第六話:旧校舎の謎
「あ、木瀬君」
ほとんどの店のシャッターが閉まった駅前の商店街を抜けると、左手に伊谷駅が見えてくる。その改札の前にある噴水を取り囲むように置かれたベンチ。そこに座っていた芦引がおれを見つけて小さく手を挙げる。
「ごめん、待たせた」
少し小走りに彼女の元へ急ぐ。
「いやいや、そんなことはないよ。むしろ時間ぴったりだ」
芦引は頬を緩める。
「ただキミ、その服はいささか調査に不向きじゃないかい?」
芦引の目が上下に動き、おれの服装をチェックする。
「そうか?おれはそうも思わないけどな……」
白の襟付きのシャツに、ストレッチ素材のジーパン。財布やスマホは背中のショルダーバッグに入れてある。自分としては特に動きづらさは感じない。むしろかなり身軽なほうだ。
「そうなのかい?うーん、ボクはあまり好みじゃないな」
顎に手をやりしげしげとこちらを見つめる芦引。彼女は上は紺色のジャージを羽織り、下にはトレーニング用のスカートを履いている。背中にはリュックを背負っていて、チェストストラップを胸の上で留めている。ジャージのファスナーを閉めていることもあって、体のラインが強調された格好になっている。
そして、その時気が付いた。
芦引小春は胸が大きかった。
昨日や一昨日はブレザーを着ていたのであまりわからなかったが、改めて見ると、何と言うか、凄かった。その小さな体のどこにそんなキャパがあったのかと問いたくなるレベルだ。
「ん?どうしたんだい、そんなにボクのこと見つめて」
「……いや、なんでもないなんでもない」
「ふーん……ま、今日はキミの初陣だし、調査中はしっかりとボクを見て学びたまえ」
「ああ……うん、そうさせてもらうよ」
訝しげな顔をされたが、芦引はそれ以上言及してこなかった。
「よし、じゃあ早速行こうじゃないか。謎は待っちゃくれないからね!」
跳ねるような足取りで歩いていく芦引。もう夜だというのに、眠気や疲れは一切なさそうだ。ランドセルを背負った小学生にも見える。
昨日の帰り際は結構消耗した雰囲気だったが、一日経って回復したようだ。その姿を見ていると、今のところおれの存在は彼女にとって悪ではないようでホッとした。
「そういえば木瀬君はどの辺に住んでいるんだい?歩きで来たってことは、伊谷駅の近く?」
旧校舎までの道中、芦引が聞いてくる。
「駅から十分、学校から十分のところに住んでるよ」
「へえ、そうなのか。いいとこだね」
「まあそれなりに。芦引さんは?駅の近く?」
「ボクの家?駅からは十五分くらいかな。学校までは歩いて大体三十分。駅が学校と家の真ん中くらいにある、って感じかな。だから学校まではチャリなんだ」
「ふうん、結構遠いんだな」
そういえば、昨日は駐輪場のあたりで別れた。
「まあねー。でも悪いことばかりじゃないよ!学校にチャリ置けるから、“あ、調査行きたい!”ってなった時にすぐ行けるし!」
“ちょっと行ってくる!”と言って部室から飛び出していく芦引が容易に想像できる。彼女なら十分ありそうだ。
「そういえば、今日はチャリじゃないのか?旧校舎まで結構遠いだろ?」
おれは越してきたばかりでチャリを買っていない。だから歩きなのは当然だが、チャリ通の芦引も今日は歩きだ。
「そだね。けど、これからのことを考えると、今日は歩きのほうがいいんだよ」
「これからのこと?」
「ああ。単純な話、チャリで行ったら置く場所に困るんだよ。一応不法侵入に当たるわけだし、“今ボクたち調査してまーす”って宣言するわけにもいかないしね」
「ああ、なるほど。っていうか、おれたち不法侵入しようとしてるんだな……」
感覚的に窃盗や傷害よりは軽そうだが、犯罪は犯罪だ。学校に連絡されたら面倒なことになる。
「……まあ、そん時はボクが何とかするよ」
「何とかって、できるのか?」
「一応はね」と言って芦引はため息をつく。やりたくはなさそうだが、とりあえず保険は掛けられるらしい。
もしかすると、常習犯なのではないか。“立ち入り禁止”の看板を意に介さず、フェンスを乗り越える芦引の姿は容易に頭に浮かぶ。
「言っとくけど、常習犯じゃないぞ」
警察に事情聴取されている芦引を想像していたところで、彼女は心を読んだかのように頬を膨らませた。
思わず心臓がどきりと鳴る。
「えっ?いや、別にそんなことは……」
「顔に書いてる」
芦引は自分の膨らんだ頬をつついた。
「警察に知り合いがいるだけだよ。いくらボクでも、毎回毎回しょっぴかれてるわけじゃない」
その物言いが既に常習犯のように聞こえるが、突っ込まないようにしよう。おれとしては、面倒なく調査して家に帰れればそれでいい。
それから歩き続けて二十分ほど。段々と街灯が少なくなり、代わりに草と湿気のにおいが鼻をつく。中心地からは明らかに離れた場所に来た。越してきて以来、この辺りに来るのは初めてだ。衛星写真で見た通り、周りは住宅すら少ない。逆にあぜ道と田んぼ・畑が増えてきた。人の声もほとんどせず、車が一台通るだけでもエンジン音が響く。田舎だ。
「ここら辺はあまり来ないのかい?」
「ん?ああ、そうだな。まだ伊谷に来てあんまり経ってないし。こんな畑だとは思わなかった」
「まあ駅から離れるとホントに何もないからね……あ、あれだ」
「あれが……」
闇の中で、ぼんやりとシルエットが浮かび上がる。
周囲を門と塀、金網のフェンスに囲まれ、グラウンドの奥に佇むそれは、他とはまるで違う異様な雰囲気を放っていた。蛍光灯も、非常ベルの赤い光も、非常口の緑の明かりさえも無い。ただの廃墟なのに、奇妙な威圧感があった。
「これが伊谷高校旧校舎だよ。ほら見て」
芦引が門のすぐ右の塀に近づき、とんとんと叩く。そこには“伊谷市立 伊谷高校”と刻まれたプレートが埋め込まれていた。
何年か前までは生徒が通い、授業や部活動が行われていたのだろう。しかし、今この伊谷高校にその頃の面影はない。周りの畑の無音とは違い、死んでしまったかのような静謐さを漂わせている。
「……何て言うか、ここだけ違う世界みたいだ」
「おっ、面白いこと言うね。確かにその通りだ。ここは学校としてはもう機能していない。明日も明後日も、それは変わらない。平凡な日常を過ごしていたら、訪れることは無いんだろう。けど、だからこそ面白い」
にやり、と芦引は片方の口角を上げる。それは今まで見せた笑みとは違うものだった。獲物を見つけた海賊、とでも形容すべきだろうか。
「いやホント、ワクワクが止まらないよ。鬼が出るか蛇が出るか。さあ、行こうじゃないか」
芦引は周囲の目も気にせず、堂々と門をよじ登る。
「ちょ、ちょっと待て。いきなりか」
せめて周囲の様子をうかがってから、と思ったが、芦引には聞こえていない。既に敷地内に入ってしまっていた。こっちに向かって「ほらおいで」と手招きしている。
足を踏み出そうとして止まる。心の中で二つの感情がせめぎあっている。
片方は好奇心。芦引には遠く及ばないとは言え、おれだって都市伝説に興味がないわけじゃない。目の前にこのような舞台を用意されて、興奮せずにいられるほど達観してはいない。
もう片方はためらい。ただ単に夜の学校が怖いだけでなく、ここに足を踏み入れたらどうなるのか。警察や、住人に見つかるかもしれない。何とかなるとは言っていたが、全くお咎めなしというわけにもいかないだろう。一人暮らしという特別な事情がある以上、やはり悪目立ちするようなことは避けたい気持ちもある。
「どうしたんだい?……あ、もしかして、嫌……?」
芦引が門の向こうで今にも泣きそうな表情をする。彼女の姿は、服役囚のように見えた。
心臓が爪を立てて握られたような痛みを訴えた。それくらい、今の芦引を見ているのは辛かった。
彼女は人に離れられるのが嫌だったから、最初から人と関わらないようにしていた。拒絶をやめてまで得た自分の味方が離れていくかもしれない。それだけで彼女にとっては心乱されることなのだろう。
「……いや、大丈夫。何でもない!」
周りを見渡して人がいないかを確認してから、素早く門を跳び越えた。
力になりたいからここに来たのに、かえって彼女を不安にさせてどうする。
「……」
芦引はやや呆然とした顔でおれのことを見ている。
「……どうした?行こう、調査」
わざと何でもない風を装う。
「え、あ……うん、そう、だね。その通りだね!」
動揺していた芦引だったが、自分の両手で頬をぱん、と挟むように叩いた。
「ごめん、ボクがどうかしてた。キミは、そうだもんね。よし、行こう!」
「はいよ」
芦引と共に、正門からグラウンドを取り囲むように設けられたアスファルトの通路を進む。
力強く歩む背中を見て、おれは芦引の脆さを感じていた。
まだ一日くらいしか経っていないが、行動を共にして少しずつ芦引小春がどんな人物なのかがわかってきた。
一言で言い表せば、自分の心に純粋すぎる。
彼女は“都市伝説”が好きだ。そしてその気持ちに従いすぎるゆえに、それ以外の何もかもを無視して突っ走るタイプなのだろう。
だからふと後ろを振り返った時に、自分が全てを失っていることに気づく。純粋だから、その喪失に傷つく。またやってしまったと後悔する。そんな負のスパイラル。
彼女が体育のとき、それにおれが話しかけたときにあんなに人を拒絶していた理由。それはやはり、もう何かを失って、傷つきたくないからだろう。
その気持ちは痛いほどによくわかる。誰かと関わったことで自分が傷ついてしまうなら、人と関わるのをやめればいい。それだけの話だ。
ただ、芦引の心はそんなに単純じゃない。きっと芦引は、自分が好きなものを人と共有する、ということに飢えていた。おれに都市伝説の話をするときの、彼女のきらきらした表情はずっと印象に残っている。
芦引小春のあの表情を守りたい。そのためにおれはここにいる。
「きーせー君?」
「うわっ!」
不意に、顔を下から懐中電灯で照らした芦引がこちらを覗き込んでくる。
「お、驚いた……何か出たのかと思ったじゃないか……」
割と本気でのけぞってしまったので、少し背中が痛い。
「なーに言ってんのさ。それよりボクの話聞いてた?」
「え、話って?」
「んー、聞いてなかったなー」
唇を尖らせた芦引はこちらに近づいてくる。顔を下から照らしたまま。
「いいか、傾注したまえ。ボクたちはこれから調査をするわけだけど、まずはぐるりと校舎を一周する。一階の全ての窓のカギを調べて、開いているところがあれば侵入する。木瀬君は、何か不審なものがないか辺りをチェックしてくれ」
「それは了解だけど……校舎内にも侵入するんだな」
「当然だよ。中に入らなきゃ、実験がされているかなんてわかりようがないからね」
さも当然とばかりに芦引は頷く。彼女の背中には、旧校舎が先ほどよりも更に存在感を増してそびえたっている。
「マジで何か出そうだな」
「それはないよ」
冗談めかしたおれの発言を芦引は即座に否定する。
「出るはずないぞ。うん、そんなの、出るはずがない」
ぷいっ、とおれから顔を背ける芦引。彼女の物言いが何だかおかしい。今までよりも曖昧で、かなり突き放すような感じだ。言うなれば、自分の嫌いな話題から逃げようとしているような。
「……もしかして芦引さんってそういうの……」
「あー!」
奇声を上げ、おれの顔めがけて懐中電灯の光を刺してきた。
「そうだよ!ボクはお化けが苦手なんだよ!おかしいか!おかしいか!くそお!」
「うわやめんか!眩しい!」
懐中電灯の光を手で押さえる。
「……はぁ~あ……」
芦引はため息を吐いて肩を落とす。
「ホント傍から見たらおかしな話だよね、都市伝説好きなのにさ……」
「ま、まあ、そんなに落ち込むなよ。……ちなみに、なんでそんなに?」
「理由……は別にない。ただ単に怖い」
「へえ、そうなのか。都市伝説の怖さとは違うものなのか?」
「うん、都市伝説と怪談だと何か違うんだよね。ほら、都市伝説ってさ、やり玉にあがるのは人が多いじゃない?個人でも組織でもさ。でも怪談はさ……誰がやったか、そもそもどんな存在なのかもわからないじゃない?何かそこに得体のしれない恐怖を感じる。木瀬君は怖くないの?」
「うーん、おれは別に。むしろ人の方が怖いかな。よっぽど何するかわからないし」
「ふうん。けどやっぱりボクはこわいな……テレビの特番とかも絶対見れない」
「学校の銅像の七不思議とかどうしたんだ?あれって割と怪談……」
「違うよ。あれは見間違いだ。それ以外考えられない」
「……」
やはり芦引は純粋だ、と思う。おれは中学生くらいから、そういう話は大抵勘違いか、やらせだと思っている。それをこうやって怖がれる彼女は、ある意味素敵だと思えた。
「……何笑ってんのさ」
「え、おれ笑ってた?」
「……笑ってたよボクの顔見ながらニタニタと!何だい何だい!ボクは子どもっぽいなとか思ってたんじゃないのかい!この、この!」
再び懐中電灯を振り回す芦引。
「待て待て落ち着け。誰かに見つかったらどうする」
今は不法侵入中なのだ。見つかって御用になりたくはない。
「とにかくだ。これから校舎の周りを一周して、侵入できるところを探す。いいね!」
鼻を鳴らして、芦引はずんずんと進んでいく。少し遅れておれもついていく。
お化けが怖い、と言う割には歩きに迷いはない。都市伝説への好奇心はそんなものを遥かに凌駕する、ということなのだろうか。あるいは、都市伝説の調査をするうちに自分なりの対処法を見つけたのかもしれない。先ほど言っていたように全ての怪談は見間違い、勘違いと結論付けるとか。
じゃあ都市伝説は見間違いではないのか、という疑問が浮かぶ。ただ、全ての事象を人によるものだと説明づけるのであれば、黒幕に霊的存在を仮定する怪談は虚構、人の存在を仮定する都市伝説は現実と言えなくもなさそうだ。
そうこうしているうちに校舎の目の前まで来た。普段、学校には様々な音がある。生徒が話す声だったり、先生の怒鳴り声だったり、楽器を演奏する音だったり。それらが一切なく、しかも今は使われていないこの校舎は、まるでこの世界から切り離されてしまったようだ。
「……おや?」
芦引が何かを見つける。おれたちの歩く通路の先、校舎の昇降口に向かって左側。そこに、コンクリートの塀から伸びた煙突があった。
「焼却炉だね」
コンクリート塀に沿ってぐるりと回りこんでみると、まな板を二つ並べたくらいの大きさの扉があった。ここからごみを入れていたのだろう。燃やす際に排出される化学物質の問題で、今の学校では使用されていないと聞く。
「……ふむ。もしかしてこれ、実験場への入り口だったりしないだろうか」
「え、そんなまさか」
「って感じで“まさか”って思うような場所に入り口を仕掛けるのが定石だろう。……と思ったんだけど、カギがかかってるね」
芦引が焼却炉の扉を照らす。持ち手の部分は鎖で留められており、更にその鎖は南京錠が掛けられてあった。
「うーん、さすがに鎖切れるワイヤーカッターは持ってきてないしな……あと、ちょっと人が通るには狭すぎるね」
焼却炉の扉の枠に両手を当て、大きさを確認する芦引。
「いくらなんでもここは無理そうだな」
「そうだね……いい感じだと思ったんだけどね。残念」
焼却炉からの侵入を諦め、校舎一階の窓を確認していく。彼女を尻目に、おれは暗闇に目を凝らして何かないかを探す。ただ、特に変わったものはない。太ももの辺りまで雑草が伸びていることと、ごみがところどころ落ちているくらいだ。端から見れば普通の廃墟に見えそうだ。
「開いてないね」
芦引が窓枠を掴んで横に揺するが、開く気配はない。
「まあ、そんなホイホイ開いてるようなもんでもないだろうしな」
「そりゃあね。けどやってみなくちゃわからないさ。キミも、ちゃんと辺りを見ておいてくれたまえよ」
「はいはい。そういえばここの管理って、買い取った人がやってるのか?」
「そのはずだよ。なんで?」
「いや、あんまり手入れはされてなさそうだな、と思って」
「ふむ、いい視点だね」
芦引は廊下を観察しながら頷く。
「確かに、見た感じこの旧校舎は廃墟だ。ただ、ちょっと見てほしい」
芦引が廊下を照らす懐中電灯の明かりを揺らす。彼女の背後から中を覗き込む。
「管理が行き届いていない割には綺麗だと思わないかい。建物というのは人が使わなければどんどん劣化していくものだが、正直ここは今でも学校として普通に使えそうに見える」
「確かに」
彼女の言う通り、保存状態は良好に見える。ひびが入っているとか窓が割れているとか、そんなことはない。
「けど、懐中電灯の明かりじゃちょっと見えにくいね。詳しいことまではわからなそうだ」
芦引は校舎に沿って歩を進める。
「そういえば、こういう廃墟ってホームレスとか不良のたまり場になることもあるらしいよな。そういう人が中を綺麗にしてたりするとか?」
「うーん……あまりその可能性は高くないんじゃないかな。もう半周くらいしたけど、出入り口のようなところはない。もしそういう人たちが根城にしてるんなら、カギが開いた窓とか、入れる場所があるはずだ。仮にその人たちが本当にいて、中からカギをかけていたとしたら、それはそれで別の証拠が残っているはずだ。靴の砂が窓枠についてるとかね。けど今のところそんな痕跡はない」
「なるほど……」
確かに彼女の言うとおりだ。職員室横の報告文を見たときから思っていたが、芦引は謎の追究ではかなり論理的な思考を発揮しているように感じる。少し気取ったような話し方も鑑みると、探偵のように見える。
「にしても、これはいい傾向だね」
「いい傾向?何の話だ?」
「旧校舎に不審な痕跡がないことだよ。今回の謎が何だったかは覚えているかい?」
「ああ、確か“旧校舎で謎の実験が行われている”だよな」
「その通り。ここで一つ考えてほしいんだけど、仮にここで人目をはばかるような実験をするとしたら、キミならどうする?」
「この旧校舎で?うーん……まあ当然だけど、あんま目立たないようにやりたいな」
「例えば?」
「例えば……うーん、カーテンで外から教室の中が見えないようにするとか」
「それも一つだね。ただ、それだと廊下の様子は丸見えだ。人通りとか、教室のドアの開け閉めは隠せない。廊下の窓もカーテンをつける、という案もあるが、そういうわけでもない」
芦引が懐中電灯を上に向ける。二階、三階の窓から、廊下の様子がうかがえる。のぞき見対策はされていない。
「とすると……校舎内でされてないんなら、実験なんてそもそも行われてなかった、ってことにならないか?」
「ふふふ。それがそうでもないんだよ」
芦引は不敵に口角を上げる。
「昨日、この旧校舎は八年前に購入された当初は工事が行われていた、って話はしたよね?」
「ああ……そういえば。けど特に大きく変わったところはなかったんだろ?」
「見かけ上は。ということはつまり、外からは見えない場所の工事を行っていたんじゃないか?」
そう言って、今度は芦引は懐中電灯を自分の足元に向けた。
「謎の実験は校舎の地下で行われている。だから、見かけ上には不審な点はない。これがボクの考えだ」
「……そんな馬鹿な」
基本的に人の考えは否定したくないのだが、思わずそう言ってしまった。さすがに劇的すぎる。地下の怪しい実験室はドラマや映画でよくあるが、それはあくまで設定だ。こんな郊外の小さな町でそんな大それたことが起こるわけがない。
「起こるわけがない、って思ってる?」
芦引が問う。不安にさせてしまったかと心配したが、その表情はつとめて冷静だった。じっとこちらを見て、ただ意見を待っている。共感を求めているのではなく、純粋に謎について考えたいといった様子だ。
「……ああ、正直に言うと」
だから、素直に答えることにした。
「まあ、キミの気持ちはわかるよ。ボクだって、自分の考えがいささか非現実的だ、と思わないわけじゃない。けどさ、もし本当だとしたら?ここで本当に実験が、マッドサイエンティストと言われる人間が、非人道的な実験をしていたら?」
「……本当に起こるとは思えないな」
「その感想は一般的に正しいんだろうね。けど、どうだろう。世界にはボクらの知らないことがたくさんある。ボクらは世界について何を知ってる?少なくともボクは自分の学校の生徒すら全員は知らない。この世の全てが地球だとしたら、ボクらの知識なんて微生物みたいなものさ。博識と言われる人で、きっと蟻んこくらい」
親指と人差し指で何かをつまむような仕草をする芦引。
「なのに、どうして”その可能性はない”と否定できる?何も知らないのに、どうして断定できるんだい?」
「それは……」
そんなの当たり前だ。都市伝説なんて、大抵が嘘や勘違い、あるいは考えすぎ。だって口裂け女も、歩く銅像も誰も見たことはないじゃないか。芦引が何を言おうが、おれの意見は変わらない。
だけど言い返せなかった。
彼女の語りに乗せられたからかもしれないけど、おれは都市伝説が現実である可能性は、絶対にないとは言い切れなくなった。彼女の言う通り、この世界は知らないものだらけ。隣の国の流行も、自分の住む県の議員も、自分の学校の生徒すら知らない。そんな自分が“都市伝説はただの嘘”と決めつけることが可能なんだろうか。
不可能だ。
“ない”と断定するためには、それに関連する全ての事象を調べて、確率がゼロであることを示さなければならないのだ。女性のマスクの下や、日本の全ての小学校の銅像が深夜に動き出すか否かをチェックするなんて不可能に近いだろう。
そう考えれば、なるほど、彼女の主張を理解することはできる。
ただ、納得はできなかった。
「納得できない、って顔に出てるよ」
芦引は小さく吹き出すように笑った。
「何と言うか、キミは面白いね。大人しそうな振りしておいて、何かあるとすぐ表情に現れる」
「……別に面白がられようとは思ってないけどな」
「おっと、気を悪くしたのならごめんよ。まあ、そうでもないみたいだけど」
手を後ろで組み、こちらの顔を覗き込んで、にっこりと笑う芦引。
彼女はおれのことを面白いと言っているが、こちらからすれば彼女のほうがよっぽど面白いと思う。よく笑いよく泣く姿は完全に子供だが、かと思えば見透かしたように目を細める様は年の功を刻んだ玄人だ。
それはどこまでもアンバランス。だけどそこに、おれが目を離せない彼女の魅力の一つがあるのかもしれない。それに、自分のしたことが彼女にとって良かったのか悪かったのか、そのフィードバックがすぐ得られるのは、こちらとしては付き合いやすい。
「まあ、ボクがキミをどう思っているかはさておき。問題は、ここが実験施設かってことだ」
「最初に言ったのはそっちだけどな」
「はは。ま、気にしてくれるな。とにかくここは足を使って証拠をかき集めようじゃないか」
芦引はからからと笑うと、懐中電灯を照らしながら再び歩き出す。おれもまた、その後ろを歩きながら周囲を注意深く観察する。
しかし、その道中に特筆すべきものは何もなかった。
「……ん、昇降口まで一周してきたっぽいね」
懐中電灯の光が前に伸びる。先ほど見た焼却炉が校舎を挟んだ向こう側に照らされる。
ぐるりと校舎の周りを歩いてきたわけだが、侵入できそうな場所も、不審なものもなかった。
「あとは、あそこだね」
芦引が懐中電灯を右に向ける。淡い光の中で浮かび上がるのは、昇降口だ。侵入した時はグラウンドの隅を探索しながら校舎までたどり着いたので、正門から真っすぐ奥にある昇降口はまだチェックしていない。
「でも……あんなとこに何かあるのか?」
「おや、どうしてそう思うんだい?」
「いや単純にさ、一番外から見えやすいじゃん」
敷地は金網のフェンスで囲われているため、中を窺うのに苦労はしないだろう。しかも昇降口はグラウンドに面しているため、遮蔽物もない。
「めっちゃ目立つし、こんなところに証拠を残すかなって」
「無いだろうね、何も」
あっけなく芦引はそう言い、すたすたと昇降口に足を進める。
「何だそれ。じゃあなんでわざわざ見に行くんだ?」
周囲から丸見えであることに不安を覚えつつ、おれは尋ねる。
「簡単な話だよ、木瀬君」
ぐる、と首と懐中電灯をこちらに向ける。
「何もないのがおかしいのさ」
「……?何もないのがおかしい?」
「とにかくついてきたまえ。確認してみない事には始まらない」
芦引は扉のガラス越しに昇降口を懐中電灯で照らす。昔使われていたであろう傘立てと下駄箱がぼんやりと浮かび上がる。当然ながら、傘も靴もない。
「カギは……さすがに開いてないか」
芦引が玄関に手をかけるが、がたがたと音を立てるだけで中には入れそうにない。
「……で、何もないってどういうことなんだ?靴とか、傘がないことか?」
廃校舎なのだから、それは当たり前に思える。むしろ、あると怖い。
「まさか」
さすがにそれはない、という感じで芦引は手を振る。
「本題はこっちだよ」
芦引は四つん這いになると、扉の向こう側の玄関のタイルに光を当てた。
「……」
いきなりそんな体勢になったせいで、彼女の尻がこちらに突き出される。ジャージを着ていても形の良さがよくわかる。無防備すぎないかと思うが、そういうことをする人間じゃない、とそれなりに信頼されているのかもしれない。あるいは、調査に夢中になって人の目など気にしていないのか。
「……玄関の床に何がある……いや、ないんだ?」
片膝をつき、芦引に問う。
しかし、彼女はおれのことなど眼中にないかのように、懐中電灯に照らされた床を見ていた。しらみ一匹見逃すまいと目を見開き、光に合わせて黒い瞳が動く思わず唾を飲み込んでしまうほどに鬼気迫っている。
「嘘……」
ぽつり、と芦引が言葉を漏らす。
「どうした?嘘って何がだ?」
「え……?ん、ああ、木瀬君か」
おれの存在など忘れていた、とでも言いたげな様子だ。よっぽど何かあった……いや、なかったらしい。
「……これ、見てよ」
芦引が扉のガラスのすぐ傍の床を照らす。光に浮かび上がるのは、ただのタイル。
「何もない、と言えばその通りだな」
「そう、でもだからこそおかしいんだよ。この校舎、開いている窓やドアは一切なかったよね?」
「ああ、そうだな」
「催し物が行われていないことも考えると、ここは現状、誰も使っていないはず。でも、だとしたらこれは明らかにおかしいんだよ」
床を指さす。
「どうして、誰も使っていないはずの校舎の、しかも玄関の床が、こんなに綺麗なんだ?」
「……言われてみれば」
タイルに汚れはなく、蜘蛛の巣やほこりをはじめ、髪の毛一本もない。先ほど廊下を覗き込んだ時には見えなかったが、こうして近づくとよくわかる。毎日掃除をしたとして、これほど綺麗になるだろうか。
八年前に買われて催し物の一つもされていないような建物とはとても思えない。
「とは言っても、掃除くらいしそうなものじゃないか?何かに使うときの為に一応、みたいな感じでさ」
「それはどうだろう」
芦引はちらり、と瞳を横に向ける。
「もちろん、使うときの為に掃除をする、というのは考えられなくもない。けど、だとしたら校舎周りの雑草とか、そこらに落ちているごみの説明がつかない。使う時の為に整えておくんだったら、それらも管理して当然だろう。こんなだだっ広い建物、個人が家事気分で掃除するわけにもいかないし、何か理由があるとしか思えない。大体、この玄関前のスペースも放置されている割にはやけに綺麗だ」
芦引は立ち上がり、ジャージを手で軽く払う。確かに、膝の部分にちょっと土が付着している程度だ。
「理由って、何なんだ?」
彼女の姿を目で追い、尋ねる。
「……まず、校舎の周り」
芦引は先ほど見てきたものを思い出すように、校舎の角に視線を向ける。
「雑草やごみを放置しているのは、この校舎が使われていないことをアピールすることだろう」
「使われていないアピール……」
「そして、校舎の中。普通なら、侵入しても妙に綺麗だなと不思議に思う程度だろう。その裏で……地下でやっていることには、まず気が付かないはずだ」
ごくり、と音が聞こえるほど唾を飲み、芦引は口を開く。
「……この校舎、本当に何かの研究が行われているのかもしれない」
「……」
そんなまさか。
当然ながらそう思った。
こんな田舎のど真ん中で実験?あるわけない。大体、都市伝説は現実に起こらないから都市伝説なんだ。そんなことがもしあったら、事件どころじゃ済まない。
しかし同時に、もしかしたら、と考えている自分がいた。
「どうして“その可能性はない”と否定できる?」と、先ほどの芦引の言葉が浮かぶ。
そう、おれは可能性を否定しきることが出来ない。それだけの証拠が何もないからだ。あるのは「普通はこうだ」という経験則だけ。
「……仮にだ。仮にここが本当に何かの研究施設だとして、どうするんだ?」
おれも立ち上がり、足元を見つめて何かを考えこんでいる芦引を見る。
「……」
彼女の横顔を、垂れた髪が隠す。口元も右手で覆っているため、どんな表情をしているのかわからない。
怖気づいてしまったのだろうか。
さもありなんだと思う。都市伝説が現実になるなんて、普通ならあり得ない。それが今、起ころうとしている。おれは正直怖い。万が一、本当に謎の実験が行われているとしたら、それはおそらく公表できない類のものだ。今ここにいることが、後々何か良くないことを引き起こすかもしれない。今後、関係者に監視されるような生活になるかもしれない。そう考えると、ひどく嫌な気分になる。
よく見ると、芦引の肩が震えている。やはり不安を感じているだろう。そう判断し、何か声をかけようとした時だった。
「面白っ」
口を覆う右手の指の隙間から、そんな言葉が漏れた。
「くくっ……最高、最高だ……!まさか、こんなことが起こるなんてねえ……最っ高に、面白い!」
笑っていた。
抑えきれない、という風に、全身で笑っていた。
「お、おい、芦引さん?」
「いやあ、ボクたちはなんて幸運なんだろう……!」
芦引が徐にこちらを向く。やはりその表情は笑顔だった。暗闇でもそうだとはっきりわかるほどだった。
「あはは、これだよこれ……この、謎が明らかになっていく感じ!何物にも代えがたいね……」
身を震わせ、昇降口の扉にそっと手を置く芦引。
彼女は笑い続ける。しかし、その様はやや異様だった。昨日、一瞬だけ見せたあの憑りつかれたような表情。今彼女の顔に浮かぶのはそれだった。無邪気な笑顔で都市伝説を語る芦引小春ではなかった。
そう、例えるならゾンビ。四肢を失っても生ある者を求め続ける、そんな偏執的な笑いだ。
「……う、嬉しそうだな」
「ふふ……そりゃ当然だよ……!もうホントに、やばいよ……」
呼吸が荒くなる芦引。目の焦点が合っていないようにも見える。
その姿に得も言われぬ恐怖を感じ、思わず後ずさる。
「……あれ、ここ、開かないね……」
芦引は扉のドアハンドルに手を掛け、揺する。ガタガタ、ガタガタと不安を掻き立てるような音が鳴る。
「ダメだ、開かないや……」
芦引はゆらりと顔をこちらに向ける。
「……ねえ、木瀬君」
「な、なんだ?」
「ボク、この中に入って、確認しないといけないことがあるんだ。けど、カギがかかってて入れないんだ」
「あ、ああ、そうみたいだな……」
「うん。だからさ、破るしかないよね」
「はっ……?」
そう言って芦引は胸元のチェストストラップを外し、背後に落ちたリュックサックを漁る。そして中からハンマーを取り出した。
「よし……じゃ、いくね!」
「ま、待て!ダメだろ!」
玄関扉のガラスに向かって振りかぶられた芦引のハンマーに掴みかかり、すんでのところで阻止する。
「……何してるの」
想像できないくらいの低く冷たい声を芦引が発した。怒っているなどと生易しいものではない。殺意すら秘めている、そんな声音だ。
「破ってでも中に入りたいのはわかる。けどさすがにそれはまずい」
「放して」
芦引は突き放すように言う。
こういう状態の人間は他人の話など一切聞かない。いや、耳に入らないと言ったほうが正しい。忠告などしたところでほぼ無意味だとはわかっている。だけど、放っておくわけにもいかない。後で取り返しがつかなくなってしまう。
「ダメだ。他に侵入できる場所を探そう。どこかあるはずだ」
「ふざけないで。さっき散々見たでしょ。ここが一番の候補だよ。それに、もし実験をやってるなら夜のこの時間がチャンスなんだ。今入らなきゃダメなんだ!」
芦引がハンマーを握る両手に力を込める。想像していたよりはよっぽど強いが、振り下ろすには至らない。そもそも、彼女がハンマーの柄を持っているのに対し、おれはヘッドにしっかりと指を掛けている。力を入れれば入れるほど、手は滑る。
「っ……!」
予想通り、芦引の手からハンマーが抜ける。
「ほら、一旦落ち着いて。どこかで休憩……」
と、どこか座れそうな場所でもないかと目を動かして気が付いた。
正門に、一台のバンが停まっていた。ヘッドライトは消えているが、月明かりに薄く照らされたその黒いボディが浮かび上がる。そこから人が降り、正門を開けようとしていた。
まずい。
瞬間的に血の気が引いた。
彼らがどういう人間なのかはわからない。だが、この旧校舎に何らかの形で関係する人間であることは確かだろう。そんな人たちがハンマーを持った男女二人組を見て、好意的な感情を抱くはずがない。どこかに隠れなければ。
「芦引さん、ライト消して……」
「返してよ!」
しかし芦引はおれの声など一切聞かず、ハンマーに向かってとびかかってきた。ハンマーを持っていた右手ごと掴んでくる。
「返してよ、それ返してよ!どうしてボクの邪魔するの!?」
「っ……!」
そのなりふり構わない姿を見て、胸が抉られたような痛みが走った。思わずハンマーを返してしまいそうになる。
けどダメだ。これは渡してはいけない。じゃないと取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
後ずさると、芦引はおれの右手を掴んだままついてくる。
その時、ふと悟った。このまま校舎の角までいけば、隠れられるかもしれない。そう思い、空いている左手で落ちている芦引のリュックを拾う。
ちらりと正門の方に目をやる。黒いバンは敷地内に入ってきたところだった。
対しておれと芦引は校舎の角まで三メートルほどのところにいる。このままなら何とか間に合いそうだ。
「返してよ!」
そう、油断したのがいけなかった。
「……っ!?」
少し目を離した隙に、芦引がこちらに向かってタックルを仕掛けてきた。注意が逸れていたため、背後に向かって体が倒れていく。
「かっ……!」
そして何のブレーキもなしに倒れ、背中を強打した。息が詰まり、夜なのに視界が白く明滅する。力がうまく入らない。
まずい、ハンマーを取られる。
視界が曖昧で、芦引の姿が判然としない。
楽しみの邪魔をしたのだ、今の後先考えていない彼女なら、より暴力的な手段を使ってくる可能性もある。そう思い、心の中で身構えた。
しかし視界が明らかになっても、芦引は何もしては来なかった。
「あ、あぁ……」
彼女は倒れているおれを見て、頭を抱えてその場に膝から崩れ落ちた。
「芦引……?」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ボク、そんなつもりじゃ……」
「だ、大丈夫、ちょっとむせただけだ」
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
謝罪の言葉を繰り返し続ける。呼吸は荒く、目の焦点も合っていない。完全にパニックに陥っている。
「と、とにかく隠れよう。さっき正門から……」
車が入ってきた、と言おうとしたとき、突き刺さるような光に照らされた。
薄目で光源を見ると、黒いバンだった。当然ながら、先ほど正門から入ってきた車種と同じものだ。運転席、助手席、後部座席から作業服姿の人物が降り、こちらに向かってくる。
「……」
作業服姿の者が三人並び、おれと芦引を見下ろす。体格から考えて、男だろう。
「ここに何か用ですか」
真ん中に立っていた男が声をかけてくる。
「あ、いや、ええと……」
まさか、馬鹿正直に「旧校舎で謎の実験が行われていることを調べに来ました」と言うわけにもいかない。真意を隠しつつ、それなりに信憑性のあることを言わなければならない。
そうだ、例えば肝試しをしていたというのはどうだろう。端から見ればおれと芦引はカップルに見えなくもない。浮かれた二人が出来心で肝試しをしに来た、くらいならぎりぎり信じてもらえるかもしれない。
「そ、その、おれたち付き合ってて、ちょっと出来心で……」
「……ぼ、ボクたちは、ここを調べに来た」
おれの言葉を遮るように、芦引が言った。
驚いて、弾かれたように彼女の方を向く。その声音は継ぎはぎのように不安定で、裏声と地声が入り混じっている。
おそらく、パニック状態で言うべきことと言うべきでないことを判断する力が失われてしまっている。
「こ、ここは、謎の実験をやっている。そうだろう!?だからボクたちは調べに来たんだ!」
「お、おい芦引!」
「さあ、何とか言えよ。ここが怪しいのは、わかってるんだ!」
芦引は地面に手をつき、立ち上がろうとする。だが体を震わせるばかりで、地面に手をついたまま動けない。言葉だけは勇ましいが、それ以外の全てが弱弱しい。命乞いをしている捕虜と相違ない。
「……」
作業服の三人はおれたちをただ見つめる。表情はよく見えないが、その視線は無機質に感じる。
「ど、どうしたんだ、何も言えないのかい?そうか、じゃあやっぱり図星なんだね。はは、どうだ、暴いて……」
「違います」
真ん中に立つ男は、そう言った。
「は……?」
何の感情も込められていない声だった。焦りも嘲笑もなく、ただ否定のプログラムを実行した機械のようだった。
「私たちはここにレストランを作ると依頼者から言われています」
「え……レス、トラン……?」
ぽかんと口を開ける芦引。
「う、嘘だ、ここがレストランになるはずがない。じゃあ、なんで校舎の周りこんなにも汚いんだよ。レストランにするなら、綺麗にするはずじゃないか!」
「優先順位です。雑草はすぐ生えます。今刈っても二度手間になるだけです。ごみも同様です。最後にまとめたほうが効率がいい」
「じ、じゃあ、校舎の中は!何も手付かずだったじゃないか!キッチンとか、テーブルとか必要だろう!」
「依頼主の意向です。学生に戻ったような気分を演出したいとのことです」
「何も情報がなかったのは!?店を出そうとしているのに、なんでネット上に何も情報がないの!?」
「まだ準備が終わっていないからです。終わり次第告知します」
「ここを買って最初に工事してたのは!?あれは!?」
「排水管の工事です。校舎の維持をするためにすぐに取り掛かる必要がありました」
「なんで……なんでだよ!」
「芦引、落ち着け!」
「落ち着けるわけないだろ!ここは実験施設だ!」
芦引はふらつきながら立ち上がる。
「こうなったら侵入してやる。証拠を掴んで、全部暴いてやる」
「芦引!!」
彼女の右手首を掴む。多少手荒にこちらに引き寄せる。
「な、何だよ、やめてよ!放してよ!」
「……違うんだよ!」
そう叫ぶと、芦引の動きがピタリと止まった。
「え……?」
彼女がこちらを向く。目は大きく見開かれ、表情は引きつっている。
用意していた言葉が一瞬喉でつかえる。それでも言わなければならない。じゃなければ、このまま引き返せなくなる。
小さく息を吐き、言った。
「ここは実験なんかやってないんだよ。この人たちは研究者なんかじゃないし、この校舎は研究所なんかじゃない。……謎なんて、なかったんだよ。認めよう」
「っ……!」
握っている芦引の腕が震えている。その焦点の合っていない目で、じっとおれを捉え続ける。
「全部、ただのお話だったんだ」
「…………そんな」
そして、再び芦引はその場に崩れ落ちた。
発せられた声は、切れかけの糸のようにか細かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。