柳生宗矩 幕府の深淵を垣間見る 4
秀忠の忠長改易宣言は混乱を招くと共にそれぞれの立場を浮き彫りにした。
秀忠陣営は強行の立場を取り、元から権力の一元化を目論んでいた老中たちも幾つかの懸念点を抱きつつも改易自体には反対しなかった。
対し家光はこの戦国時代じみたやり方がどうしても受け入れられずにいた。宗矩は家光のそばに着き、妥協点を探ろうとするもなかなかうまくいかない。
そんな折、心身の疲労がたたったのか家光は天然痘にかかってしまい、療養生活に入ってしまうのであった。
家光が天然痘に罹患したことにより、城の業務の一部が再開時期未定での中止となってしまった。その中には武術の稽古も含まれており、これにより他にお役目を持っていなかった宗矩は登城することができなくなってしまう。それは同時に宗矩が忠長改易の件で動けなくなったことを意味していた。
(これはマズいぞ。上様にお会いできなければ、私は何もできぬというのに……!)
宗矩は家光経由で情報を得ていたため、それが途切れてしまうとどう動いていいのかわからなくなってしまう。かといって後ろ盾もなしに勝手に動くには相手が悪すぎる。相手は大御所・秀忠や老中たち。悲しいことに今の柳生家では一睨みされただけで消し飛んでしまうくらいに家格に差がある。
こうなるともう宗矩にできることは家光の早い快復を祈るくらいしかない。宗矩は焦燥感に駆られながらも、じっと雌伏の時を過ごす。
そうして暦が二月に入った頃であった。宗矩は沢庵一行が裁判のために江戸に入ったという話を耳にした。
「和尚……。とうとうこの時が来たか……」
この頃宗矩は並行して別の事件にも気を揉んでいた。それが旧友である沢庵和尚もかかわっている紫衣事件である。紫衣事件とは幕府と朝廷との間で起こった人事権を巡る争いであり、その中心人物の一人であった沢庵が此度取り調べのために江戸まで護送されてきたのだ。
なお取り調べとは言ったがこの時代に現代の三権分立のような気の利いた仕組みは存在しない。つまり幕府にたてついた時点で沢庵の有罪はほぼ確定で、沢庵が江戸まで連れてこられたのも幕府の権威を改めて世に知らしめるためなのではないかというのがもっぱらの噂であった。
友人としては心苦しいことであったが、一方で宗矩はこれに光明を見た。なにせ宗矩が知る中で彼ほど見識の深い人物はいない。色々と問題ごとを抱えている今、相談するには最適の相手と言えるだろう。そう考えた宗矩は早速伝手を使って沢庵との面会を取り付けるのであった。
数日後の二月某日、二人の再会は神田の広徳寺にて行われた。寺の方も気を遣ってくれたのか、見張りもいない二人きりの再会であった。
「沢庵和尚。久しいな。二十年ぶりくらいか?」
「おぉ宗矩か。ははは。互いに老けたな」
二人が最後に会ったのは宗矩がまだ柳生庄にいた頃であった。つまりは宗矩の言った通り二十数年ぶりの再会だろう。この時代は一度別れた友人とそれっきりになるなんてことも少なくない。そんな中でまた会うことができたのだ。二人は手と手を取り合い、しばし互いの事情も忘れて喜び合った。
「まさかこんな形で再会するとはな。面倒事ばかりであったが、こうしてお前と再会できたのならばそう悪くもなかったな」
「相変わらず口が減らないな、和尚。だが私もうれしいよ。……すまないな。私では大した力になれなくて」
宗矩は沢庵の裁判が江戸で行われると聞いて以来、彼の減刑のために四方に働きかけていた。しかし一剣術指南役の意見などたかが知れており、加えてそもそも誰も幕府にたてついた者の擁護などしたくはない。結果火中の栗を拾うような物好きはほとんど現れず、ろくな協力者を得られないまま今日まで来てしまった。
友人としては心苦しいことであったが、しかし沢庵からすればそうして動いてくれる友がいるだけでもうれしかったらしく、判決を待つ身とは思えない快活な笑顔で返した。
「なに、私は私が思うがままにやっただけだ。お前が気に病むことなどない。……むしろ私はお前の方が心配だぞ。お前は曲がりなりにも城勤めなんだ。私の味方なんぞしても大丈夫なのか?」
なるほど確かに今後のことを考えれば、危険な橋を渡っているのは宗矩の方ともいえるだろう。しかしこの質問に宗矩は含みのある笑みを見せて返した。
「心配するな。一応無茶ではない範囲でやっている。それに正直に言えば下心もある。ゆえに和尚は遠慮せずに頼っておればいいのだ」
「そう言うなら遠慮はしまい。しかし下心か……。以前手紙で言っていた剣と禅との融合の話か?」
沢庵の推察に宗矩は「いかにも」と頷いた。
色々と悩みを抱える宗矩であったが、長い目で見た時に彼が一番懸念していたのは、世間にて『武』の重要性が日に日に低下している問題についてであった。
そもそも武が
この風潮は今も健在で、このままではいずれ剣術指南役というお役目すら閑職扱いされてしまうことだろう。そうなれば柳生家は御家存続の危機となる。当然それは宗矩の望むところではなかった。
(柳生家は剣によって身を立ててきた家。しかしこのままでは肩身が狭くなる一方だ。なんとかして自分の代で新たな地位を確立しなければ!)
次代のために新たな剣の在り方を模索する宗矩。そんな彼が出した一つの解決策が、剣の修行と禅の精神修行とを融合させることであった。
「武術の修行は肉体だけでなく精神力や判断力なども鍛えられる。そしてそれは戦場だけでなく日常生活でも役に立つ能力だ。つまり剣術の修行が平時でも役に立つと認められれば、戦がなくなった太平の世でもある程度の地位を維持できるはずだ!」
一つの解を得た宗矩であったが、とはいえこれを第三者に納得させるのは簡単なことではない。必要なのは誰にでもわかる明瞭な文章による理論の構築だろう。そんなことができるのは……。思案した宗矩が思い浮かべたのは旧友の禅僧・沢庵であった。彼ならばきっとこの剣と禅とを融合させた新たな思想の草案をまとめあげてくれることだろう。
こうして宗矩は自らの進退を賭け、危ない橋を承知で沢庵に近付いたのであった。
「剣と禅との融合か……。まぁ確かにどんな芸事も突き詰めようとすればそれは修行となるからな。自ずと禅に通ずるところも見い出せよう」
「ではやってくれるのだな、和尚よ?」
「他ならぬお前の頼みだ。やってはみよう。しかし時間はかかるぞ?はっきりと言ってしまえば、おそらく沙汰の方が先に出るだろうな」
沢庵を江戸にまで呼び寄せた以上紫衣事件の決着はもうまもなくといったところだろう。そしてその判決は良くて配流、悪くて遠島、最悪死罪というのが多くの者の見立てであった。極端な話、今日が今生の別れとなってもおかしくはないのが現状である。それでも宗矩は構わないと返した。
「構わんさ。まだもう少しばかり猶予はあるからな」
幸い今のところ家光は楽しんで剣の稽古を行っている。彼が満足しているうちは剣術指南のお役目も安泰だろう。しかし沢庵は意外そうに首を傾げた。
「そうなのか?その割には深刻そうな顔をしていたようだが?」
「それは……まぁ別件だな。こっちはこっちでなかなかに厄介でな。聞いてくれるか、和尚よ?」
悲し事に今の宗矩にはこの件以外にも頭を悩ませることが多々あった。それらを思い出した宗矩は大きく一つ溜め息をつくと自然な動きで煙草盆を手元に寄せ、ここ最近の不満を愚痴るのであった。
「最近こちらも色々とあってな。和尚に相談に乗ってほしいことがたくさんあるのだよ」
煙をくゆらせながらここ最近の不満を愚痴る宗矩。当代一とも称される禅僧に愚痴るというのも贅沢な話だが、そこは二人の親交がなせることだろう。
「特に厄介だったのが、上の方で意見の対立があってだな……」
「ほう。そっちはそっちで大変そうだな」
宗矩は家光が秀忠の政策をどうにかしたいと思いつつ、力不足ゆえにどうしようもできずに悩んでいることを話した。もちろん固有名詞は避けたし細かいところは曖昧にしていたが、沢庵ほどの切れ者ならばおおよその事情は察するだろう。
そうして一通り話し終えると沢庵は宗矩を労うような笑みを見せてくれた。
「なるほど。詳しい話はわからんが、お前も苦労しているようだな」
「わかってくれるか、和尚。まったく皆が疑心暗鬼にならずに動いてくれればもっと滞りなくいくというのに……。そうだ!どうだ和尚?ここは一つ和尚が皆に説法でもするというのは。和尚の説法を聞けば皆雑念に捕らわれることはなくなるだろうし、東西のわだかまりも消えるやもしれんぞ?」
宗矩は良案を思いついたという風に提案したが、沢庵はこれに呆れながら首を振る。
「冗談はよしてくれ。無駄に権力者におもねるつもりはない」
「割と本気で言ったのだがな……」
すでに天皇、公家といった多くの実力者たちに気に入られている沢庵だ。おそらく家光たちだって気に入るはずだし、そうなれば裁判の方も沢庵有利に働くかもしれない。
しかし沢庵本人が言った通り、彼はそういった者に迎合することを良しとしていなかった。たとえそれが自分に不利に働くと知っていてもだ。もったいない話ではあるが、そういった飾らなさも多くの人が彼に惹かれる魅力の一つであった。
(とはいえ和尚は少々自分を無下にし過ぎだ。これほどの男が時代の影に消えてしまうのはあまりに忍びない。どうにかして上様に紹介できればいいのだが……)
「どうした、宗矩?何か気になることでもあったのか?」
「あぁいや、少し考え事をな。ほら、さっき話しただろう。上の対立のせいで仕事がはかどらんとな」
沢庵はこういった話を嫌うため適当に誤魔化す宗矩。一方の沢庵は沢庵で、宗矩の面倒事について考えていたようだ。
「そのことなんだが、少し考えたのだがこれは好機なのではないか?」
「好機?何の話だ?」
「だからお前の仕事のことだよ。こんな状況だからこそ、お前の言う剣の道を示すのにちょうどいいのではないかと言っているんだ」
「……どういうことだ?」
沢庵の思わぬ言葉に宗矩の煙草を吸う手が一瞬止まった。
「今が好機とは……どういうことだ?」
宗矩の愚痴を聞いていた沢庵。そんな彼はむしろ今が宗矩にとっての好機なのではないかと指摘してきた。しかしそう言われても宗矩にはピンとこない。いったいどういうことかと尋ねると、沢庵はぼけっとしている友人をからかうような笑みを見せて返した。
「今日は珍しく察しが悪いな。言葉にした通りだよ。詳しい話は分からんが今江戸の御公儀は面倒事に巻き込まれているのだろう?そんな中で上手いこと立ち回れば、それこそお前の悲願である平時における剣の価値を万人に認めさせることができるのではないか?」
「それは……!」
それはちょっとした天啓だった。これまで宗矩は上手いこと将軍を巻き込んで剣の価値を認めさせる――言うならば受け身の評価で御家の地位を守ってきた。また現在計画している禅と融合させた理論も、前提として家光に認められることを目標としていた。つまり宗矩には能動的に動くという意識が欠けていたのだ。
しかし沢庵は別の道を提案する。自ら積極的に事態に介入しろと言うのだ。そうすることで戦場以外でも剣の価値を認めさせることができるかもしれない。延いては御家の維持にもつながることだろうと。
なるほど興味深い話ではある。しかしやろうとおもってすぐにできるほど簡単なことでもない。
「そ、それはそうかもしれんが、下手を打って上に睨まれてはすべてが台無しになってしまう。そう大胆なことは出来んよ」
沢庵は知らないが今回の騒動には大御所・秀忠や老中たちが絡んでいる。そんな彼らの間を縫って我を通すなど心臓が幾つあっても足りないだろう。しかし沢庵はそんな宗矩を快活に笑い飛ばした。
「おいおい。武士は自らの力で地位を勝ち取るのではないのか?そうして待ってばかりでは雑兵のままで戦が終わってしまうぞ」
「それは……」
「それにお前は私のまとめた言葉だけで上様を言いくるめるつもりだったのか?そんな付け焼刃の言葉など、あっという間に
「くっ……!」
さすがは沢庵。宗矩にとって痛いところをチクチクとついてくる。だが痛いと感じるのは自分が多少なりとも和尚の言っていることが真実だと思っていたからだ。
思えば坂崎事件の時も逆境を利用して柳生家の地位を上げた。今回もまたあの時と同じようなことができるのではないだろうか?……いや、
「それから宗矩よ。これは個人的な意見だが、もし家のことを考えているのならお前の代でどうにかした方がいいと思うぞ」
「どういうことだ?」
「少し前に七郎(三厳)に会った。あれはいい奴だが、お前のような
「狡い……。まったく、好き勝手言いおって……」
呆れたように溜め息をついた宗矩であったが、思い当たることはあった。確かに三厳は剣の腕は冴えているし、怪異を見れるという特別な力も持っている。しかし沢庵の言う通り化け物じみた政府高官たちと渡り合うような才覚は持ち合わせてはいなかった。これはもう個人の良し悪しではなく適材適所の話である。
そう考えると自ずと道も見えてくる。やはりこの問題は自分の代で決着を付けなければならないことなのだ。
「……わかったよ。一度その方向で考えてみよう。だがだからと言って和尚の方も手を抜くなよ?柳生家の今後のためには和尚の理論も必要なのだからな」
「ああ、わかってる。また会う日を楽しみに待っていよう」
こうして宗矩は決意と共に沢庵の元を辞すのであった。
自分の代で剣術の新たな価値を作る。
そう決心して屋敷に戻った宗矩は、早速人払いをして瞑想に入ってみた。この難局にてどう立ち振る舞えばいいのだろうか?宗矩は改めて自分がこれまで得てきたものをじっくりと思い返す。
(……そうだ。押すべき時は押し、引くべき時は引く。それは剣も政治も変わりはしない。上手く相手を見極め、自分の力を振るえばいいのだ)
心を落ち着かせて丁寧に思案する宗矩。するとどうだろう、当初は無茶なことだと思っていたが、いざ瞑想してみるとこれまで
だが一度輪郭が見えてしまえばあとはこちらのものである。輪郭はやがて体勢を浮き彫りにし、体勢がわかれば力の流れも見えてくる。そこまで見えればもう宗矩の領域である。今や彼の目には打ち倒すべき敵の姿がはっきりと写っていた。
(なるほど。これが解決しなければならない問題の形か。こちらを打とうとすればこちらから返される……。逆にこちらから攻めればこう返してくるだろう……。ふむ、これは一筋縄ではいかないな)
厄介な相手ではあったが、こちらの理屈が通じる形となったのならば攻略は可能である。宗矩は自分の打てる手を一つずつ丁寧に分析し、そして数日後、宗矩が瞑想内で放った一撃が混沌の影を捕らえた。
(そうか。これが最善の一手であったか……!)
秀忠の策謀。家光の苦悩。そして武術の将来。宗矩はそれらをまとめて解決できるであろう一つの道を見つけ出した。後はそれを実行するだけである。
宗矩は心が赴くままに筆を取り、そして屋敷内で最も上質の巻物にこう書き記した。『新陰流兵法
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