第3話 地獄の底で②

 その昔、オオカミという獣がいた。四本足の、運動神経に優れた肉食獣。ヒトの狩りを助けることもあり、野生を保ちながらもヒトと共存しながら生きていた。

 だが、何の神の気まぐれなのかはわからないが、ある時、オオカミの群れの中に、一匹の突然変異体が生まれる。それは、まるでおとぎ話の中に出て来る魔女が使う魔法のような、不思議な力を行使することが出来たうえ、姿かたちをヒトと同じに変貌させることが出来た。

 その個体は、不思議な力を行使し、自分の群れに己の力を分け与えていく。そうしてどんどんと既存のオオカミは強制的な突然変異を遂げ――全く異質の生物となったそれを、<狼>と呼ぶようになった。いつのまにか、既存のオオカミはこの世から一匹もいなくなっていた。

 一見するとヒトと見分けがつかない形へと変化が可能な<狼>は、知能もヒトと変わらず、言語によるコミュニケーションも可能だった。<狼>たちは、元々ヒトと共存していたこともあり、変わらずヒトを助け、ヒトと共に生きていこうとした。

 しかし、ヒトは気が付く。――不思議な力を行使した<狼>と戦えば、ヒトは脅威に立たされることに。

 疑心暗鬼が恐怖を呼び、千年前――ついに、ヒト対<狼>の全面戦争が始まった。


 のちに<狼狩り>と呼ばれるその事件は、結果としてヒトの勝利に終わった。


 <狼狩り>ののち、<狼>たちはヒトの生活圏を離れ、世界地図の北部――険しい山岳地帯が広がる世界の面積にして約四分の一程度――に押し込まれる形となった。

 圧倒的強者だったはずの<狼>がヒトに負けたのは、戦争当初、彼らが戦いを避け、対話での解決を試みたためと言われている。一度関係を築いた相手を忘れないというオオカミのころの習性が色濃く残っていたためだ。

 そうして無抵抗でヒトとの共存を願ったにもかかわらず、ヒトはそれを裏切った。結果として大きく数を減らすことになった<狼>はヒトを酷く恨み、今も彼らの対立は続いている。




(だけど、ヒトの立場でありながら、<狼>に味方をした少数民族がいて――ヒトに追われるようにして、<狼>とともに森へと逃れたその一族が、私たち<月飼い>の先祖……)

 幼女から絵本への幻想が消えるころ、母から教えられた『真の歴史』を思い出しながら、ハーティアはグレイと名乗った青年を見上げた。

 陶器のように白い肌と黄金の輝く瞳を持つ青年は、息をのむほどの美貌を持っていたが、青年の背後にあるただの肉塊と化した凄惨な変死体の山を築いた張本人であることを思えば、悠長にその美しさに見惚れることは出来なかった。

 ただ――脳裏に、涙にぬれた母の必死な声が、蘇った。

『村の外に出たら、<狼>を探しなさい。――<白狼>の<月飼い>です、と言って、ここで起きたことを話して、助けを求めて』

(ぁ……)

 ぎゅっ……と無意識で首から下がった水晶飾りを握りしめる。ひんやりとしたその感触が、恐怖の縁から立ち上がる勇気を、ハーティアに与えてくれた。

「……わ…私は、ハーティア・ルナン……<白狼>の<月飼い>です」

「ふむ」

「きゅ、急に、村が、お…襲われてっ……!火が放たれて、皆殺されてっ!」

 脳裏に、地獄絵図となった光景が蘇り、がたがたと震えながらも必死に訴える。

「た、助けて――助けて、<狼>さんっ……!私たちを、助けてっ!」

 目の前の男は、その気になれば、先ほど自分を取り囲んでいた男たちよりもよほど容易く、よほど残酷に、自分を殺せるだろうことはわかっていたが、青年の袖の裾を引っ張るようにして掴み、懇願するように助けを求める。

 おとぎ話でも、歴史でも、何でもいい。

 ハーティアは、ただ、今縋ることが出来る唯一の存在に、全力で縋り付いた。

「なるほど……では、お前の村の様子を見に行こう。――この匂いでは、おそらく、生存者は絶望的と思われるが」

「っ……」

 村がある方角を振り向いて、スン、と鼻を一つ鳴らしたグレイは、先ほどと同じ冷淡な声でつぶやく。ハーティアはぐっと息を詰めてうつむくと、必死に嗚咽を飲み込んだ。――今は、みっともなく無力に泣き叫んでいる場合ではない。

 カサリ、と目の前で地面を踏みしめた音がした。頭上から、グレイの冷淡な声が響く。

「ハーティア、と言ったか。……お前をここに置いていくわけにもいくまい。ヒトの残党がやってくるかもしれん。――乗っていけ」

「……ぇ…?」

 言われた意味の言葉が分からず、ぽかん、と声の方を見上げた時には――いつの間にか、青年の姿が掻き消え、代わりに巨大な獣が目の前に佇んでいた。

 真っ白に近い、銀色の毛並みは美しく、見上げるほどの巨躯は王者の風格を纏っている。二対の黄金の瞳が、頭上からハーティアをまっすぐに見つめていた。

 ぱちぱち、と目を瞬く。巨大な犬にも似たその風貌は――

「お――…<狼>……?」

「?……そう名乗っただろう」

(喋った!!?)

 やや怪訝そうな声が牙の並んだその獰猛な口から発せられて、思わず驚愕する。凡そ人とは異なる声帯を持っていそうなその外見とは裏腹に、響く声は明朗で――何より、先ほどグレイと名乗った青年と、全く同じ声をしていた。

「まさか、<狼>の存在を、お前たちは忘れてしまったのか?……いくら正式な交流を持たなくなって数百年が経ったとはいえ――」

「あ、いえ、存在だけは、知っています。でも……その、<狼>は怖いから、決して近づいてはいけないと――」

「――なるほど」

 苦笑するような自嘲するような、何とも言えない響きを持った声音が響く。最初、冷淡に思えた声は、意外と感情豊かなのかもしれなかった。

「まぁいい。乗れ。お前たちの伝承の中で、我々がどのように認識されているのかは、道すがら聞かせてもらうことにしよう」

「あ、は、はい……」

 威厳を持った声音のまま言った巨大な獣が、目の前で犬が伏せをするようにして腹ばいになったのを見て、戸惑ったように返事をする。――背に乗れ、ということだろう。

 未知の獣に触れる恐怖に、恐る恐る手を伸ばしてその毛並みに触れる。

(――あったかい――…)

 もふもふとしたその毛皮は、確かに命の鼓動を感じる温かさだった。何とも言えぬ柔らかい毛並みは、思わず顔をうずめたくなる手触りをしている。

「早く乗れ。――くすぐったい」

「あっ、す、すみませんっ…」

 憮然とした声が響いて慌てて手をひっこめる。魅力的な毛並みに惹かれるようにして思わず撫でてしまったのは首の下のあたりだった。

(――…撫でられて気持ちいい場所は犬と一緒なのかな…)

 非常事態にもかかわらず、ついうっかりそんなことを考えながら、急いでその背にまたがるようにして這い上がる。のそり、と巨躯が立ち上がり、慌てて背中にしがみついた。

「振り落とされぬよう、しっかりと捕まっていろ」

「は、はいっ…」

 返事を聞くのも待たず、タンッと軽やかに巨躯が地面をけると、森の中を迷うことなく風のように駆け抜けていく。

(わぁ――)

 毛並みに体をうずめるようにしてしがみつきながら、森の風へと変貌と遂げたような錯覚に、ハーティアは思わず心の中で驚嘆した。

「ハーティアよ。お前たちの村の中で、<狼>と<月飼い>は、どのように伝えられているんだ」

 風の中で、低い声が響いてきて、ハッと我に返る。

「は、はい。千年前に、狼狩りがあって……ヒトでありながら<狼>とともに生きることを選んだ種族が、<月飼い>だと」

「あぁ」

「ヒトの追っ手から逃れるために、東西南北に散り散りに逃げて……私たちの集落は、北の集落だと教えられてきました。ヒトは、未だに<狼>と<月飼い>を憎んでいるから、決して見つからないように、情報を外に漏らしてはいけないと」

「……あぁ。それで?」

「その……<狼>という存在は、<夜>と<朝>の昔話を描いた絵本の中には出てくるんですけど……長い時が経った今は、<月飼い>のお勤めを果たす村の代表者以外との接触は禁止されていると、聞いています。代表者も、儀式以外では、接触できないと」

「ふむ」

「それは、その……私たちは、ヒトと同じ『人間』なので……<狼>は、私たちのこともヒトと同様に憎んでいるのだ、と……だから――」

「――…合点がいった。なるほどな」

 独り言のような言葉が響いた後、巨躯がタッと一つ大きく地を蹴ると、その巨体が軽やかに宙を舞った。

 途端に感じる奇妙な浮遊感に、本能的な恐怖でぎゅっとしがみついて瞳を閉じると――

「――着いたぞ。降りろ」

「ぁ……」

 音らしい音も衝撃もなく静かに地面に舞い降りた巨体は、ハーティアが降りやすいように再び地面に伏せる。少女は、ゆっくりと地面に足を下ろし――

「――みんな……」

「――――…ここの周囲に生存者はいないな。村人も――ヒトもいない」

 スンと鼻を鳴らすような音が聞こえて振り返ると、そこには既に巨大な白銀の獣の姿は跡形もなく、ただ獣と同じ色合いの毛髪と瞳を持った青年が油断なく周囲に視線を巡らせているだけだった。

 ここを離れるときは地獄絵図の真っただ中だったそこは、今はただシン……と静まり返って、数刻前の騒動など幻だったかのような様相を呈していた。

 ごうごうと凶悪な紅蓮の舌で村を飲み込んでいたはずの光景は、燃えるものすら無くなってしまったのか、既に火は殆どが消え去っていて、ぶすぶすと至る所から黒煙が上がるのみだ。

 地面に折り重なるのは、数々の死体。鮮血に染められているか――真っ黒こげになっているか。

「――…鼻が曲がりそうだ」

 軽く鼻を抑えて、グレンがこれ以上なく顔をしかめて呻く。獣らしく、嗅覚は人間の何倍も鋭いのだろう。この状況では、呻きたくなるのも仕方ない。

 しかし、ハーティアはそんなことに構っている余裕はなかった。現実を受け入れることが出来ず、涙を流すことも忘れたまま、ただその場に呆然と頽れるしか出来ない。

「まさに、地獄の底だな。……このままでは、月の子らが浮かばれん」

 しばしそれを眺めていたグレイは、一つ苦々しく呻いた後、右手を軽く掲げる。コキッ……と指が小さな音を立てた。

 すると――

「え――――?」

 ヴヴヴヴ……と鼓膜を震わす重低音とともに、空気が震動したと思った途端、目の前に倒れていた死体が掻き消える。

「な……何……!?」

 きょろきょろとあたりを見回すも、周囲に数々折り重なっていたはずの死体は、村の中から跡形もなく消え去っていた。

「移動させた。――行くぞ」

「へ――きゃっ!?」

 有無を言わさぬ口調でふわりと腰を掴まれたかと思うと、次の瞬間には浮遊感が訪れた。

(と――跳んでる――!?)

 グレイは、ハーティアを抱えたまま跳躍をしたようだ。その跳躍力は、獣の巨体だった時ほどではないものの、確実に人間とは一線を画す。

 未知の体験に恐怖し、ハーティアがぎゅっと思わず首に縋り付くと、グレイはふっと吐息だけで笑みを漏らしたようだった。――脆弱な人間が縋りつく様が、滑稽だったのかもしれない。

 そのまま、一つ、二つ、と何回か跳躍と着地を繰り返し――

「着いたぞ。目を開けろ」

「ぁ……」

 言われて初めて、我知らず瞳を閉じていたことに気が付く。ゆっくりと瞳を開けると――そこには、見覚えがあった。

「村のはずれの……お花畑……」

 子供のころ、よく遊びに来た場所だった。少し開けた小高い丘になっていて、村の様子が見えるそこには、小さな花が咲き乱れており、よくハーティアも村の子供たちと一緒に訪れては花冠などを作っていた。

「お前はそこで花でも見ていろ」

「え……?」

 振り返る前に、コキッ、コキッと二つ、連続してグレイの指が鳴る音がした。思わず青年の方を振り返ると――

「ぁ――…」

 村を見下ろすその場所に、一つ、明らかに地面の色が異なっている場所があった。かなり広い面積のそれは――まるで一度掘り返されて、また埋められたかのような、不自然な盛り上がり。

「あそこにあった村人の死体は、全てここへ移動させて、埋めた。一人一人埋葬してやりたいところだが、今はそこまでの時間がない。――あのまま放置するよりは、いくらかマシだろう。ここなら、彼らが育った村も、美しい花も、どちらも眺めながら眠れる」

 ざぁ――と風が吹いて、グレイの前髪を揺らした。その横顔は、静かに、死者を悼む横顔だった。

「――ありがとう、ございます……<狼>さん…」

「グレイ、でいい」

 礼を言ったハーティアにグレイは向き直ると、静かにその小柄な少女を見下ろした。

「さて、ハーティア。……村人の埋葬は終わった。この調子では、他の生存者を探すことは絶望的だろう」

「……はい…」

「お前が持つその水晶は、<月飼い>の代表者の証だな?」

「――――はい」

 ぎゅっ……とハーティアは首飾りを握りしめて、しっかりと頷く。

「……それでは問おう、ハーティア・ルナン。<月飼い>の役目を負ったお前は、これから、どうする?」

「――私は――」

 ザァ――と再び一陣、風が吹いて、ハーティアの黄金の髪を揺らした。

 十四歳のハーティア・ルナンは、家族と大切な仲間たちが埋まった墓標一つないその空間を眺めて、口を開いた。

「皆の仇を討ちたい。――ヒトを全て、滅ぼしたい、です」

 深い、深い、地獄の底。

 瑠璃の瞳に仄暗い闇を湛えた少女は、はっきりと、力強い口調で、己の意思を言霊へと変えたのだった――



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