第三話:孤独への干渉
「起立、気を付け、礼」
クラス委員長の挨拶に合わせて、礼をする。担任の中屋が「はい、さようなら」と言うと、クラスはそれまでの窮屈な空気から解放された。ある者はすぐ教室を出る、ある者は近くの生徒とおしゃべり、ある者はスマホをいじる。
学校生活は好きではないが、この瞬間は何とも言い難い幸福を感じる。それに明日が土曜日となれば、喜びもひとしおである。
まあ、一週間の苦痛を考えれば差し引きゼロなのだが。
さて、自由な時間は有限だ。さっさと家に帰ろう。
「おーい、木瀬」
と、カバンに手を掛けたところで、教壇の中屋から声を掛けられる。
「なんだ、めんどくさい」という気持ちは心の中で留め、カバンを持って彼の元へ向かう。
「何ですか」
「忘れてるかもしれないから、一応言っておこうと思ってな。部活見学行っておけよ」
げっ。
そういえば昨日、そんなことを言われていたと思い出す。とっくに帰るつもりだったが、ここで先生を無視すれば無駄に注目を浴びる。そうなれば、ただでさえめんどくさい学校生活が悪目立ちの視線に焼かれる煉獄になってしまう。
「はい。来週の月曜にプリント出せるようにします」
「頼むぞ。そうじゃないと俺が小言を言われるからな」
その発言は教師としていかがなものかと思う。とはいえ、中屋の勤務態度がどうだろうと、最低限の責務さえ果たしてくれればおれに害はない。部活に関しては、中屋にぐちぐち言ったところで何にもならない。むしろ、生徒全員部活に入らなければならない学校のルールの方がよっぽど悪い。
ただ、おれ一人が反抗したところで革命は起こらない。ここはとりあえず中屋に従っておくべきだろう。
「さようなら」と先生に言い、教室を後にする。廊下は夕焼けに照らされ、赤みを帯びている。その赤色で、陰の濃さが際立っていた。
さて、部活見学どうしようか。
入りたい部活などない。小学校の三年間と中学校の入学当初だけ野球をやっていたが、今更運動部に入る気はない。練習はしんどいし、顧問は権威だけ振りかざして押さえつけるように物を言ってくるし、人間関係も殊更にめんどくさい。
やはり入部するなら文化系、それもみんなで何かを目指したりしないところがいい。目標があるからすれ違いが起き、面倒なことになるのだ。
各クラス用に割り当てられた教室の多いA棟から、選択科目用の特別教室が多いB棟へ向かう。B棟は放課後に文化系の部活が使う教室が多い、と入学後の部活説明会で聞いた。美術室なら絵画部、調理室なら調理部、といった具合だ。
B棟の二階にたどり着く。ここに来ると、吹奏楽部のものと思われる美しい演奏が聞こえてきた。階段を上がって三階に着くと、それが更に大きくなる。
廊下を進み、三階の西端に位置する音楽室を確認する。
音の波が体の中心を叩くようだ。もう少し近づけば、音に触れそうな気さえする。
この旋律を奏でるために、どれだけの苦悩があったのだろう。個人個人の力量はもちろんのこと、たくさんの人間が一つの曲を紡ぐためには、心を一つにしなければならない。それはとても大変なことだと思う。人間はそれぞれ考え方も感じ方も違う。誰かのためによかれとやったことが違う誰かの逆鱗に触れることだってある。そんな困難を乗り越えてまで一つの曲を成し遂げるのは、もはや狂気的な熱を感じる。
自分にそんなことは到底できないだろう。他者との関係を避けたいような人間がのこのこと入っていい部活ではない。
音楽室を後にして、三階の東端へと向かう。こっちには何があるのだろう。ただ、人がいるような気配は一切感じられない。
音楽室と真逆の位置にも部屋があった。大きさは普通の教室の半分程度で、教室というよりは実験準備室とか、それくらいだ。
部屋のドアの窓にA4サイズの紙が貼られていて、黒のマジックで部屋の名前が簡素に書かれていた。
「オカルト研究部……」
それを見て、今日の体育の授業を思い出す。体育館で小さく座っていた彼女、芦引小春はこの部屋にいるのだろうか。
無礼な話かもしれないが、オカルト研究部の部室が棟の端にあることと、芦引が体育館の隅で座っていたことが一致しているように思えてしまった。
中に、入るべきだろうか。
知り合ってわずか一日しか経っていないのだから、過干渉するべきじゃないのはわかっている。
ただ、体育の授業であのような姿を見せた芦引とは何か話をしなければならない。そんな使命感とも、衝動とも感じられる何かが自分をせかす。
一度唾を飲み、息を吐いてから、ドアを二回ノックした。中からの反応を待つ。
「……」
しかし、部室の中からの反応はない。耳を澄ませてみるが、遠くで吹奏楽の演奏が聞こえるばかりで、人がいるかどうかはわからない。
もしかすると、今日は休みだったのかもしれない。あるいは七不思議の調査に出ているとか。
ここで部員が来るのを待とうか。それとも、今日はタイミングが悪かったことにして帰ろうか。
「何をしてるんですか?」
「うわっ!」
左隣から声をかけられて驚く。振り向くと、彼女が眉をひそめておれを見ていた。
「あ、キミは……」
「ああ、えっと、こんにちは」
「……ごめんなさい、ここオカルト研究部の部室なので……入ってもいいですか?」
芦引は挨拶に応えず、そう言う。彼女は両手でファイルを抱えていた。調査に必要な資料だろうか。
「うん……こっちこそごめん」
挨拶を返されなかったことに軽くショックを受けつつ、さっと部室の前からどける。芦引は小さく会釈して、そそくさとドアの鍵を開錠する。
……いいのだろうか。
このまま話す機会を失ってしまうと、もう二度と芦引と関わりを持てない気がする。いや、おそらくそれは正しい。おれは何故か、初対面よりも二、三度話した相手の方が接しにくさを感じてしまう。「気持ち悪いと思われてないか」「変な奴だと思われてないか」、そんな懸念が膨らんで、時間とともに人との距離が疎遠になる。このままであればその懸念が重なって、芦引とはただのクラスメイトになるだろう。
再び脳裏には体育での芦引の姿が浮かぶ。彼女は殻に閉じこもっていた。クラスメイトからの誘いを断っていた。一年生の四月は、誰だって仲間が欲しい時期だ。逆に言えば、そんな時に誘いを断るような人間をクラスメイトは今後受け入れるだろうか?おそらくNOだろう。このままであれば、彼女はきっとクラスからいない者のように扱われる。少し行動を起こしただけで、「幽霊がしゃべった」みたいに陰口を叩かれるようになる。それがわかっていながら、おれは何もしないのか。
何もしない方が良いときだってあるだろう。例えば芦引が既におれのことを「変に絡んでくる気持ち悪い奴」だと認識していたなら、大人しくこのまま帰るべきだろう。今後、芦引がクラスに溶け込む可能性だって十分にある。友人に「木瀬開人はキモイ」と話し、それがクラスに広まり、肩身の狭い一年を過ごすことになるかもしれない。そんな面倒な状況に陥るのはごめんだ。わざわざ地元から少し離れた伊谷高校に来た意味がない。
……と、こんな風に葛藤してみたが、それに意味がないことはとっくにわかっていた。
おれは最後の覚悟をするための時間が欲しかったのだ。答えなんて、体育の授業の時にとっくに決まっていた。遅かれ早かれ、彼女には接触するつもりだったのだから。
「……あのさ」
ドアを開けようとした芦引を呼び止める。彼女は先ほど以上に警戒した様子でこちらに視線を向けた。
「何?やることがあるって言ったよね」
「……やることって、調査?」
「そうだけど」と芦引は頷く。
「今は何を追っているの?」
「何って、『旧校舎の実験』について調べてるけど……って、そんなのキミには関係ないでしょ」
芦引はそう言い捨て、部室のドアに手を掛ける。
「まあ確かに、おれは関係ないし、調査ってどんなことをするかも知らないけどさ……でも芦引さん、楽しそうだし、これが好きなんだろうなって。ただそう思っただけ」
再び、芦引の手が止まる。
「……ま、まあ、調査はそれなり……いや、普通に、とても……楽しいし、好きだけど……な、何が言いたいんだい。昨日も同じ感じのこと言ってたけどさ、からかってるの?」
芦引は体ごとこちらを振り向き、こちらを睨みつける。
「そ、そういうわけじゃない」
慌てて手を振って否定する。背中を嫌な汗が伝う。
「あの報告を読んだとき、芦引さんが本当に都市伝説を好きなのが伝わってきて、知りたいと思ったんだ。都市伝説のどういうところが楽しいのか。……だから、オカルト研究部、入部したい」
一言一句、確かめるように言った。
オカルト研究部に入ること、それは今自分が持つ唯一の望みだった。ついさっきまで部活に入る気がなかった人間だとは自分でも思えないが、まごうことなき本心だ。
緊張のせいか、心臓の鼓動が速い。背中にかいた冷や汗も止まらない。
「……やめてよ」
しかしおれの思いもむなしく、芦引はそう言って顔を伏せた。
その瞬間、全身から血の気がさーっと、音が聞こえそうなほど引いた。
ダメだった。
おれの願いは、彼女には届かなかった。
つい先ほど考えていた、受け入れられなかった時のシナリオが沼に湧く泡のように浮かぶ。残念ながら、当たり障りのない高校生活はもう送れなさそうだ。まさか、入学して一週間足らずで理想の高校生活が破綻するとは予想だにしなかったな。
「私は、そんなこと望んでない」
芦引はファイルを掴む手に強い力をこめる。
「今まで、自分のやってることに興味を持ってくれた人はいた。キミみたいに言ってくれる人だっていた。……でもそういう人たちは決まって離れていった。ある日突然。そしてみんなこう言う。『ついていけない』って」
芦引はおれに背を向ける。彼女の肩が小刻みに震えていた。
「キミだってきっとそう。入ってすぐは楽しいかもしれない。けどずっとは続かない。すれ違うようになって、最後に私を裏切っていなくなるくらいなら、ずっと一人でいい」
背中にはっきりと「拒否」の二文字が見て取れた。その姿が、体育館で他人を拒絶していた彼女と重なる。
彼女は孤独を望んでいる。
最初からわかっていたじゃないか、過干渉だって。
「ごめん。おれが悪かった」
萎んだ心から絞り出したような声で謝った。
「……別に、キミが謝ることじゃない」
おれの言葉を背中で受け、芦引は小さく首を横に振った。
「こうしたほうが、お互いのためなんだ」
そう言って芦引は部室のドアを開ける。そこには誰もいない。両壁の本棚に挟まれるように、古い長机と椅子がぽつんとあるだけ。
「……あのさ、最後に一つだけ言わせてほしい」
部室に入ろうとする芦引の背中に向かって、言葉を投げかける。自分の意地の悪さに少し辟易する。もう聞いてもいないだろう。けど、せめて最後に、これだけは言っておきたかった。
「あの報告書……職員室前の。また更新されるの楽しみにしてるよ」
それだけ言って、おれは踵を返して彼女に背を向けた。
ホント、おれは何をやってるんだろうか。自分から人に近づくなど、三年前に後悔してやめたはずだった。人と関わって起こる後悔が何よりも辛いはずだったのに。
今度こそやめよう。また罪を背負ってしまう前に。
「……」
と、歩き出そうとしたが、右の袖を引っ張られて足を止める。
「……なんで?」
引き留めたのは、芦引だった。
「……え?」
「なんでキミはそんな風に見てくれるの?」
芦引は顔を伏せ、少しかすれた声で言う。
「そんな風に?」
聞き返すと、芦引は大げさなほどに強く頷いた。
「そう。どうして?」
「どうしてって言われても……そんな風にって、どういう意味なんだ?」
そう問うと、芦引はおれの袖を掴んだまま黙った。その間が何か決心をするために、覚悟をするために必要なものに見え、おれも何も言わなかった。
しばらくして、ひゅっと音を立てて芦引は息を飲んだ。少し過呼吸気味にも聞こえた。そして、小さな声で吐露した。
「……昔から、都市伝説を調べるのが好きだった。けどそれを、家族以外に認めてもらえなかった。自分の趣味が何で、普段を何をしているか、それがどれくらい好きかを、先生、クラスメイト、ずっと一緒にいた人……誰に言ってもほとんど同じだった。たまに一緒にいてくれた子も、『実はそんなに興味なかった』とか、『好きすぎてキモイ』とか……ずっとずっと、小学校から今まで言われ続けてきた。頭がおかしいとさえ言われた。だからこの趣味は、家族以外に誰とも共有せず、一人で孤独にやるしかないんだと思ってた。けど、キミは……!」
芦引が、両手でおれの右腕を強く掴む。抱えていたファイルが落ちるが、意に介さない。
「キミは“ボク”を一切遠ざけなかった……!けなすことも笑うこともなく、ただ真っすぐボクの好きなことを見てくれる……!」
芦引が顔を上げる。彼女の大きな瞳が濡れ、頬を伝う涙が光った。
「教えてほしい……っ、どうして、そんな風に、ボクを見てくれるの……?」
芦引は右腕を掴む力を更に強くする。涙が流れ続けるその目は、おれを離さんとする。まるで、地獄に垂らされた蜘蛛の糸にすがるように。
「……おれは、芦引じゃないからさ、どうしてそんなにも都市伝説が好きか、なんてのはさっぱりわからない。けど単純にさ、そうやって好きなものを本気で楽しんでいる姿は、とても良いなと思った。それだけだよ」
「っ……!」
おれがそう言った瞬間、芦引の目から大粒の涙がたくさんこぼれた。溢れて溢れて、流れていく。今まで溜まっていた何かが堰を切った、そんな様子だった。
「……入ってほしい」
芦引はおれの腕に額をつける。
「……オカルト研究部に、入ってほしい……ボクと一緒に……これから……っ!」
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