(第十五話)柳生清厳 津島街道をゆく 1

「柳生又右衛門宗矩。貴殿に従五位下の官位と、但馬守たじまのかみ官途かんとを叙そう」

 寛永六年(1629)三月中旬。この日宗矩に官位・従五位下任官の勅許状が下された。官位とは朝廷から授けられる位のことであり、これで宗矩は朝廷内裏への昇殿が許された諸大夫しょだいぶという身分になった。これは一般的な城持ち大名と同格の位であり、何よりも名誉を重んじるこの時代の武士にとって出世の到達点の一つとされていた。

 またそれと前後して宗矩は家光から弟子入りの誓紙を受け取ってもいた。

「印可はもらったが、未だ余が未熟であることは自分が一番よくわかっている。これからは正式に宗矩に弟子入りし、その剣技の妙をさらに研鑽していこうぞ」

 これまでも宗矩は家光に剣を教えていたが、それはあくまで将軍職の一環としての稽古であり、いわば学校という制度の中の教師と生徒の関係に近かった。

 しかし今回家光は自ら誓紙を書いて宗矩に弟子入りした。これはつまり家光個人が宗矩個人と契約したということである。未だ個人間でのつながりが強いこの時代に置いて、将軍からの寵愛を受けることは、これもまた一つの到達点と言えるものであった。

 つまるところこの寛永六年の躍進は宗矩にとってまさに我が世の春と言ってもいいほどのものであった。

(とうとう柳生家はここまで来たか……。あぁ父上、それにご先祖様方よ、見ておられますか。柳生の剣はここまで来ましたぞ……!)

 柳生家当主として万感の思いに浸る宗矩。

 とはいえそう喜んでばかりもいられない。格が上がればそれに見合っただけの振る舞いが求められるのは当然のことで、つい先日まで一旗本だった宗矩には覚えることもするべきことも多々あった。

「殿。また叙任の祝い状と贈り物にございます」

「またか……。返事は私が書くから内容と中身を紙に記しておけ。それと駕籠の手配の件はどうなった?」

「はい、それが思った以上に値段が嵩むようで……。やはり駕籠かきは身内から出さねばならないかと」

「むぅ仕方ない。適当に見繕っておけ。……はぁ。まったく、朝から書きっぱなしだというのにまるで終わりが見えないな……」

 本日十数通目の返書を書き終えた宗矩は大きく溜め息をついてから机に突っ伏した。そこに家臣の一人が苦笑しながら茶を持ってくる。

「お疲れ様です、殿。どうぞ一服なさってください」

「おぉすまんな。だが茶もいいが今は煙の気分だな。私の煙草盆を持ってきてくれるか?」

「殿……。喫煙は控えるようにと医者にも言われたではありませんか」

「わかっておるが吸わなきゃやってられんだろ。ほれ、早く持ってこんか」

「はぁ……、承知いたしました」

 家臣が呆れ顔で煙草盆を持ってくると、早速宗矩は自ら煙管に葉を詰めて着火した。その後数度息を吸って火力を整えると、大きく一吸いしたのち心底心地よさそうに白い煙を吐いた。

「ふぅ……。まったく、これくらいしか心休まる時間がないな……」

 実際官位叙任の報が出てからの宗矩は休む暇がないほどに忙しかった。祝い状や贈り物への対処およびその返事書き。服や小道具も諸大夫に相応しいものを揃えなければならない。さらには昇進してすぐは何かと入り用だろうと御用聞きの商人や、雇用を求めた牢人たちがひっきりなしに訪ねてくる。ここ数日宗矩たちはそれらの対処にてんてこ舞いになっていた。

「めでたさは盆と正月が一緒に来たほどでしたが、忙しさはそれ以上ですね」

「いやぁ、正月百回でも今ほどではないだろう。……さて、そろそろ再開するか」

「よろしいのですか?もう少しお休みになられた方が……」

 煙管は少量の煙草葉を燃やす喫煙器具のため、その喫煙時間は現代の紙巻きたばこと比べて非常に短い。ゆえに全然休憩になっていないのではと気遣う家臣であったが、宗矩は最後に一吸いするとカンと煙管を叩いて迷いなく煙草葉を捨てた。

「そうも言ってられん。これまではただ上を目指せばよかったが、これからはそれを維持しなければならないからな。『草創と守文いずれが難きや』というやつだ」

 これまでは御家や剣術の地位を高めるためにがむしゃらに動いてきた。しかしこれからはその地位を守っていかなければならない。そのためにはこんなところでへばっている暇などない。

「では続きといこうか」

 煙管を丁寧に仕舞った宗矩は気合を入れなおし、再度書類が高く積まれた机に向き直るのであった。


 さて、そんな宗矩の奮闘は江戸の外にいる関係者たちにもすぐに伝えられた。まずはやはり柳生庄だろう。三厳の元には十日ほど遅れて宗矩任官の報が届く。

「なんと!父上が諸大夫になられただと!?」

「それはめでたいことにございます!これは私どもも忙しくなることでしょうぞ」

「ああ、そうだな。父上の顔に泥を塗らぬよう、我らも気を引き締めんとな」

 いつの間にか柳生庄は官位持ちの領地となっており、三厳も諸大夫の嫡男となっていた。里は京や奈良にも近いため、これからはそっち方面のつながりも多くできることだろう。

(これは生半なことはできなくなったな!)

 三厳は里を預かる者として一層身を引き締めるのであった。

 そして関係者といえばもう一人、尾張の柳生利厳もそう間を置かずに宗矩の昇進を知らされた。

「そういえば利厳殿、お聞きになられたか?江戸の柳生宗矩殿が従五位下になられたそうだぞ」

「なんと、叔父上がですか。まぁ長く江戸に仕えてましたからね。ない話ではないでしょう」

 尾張柳生と江戸柳生はあまり良好な関係ではなかったが、それでも身内から諸大夫が出たことはめでたいことである。利厳は素直に称賛を送っていたが、一方で彼にはどうしても確かめなければならないことがあった。

「それで叔父上はどこを官名乗りに選んだのですか?」

「たしか……但馬だったかな?『但馬守』になられたそうだ」

「!そうですか。但馬守ですか……」

 但馬守。その名を聞いた利厳は何とも言えない渋い顔をした。

(よりにもよって『但馬守』か……。いやまぁ、名乗るとすればこれ以外ない名ではあるのだが……)

「どうかしたのかね、利厳殿?急に黙ったりして」

「いえ、何も。それよりも少し用事を思い出しましてな。すみませんが先にお暇させていただきますよ」

「あ、あぁ……。またな」

 これ以上しゃべるとボロが出る。そう思った利厳は適当に理由を付けてその場から逃げ出した。

(これは私個人の問題だからな。……いや、問題というのもおこがましい、ひどく個人的な情念だ。ともかく一度屋敷に戻って頭を冷やすか)

 しかし屋敷に戻るや、息つく暇なく息子である清厳が迫ってきた。

「父上!江戸の叔父上が昇段なされたと聞いたのですが、本当ですか!?」

 利厳は(早速か……)と心の中で溜め息をついた。

 どうやら彼も小姓仲間から宗矩昇段の報を聞いたようだ。そして居ても立ってもいられなくなり利厳に詰め寄った。その原因は宗矩が選んだ名乗り、『但馬守』がためである。

「よろしいのですか、父上!?勝手に但馬守を名乗らせて!あの名前は……!」

「勝手も何も、叔父上がこちらに伺いを立てる義理もない。選んで受理された。ただそれだけの話だ」

「そ、それはわかっております……!ですが……、ですがそれではまるで……!」

 悔しそうに歯を食いしばる清厳。彼がそこまで感情的になっている理由――それは柳生新陰流の開祖である柳生宗厳むねよしが名乗っていた官途名が『但馬守』だったためであった。


 柳生宗厳。一般的には柳生石舟斎せきしゅうさいの名で知られているこの人物は宗矩の父であり、利厳から見れば祖父、清厳から見れば曽祖父にあたる。そして柳生家の新陰流はこの石舟斎が稀代の兵法家・上泉信綱からそれを教わったことから始まった。つまりは柳生新陰流の開祖と言うべき人物である。そんな彼が名乗っていた官途かんと名が何を隠そう『但馬守』であった。

 ここで少し補足を入れておくと、戦国時代は朝廷の管理機構がほとんど崩壊していたため、箔付けのために勝手に官名乗りをする武士がそこらじゅうにいた。石舟斎もそのうちの一人で独自に『但馬守』を名乗り、それが通称として広く認知されることとなる。

 それを踏まえての宗矩の『但馬守』叙任である。なるほど事情を知らぬ者からすると、まるで宗矩が父である石舟斎の名を引き継いだように見えるだろう。実際そういう意図もあったのかもしれない。なんにせよその名を聞いた者は必然誰もが思うはずだ。開祖の名を受け継いだ江戸柳生こそが柳生新陰流の本流なのだと。

(そう思われるのは仕方のないこと……。そう頭ではわかっていても、どこか胸につっかえたようなものがある。私ですらそうなのだから権平(清厳の幼名)が不満に思うのも仕方あるまいか)

「父上、何とかおっしゃってください!このままでは何もしていないのに我が家の品位が疑われてしまいまするぞ!?」

 利厳の推察通り、清厳は尾張柳生家の品格を憂いていた。

 なるほど、これまでは仕えている相手こそ差があれど江戸柳生と尾張柳生自体に明確な差異はなかったと言えただろう。確かに宗矩は柳生庄を有していたがそれも里を出てしまえば関係なく、共に一城主の元で剣を教える指南役に過ぎなかった。

 しかし今回の宗矩叙任で間違いなく天秤は傾いた。こちらが一城主に仕える武士なのに対し、向こうは朝廷の位を持つ諸大夫である。加えて但馬守の名も向こうに取られてしまった。もはや尾張柳生が目に見える範囲で江戸柳生より秀でているところなど皆無といってもいいほどとなってしまったのだ。

 これが利厳たちにとって屈辱でないはずがない。とはいえ幕府の判断を覆せるだけの力など持ってるはずもない。つまりはどれだけ悔しくともぐっと堪える他ないのだ。

「理解しろ、権平。お上が決めたことだ。我らではもうどうしようもない」

 だがそのくらいのことは清厳もわかっていた。それでもなお彼がここまで憤っているわけは……。

「剣の腕ならば大した差異はないというのに……!」

「……」

 清厳の不満はそこにあった。おそらく剣の腕だけならば後れを取ることはないはずだ。そんな自負があるにもかかわらず時代がそれを許さない。剣術家の家に生まれ、強くあれと育てられてきた彼にとっては耐えがたい現実なのだろう。

 そんな清厳はすがりような顔でこう続けた。

「……父上。どうにかして江戸との立ち合いはできないのでしょうか?」

「……!馬鹿なことを……!そんな真似ができるわけがないだろう!」

「ですがこのままでは……」

「頭を冷やせ!お前は少し正統云々に気を取られ過ぎだぞ!」

 利厳は叱責するとそのまま清厳を振り切って自室に戻った。だがその心中は未だ穏やかではない。

 もちろん原因の一端は江戸柳生のことである。しかしそれ以上に利厳は自信の息子である清厳のことを懸念していた。

(まずいな……。いよいよ立ち合い云々まで言い出したか……)

 清厳に自覚があったかは定かではないが、彼はとうとう江戸柳生と勝負がしたいと口に出した。それはもう尾張徳川家の剣術指南役という立場を忘れた発言である。

(最近のあやつは少し熱意が籠りすぎている。あの情熱が間違った方に向かねばいいのだが……)

 早急に手を打たなければ何かマズいことになりかねない。そんな不安を覚えながら利厳は部屋着の帯を締めたのであった。


 それから数日経った四月初旬のことだった。城から戻った利厳は清厳に仕事を持ってきた。

津島つしま街道の見回りですか?」

「ああ。夏稽古が始まれば当分町から離れるお役目ができなくなるからな。今のうちにそっち方面のお役目もこなしておけ」

 この頃清厳は徳川義直の小姓職に就いていたが、その出勤頻度は十日に一二度程度だった。これは清厳が特別少ないというわけではなく、この時代の多くの武士が同じように暇を持て余していた。その原因は太平の世のせいとも言えた。あまりにも平和すぎて城が抱えている武士の人数に対して仕事の量が少なすぎたのだ。

 とはいえ武士は有事の際の戦力であり、何より面子の問題もあってそのを減らすような真似はできない。そのため城は一人一人の出勤頻度を少なくすることで多くの者に仕事を与える、現代で言うワークシェアリングのような方針を取ることにした。

 これで雇用は維持されたわけだが、そもそもの仕事の絶対数が増えたわけではない。個々人の仕事の頻度は減っていき、必然その分給金も減る。悲しいことに柳生家には無禄の者を養えるほど裕福というわけでもない。というわけで利厳は時折こうして外から仕事を取ってきては、家臣や門下生たちに斡旋していたのであった。

 そうして持ってきた新たな仕事が津島街道の見回り任務である。津島街道とは名古屋城下町から真東に延びている街道で、木曽川手前の津島村・津島神社付近まで続いていた。

「確かあのあたりには非公式な海路があるんでしたよね?」

「ああ、そうだ。『七里の渡し』をもじって『三里の渡し』などと呼ばれているな」

 本来西から東海道経由で尾張に入るには『七里の渡し』という海路を使う必要があった。これは伊勢国・桑名宿と尾張国・宮宿とをつなぐ文字通り七里ほどの海路なのだが、海路ということで天候の影響を受けやすく、また船賃としてある程度まとまった額の金も必要となる。そういった要素を嫌った旅人の一部がこっそりと利用していたのが桑名宿から津島までを繋ぐ非公式の海路、『三里の渡し』であった。

 津島街道はそんな非公認な海路から名古屋へとつながる街道であった。当然御公儀としてはあまり使ってほしくはない道なのだが、古くから地元民が利用している道だったため制限することもできず、ならばせめて治安だけは安定していてほしいということで、こうして時折見回り任務が御公儀から下されていたのであった。

 今回利厳はそんなお役目を取ってきたというわけだ。

「津島までは一日もあれば着く。お役目がてらでも四日とかからんだろう。息抜き程度に行ってみてはどうだ?」

「……」

 話を聞いた清厳は少し悩んだ。別に他の予定があったわけではない。ただ利厳が自分の機嫌直しのために仕事を持ってきた風なのが気に障ったのだ。

(息抜きね……。どうやら父上はよほど江戸とは争いたくないらしい)

 ここ数日清厳は明らかに不機嫌であった。理由は言わずもがな、江戸柳生の宗矩のせいである。清厳は宗矩昇進の話を聞いて以来、何度も自分たちも名を挙げるために何かするべきだと進言していた。しかしそのたびに利厳は鬱陶しそうな顔で、ただ「頭を冷やせ」と返してくるばかりであった。

 そんな利厳が持ってきた今回のお役目。本人的にはぐずる幼子に飴玉でも挙げているつもりなのだろうか?自分の話を聞かず子供扱いしてくる利厳に、清厳は静かに不満を溜めていた。

 とはいえ清厳も全く道理がわからぬほどの子供でもない。

(……だが遠出自体は悪くない。このまま屋敷にこもっていても、ただ鬱屈するだけだからな)

 不満はあったが、今すぐにそれが解消されることがないことはわかっていた。ならば確かに気分転換も悪くはない。幸いにもしばらく小姓仕事の予定もなかった。

「……お供の者は決まっているのですか?」

「いや。特に危ない道中でもないし、お前が好きに決めるといいだろう。どうする、受けるか?」

 清厳は一瞬断る理由を探したが、それらしいものを見つけることはできなかった。ならばここはもうあきらめて素直に引き受けた方がいいだろう。

「そうですね、やりましょう。大した道ではありませんし、早速明日にでも出ようと思います」

 清厳は一礼し、津島街道の見回り任務を承諾するのであった。

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