入ったのに。
あのとき、おれはどうすればよかったんだろう。芦引にハンマーを振らせて、校舎内に侵入したほうがマシだったんじゃないだろうか。運が良ければ、作業員たちに見つからずに済んだのかもしれない。実際に校舎内に入って何もなければ、芦引も納得して調査を終えられたはずだ。
結局昨日は作業員に見つかってしまった。ただ、それならそれでもっと早く、強引にでも芦引を止めるべきだった。彼女はパニックに陥っていた。仮に作業員が怪しかったとして、あんな状態ではまともに情報を引き出せるはずもないだろう。
そんなことを考えていると、後悔の念に押し潰されそうになる。自己嫌悪に苛まれる。
だから、身を包む春の陽気が不快だった。どうせなら、大雨でも降ってくれたほうがよかった。
「この家……」
ぼんやり歩いていると、周囲とは違って和風の家が現れた。壁や柱に何も色が付けられておらず、素材である木の温かな印象を見た者に抱かせる。屋根の瓦も、昔の屋敷に使われていそうで趣がある。
そして、表札には“芦引”と書いてあった。
「ここだ……」
思わず声が漏れる。
彼女の家で間違いないだろう。“芦引”などという珍しい名字が伊谷市に三世帯も四世帯もあるとは考えにくい。
少し息を吐いてから、玄関まで赴く。引き戸の横にインターホンがあった。
この段階になって、緊張してくる。彼女からすれば、木瀬開人は自分の家を知らないはずだ。なのにこうしてやってくるというのは、正直に言って恐怖だろう。もはや気持ち悪いとすら言える。場合によっては、普通に警察案件だろう。
……けど、ここで引き下がることは最善手ではない。それだけはわかる。
芦引の最後の表情が再び脳裏をよぎる。ああいう顔をさせたくなくて、今まで人を避けてきた。だけど芦引だけは避けられなかった。体育館の隅に座っていたのを見た時から……いや、最初に会った時から。一目ぼれとか、そういう恋愛的な意味ではない。これはもっとおれの根幹にかかわる問題だ。
おれは彼女を救わなければならない。そうしなければ、自分は誰のためにもなれない無価値の人間になってしまう。
目をつぶってインターホンを押した。
『……はい』
しばらくして、スピーカーから女性の声が聞こえてきた。芦引ではない。彼女の母親だろうか。
「あ、あの、僕、木瀬開人と言います。小春さんはいらっしゃいますか」
『……ああ、ちょっと待っててくださいね』
何か合点がいったような反応をして、音声が途切れた。
もしかすると怒鳴りに来るんじゃないだろうか、と嫌な想像が脳裏をよぎった。今の口調からして、昨日芦引に何があったかは知っているだろう。もし母親ならば、どのような理由があれ、娘を傷つけた男に対して怒りを覚えるのは当然だ。
そしてしばらくして、引き戸を開けて女性が出てきた。見た目は三十代くらいだろうか。肩口で切りそろえた黒髪と、瞳の大きい目が印象的だ。
「こんにちは。木瀬君」
「……こ、こんにちは。小春さんの、お母さん……でしょうか」
「はい。芦引小春の母の
がちがちに身構えていたが、夏花さんはにっこりと柔和な笑みを浮かべ、会釈した。彼女に合わせておれも慌てて頭を下げた。
「貴方のことは小春から少し聞いてます。それで、今日は一体どんなご用件?」
軽く首を傾げて尋ねてくる。しかし薄く開けられたその目から、何となくおれの目的はわかっているんじゃないか、とを感じた。
「えっと……昨日、何があったか小春さんから聞いていますか?」
「いいえ。けど、すごく落ち込んでるのは知ってる」
じっと射貫くようにこちらを見つめる夏花さん。その視線を受けて、少し背中に冷や汗をかいた。
「その……小春さんと話はできますか?どうしても伝えたいことがあるんです」
「そう。けどごめんなさい、多分無理ね」
「えっ……」
すっと、体から力が抜ける。まるで自分が浮いているような、そんな嫌な感覚。
「無理って、どういうことですか?」
「昨日帰ってきてから、ずっと部屋に引きこもってるの。ご飯食べにも来ないし。今日はずっとあのままだと思う。理由は大体察しがついてるけど……」
夏花さんがため息をつく。その表情に憂いが帯びる。娘のことを本気で心配していることが伝わる。
「……すいません」
「あら、もしかして何か心当たりが?」
「はい……あ、でもその、手を出したとか、そういうことではなく……」
「大丈夫、わかってるから」
手を振って、おれを制する夏花さん。
「何となくだけど、貴方はそんなことをしない、信頼できる人だって思う」
「信頼できるなんて、そんな」
過大評価だ。そう言ってくれること自体はとても嬉しく感じる。しかし、おれはその信頼に足る人間だとはとても思えない。
「ううん、きっとそう。もしそうじゃなかったら、小春は 貴方と“二人”で調査になんて行かないもの」
夏花さんは“二人で”というところを強調した。
昨晩の芦引を思い出す。
印象が強いのは最後の表情だが、それ以前にも気になるところがある。
特に挙げるとすれば、おれを突き飛ばした直後だろうか。
不意を突かれて受け身を上手く取れなかったが、少し息が詰まった程度だった。骨はもちろん何ともないし、打撲も重くない。少し痛む程度だ。
ただ、あの時芦引はあまりにも酷く取り乱した。その場に崩れ落ち、頭を抱え、謝罪の言葉を繰り返し続けた。
夏花さんの言う“二人で”というのは、それと関係しているのだろうか。
「あの……」
「ん?どうかした?」
昔芦引に何かあったのか、と聞こうとして飲み込んだ。あれだけ取り乱したということは、それは彼女にとって相当苦しく、話したくない過去のはずだ。そんな大事なことを、親とは言え当人以外から軽々しく聞いていいわけがない。
「……すいません、何でもないです」
なんて馬鹿なことを、と自分に対する批判が心の中に渦巻く。
「……そう」
そんなおれを見て、夏花さんは微笑んだ。
「……?えっと……」
「ああ、ごめんなさい。別に悪い意味はないの。ただ、やっぱり貴方と一緒なら、小春は前を向けるようになるんじゃないかって思えたの。決して楽な道ではないだろうけど」
「……そうですか」
「それに、久しぶりだった」
「え?」
「ああ、小春のこと。小学校の高学年くらいからかな、あの子、何だか急に暗くなっちゃって。それがずっと続いてたのに、一昨日くらいから明るくなったの。なんでも、木瀬開人君っていう、自分のことを受け入れてくれる友だちができたみたいでね。……あの子が今何を考えてるかは、はっきりとはわからないけどね」
夏花さんが小さく自分の背後に視線を向けた。
「……わかりました。すいません、いきなり押しかけて」
「全然大丈夫。こちらこそごめんね。何かあの子に伝えておこうか?」
「いえ、昨日の夜と今日の朝にメッセージは入れてるので……」
「あー……多分それ、明日までは絶対に読まれないよ。あの子、何かあった時はスマホの電源切っちゃうから」
「こういうこと、たまにあるの」と夏花さんは苦笑いする。
「そうですか……じゃあ、おれは怒ってないってことと、少し話したいってことを、伝えてもらってもいいですか?」
「わかった」
夏花さんは頷き、また微笑んだ。
あまり娘とは似ていないな、と感じる。小春の方は笑うと子供のようなのに、夏花さんはいたってお淑やかな印象を受けた。ただ、妙に頭が切れるような感覚は似ていた。
「……では、失礼します」
「うん、ありがとう」
一礼し、おれは芦引家を後にした。
「……」
帰る道すがら、芦引家を一瞥する。
正直に言うと、自分で伝えたかった。彼女の顔を見て、直接気持ちを言葉にしたかった。
自分には何もできない、と突き付けられたようで、胸がざわざわする。
……もう手遅れなんだろうか。
昨日の時点で、彼女との関係は詰んでいたのだろうか。
そんなことは認めたくない。けど人間の関係が終わるのは一瞬だ。その一瞬で、今まで積み上げてきた全てが消える。
おれはいつもその一瞬に間に合えない。これからずっと、永遠に繰り返し続けるのかもしれない。
そう考えると、途端に身が震えだした。足が止まる。息がうまくできなくなり、酸欠で視界が白く明滅する。
怖い。
また失ってしまったのだ。求めるものを返せなくて、最悪の結果を招いてしまった。
こんな結末が嫌だから、人と関わらないようにしてきたのに。また自分のせいで人を傷つけた。彼女のその傷は、一生消えないだろう。
考えれば考えるほどに、頭がぐらぐらと揺さぶられる。平衡感覚がなくなる。電柱に寄りかからないと立つことすらままならない。
こんなはずじゃなかったのに。
少しずつ、自分がこの世にいる感覚が薄れていく。体との繋がりが消え、自分をつかさどる心が殻をまとっていく。
どうせ何もできないなら、消えてしまいたい。閉じこもってしまって、外に出なければいい。そうすれば、誰も苦しむことはない。
「……ん?……くん……木瀬君!」
そんな心の防衛反応から自分を引き戻したのは、背後から聞こえた声だった。
「……っ!」
瞬間、夢から覚めたように、一気に外界から情報が流れ込んでくる。空から注がれる日差し、アスファルトの黒色、左肩に触れる電柱の固い感触、頬を伝う汗。
「木瀬君!」
そして、声。
息を荒くした彼女がこちらを不安そうにのぞき込んでいた。
「芦引……」
「木瀬君、何かあったの!?すごい汗かいてるよ!?」
「ん……」
頬を手の甲で拭うと、粒のような水の感触があった。汗をかいているのはわかっていたが、これほどまでとは思わなかった。
「……ああ、ちょっと立ち眩みがしただけだ。問題ない」
少しかすれているが、ちゃんと声は出る。電柱の支えなしで立つこともできた。自分の体を自分で動かせることに少し安堵する。
「ほ、本当?それならいいんだけど……」
芦引は一応納得してくれたようだが、当然ながら「ちょっと立ち眩み」程度のものではない。芦引が声をかけてくれなかったら、おそらくそのまま倒れていただろう。だが、大げさに言って彼女を不安にさせるわけにもいかない。
「それより、芦引はどうしたんだ?」
できる限り平静を装って尋ねる。
芦引は半そでのTシャツにショートパンツ姿だ。明らかに、出かけるついでに知り合いを見かけた、という風ではない。いくら彼女でも、出かけるときはせめてジャージには着替えるだろう。
「あ、えっと、それは……」
芦引は口を開けて何かを言おうとするが、閉じる。胸の前で合わせた手を握る。
「その、あのね……」
一度ぎゅっと目をつぶり、俯き加減で言う。
「キミに、話したいことがあるんだ」
「話したいこと?」
「うん……」
小さい声ではあったが、はっきりと言った。
「ボク、もう謎を追うのはやめるから」
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