第4話 <狼>と<月飼い>①

「ふむ……まぁ、気持ちはわからなくはない」

 グレイは少女の低い声音の意志ある宣言を聞いても、さほど表情を変えることなく静かに頷くだけだった。

「だが、お前独りでそれを成すのは難しいだろう。――まさか、その背に背負う弓で、全世界を相手取るとでも?」

 ふ、とやや小馬鹿にしたように言われて、ハーティアはぐっと言葉に詰まる。

 わかっている。自分独りの力では、そんなことは不可能なのだと。

「――協力、して……もらえませんか…」

「……ほう」

 ぴくり、とグレイの眉が跳ねあがる。面白そうなものを見つけた、とでも言いたげな黄金色の瞳が、ハーティアをじろりと見やった。

「私に出来ることなら、何でもします。何でも差し出します。だから――だから、ヒトを、滅ぼす、力を貸してください」

「ふむ……なるほど?」

 喉の奥で静かに笑いを噛み殺しながら、グレイは瞳を面白そうに緩ませて、小柄な少女を見下ろした。

「いいのか?<狼>は怖くて近寄りがたい存在なのではなかったのか?」

「――いいえ。……そ、そりゃぁ、確かに、少し……怖いのは、本当です」

 先ほど見た、どう考えても自然法則に完全に逆らっている未知の巨大な力を思い出し、ふるっ……と震える。彼が手を掲げ、指を鳴らせば、それだけで、ハーティアの命など簡単にこの世から消えてなくなるのだろう。そうでなくても、彼が再びあの巨大な白銀の獣となって、獰猛な牙でも爪でも一つ突き立てられれば、柔らかな肉の塊であるハーティアなど、きっとひとたまりもあるまい。

「だけど――貴方は、私を、助けてくれた」

「……ふむ」

「村人を、『月の子』と呼んで――埋葬してくれた。彼らの死を、悼んでくれた。……もし、本当に、私たちもヒトも等しく『人間』だからといって憎んでいるのなら――いくら私が、<月飼い>の証である水晶を持っているからと言って、ここまでしてくれる謂れはないはずです」

 <月飼い>の代表者だけが狼と接点を持てるという事実を考えれば、ハーティアの首飾りを理由に助けてくれただけかもしれない、と思っただろう。もし村の大人たちが言っていたように、彼が人間である<月飼い>を憎んでいるとしたら、儀式遂行のためには仕方がない――と生かしているだけなのかもしれない。

 だが、「鼻が曲がる」と言いながらも村の中までついてきてくれて、代表者でもない村人たちもまた『月の子』と愛し気に呼び、このままでは浮かばれぬ、といって埋葬をしてくれた。

 その行動に――ハーティアは、意味を見出したい、と思っていた。

「まぁ……少なくとも私には、お前たち『月の子』を忌むような理由はない。知らなかったか。我ら<狼>は一度関係を築いた相手を決して忘れない。……お前たちは、先の大戦――<狼狩り>とお前たちが呼ぶその時に、我らを助けた。山岳のふもとに位置する集落に住んでいたお前たちは、山へと撤退していく我々を匿い、導き、時には傷の手当てをし、追っ手の足止めを担ってくれた。結果、ヒトの世界に戻れなくなったお前たちだが、それでもその元凶となった我らに恨みごとの一つも言わなかった。『人間』の身では暮らしにくいだろうこの山の中にまでついてきて、もともとの集落からさらに四つに分かれて少数になることになっても、文句も言わず暮らし始めた。あの時、お前たちのその行いのおかげで救われた<狼>がたくさんいる」

 グレイは淡々と言葉を紡いだ後、ハーティアに向き合った。

「まぁ――あれから、長い時が流れた。<狼>の中でも世代交代が起き、今や、先の大戦を経験してなお生きているのは、私一人になってしまった」

「え――」

 パチリ、とハーティアは目を瞬く。

 今の言葉が本当ならば――どう見ても青年にしか見えぬ外見のグレイは、どんなに少なく見積もっても、千年以上生きているということになる。

「<狼>の中にも、様々な群れがあり、派閥がある。長い歴史の中で、<月飼い>もまたヒトと同属なのだと主張し、忌み嫌う一派があるのもまた、事実だ。それらを一枚岩に束ねられていないのは、<狼>の長として頂点に立つ私の不徳の致すところだが――」

「ぇ……え――…?」

 当たり前のような顔で紡がれる言葉に、グレイに関する衝撃的な事実がいくつも織り込まれていて、ハーティアは話についていけない。

「その昔、お前たちが山に入るとき、我ら<狼>は約束を交わした。東西南北に分かれるお前たちの集落を、それぞれの方角に群れを構える<狼>が守護しよう、と」

「――…」

「東は灰狼。南は赤狼。西は黒狼。北は――白狼。千年前に、交わした盟約だ。どんなことがあろうとも、<月飼い>の血を途絶えさせぬよう、我ら<狼>が必ず守る。……ただ、長い歴史の中、様々な出来事があり、私たちの関係は、昔ほどの密接なものではなくなった。昔はすぐそばに群れを構えたものだったが、一定の距離を保ち、お互いに交流を途絶えさせ、集落の代表者としか接点を持たぬ風習となって既に数百年が経つ。だが――それでも、古の盟約は、無くならない。私は、お前の血を守る。――ハーティア・ルアン。何があっても、お前の血を」

 そっ……と頬に手を当てて、約束が確かなものであると伝えるように真摯な瞳で訴えるグレイを、ハーティアは呆然と見上げた。

 母に教えられた歴史と、グレイの言葉が繋がっていく。<白狼>の<月飼い>という言葉の意味も、<狼>に助けを求めろ、という言葉の意味も、やっと理解した。グレイが『月の子』と村人を呼んで、丁重に葬ってくれた理由も、わかった。

 だが――どうしても、度し難いことが、ある。

「――――なんで――」

「?」

「じゃぁ――なんで――なんでっ……なんで、村が襲われた時、すぐに来てくれなかったの――!?」

 バッと頬に添えられたグレイの手を振り払い、猛然と立ち上がる。キッと瑠璃色の瞳が涙を湛えて非難の色を孕んだ。

「グレイが来てくれたら、村はきっと助かっていた!貴方がいてくれたら、それだけでよかった!少なくとも――私以外、全員死んじゃうなんて、なかった!」

 父、母、祖父母、友人――様々な人間の顔が脳裏を駆け巡り――そしてそれが、炎の記憶の中へと消えていく。

「どうしてっ……ねぇ、どうして!!?どうして、村の皆は、死ななきゃいけなかったの!?私たちが、何をしたの!?ただ、山の中で、掟を守って、儀式を行い、静かにちゃんと、暮らしていたじゃない!あんな風に――子供も全員、惨たらしく焼き殺す、そんな正当な理由があるの!?あのヒトたちに!」

「――――…」

「それがっ……それが、昔、貴方たち<狼>を庇ったせいだというのならっ――なら、守ってよ!ご先祖様と、約束したんでしょう!?守ってよ!ちゃんと、ちゃんと、守ってよ!私たち、何もわからないまま、皆焼かれて、殺されて――!」

「――――そうだな。物事は、結果がすべてだ。もはや、今の私が何を言っても、仕方がない。本来、お前たち北の<月飼い>を守るのは<白狼>の――私の役目だった。この度、お前の村人を守れなかったこと、心より謝罪しよう」

 すっとひざを折って、千年以上を生きるという<狼>の長は、素直に十四歳の小柄な少女に頭を垂れた。そこには、決して揶揄など一つも含まれておらず――真摯な、心からの謝罪の念が込められているだけだった。

「っ……もう…遅い、よ……遅い……皆……皆、死んじゃった……お母さん……お父さん……」

 ほろり、と涙腺が決壊し、ハーティアの頬を透明の涙が幾筋も伝う。威勢よく立ち上がったはずが、再び力なくその場に頽れた少女を、グレイは静かに黄金色の瞳で眺めていた。

「ヒトが憎い、というお前の気持ちはよくわかる。先の大戦を経験した私も、当然ヒトは憎い。少なくとも、私が護るべきだった愛すべき『月の子』らの集落を焼いたヒトの残党は、必ず見つけ出し、報いを受けさせると約束しよう」

「――!なら――」

「だが、ヒトすべてを亡ぼす、というお前の野望には協力できない」

「な――――」

「先の大戦から、<狼>も今や数をだいぶ減らしている。当時ですらみっともなく敗走せざるを得なかった。今は、ヒトもまた力をつけ、文明を進め、新たな脅威を沢山蓄積している。それを――個人の恨みつらみで、<狼>そのものを滅ぼしかねない無謀な侵攻など、私は長として、命ずることは出来ない」

「そんな――だって――」

 ハーティアは、絶望的な声を出す。

 再び、脳裏が紅蓮の炎に包まれた夜を描いた。

「あの地獄はっ――ヒトを根絶やしにしない限り、繰り返されるんでしょう!!?」

「――――…」

「今、ここでっ……村を襲ったヒトに報復をしたとしてっ……それだけで、あの地獄は、繰り返されないと断言できるの!?」

「…………」

「このまま、村の皆の仇を討ったとして――私は、どうするの……?東西南のどこかの<月飼い>の集落の仲間に入れてもらって、日常を送るの?そこに――そこに、また、あの悪魔たちがやってこない保証は、どこにあるの!!?」

「――ない、な。今のところは」

「それで――それで、また、貴方は言うの!?『間に合わなくてごめん』って、そんな言葉で――私たちが無残に殺されていくのを見て、また、そんな言葉一つで、終わらせるの!?」

 少女の鋭利な言葉が牙をむく。グレイは、ただ静かに少女の主張を受け止めた。

「私たちは、きっと、これから先も狙われるっ……千年前のことなんて、何も知らなくても、今の私たちが何をしてもしなくても、外の連中には関係ない――対話で解決できるなら、千年前に、解決してた!っ……なら、もう、戦うしかないじゃない!」

 再び少女が猛然と立ち上がる。

「私は諦めない。絶対に、あいつらの世界にも、私が経験したような絶望と恐怖を――愛しい人たちが焼かれ、嘆き、恐怖に叫ぶ阿鼻叫喚の地獄絵図を――必ず、この手で、実現する」

「――――…」

 グレイは、少女の瞳に宿った仄暗い憎しみの炎を眺めて、小さく嘆息した。

「――…ひとまず、ここで結論を出すことは出来ない。お前の野望に完全に協力することは出来ないが――お前の血を守る、という盟約を違える気もない。ヒトが憎いのは同意だし、お前の村を襲った連中に報いを受けさせたいというところまでは目的も一致している。――我々のどちらかが譲るのか、双方の中間地点の落としどころを探るのか。それも含め、今この場で結論を出すことは出来ないだろう」

「でもっ――」

「私にも、背負っているものがある。――<狼>という種族そのものの、未来だ。私の一存で、左右するにはあまりに重い」

 言いながら、グレイはもう一度嘆息してからハーティアをちらりと見下ろす。

「耳を塞げ」

「え?」

 唐突に言われた言葉の意味を図りかね、ぱちり、と目を瞬いた次の瞬間には、白銀の獣へとグレイは姿を変えていた。

「何を――」

「鼓膜が破れても知らんぞ」

「――――!」

 ぶっきらぼうな言葉とともに、すぅぅぅ――と大きく呼気を吸い込む気配がして、慌てて言われた通り耳を塞ぐ。


 るぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお


「っ――――!」

 しっかりと塞いだはずなのに、両手ごときでは障壁の意味をなさぬ、とでも言いたげにビリビリと空気全体を震わす咆哮。

 それは、尾を長く長く引くような、<狼>の遠吠えに他ならなかった。

 その巨体から繰り出される衝撃波にも似た咆哮は、徐々に細くなっていき、やがてふっ……と大気に溶けて消えていった。恐る恐る、耳から手を放す。

「あ…あの……」

「各地の族長への伝言だ。古典的だが、なんだかんだで、全員に同時に伝えるにはこれが一番早い」

 ただの遠吠えにしか聞こえぬ咆哮は、<狼>の間ではきちんとコミュニケーションが取れるものなのだろう。

 しばらくすると、遠くから、微かに、しかし確かに、同様の遠吠えが耳に届いた。

 まるでグレイのそれへの返答のような遠吠えの数は――異なる方角から、三つ。

「……ふむ。では、行くか。乗れ」

「え……」

 ペタリ、と目の前で伏せられる既視感のある光景に、目を数度瞬く。黄金色の瞳が、じろり、とこちらを見た。

「まさか、私に『人間』の足に合わせて移動しろ、とでも?」

「ぁ、いや……」

「本当は、一瞬で飛んで移動したいところだが――生きている人間の生身の身体が、私の『移動』に耐えられるか、残念ながら試したことがない。酷く面倒だが、脚で向かうしかないだろう。……もし、道中でお前の村を襲った残党と遭遇すれば、殺していけるのもいい」

「――は…はい……」

 飛んで――というのは、先ほどの、彼の不思議な力のことだろう。村の死体の山を、一瞬で離れた場所に丸ごと移動させていた光景を思い出しながら、ハーティアはごくり、と唾をのむ。

 やはり――この存在は、<狼>なのだ。

 人間とは根本からして大きく異なる、強大な力を持った、獣なのだ。

「道中、何か、尋ねたいことがあれば答えよう。――さぁ、乗るがいい」

「は、はい……お邪魔、します…」

 おずおずとつぶやいて温かな柔らかい毛並みにハーティアは再び手を伸ばす。

 ふ……と、グレイが吐息で微苦笑を漏らした気配が、伝わった。



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