第一章

第2話 地獄の底で①

 ハーティア・ルナンは村長の一人娘だった。人里離れた険しい山の中、限られたコミュニティの中で細々と生きていく小さな小さな村落で育った、何の変哲もない子供だった。

 少しばかり運動神経が良く、小さなころからかけっこは誰より早かった。村の慣習では、本当は十五歳からしか狩りに参加することは許可されていなかったが、その運動神経の良さを見込まれ、弓を持たされて十三の時から特別に村の大人の男たちに混じって狩りにも参加していた。――村長の娘、というのも、特例が認められた理由だったかもしれない。


 緩くウェーブの掛かった、月光を溶かしたような美しい金の髪を持つ美少女は、村中の人間に愛され、幸せに過ごしていた。


 ――その日、外の世界から、"悪魔"がやってくるまで。


「ティア、貴女はこれを持って逃げなさい!」

「やだ……!お母さん……!」

 誰もが寝静まった深夜、村に火の手が回ったのは、一瞬だった。急いで家の外に飛び出した村人たちを待ち構えていたかのように、見慣れぬ武装した人間が、非武装の村人を背後から切り殺していく。小さな村はたちまち混乱の渦に巻き込まれ、至る所から悲鳴と怒号が飛び交い、熱風と血風が立ち込めた。

「私も戦う!」

「ダメ!言うことを聞きなさい!」

 弓を手に取った娘を一喝し、母はハーティアの首に水晶飾りを掛けた。

「貴女は、もう、この村長の血を繋ぐ唯一の人間――!この血を絶やしてはいけないのよ……!」

「そんなっ……お、お父さん、お父さんは――」

「っ……!」

 ぐっと言葉を詰めた母の顔が険しくなる。その眦には、なみなみと涙が浮かんでいた。それが、全てなのだろう。

「ティア、私たちは、役目を背負っているの。――いつも絵本を、読んであげたでしょう?」

「やだ……!あんな、あんなの、おとぎ話でしょう!!?<狼狩り>の歴史を伝えるための――」

「いいから聞き分けなさい!!!」

 鋭い一喝が飛び、ハーティアはぐっと口を閉ざす。――母が、ここまで声を荒げて怒鳴ったのは記憶にある限り初めてのことだった。

 いつも、いつも、優しく穏やかな母だったのだ。大好きな、大好きな、世界一大切な、家族。

 母は眦の涙が零れ落ちるのもいとわず、厳しい顔のまま愛娘をまっすぐに見つめた。

「お、お母さん、お母さんは――」

「私も、必ず後から行くから。――貴女はただ、生き延びることだけを、考えて。この水晶を、後世につなげる、それだけを考えるのよ」

 ハーティアは、恐怖と混乱で嗚咽を漏らしそうになるのを必死にこらえながら、母をただゆっくりと見上げる。瑠璃色の、自分と同じ色の瞳が、真剣なまなざしを注いでいた。

「村の外に出たら、<狼>を探しなさい。――<白狼>の<月飼い>です、と言って、ここで起きたことを話して、助けを求めて」

「お、<狼>……?<狼>は、怖いから、絶対に近づいちゃダメって――」

「ハーティア」

 娘の声を遮る。いつもの愛称ではなく、しっかりと名前を呼ばれて、思わず口を閉ざした。

 ふわり、と涙を湛えた母の眼差しが緩む。

 やさしく――いつもの、優しい、微笑み。

「<夜の誓い>を覚えているわね?」

 言いながら母はハーティアの両手を取り、ぎゅ、とその首にかけた水晶飾りを無理矢理握らせ、その上から包み込むようにして手を添えた。

 ひくっ…とハーティアは喉の奥で嗚咽をかみ殺す。

「わ……私たち、は、<月飼い>の、一族。古からの、誓約によりっ……月を飼う役目を担う一族……っ」

「えぇ。そうよ」

「けっ……決して、村の、外に、秘密を出さず……っ、<朝>の、世界にっ……決して染まらず――!」

「そう。さすがハーティア。私の自慢のかわいい娘」

 母はそう言って笑うと、水晶飾りから手を放し、娘の小柄な身体をぎゅっと包み込んだ。

「生きて――生きて、ハーティア。どんな時も、諦めず、生き抜くと誓って頂戴。――愛しい愛しい、大切なハーティア」

「おかあさ――」

 バタバタバタ

 近づいてくる物々しい足音に、ヒッと悲鳴にならない声が漏れる。

「さぁ、生きなさい。<夜の誓い>を忘れないで。――必ず、後世に、役目を引き継ぐのよ」

 トン……と背中を押される。つんのめるようにして足を踏み出すと、母は真逆の方に走り出した。

「一族の恨み……!覚悟!」

「生き残りか!」

 さすがにハーティアも馬鹿ではない。母が何を意図して背中を押したのか、真逆の方向へ駆け出したのか、痛いほどにわかっていた。

(逃げなきゃ――!)

 はぁっ……!と熱い吐息を漏らして、村一番の俊足と言われた足で全力でかける。とにかくまずは、村の外へ。身を隠せる場所へ――

 無我夢中で、村の裏手の崖の上を目指した。大人たちの目を逃れるときは、いつだってここに向かった。小さな村の中と、狩りで周囲の森に出るくらいしか世界を知らないハーティアに、それ以外に身を隠せる場所は思いつけなかった。

 逃げて、逃げて、必死に走って――

 たどり着いた崖の上で、村を見下ろし、絶望に暮れる。ぺたん……と情けなく腰が抜けてその場に頽れた。

「お母さん――お父さん――村のみんな――」

 ぎゅっ……と無意識に、胸に下る水晶飾りを握りしめる。眼下に広がる世界では、まだ、残り少ない村人たちへの虐殺の限りが繰り返されていた。

 大人も子供も、男も女も、関係ない。悪魔の所業が、そこでは行われていた。

 武装したその悪魔たちを、ハーティアは知っている。

「――――――ヒト、だ……」

 ポツリ……とつぶやく。ギリッ…と奥歯を噛みしめると軋んだ嫌な音が響いた。

 そこでふと、気づく。――弓を、持ってきていたことを。

(――とど、く…?)

 ドクン……と心臓が嫌な音を響かせた。

 今まで、生きるために森の動物に矢を射かけたことはあるが――生きている人間に矢を放ったことなど、ない。

(関係ない――!あいつらは、あいつらは、悪魔だ――!敵、だ……!)

 一瞬躊躇した自分を奮い立たせるように胸中で叫び、さっと背負っていた弓に矢を番える。

 キリキリキリ……と耳になじんだ音が響いた。

 ひゅ――と一つ息を小さく吸って呼吸を止め――

 ヒュンッ

 ドッ……

(当たった――!)

 剣を振り被っていた男の腕に矢が命中する。男は呻いて剣を取り落とした。一人の村民を救えたことに心の中で歓喜の声を上げ――

「――!」

 その男が刺さった矢を引き抜き、こちらの方角を差して胸に下げていた笛を吹く。

 ピィ―――と鳴り響いた甲高い音を聞き、途端に周囲の人間がこちらに向かって走ってくるのが分かった。

「しまった――!」

 村の中でしか生きてこなかったハーティアに、狙撃手はその位置を敵に気取られてはいけない、という鉄則などわかるはずもなかったが、賢い少女は自分が置かれた状況をすぐに理解した。慌てて立ち上がり、その場から駆け出すも、いかに俊足を誇るハーティアと言えど、敵の連携の取れた動きに叶うはずもなく、一瞬で囲まれてしまう。

(どうしよう――)

 まさか、弓で剣に戦いを挑めるはずもない。ハーティアは絶体絶命の危機にぐっと下唇を噛みしめた。

「おい、こいつ――水晶を持ってるぞ!」

「本当だ!夜水晶だ!間違いない!」

 男たちが口々に叫ぶのを聞いて、顔が青ざめた。ハーティアはぎゅっと首飾りを握りしめる。

 せめて――せめて、自分の命が尽きるその瞬間までは、この水晶を守らねば――

「奪え!殺しても構わん!」

 怒号が響き、剣を振り被った男が突っ込んでくる。

(お母さんごめんなさい――!)

 言いつけを守れなかったことを謝りながら、ハーティアはギュッと瞳を閉じて――


 ふぉん……


 風が一陣、吹き抜けた――気が、した。

「がッ……」

 剣の一撃を覚悟していたにもかかわらず、奇妙なうめき声が聞こえたのを最後に、いつまでたっても衝撃が来ない。

「――――…?」

 ハーティアは、不思議に思ってゆっくりと瞳を開く。

「――さて。これはどういう事態だ?説明してくれ、月の子よ」

「ぇ――…」

 見開いた瞳の先には、まるでハーティアを背に庇うようにして立つ、一人の青年がいた。

 真っ白に近い銀色の髪。年若い声とは裏腹ないかめしい言葉遣いと広い背中からは、畏怖に似た不思議な圧が滲んでいた。

 ぽかん、とその背を見つめた後、そのまま視線を落とすと――

「ヒッ――」

 そこには――先ほどハーティアに襲い掛かってきたはずのヒトが、圧縮されて、死んでいた。

 ひしゃげてつぶれた、としか形容しようのないその死体は、自然界での死とは程遠い。凡そ、魔法でも使わない限り不可能だろう、という死に方だ。

「な、なんだコイツ――」

 ハーティアを囲んでいた男たちが、じりじりと後退っていく。急に現れた青年の、得体のしれない恐怖に支配されている証拠だった。

「ふむ。……ヒト、か。こんな場所に入り込み、何をしている?」

 言いながら、青年がコキッ……と軽く指を鳴らしながら一歩を踏み出す。ザッと一気に男たちが大きく後退った。

「ここは――我ら<狼>の縄張りだ。貴様ら脆弱なヒトごときが踏み込んでいい場所ではない」

「ひ――」

「まして――――ここが、<白狼>の縄張りと知っての、狼藉か?」

 ぞっ……と背筋が氷を滑らせたように冷たくなった。背中しか見えないハーティアですらそうなのだ。正面から相対している男たちは、その比ではなかっただろう。

「ぁ……ぁ、あ……」

 先ほどまで、悪魔のような所業を繰り返していたはずの男たちが、恐怖に色を失くし、ぺたん……と腰を抜かして尻餅をついていく。

「――何とも気概のない……生きる価値もない連中だ」

 それは、温度を感じさせない冷ややかな声。冷徹極まりないそれが響くと同時に、青年は右手を軽く掲げていた。そのまま、何もない空間を撫でるようにして右手を振り抜き――

 ぐしゃぁっ

「ヒッ――!」

 ハーティアの悲鳴が喉の奥で張り付く。青年の右手がなぞった先にいる男たちが、何に触れられたわけでもないのに、いきなり耳障りな音を立てて圧縮した。血を噴き出し、断末魔の悲鳴を上げることすら許されず、無言のままに醜い肉塊となって生命としての役割を負える。

 明らかに得体のしれない力を行使した青年は、自然界の圧倒的強者たる風格を隠しもせず、くるりと少女を振り返る。

「――月の子よ。そう怯えるな。私はお前に危害を加えない」

「ぁ……あ……」

 青年は、抜けるような白い肌を持つ、酷く整った顔をしていた。己が引き起こした惨状など気にした素振りもなく、悠然とハーティアへと歩み寄ると、腰を抜かしたまま立ち上がることも出来ない少女に視線を合わせる。

「我が名はグレイ・アークリース。<白狼>の族長だ。――千年前の盟約により、お前たち<月飼い>を守る」

「――――…」

 ふと、蘇ったのは、幼いころに繰り返し聞いた絵本の物語。

 己のことを<狼>と名乗った、どこから見ても青年にしか見えぬ得体のしれないその男は、月を溶かしたような黄金色の瞳を持っていた――

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