第四話:都市伝説

 カーテンの開いた窓からうっすらと日が差し込む。空の上の方は濃紺に染まっていて、稜線に視線を下ろすにつれてうっすらと黄色にグラデーションしていく。もうとっくに夕日は沈んだ。しばらくすれば夜が来るだろう。

 外から聞こえる音も変わってきている。サッカーボールを蹴ったり、テニスボールを打ったりする音はほとんど聞こえなくなった。

 四月中旬に差し掛かるこの時期、日が落ちると少し肌寒い。思わず腕をさすった。

「……」

 机を挟んで向こう側に座っていた芦引が無言で立ち上がり、開いていた窓を閉める。

「……」

 そして再び無言で座る。彼女は膝の上で手を組み、赤くなった目を伏せる。たまに思い出したようにこちらを見ては、弾かれたピンポン玉みたいにまた下を向く。

「……」

 外からの音がなくなり、部室内の沈黙が際立つ。何か話すべきかもしれないと思う。しかし何を話したらいいかわからず、時間だけが過ぎていく。

 あれからもう一時間ほど経っていた。オカルト研究部への入部を認められ、ずっと廊下で芦引を泣かせるのも良くないので、とりあえず部室に入った。芦引はその後もしばらく泣いていたが、次第に落ち着きを取り戻した。

 そして今に至る。

 この部活について色々聞きたいことはあるのだが、さっきまでわんわん泣いていた芦引を質問攻めするのはよくないだろう。そう思い彼女が話題を切り出すのを待っているのだが、一向にその気配はない。

 考えてみれば、芦引がこうなるのも致し方ないのかもしれない。クラスが同じと言うだけでほぼ初対面のおれに、号泣する姿を見せてしまったのだ。恥ずかしいとかそんな次元ではないはずだ。おれが彼女の立場なら、来週の月曜は学校を休む。

 うーん、どうしたものか。

 心の中で頭を抱える。

 何かフォローになるようなことを言えるといいのだが、それが逆に相手を追い詰める可能性もある。そう考えると、おれとしてもどんどん話すタイミングを失ってしまう。

「……」

 お互いの浅い息の音が聞こえそうなほどの静寂。机の上に置かれたデジタル時計が時を刻む音すら聞こえてきそうだ。

 どうにかならないものだろうか。

 しかし相変わらず芦引は瞳を右往左往させているし、おれは沈黙の打開策が思いつかない。

 自分から入部したいと言い出しはしたが、既に帰宅したくなってきた。家に何かあるわけではないし、むしろ何もないが、ここで神経をすり減らすよりはよっぽどマシな気がしてきた。

「……ひゃっ!」

 と思っていたとき、急に芦引が椅子から飛び上がった。何事かと思っていると、彼女は慌ててポケットからスマホを取り出す。バイブレーター音が部室に響く。

「も、もしもし……何、父さん」

 電話に出る芦引。久しぶりに声を出したからか、少しむせていた。

「うん……今日はもしかしたら遅くなるかも……うん、先食べてていいよ」

 部室が静かだから、スピーカー越しに芦引の父親が何を言っているかがわかる。どうやら今日の夕食をどうするか聞いているようだ。

 「じゃあね」と言って芦引は電話を切る。彼女はおれの顔を見て、気まずそうな表情をした。

「えっと……キミは晩御飯とかは大丈夫?」

 恐る恐る、と言った風に芦引が言う。

「あ……うん、そこらへんは自由がきくから」

 先ほどの芦引同様、おれも久しぶりに声を出したので喉が詰まった。少し咳ばらいをする。

「あの……何かごめんね。ボク、急に泣いたりして」

 苦笑いして、芦引は頬を指でかく。

「いや、別に気にしないでいいよ。おれも気にしてないから」

 手を振って否定する。生きていれば、急に泣きたくなる時だってある。それを事情がわからない他人が咎めるのはナンセンスだろう。

 「そっか」と言うと、芦引は今度は目を逸らさず、興味深そうにじっとおれを見る。

 初めて彼女の顔をはっきりと見る。うなじのあたりで切りそろえた髪が、少し丸い顔を縁取るようにしている。大きな瞳は子どもみたいにくりくりしている。興味深そうにこちらをうかがう様子から、少女と言うよりは、少年のような印象を受ける。鼻が少し低いのも相まって、高校生よりは中学生に見える。

「キミは、あまり何も言わないんだね」

 芦引はしみじみと呟く。

「え、何がだ?」

「ボクのことだよ」

 芦引は少しだけ口角を上げて笑った。

「ボクはキミに冷たい態度をとってた。キミの入部も一度は断ったし。かと思ったら急に大号泣。……こんな変な女子、普通なら何か聞きたくなるはずだよ。ボクも色々聞かれたらどうしようって身構えてたのに」

「別に、おれは芦引さんじゃないしな。そりゃ何か事情はあるんだろうけど、聞き出そうとは思わないよ。話したくなった時にそうするのが一番だ」

 それは彼女の一人称に対してもだ。この部屋に入る前から、芦引が自分のことを”ボク”と呼んでいるのはとっくに気が付いていた。

一般的に、女子の一人称は私やあたし、うち、あとは自分の名前とかだろう。”ボク”というのはおそらく多数派ではない。けど一人称なんて自分の好きなようにすればいい。芦引が自分のことを俺様と呼んでいたところで、おれに何か不利益があるわけでもない。

 それに、ここで彼女の一人称について問いただしたら彼女も困ってしまうだろう。そうなったら余計に気まずくなる。それは面倒だ。

「……何と言うか、今日会ったのがキミでよかったよ」

 先ほどのように自嘲気味ではなく、芦引は安心したような笑みを浮かべる。

「キミがもっとボクに色々聞くような人間だったら、ボクは来週の月曜から不登校になっていたかもしれない。……もしかして、ボクが話し出すの待ってたの?だからここに来てから、何も言わなかったとか?」

「いや、別にそういうわけじゃない。単に人と話すのが苦手なだけだ」

「ふうん、そっか」

 芦引は今度はにっこりと笑った。

 いい笑顔だな、と思う。見ているだけで自分も温かい気持ちになる。少なくともおれは、あんな風には笑えない。

「さっきは勢いでああ言ったけど……キミとなら、仲良くなれそうだ」

 芦引は立ち上がると、右手をこちらに差し出す。

「オカルト研究部に入ってほしい。改めて、キミにお願いするよ」

「ああ、こちらこそ。よろしく」

 おれも立ち上がり、彼女の手を握った。

「……あ」

 そこで芦引はぽっ、と口を丸くする。

「よろしくとは言っても、ボク、キミの名前知らないんだよね。何て言うの?」

「へ?」

 拍子抜けして、思わず変な声が出る。

「あれ、ボク何か変なこと言った?」

「いやその、おれクラスメイトなんだけど……一年一組の」

「え、そうなの!」

 驚き、芦引が大きく目を見開く。

「あー、でもボク、教室に誰がいるかとか覚えてないしなあ……いまだに隣の席の女子の名前もわからないし」

 言われてみれば、おれも昨日まで芦引小春がクラスメイトだと知らなかった。お互い様ということだろう。

「……ま、いいんじゃないか。おれも誰が誰かとかあんま覚えてないし」

 人とのかかわり方では、芦引もおれも同じなのかもしれない。

 そんな二人がこうして部活仲間となった。劇的に言うのであれば、これは決まっていたことだったのかもしれない。

「木瀬開人です。よろしく」

「うん、こちらこそ!木瀬、開人くんか……うんうん、いい名前だ。特にボクは好きだ」

「好き?おれの名前が?」

 大して特別な感じではないと思うが、芦引の顔を見るに、とても嬉しそうだ。

「そりゃあもう。まあ、こっちの話だよ。気にしないでくれ」

 ふふふ、と笑う芦引。

 理由は知らないが、自分の名前が好きだと言われるのは嬉しいものだ。何だか、自分が受け入れられたように感じる。

「今度はボクの番だね。改めまして、ボクの名前は芦引小春。オカルト研究部、部長だ。よろしくね」

 芦引は両手でおれの手をしっかりと握った。

 オカルト研究部、部長。

 なるほどな。

 それを聞いて、この部屋に漂っていた一つの違和感が晴れる。

「ちなみに、部員はボクとキミだけだよ」

 芦引は肩をすくめ、おれの考えを読んだかのように言った。

「ああ、察しはついてる。気楽でいいな」

 「まったくだね」と芦引は頷いた。

「……さて!オカルト研究部の部員になったからには、早速色々知ってもらいたいことがある。差し当たっては、ボクが今調査してる内容についてだ」

「いきなり急だな。今やってるのって、さっき言ってた”旧校舎の実験”ってのか?」

「その通りだよ」

 芦引はにこにこと、カバンの中からクリアファイルを取り出す。付箋が一枚貼られていて、“旧校舎の実験”とラベルが付けられている。

「ではでは、第一回のミーティングを始めよう!木瀬君、しっかりと傾注したまえ」

 ばっとファイルから紙を取り出し、トランプのように机に並べていく芦引。うきうきしているのが目に見える。今の彼女は、体育館での彼女とはまるで別人だ。

 今のはつらつとした様子が素なのだろうか。しかしつい数十分前までおれに対して冷たい態度をとっていたし、急に泣き出したりもしていた。このアップダウンの激しさは、単にそういう性格だから、というわけでもなさそうだ。

「さて。とりあえず“旧校舎の実験”について説明しよう。とは言ってもタイトルのまんまで、伊谷高校旧校舎で謎の実験が行われているという話だ」

「旧校舎?この学校そんなのあったのか」

「実はそうなのだよ」

 芦引は机の上の紙から一枚取り上げる。カラーの衛星写真だ。

「これが旧校舎だ」

 写真の真ん中を芦引が指差す。畑が多く、その中に取り残されたようにぽつぽつと住宅が点在する土地。その中央に、ぽっかりと穴が開いたように土のグラウンドがあり、その北端に校舎と思われる建物が映っていた。伊谷市は県の中心である内埜市から外れた場所にある。駅の周辺はベッドタウンとしての需要が高く、ある程度栄えている。だが、そこから離れると一気に田舎感が増す。伊谷高校旧校舎のある辺りなど、ザ・田舎と言った具合だ。

「この校舎に”旧”の文字が付いたのは今から十年前だ。校舎の老朽化が原因らしい」

「そんな場所で実験をやってると。七不思議系にはよく出てきそうな話だな」

 学校という舞台に加え、建物が古いとくれば土壌は完璧だ。あとはちょっと種がまかれれば、七不思議のような話はいくらでも生えるだろう。

「けど先生から聞いた話とネットの情報から考えると、全くのほら話というわけでもなさそうなんだ」

「学校で実験やってるってのが?」

「うん、まずはこれを見てほしいんだけど」

 芦引は机の上の資料を一部よこす。どうやらWebページを印刷したものらしく、束になってホッチキス留めがされている。どれもつらつらと文章や画像が続いていて、丸いアイコンとその隣にユーザー名が示されている。

「ツイーターか」

「その通り」

 ツイーターとは、ソーシャル・ネットワーキング・サービス、略してSNSの一種だ。ツイートと呼ばれる140文字のメッセージや画像・動画などを投稿できる。ここで流行ったもの、俗にいうバズったものが社会現象を起こすこともある。

「それほど拡散されてるわけじゃないけど、伊谷旧校舎に人影がいる、っていう報告は意外にも多いんだ。」

 受け取った資料を眺める。ぱらぱらと流すだけでも、それなりのツイート量があるのがわかる。一番前だと4年前、今15歳だからおれが小学5年生の時までさかのぼる。画像付きのツイートを見ると、それほどはっきりとは見えないが、確かに校舎の廊下に人影が写っている。怪奇現象の類ではなさそうだ。

「本当に人はいるみたいだな。怪しいと言われれば怪しいか」

「その人たちについて、関係ありそうな話を昨日職員室で聞いたんだ」

 芦引は右手の人差し指をぴんと天井に向け、語り始める。

 そういえば昨日、芦引とは職員室で会っていたのだった。先生に聞き込みを行っていたということか。

「どうやら伊谷高校の旧校舎は、八年前に個人が買い取ったらしいんだよ」

「個人が?」

 高校生の身ではあるが、土地の購入が資金と決心のいる判断だということはわかる。

「そう、個人が。次はこの写真を見てほしい」

 手渡された写真は、旧校舎のフェンス沿いの道から撮影したもののようだ。時刻は夕方だろうか。ところどころ雑草が生えたグラウンドと、少し色あせた校舎が夕日に染まっていた。

「どう思う?」

 そう問われ、もう一度写真を眺めてみる。目に見えておかしな点や、目立ったようなものは何もない。

「どう思うって言われてもな……グラウンドと校舎しかないなって感じだ」

「その通り、何もない。しかしそれが問題なんだ」

 芦引は立ち上がり、こつこつと机の周りを歩きながら話す。

「この旧校舎の写真は、ボクが一昨日学校帰りに撮ったものだ。既に旧校舎の購入からは八年が経過している。なのに土地が利用された形跡は一切ない。店もなければマンションもないし、工事すらされていない。近くに住む人たちに少し聞いてみたけど、彼らもこの土地についてはほとんど知らなかった。唯一、買い取られて半年ほどは工事してたみたいだけど、それ以降は多少車が出入りするだけで、何かやってる感じじゃないらしい。変だと思わないかい?」

「……まあ、確かに。ちなみに、始めるのに時間がかかってる、みたいな可能性は?」

「調べてみたところ、そういう情報すらなかった。ネットで調べても、先生や住人に聞いてもね。これは明らかにおかしい。だとすると、こう考えられる。放置はフェイクなんじゃないか。すると、あの七不思議が現実化する」

 芦引は窓の前で足を止め、こちらを振り返った。

「旧校舎の地下では、公にできないような実験が行われている」

 そう言う彼女の瞳は、夜なのにぎらぎらと光っていた。

 そんな馬鹿な。

 反射的にそう思った。

 今彼女が言ったことは、人工地震や自作自演のテロなどの陰謀論に等しい。

 陰謀論の厄介なところは、それが否定できないところだ。無茶苦茶な話であることは自明なのに、曖昧な部分が多くて断定ができない。だからあまりに様々な見方ができてしまう。

 ただ、所詮は陰謀論だ。ちゃんと調べて曖昧なところがなくなれば、大抵真相は陰謀論とはかけ離れている。宇宙との交信も、思考盗撮も、そんなものはないのだ。

 と、おれは思っている。都市伝説が話として面白いことは事実だが、そのほとんどは現実ではない。

「……ボクは都市伝説が好きだ」

 芦引は目を細めて、外を見下ろす。

「あの銅像は本当に動くのかもしれない、あの木の下で告白したら本当に結婚できるのかもしれない……じゃあそれを確かめずにはいられない。調査して、真相に近づいていく瞬間がたまらないんだ」

 そう言う彼女の瞳はらんらんと輝いている。

「ボクはその時がホントに楽しい。ボクが芦引小春として生きていることを実感できる」

 芦引小春の瞳は宝石のように光り輝いていた。

 都市伝説が好き。その純粋すぎる心が表されていた。

 しかしその光は脆さを持っていた。ガラスのコップのように、不用意に触れたら砕け散ってしまいそうだった。

 だから何も言えなかった。

 もちろん、おれは都市伝説なんてただのお話だと思っている。けれど彼女が灯す光を消すような真似は到底できなかった。

「……都市伝説はただのお話」

 不意に発されたその言葉にどきりとする。

「都市伝説なんて言うのは、誰かが誰かを楽しませるための物語。あるいは、理解できないことを理解しようとして作られた道具でしかないのかもしれない。そんなことはボクが一番わかってる。……それを思い知らされるときは、本当に悲しい。またダメだったんだって」

 芦引はぱっと手を開く。彼女の手から色々なものが流れ落ちていく。都市伝説が本当かもしれないという期待、調査しているときの楽しさ、自分が自分でいられた時間……。

「けど、いつの間にかまたこうして調査をしてる。何か面白い都市伝説がないか探してる」

 開いていた手のひらを、強く握る。

「この気持ちが消えるまで、ボクは挑み続ける。たとえ一億分の一の確率だったとしても、この世に存在する都市伝説を暴く」

 その表情は、都市伝説に憑りつかれているようですらあった。

 瞳の脆い輝きは、彼女の強さと破滅を表すのかもしれない。

「……って、変なこと話しちゃったね」

 芦引は苦笑し、こちらを向く。

「別に、変とは思わないよ。それだけ都市伝説が好きってことだろ?」

 夢中になれるものがないおれにとって、彼女の姿は危険でありつつ、魅力的なものに見えた。

「……ありがとう。本当に、ここにいるのがキミでよかった。こういう話をして否定しなかった人、今までいなかったから」

 熱く語り続ける芦引と、彼女に対して鼻で笑ったり、「それはおかしい」「やめることが貴方のためだ」と忠告したりする他人の姿は、容易に脳裏に浮かんだ。

 芦引を否定する彼らが間違っているとは思わない。むしろ、将来の彼女が好きなもので苦しみ続けることを思えば、正しいとも言える。

しかし、今この瞬間の芦引小春にとっては正しくない。自分の好きなものを否定されるというのは、それが好きな自分を否定されているのと同じだと思う。きっと今彼女に必要なのは、自分の好きなものを好きと思っていいと安心することなのだろう。

「否定するようなことじゃない。何かあったら協力しようくらいには思ってる」

「そっか。……じゃあ、一つだけお願いしてもいいかな?」

「うん」

 頷く。

 肯定を受け取り、芦引は一度ごくりと唾を飲み込んだ。そして一度口を開け、閉じる。俯き加減で、速い呼吸を何度か繰り返す。

 大丈夫か、と声を掛けようとしたが、思いとどまる。彼女は何かを超えようとしている。自分が抱えるものと向き合い、それを乗り越えようとしている。

「あ、あのね」

 シャツが破れそうなほど強く、自分の胸元を両手で握る。

「お願い、します。一緒に、来てほしい」

 そう言うと、芦引は、許しを請う罪人のように頭を下げた。

「……あ、ご、ごめんなさい、キミの予定とか聞いてなくて……強制じゃ、ないです。何かあったら、来なくても、いい、です。サボりとか、言わないです……ボクのわがままです、ごめんなさい……!」

 芦引は謝った。おれは何も不快感を抱いていないのに、頭を下げ続けた。

 その姿には、今までかかわった誰かに対する、強い罪悪感や怯えがそこにあるような気がした。

 それに、一緒に来い、とは言ったものの、それ以外の情報が何もわからない。いつなのか、どこなのか、そういうものがすっかり消えてしまっている。まあ行く場所の想像はついているが、それに気が回らないほどいっぱいいっぱいになっているのだろう。

 だとすれば、おれが今すべきことは決まっている。

「いいよ」

「えっ……?」

 芦引が恐る恐る顔を上げる。前髪の間から覗く目が、信じられない、と言いたげにこちらを向く。

 色々と気になることはある。しかしそんなものは後回しだ。少しでも間違えれば、彼女の心はふさぎ込んで二度と出てこなくなる。常に体育館で膝を抱えていたような姿をするようになる。容易に想像できた。

「全然OKだ。どうせ予定なんてないし、あったとしても何とかなる」

「あ、ご、ごめん、一緒に来いって言うだけで、詳しいこと何も言ってなかった……」

「気にしないでいいよ。ちなみに、場所と時間は?」

「あ、えっと、明日の夜に、伊谷旧校舎に行くから、伊谷駅かな……」

「了解」

 やはり。

 彼女はおれを伊谷高校旧校舎の調査に誘おうとしていたのだ。断る気など全くなかったが、彼女にとっては相当の覚悟が必要なことだったらしい。

「え、ほ、ホントに?ホントにホントに?嘘じゃないよね?」

 芦引はまるで十年来の告白が受け入れられたかのように、何度も何度も問い直す。

「うん。ホントだ。嘘じゃない」

「そ、そっか……ホントに……ホントに、良かった……」

「お、おい!」

 芦引の力がふっと抜ける。彼女の肩に手を添え、崩れ落ちそうになるのを何とか支える。

「あはは、なんか急に安心して、力抜けちゃった……」

「おぉ……とりあえず座ろう」

「大丈夫だよ、ありがとう」

 壁や机に手をつき、芦引はゆっくりと椅子に座る。しばらくすると、顔色が少しずつ良くなっていくのが見て取れた。

 相当だな、と思った。

 性別の壁はあったが、言ってしまえば芦引はオカルト研究部の活動に来い、と言おうとしただけだ。それなのに、彼女は安堵で倒れそうになるほど不安と緊張を抱えていた。よっぽどのことがなければ、こんな状態にはならないはずだ。

 何とかしなければならない、と強く思った。

 芦引を救う、などと大層なことは言えない。おれがどれだけ手を掛けようと、それが良いか否かは彼女が決めることだ。

 しかし、自分にできることがあるならせねばならない。そんな義務感が心を覆った。

「……もう、7時半か」

ふと、机上のデジタル時計に目をやると、1930という表示がされていた。伊谷高校の最終下校は二十時だ。

「そうだね……今日はここら辺でお開きとしようか」

「わかった」

「……じゃ、明日はよろしくね」

「ああ」

「その……待ってるから」

 そう言うと、芦引は薄く笑みを浮かべた。少し口をひきつらせたようで、ぎこちなかった。

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