第五話:自分の部屋
四月になったものの、夜はまだ肌寒い。外に出ているとたまに腕をさすりたくなる。
学校から歩いて十分ほどの場所にあるアパート。閑散とした道は街灯も少なく、駅前に比べるとより一層暗い。
車が二、三台停まる駐車場を横切り、マス目のように並んだポストの中から一〇四の中を確認する。入っていたのは近場のスーパーや不動産屋のチラシだった。
ポストから数えて四つ目の白いドアの前で立ち止まる。ここがおれの部屋だ。表札に名前も書いていないので、本当にここが自分の根城なのか疑いそうになる。
カギを開け、部屋に入ろうとしたところで気づく。ドアノブに白い紙袋がかかっていた。持ち手の部分に付箋が輪っかになってつけられている。そこには「要より」と奇麗な字で書かれていた。
「……はあ」
思わずため息が漏れた。木瀬要(かなめ)、おれの妹だ。内埜の私立雪城学院中等部に通っている。今は確か二年生だ。
紙袋を手に取り、中を覗く。りんごやお菓子などの食品と、一通の封筒が入っていた。それを見て、またため息が出る。
紙袋をドアノブに再びかけ、封筒から一枚の便せんを取り出し、内容に目を通す。
『開人へ。
要です。
元気ですか。私は元気です。最近は入学式とその準備で忙しかったけど、ようやくひと段落出来ました。開人も入学した時よりは少し落ち着いたんじゃないかと思います。開人のことだから、友達もたくさんできて、色んなことで目立って、高校生活を楽しんでるんじゃないかな。
けど、私はちょっとさびしいです。正直、いきなり四月から一人暮らしするって言われて、心の整理がついてないです。今までみたいにたくさんお話を聞いてほしいです。たくさん遊んでほしいです。毎日電話もしたいです。けど迷惑だってこともわかってるから、こうやって手紙を書くことにしました。開人に手紙を書いていると、とても温かい気持ちになって、開人とつながっているように感じます。でもやっぱり会いたいです。だからまた時間があったら帰ってきてほしいです。帰ってこれなかったら電話でも、何かメッセージを送ってくれてもいいです。私はずっと待ってるから。
じゃあ、体に気を付けてね。』
読み終えると、その便せんをまた封筒にしまって紙袋に入れる。
一見すると心温まる手紙だ。しかしおれにとってそれは後ろめたさを引き起こすものだった。
要はずっと勘違いをしている。
おれがクラスメイトからの信頼が厚くて、勉強もスポーツもできる、そんな人間だと思っている。そしてこれは驕りの混じった推測だが、要はおれのようになりたいと思っている。
けど当然ながらそれは間違いだ。おれは芦引小春以外のクラスメイトとほとんど接点はないし、勉強は平均点、スポーツは帰宅部にしてはそこそこできる程度のレベルだ。とっくの昔にクラスの中心でリーダーを気取るような人間ではなくなっている。
いつか要にそのことを話すべきだとはわかっている。けどそれが出来ずに中学時代が過ぎてしまった。後になればなるほど、それを知らされたときに彼女が辛くなるだけだ。けど、どうしてもできなかった。
部屋に入ると小さな玄関で靴を適当に脱ぎ、カバンをベッドへ放り投げた。昔はこんな事したら母親にとがめられていたな、と回想した。
七畳程度の部屋は、自分でも思うほどに質素だ。ベッド、勉強机、テーブル、テレビ、あと申し訳程度に本がある棚。それ以外何もない。本当に何もない。親や、兄妹がいるわけでもない。
生活感、というものがこの部屋からは欠如していた。
そのくせに、なぜか散らかっている。はたから見たらなんてことないのかもしれないが、いつ見ても雑然としていて、まとまらない。
ここで一人暮らしを始めてから、ずっとそうだった。
高校受験を終えた時、おれは両親に一人暮らしがしたいと伝えた。怒ることも悲しむこともなく、彼らは二つ返事でそれを了承した。
親もきっと、それを望んでいたのだと思う。落ちぶれた者に時間を取られるくらいなら、多少金銭的な負担をかけてでも離れた場所へやってしまおう、と。結果的に、要はおれが入学できなかった雪城学院に合格した。昨年度からは生徒会長もやっている。文武両道で、誰からの信頼も厚い。彼女のこれからの成長を思えば、おれが間引きされたのは成功だったと言えるだろう。
そんな要だけはおれの一人暮らしに猛反対した。彼女は何度も一緒にいてほしいと涙ながらに懇願してきたが、それでもおれは実家を去った。あの時の彼女の姿を思い出すと、本当に心が締め付けられる。
ごめん、要。
今抱えているその寂しさは、全部おれが理由なんだ。おれが何にも立ち向かえない人間だから。
力なくベッドに横たわる。スプリングの反発で体が押し返された。舞い上がったほこりを少し吸い込む。部屋の乾燥と相まって、のどがいがいがした。
「……そう、今日はね、きらきら星が弾けるようになったんだ!」
外から楽しそうな声が聞こえてきた。少年とその母親と思われる。少年は母親にピアノか何かの習い事の話をしているらしい。答える母親の声はとても和やかで、慈悲深い。
大多数の親というものは、ああいう風に子に愛情を注いでくれる。こんな時間に送り迎えをするほど子どものことを第一に考え、自分の時間をすり減らしてまで手をかけてくれる。
しかし残念ながら、この世には例外がある。当然の愛を受けられない者もいる。親の言うことをいつまで経っても聞かないとか、いつも悪いことをするとか、理由は様々だ。
おれは、両親の期待に応えられなかった。
二人が望むような優秀な子供ではいられなかった。
だから母親からの愛を受けられなかったのだと思う。
自分が母親と最後にああやって話したのはいつだろう。もうかれこれ何年か、簡単な挨拶しか交わしていなかった。父親に至っては、いつ家にいたのかすらわからない。
外の親子の声が少しずつ遠ざかっていく。
……あの時までは全て順調だったんだ。
小学生の時まではテストはいつも百点だったし、体育はどんな競技でも簡単にこなせたし、クラスではリーダー的存在だった。
それが全て、あの時に狂った。
いや、違うか。
元々おかしかったものがあるべき姿に戻った、というのが正しいのだろう。おれが何でもできる万能ではなく、何もできない無能だっただけの話だ。
ベッドにあおむけになったまま、横目で勉強机の引き出しを見る。
三段あるうちの二段目の引き出し。分岐点となった引き金がそこにある。小学六年生のあの時から入れられたまま。“それ”を入れて以来、二段目は一度も開けていない。開けたくない、というのが本音だ。けど捨てることもできず、机ごとこっちに持ってきてしまった。
いつか、それを手に取るときが来るのだろうか。
少なくとも今は無理だと思った。
ベッドに寝転がったまま、腕を伸ばしてテーブルの上のリモコンを取る。テレビの電源を付けると、特番が放送されていた。左上にテロップで「衝撃!少年少女の凶悪事件!」と出ている。三年前の警察官殺害事件を取り上げているらしい。事件の再現VTRとして、見たことのない子役が犯人役をし、警察の取調室で「人を殺したかった」と無感情に述べている。この事件は中学一年生の時に起こったものだが、センセーショナルな取り上げられ方をしていたからよく覚えている。確か犯人の少年は十五歳とかだったと思う。覚えているというだけで、何か感情的にはならないが。他には、少年少女のハッキング事件や、逆に彼らが被害者となった失踪事件が紹介されていた。ただ、感想としては「こういうこともあるよな」くらいのものだ。
特に面白みは感じないので、チャンネルを変える。俗に言うゴールデンタイムのこの時間は、どこの局もバラエティ番組をやっている。面白くないな、と思ってリモコンのボタンを押していると、野球中継が画面に映された。そこでザッピングをやめた。昔は野球をやっていたから、試合を見るのはそこそこ好きだ。
だらだらと野球を見ていると、スマホの着信音が鳴った。誰かからメッセージが来たらしい。見ると、芦引からだった。学校から出る前、メッセージアプリ「ココア」のアカウントを交換していたのだ。
まともに誰かとチャットするなんて妹以来だ、と考えつつココアを開く。
『明日は夜の九時に伊谷駅集合
よろしくね』
とあった。
『了解』と送り、じっとチャットの画面を見つめる。
そうしていると、子供のように無邪気な芦引と、人に対して罪人のように怯える芦引が思い出された。
一体彼女は過去に何があったのだろう。
おそらくだが、芦引小春は元々無邪気な性格なのだと思う。都市伝説の話をしているときの彼女は、見ているこちらも楽しくなってしまうほどだった。
しかしその無邪気さを打ち砕くほどの何かがあって、彼女は自分の好きなものを他人に伝えられなくなった。本当は色んな人と共有したいのに、ずっと自分の中で留めざるを得なかった。そう考えると、部室の前で泣き出したことや、調査に来いと伝えるのに難儀したにも納得ができる。
もし自分が彼女の望みを叶える一助になれたなら、孤独を埋めるピースになれたなら、嬉しいと思う。
ただ、それを喜べない自分がいる。
勉強机の引き出しに目を向ける。
おれなんかに、その資格はあるのだろうか。
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