柳生宗矩 幕府の深淵を垣間見る 5

 秀忠が計画する忠長の改易。それに気を揉む家光は心身の疲れからついに寝込んでしまう。

 これにより登城の機会を失った宗矩であったが、ちょうど江戸に沢庵が来たことを知り相談のために彼に会いに行く。

 おおよその話を聞いた沢庵は、これは逆にチャンスなのではないかと宗矩に発破をかけた。

「こんな時だからこそお前の言う『太平の世の剣の道』を示すいい機会なのではないか?」

 その言葉を受けて改めて考え直した宗矩は一つの解決方法を思いつき、それを実行に移そうとしていた。


 沢庵から訓示を受けてしばらく経った二月末の某日。宗矩は家光に会うために江戸城の廊下を歩いていた。

 先月より天然痘で床に伏せていた家光であったが、この頃にはもうおおよそ快復しており、滞っていた業務も徐々に遂行されるようになっていた。残念ながらまだ体を動かせるほどではなかったが、それでも宗矩は数少ない心許せる相談相手として家光に呼ばれることがままあった。

「よく来てくれた、宗矩よ。まったく、寒い日が続くな」

 この日の家光は黒書院の縁側にて宗矩を待っていた。おそらく医者に日光浴が体にいいとでも言われたのだろう。宗矩はすぐに膝をつき頭を下げた。

「おっしゃる通りにございます。それにしても前回会われた時よりも顔色が優れているように見受けられます。思うように動けるようになるまでそう時間はかからないことでしょう」

「そうか?そうだといいのだがな。……本当に、時間を無駄にしてしまったからな」

 一瞬微笑んだのち、悔やむように顔を伏せる家光。彼の体調は日に日によくなってはいたが、精神面はそうではないようだ。原因はもちろん秀忠および忠長の件である。

 家光は一月近く寝込んでいたわけだが、その間彼は秀忠らに対して特に何もできずにいた。自分が寝込んでいる間にどれだけ彼らの計画が進行したのだろうか?老中たちが何か画期的な逆転方法を思いついたという話も聞かない。このままでは忠長が堕ちていく様をただ座して見ていることしかできないだろう。その事実が家光の心を今にも折ろうとしていたのだ。

(……参ったな。お心の方は思っていた以上に悪化しておられるようだ。このままでは先に諦めてしまうやもしれない)

 宗矩には家光・忠長を救いたいという想いと共に、この件をうまく解決することで剣術の地位を高めたいという下心があった。だが当の家光が諦めてしまえばその計画も流れてしまう。そうなっては遅いと宗矩は今日ここで決着をつける決心をした。

(本当はもう少しご快復を待ちたかったが、行くしかない!)

「……上様。不躾ながら人払いをお願いしてもよろしいでしょうか?少々内々でお話したいことがありまして」

「む?珍しいな。まぁお前の頼みならば聞かんこともないが……」

 このようなことを宗矩が言うのは珍しいことであった。しかし家光は宗矩を信頼していたため言われた通りに部屋の中に入り、小姓たちには外で待つように言いつけた。これで二人の会話が外に漏れ聞こえることはないだろう。

「これでよいか、宗矩?それで話とは……忠長のことか?」

 宗矩が人払いを願い出てまでする話などこれくらいしかない。家光の予想に宗矩は神妙な顔でこくりと頷いた。

「ご慧眼にございます。某が申しあげたいことは大納言様のことですが……、時に上様。上様の大納言様をどうにかしてやりたいという想いは未だ変わりないでしょうか?」

「……?」

 唐突な問いかけに家光は不審そうに目を細めたが、宗矩の真剣な瞳を見て居住まいを正して答えた。

「変わりはないさ。やはり平和のためとはいえ肉親を手にかけるというのは間違っている。忠長はもちろんのこと、出来ることならば父上にもそのような業の深いことはしてほしくはない。しかし……父上はもう覚悟を決めておられるのだ……」

 家光は寝込んでいた最中も真摯に考えていた。そして真摯に考えたからこそ秀忠の決意が固いことを悟り絶望した。普段は意識することがなかったが秀忠もまた天下を治めていた将軍の一人。そんな酸いも甘いも噛み締めた大将の決断を、弱冠二十五歳の若造が止められるはずもない。家光の心が折れるまでそう時間はかからないだろう。

 だがそんな彼を見つめる宗矩の目にはまだ光が残っていた。

(なるほど確かに大御所様を止めることは難しいように思えるだろう。だがしかし勝てぬと思われた相手を制することこそ兵法の妙。それを今、上様に見せる時よ!)

「……一つ、大御所様の暴挙を止める手段をお持ちいたしました。少々覚悟のいる道ですが、光明はあると思われます」

「ほう、覚悟と来たか。面白い。申してみよ」

 家光は宗矩に発言の許可を与えた。しかしそれは期待しているというよりは、もはや諦めるための最後の一押しを望んでいるような雰囲気であった。

 対する宗矩はここが正念場だと一つ深呼吸をすると、家光をまっすぐに見つめて答えた。

「大御所様を止める唯一の方法。それは上様が将軍として大御所様の案を否定する。それしかございません」

 宗矩の案に家光は思わず目を見開き、無言で固まった。


「大御所様を暴挙を止める唯一の方法――それは上様が将軍として大御所様の案を否定する。それしかございません」

 宗矩の提案は家光は一瞬わけがわからず目を見開いた。

「余が止める?……そりゃあ止められるものならば止めたいが、問題はどうやって止めるかということだ。いったいどのような道理で父上を説き伏せればいいのだ?」

 家光の疑問は至極当然のものであった。秀忠は秀忠なりの道理を持っていた。それを止めるならばこちらも相応の理由が必要のはず。それを見つけるために家光や老中たちは頭を悩ませていたのだ。しかし宗矩はそうではないと首を振る。

「恐れながら、それが間違っておられるのです。道理など必要ございません。上様は将軍。将軍は旗下の武士たちに采配を振るうことができる。つまりはただ一言命じればいいのです。大納言様を貶めるような策はやめろと」

「なっ、それは……!」

 家光はまるで大岩で頭をガンと殴られたかのような衝撃を受けた。それもそのはず、宗矩の出した案は理屈など無視して、将軍という強権を使って秀忠を抑えこめというものだったからだ。

 なんという暴挙だろう。しかしそれゆえに今まで考えもしなかった手段でもあった。確かに名目上は家光が将軍で間違いない。つまり名のある閣僚たち――酒井忠世や土井利勝、金地院崇伝や板倉重宗といった重鎮たちですら家光の命には従わざるを得ないのだ。彼らを自らの手足のように動かせば、秀忠の計画も簡単につぶせることだろう。

 しかし簡単がゆえに家光は躊躇する。改めて見てみればなんという強権だろうか。自分にそのような力があることを思い出した家光は、その力の強大さにぶるりと震えた。

(確かにほとんどの者が余の言うことを聞くが……。い、いかん!そんな無闇に力を使っては!そのようにして滅んだ王は歴史上に幾人もいたのだぞ!?)

 どうやら家光は権力の私的な利用をするべきではないと自制したようだ。その謙虚さは為政者としては正しい。しかし難局を切り開く武士としては間違っていると宗矩は思った。

「恐れながら上様、武士とは自らが望むものを自らの力によって得る者にございます。お父上をお止めになりたいのならば、それなりの行動が必要かと」

「そ、そうは言うが一応父上には父上なりの意図がある!それを筋を通さずにひっくり返すなど、誰もついて来やしないだろう!?」

「いえ、筋ならございます。先程上様がおっしゃられていたではありませんか。『父に身内切りのような業の深いことをしてほしくはない』。仁に基づいた政治。それもまた一つの立派な理由にございます」

「なっ!?し、しかし……そんな……。そんな理由で……」

 狼狽する家光。しかし狼狽するということはこの案に多少なりとも光明を見出したということでもある。

 おそらく今彼の中では、為政者としてあるべき姿と、父と弟を救いたいという個人の想いが天秤のように揺れているのだろう。

 だがそれもあと一押しで決定的に傾くこととなる。宗矩はすでにそのための一手を用意していた。

「……上様。以前某が剣の修行は政治につながると申したのを覚えておいででしょうか?」

「ん?あ、ああ、確かにそんなことを言っていたな……。押すときは押し、引くときは引く。それは剣も政治も同じだと……」

「はい。そして今まさにその時にございます。お父上と弟君を正道に導く――その目的のために力を振るう時です」

「……父上を切れとでも言うつもりか?」

「もちろん刀でではございません。将軍という力を使い、相手を制するのです。その先に上様が望まれる結果がありましょうぞ。……時に上様。話が前後してしまいましたが、此度はこれを上様にお渡ししたく存じ上げます」

 そう言うと宗矩は懐から一枚の書状を取り出し、家光に見えるように置いた。

「む。な、何だそれは?」

 露骨に警戒する家光に対し、宗矩は柔和な笑みを浮かべて返した。

「新陰流の印可にございます。こちらを上様にお渡しいたします」

 宗矩の返答に家光は驚きで目を丸くした。


「何っ!?印可だと!?」

「はい。今この時を持ちまして上様に新陰流のすべてを取得した証、印可をお与えしたいと存じ上げます」

 宗矩が懐から取り出したのは新陰流の印可であった。そして彼はこの印可を家光に与えると言う。

 この印可とは武術などにおいて、その流派の技法をすべて習得したことを示す証書のことである。お墨付きや免許皆伝と同等のものと思ってくれていいだろう。つまり今回の場合は宗矩が『家光は新陰流の技法をすべて習得した』と認めたことを意味していた。

「私が……印可を……!」

 師から印可を与えられるというのは武芸者にとっては一つの到達点である。家光も十年近く稽古を続けてきた身であるためその感動は一入ひとしおであったが、同時に困惑の思いも強かった。

「ど、どういうつもりだ、宗矩よ?確かに印可はうれしいが……、しかし余がまだ新陰流の技をすべて会得していないことなどわかっているのだぞ!?」

 さすがに家光も自分が印可に値しないことはわかっていたようだ。だが宗矩はそれは誤解だと首を振る。

「もちろん承知しております。ですが上様、技なんぞ所詮は手段に過ぎませぬ。確かに手段が多いに越したことはありませんが、大事なのは目的です。武の目的は必要な時に必要なだけの力を行使し、守るべきものを守ることにございます」

「守るべきを守る……」

「左様。上様はすでに力をお持ちになっている。あとはそれを的確に振るうのみ。ですがそれも上様ならばできましょう。ゆえに某は上様は印可に値すると思った次第にございます」

 そう言い切った宗矩の瞳は、少なくとも家光には本気に見えた。単純なおべっかやゴマすりではない、宗矩は本気で家光が印可を与えるに値すると思っているようだ。

 この怖くなるほどの信頼に、家光は困惑しながらさらに尋ねた。

「もう少し詳しく話せ。余の持っている力とは何だ?」

「力とは他者を動かすものにございます。それは一つの形にはとどまりません。ある者にとっては刀であり、ある者にとっては言葉である。ある者にとっては部下たちであり、またある者にとっては肩書でもある」

「将軍という肩書か……」

「加えて上様に集う兵たちもまた上様の力にございます。右兵衛督様(酒井忠世)や大炊頭様(土井利勝)らもまた上様と同じように今回の件に関して難色を示しておりました。かの方たちの力をうまく使えば、きっとこの局面も打開できましょう」

 なるほど、いかに秀忠といえど現役老中たちの協力も得ずに忠長の改易には踏み切れないだろう。確かにパワーゲームを仕掛ければ勝つ見込みはありそうだ。

 とはいえ家光にそのような強権発動の経験はなかった。しかも相手は実の父親にして前将軍・秀忠である。踏ん切りがつかないのも自然なことだろう。

「確かに勝機はあるようだが、果たして余にそのような大それた真似ができるのだろうか……?」

 この家光の弱音に、宗矩はあえてにっこりと笑って返した。

「もしできなければこの宗矩の目が節穴だったことになってしまいますな。……どうか上様、某が間違ってはいなかったことを見せてはいただけないでしょうか?どうか力を使い、守るべきものを守る姿をお見せくださいまし」

「宗矩……!」

 そう言って頭を下げる宗矩。これが宗矩なりの挑発ないし発破であることはすぐにわかった。まったく、将軍の尻を叩くとは不遜もいいところである。しかし家光に不快な感情はなかった。むしろ冷え切っていた自分の心にいつの間にか火が灯っていることを感じ取る。

「……宗矩よ。余に出来るだろうか?」

「出来ましょうぞ。なに、別段難しいことをするわけではございません。普段の稽古でなさるように、打つべき場所に適切な力と振りで打ち込む。ただそれだけにございます」

 淡々と言う宗矩に家光は今日初めての笑顔を見せた。

「ははっ、簡単に行ってくれる。しかし……そうだな。それくらいならば余にもできそうだ!」

 向き直った家光の顔は溌剌とした若侍の顔になっていた。彼ならばきっとこの難局も切り開いて進むことだろう。そう確信した宗矩は改めて満足そうに頭を下げるのであった。


 さて、それから数日後の西の丸。ここに秀忠や崇伝、老中各位といった前回と同じ面子が集められた。

 ただし今回は秀忠が呼んだのではなく家光による招集である。ゆえに秀忠はまだ今回集められた理由を知らされてはいない。とはいえ彼の中ではある程度の予想はついていた。

「……面子を見るに、前回呼ばれた者は全員集まったようだな。では家光よ。そろそろ何のために余らを呼んだのか話してくれるか?」

「はい。先日父上がおっしゃられた忠長改易の件――それについての決意が固まりましたので、この場でその意を表明したくお呼びいたしました」

「ほう。それはそれは」

 秀忠は予想通りとでも言いたげにニヤリと口の端を上げた。おそらく家光たちが自分の考えに恭順すると考えたのだろう。

 だがその予想は外れることとなる。家光は頭を下げると迷いのない口調で断言した。

「父上。父上が先日命じられた忠長の件。そちらを将軍の名において差し戻し、および中止とさせていただきます」

「……なんだと?」

 家光は秀忠に計画を中止する旨を伝えた。完全に予想を裏切られた秀忠はしばらく唖然としたのち、思わず腰を浮かせて詰め寄った。

「何を言っている!?差し戻しだと!?馬鹿な!お前にそんなことを決める権利があるのか!?」

 珍しく声を荒げる秀忠。しかし家光はその怒気を真正面から受け止めて反論する。

「ありますとも。某はこの江戸御公儀を任された将軍です。政策の良し悪しを見定める権利は持っております」

「なっ!?」

 秀忠は家光が反論してきたことに驚いたが、すぐに気を取り直して差し戻しをなかったことにしようとする。

「……この計画が間違っているとでも言いたいのか!?確かに非情に聞こけるかもしれんが、これが天下のために必要なことなのは説明しただろうが!?」

「いえ、必要ありません。もはや戦国の時代ではないのです。父上の案ではいたずらに天下に混乱をもたらしてしまう。将軍としてそのような愚行を見逃すわけにはいきませぬ」

「愚行だと!?お前に何がわかる!?天下のありようを知らないお前に!」

「確かに私は父上から見ればまだまだ若輩者。ですが本当に私が間違っているのならば、こうも賛同してくれる者が現れたりはしなかったでしょう」

「賛同者……、まさか!?」

 ここで顔を上げた秀忠は言葉を失った。見れば下座に控えていた酒井忠世や土井利勝、酒井忠勝といった面々が覚悟を決めた顔で静かに座していたからだ。

「貴様ら……!」

「お察しの通りです、父上。年寄衆たちもまた今回は時期尚早ゆえに見送るということで同意しております。もちろん今後再考することもないでしょう」

 家光はすでに老中たちの大半と話を付けていた。聞いていなかったのは初めから秀忠側についていた崇伝くらいで、その崇伝は彼にしては珍しく周囲をきょろきょろと見渡しながら事態の把握に努めていた。

 もはや大勢は決していた――いや、ここに集められた時から勝負は決していたのだ。それを悟った秀忠であったが、それでも彼は最後にあらん限りの想いを込めて叫んだ。

「本気で言っておるのか!?あやつらの存在は太平の世を脅かしかねないものなのだぞ!?身内だからと言って甘い考えではいけぬ!必要とあらば切る、それが上に立つ者の使命だ!」

「父上のおっしゃることを間違いだとは思いませぬ。おっしゃる通り、必要とあらば身内でも切るのが為政者たる者の使命。されど某には忠長がその太平の世を脅かす者だとは思えませぬし、尾張や紀州に不信感を与えてまでしなければならないこととも思ってはおりませぬ!ゆえに……!」

 家光は覚悟を決めるように一つ深呼吸をし、そして秀忠の目をまっすぐ見ながら宣言した。

「ゆえに此度の件、征夷大将軍の名をもって差し戻しおよび中止とさせていただきます!」

「……!」

 力強い家光の宣言に、秀忠はとうとう浮かした腰を下ろした。

(何ということだ。これがあの竹千代(家光の幼名)だというのか……!?)

「と、殿!いけません!ここで引かれては……!」

 がっくりと肩を下ろす秀忠に崇伝が慌てて声をかけた。しかし秀忠も長い間政治の世界で戦ってきた者である。一軍の将としての引き際はわきまえていた。

「よい、崇伝。家光らの覚悟は見て取れた。ここからひっくり返そうとすれば、それこそ江戸が二分されてしまうだろう。余とてそれは望むところではない」

「殿……」

 悔し気に歯を食いしばる崇伝であったが、最終的には彼も無言で顔を伏せた。

「家光よ。お前の覚悟、確かに見せてもらった」

「では……!」

「ああ、将軍の命とあらば仕方あるまい。忠長の改易の件は見送ることにしよう」

「父上!」

 家光は歓喜の想いを顔一面に浮かべたのち、深々と頭を下げた。それは家光が秀忠を越えた瞬間でもあった。

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