(第十四話)柳生三厳 駿府に呼ばれる 1
寛永五年(1628年)は柳生家にとって、なかなかに慌ただしい年となった。
春先には坂崎家残党との因縁に決着をつけ、初夏には三厳に織田信雄の家臣から依頼が来たりもした。また七月には武家伝奏の使いの護衛任務を任され、三厳・宗矩親子が駿府で顔を合わせるなんてこともあった。
それから数か月は大きな事件もなく、このまま平穏に年を越せるのではないかと思われていた矢先、またも柳生家に問題事が舞い降りる。
それは十一月某日、宗矩が将軍・家光の稽古をしている時であった。
「ふっ!はぁっ!……たぁっ!」
場所は江戸城・中奥の庭先。そこで家光が鬼気迫る表情で袋竹刀を振っていた。相手のいない一人稽古であり、周囲には護衛役の小姓が数人と若干顔をこわばらせた指南役の宗矩がいるばかりであった。
「ふっ……、てりゃぁっ……!はぁっ……!」
しばらく基本通りに竹刀を振っていた家光は最後に大きく袈裟切りを放って動きを止めた。数分間動きっぱなしだったため息はすっかり上がっており、額には玉のような汗が浮かんでいる。年長の小姓が手拭いを持って駆け寄ると家光はそれを当然という風に受け取り、汗を拭いながら宗矩の方を向いた。
「ふぅ……。どうだった、宗矩?某の剣の具合は」
宗矩は深く頭を下げて答えた。
「はっ。日に日に上達するばかりで、まこと驚嘆してばかりにございます」
もちろんこれは
だがこの日は少し風向きが違った、宗矩のおべっかに対し家光はあからさまに不満そうな顔をしたのだ。
「ふん。もし本当にそう見えたというのならば、老いたな、宗矩よ」
「……」
どうやら今日の家光はかなり機嫌が悪いらしい。宗矩は頭を下げて無言で身を小さくした。
(たまにこんな日があるが、今日は特に荒れておられるな……)
実のところ宗矩は家光の異変には気付いていた。今日の家光はどこか心ここにあらずで、何かを拒絶するかのように竹刀を振っていた。あるいは迷いを断ち切ろうとしていたと言ってもいいだろう。
そしてこれはそれほど珍しいことではなかった。やはり将軍職は気苦労が絶えないのだろうか、家光には月に一度ほどこうして力任せに竹刀を振る日があった。ちなみにそもそも今日は稽古の予定日ですらなかった。家光がどうしてもと言うので、無理矢理半刻ほど都合をつけたのだ。
そういったことに気付いていながら触れなかったのは下手につついて火の粉を被りたくなかったからだ。幼少期から天下人として甘やかされてきたせいか、機嫌の悪い時の家光は本当に始末に置けない。幸いにもいつもなら適当に褒めておけばそれで満足してくれたのだが、しかし今日はそれだけでは足りないようだった。
「もう一度訊く。お前の目に私の剣はどう見えた?」
「……恐れながら、何かを迷っているように感じられました。迷い、それを振りほどこうとして竹刀を振るう――そんな印象です」
宗矩は改めて感じた通りに答えた。すると今度は正解だったようで、家光は満足そうに頷いた。
「さすがだな。やはり余のことをわかってくれるのはお前くらいだ」
「もったいなきお言葉にございます。……差し支えなければ、お心の内をお聞かせ願えないでしょうか?若輩ながらもお力になれるやもしれませぬ」
「うむ。余もそちに聞いてほしいと思っていたところだ」
どうやら今日の家光は宗矩に話を聞いてほしかったようだ。そう言った家光は小姓たちを遠ざけて近くの縁側に腰掛けるのであった。
小姓を遠ざけて縁側に腰掛けた家光は、宗矩をそばに寄せ早速話を切り出した。
「宗矩よ。お前は剣を学ぶことは、将来兵を指揮するために必要だからだと言っていたな?」
家光の問いかけに宗矩は逡巡なく頷いた。
「はい。碁を教えるには碁を知らねばならない。能を語るには能を知らなければならない。同じように兵の大将たる上様は戦とは何たるかを知る必要がある。その手始めとなるのが剣の道にございます」
これはここ最近、宗矩が家光に言い含めている理論である。
もともと大将でも戦う可能性のあった家康、秀忠の時代と異なり、家光が直接戦場で刀を握る可能性はほとんどなくなっていた。だがそれを認めてしまえば剣術指南役という立場に価値がなくなってしまう。それを回避するため宗矩が説くようになったのがこの『大将の剣』の理論であった。
考え方としては先に挙げた碁や能の例の通りである。将軍は兵を指揮する立場である。指揮するためには戦場の道理を知っていなければならない。戦場の道理を学ぶにはまずはミクロな剣術を知ればいい。だから剣術指南役は必要なのだ、という理屈だ。
幸いなことに家光はこの理論に納得し、おおよそ受け入れてくれていた。
「うむ、お前の言う通りだ。右も左もわからぬ者が指揮を執れば下の者は苦労してしまうからな。そしてお前はそれは戦だけでなく、
「左様にございます。平時の将は領地の政を指揮するもの。そして上様の領地はこの国全土。上様が日頃勉学に励んでおられるのは天下の政を指揮するためにございます」
家光が不安にならないように明瞭に答えた宗矩。しかしここで家光の顔に影が入った。
「……しかしだ、宗矩よ。実際のところ政を主導しているのは父上や老中たちだ。やれ将軍だの天下人だのと持ち上げられてはいるが、肝心の采配は我が手中にはない。これはどういうことだ?」
「それは、その……」
どうやら家光は今の政治体制に大きな不満があるようだ。宗矩もこれには一瞬言葉を詰まらせたが、しかしそれでは家光に不信感を抱かれてしまうと危惧し、無理矢理言葉をひねり出した。
「上様も日夜勉学に励んでおられますが、あちらに一日の長があるのもまた事実。得意な者に得意なことをさせる。それもまた一つの采配にございます」
宗矩の回答は丁寧で的確なものだった。しかし残念ながらこの程度では家光の不満を解消することはできず、いよいよ彼の思いの丈が爆発してしまう。
「そのくらいはわかっておる!自分がまだ未熟だということくらいな!だがあまりにも余を
家光が名前を挙げた高仁とは半年ほど前に亡くなった高仁親王のことである。彼は徳川の血を引いた次期天皇候補であったが半年前に急死し、これにより幕府・朝廷間に緊張が走った。またこれ以外にも紫衣事件など朝廷との政治的問題は多々あった。
これらのことは政治的に非常に高度な案件なので、家光が簡単に口を挟めるものではない。しかし上洛すれば代表として公家たちの前に顔を見せるのは家光である。彼はこういった名実の不一致に不満を持っているようで、その愚痴は稽古時間ほぼいっぱいまで続いた。宗矩はその間ひたすら無難に相槌を打ち続け、そのおかげか最後の方ではだいぶ落ち着いて会話できるようになっていた。
「……もちろん皆の都合はわかっているつもりだ。それでも何も知らされずに物事が決まり、そしてその矢面に立たされる。これほど屈辱的なことがあるだろうか?なぁ宗矩よ」
「上様の歯痒い想い、まことおっしゃる通りにございます。某も上様のために何かしとうございますが、何もできぬ身が恨めしいばかりです」
「ははは。何もできぬとは言ってくれるなよ。宗矩よ。余は貴殿のことを真の懐刀だと思っているぞ」
「はっ。身に余る光栄にございます」
実際並の兵卒ならば、将軍からここまで言われればそれだけで天にも昇るほどに感激することだろう。しかし宗矩は頭を下げる直前、家光が何やら覚悟を決めたかのような表情をしていたのを見逃さなかった。
宗矩はこの表情を知っていた。これは家康や秀忠が大将として一つの覚悟を決めた時の顔に似ていた。
そして家光はこう続ける。
「そこでだ、宗矩。そちを余の懐刀と見込んで一つ頼みたいことがあるのだが……」
宗矩はぞくりと背すじに嫌な予感を覚えたが、断ることなどできるはずもない。
「何なりとお申し付けください」
(せめてあまり難しくない頼み事ならばいいのだが……)
そう身構える宗矩に対し家光はこう言い放った。
「貴殿は駿府に向かい、その目で忠長のことを評価してほしいのだ」
「貴殿にはその目で駿府の忠長のことを見てきてほしいのだ」
「駿府の……大納言様ですか……!?」
「シッ!声が大きいぞ!」
家光にたしなめられて慌てて顔を伏せる宗矩。だがそれも仕方あるまい。家光が名を挙げた忠長とは、家光の実弟にして駿府城城主・徳川忠長のことである。家光はそんな忠長の極秘調査を宗矩に依頼してきたのだ。
(大納言様の内偵だと!?そんな大役、出来るわけがなかろう!?)
これははっきりと言えば無理難題であった。
この頃の宗矩の家格は三千石の大身旗本である。対する忠長は五十五万石の従二位権大納言。いかに家光の命とはいえ、近くに立つことすら憚られるほどの身分の違いがある中で、どうしてまともな調査などができようものか。
せめて目的がわかれば代替案を出せるかもしれない。そう思って宗矩は家光に問いかけるのだが……。
「ありがたきお役目ですが、某には少々荷が勝ちすぎているかと……。一体上様はなぜそのようなことをお望みで?」
「みなまで言わすな。お前ならばわかってくれるだろう?」
宗矩の質問に家光ははっきりとは応えなかった。これは一見すると酷い無茶ぶりに聞こえるだろう。しかし家光の悲痛な胸中を理解した宗矩はそれ以上異論を唱えることができなかった。
(そうか……。おそらくはあの噂のせいだろうな……)
宗矩は近頃殿中でもよく耳にするようになった、とある噂を思い出した。
それは『駿府の忠長が水面下で謀反の動きを見せている』という噂。これはもちろん根も葉もない噂だろう。忠長は年も境遇も家光に近いため、このような噂が流れることは度々あった。
ただ今回の噂はいつもと少し具合が違っていた。いつもならこんな噂も七十五日。気付いたときには皆新しい噂に夢中になり、忠長のことなど誰も口にしなくなっていた。しかし今回の噂はかれこれもう一年近く続いていたのだ。
こんな噂が流れるのは初めてではないため、本気で信じている人などほとんどいない。しかし事あるごとに耳にすれば(もしや本当に?)とわずかな疑念を覚えるのも自然なことだ。気の早い者はすでに元和二年の松平忠輝のように、改易・配流の憂き目にあうと声高々に風潮していたほどである。
(おそらく上様は昨今の一連の流れを耳にしたのだろう。そして危惧なされた。老中様方らが自分が口出しできない間に大納言様排斥を決めてしまうのではないということに)
御公儀は幕府に仇なす者に常に目を光らせていた。その姿勢は徹底したもので時には噂だけであっても、時には高貴な身分であっても必要とあらば臆せず罰していた。先に挙げた松平忠輝がいい例だろう。となれば当然このまま噂が流れ続ければ忠長も処罰の対象となるはずだ。
あるいはもうすでに議題に上がっているのかもしれない。家光が知らない所で処分が決定しているのかもしれない。そうなればもはや家光ができることはそれを承認することだけである。たとえ家光がどう思っていたとしてもだ。それはなんと慈悲のない話であろうか。
当然家光としてはそうなる前に口の一つでも挟みたい。しかし今の家光に父である秀忠や老中らを言いくるめるだけの力量はない。だからこそ彼は
宗矩はそのための耳目に選ばれた。つまりそれは……。
(つまりそれは、私の報告次第で上様と大納言様、お二方の命運が決まりかねないということか……)
もし宗矩が『忠長は何も悪くはありません。罰を与える必要はありません』と報告すれば、家光はそれを励みにし今の忠長を悪しく言う流れを止めるだろう。逆に『やはり忠長には謀反の兆しがありました』と言えば、今度は他の者が言うように処罰に同意するだろう。
まさに天下が右に転ぶか左に転ぶかの分水嶺。宗矩はその重責に思わず気が飛びそうになったが、今はそれですら甘えであった。宗矩の目の前には返事を待つ家光がいる。
「無茶を頼んでいることは承知している。だがこんなことを頼めるのはお前しかいないのだ。やってくれるか、宗矩?」
家光の真剣なまなざしに、宗矩はもはや頷くことしかできなかった。
「……承知いたしました。不肖宗矩、上様の耳目となりて真実を確かめて参りましょう」
こうして思わぬ大役を任された宗矩は城を辞し、足早に屋敷を目指す。
「これは大変なことになった……。一刻も早く動かねば。時間も人手も全然足りないぞ……」
今回は政治的な影響を極力排除するために、老中やその他有力者の協力は仰げない。調査のための人員は信頼できる身内で固めるしかなかった。
「駿府だから友重と……。七郎も呼んでおくか。それからあやつにも……」
屋敷に戻った宗矩は着替えもそこそこに、早速柳生庄とその他数か所に向けて救援の手紙をしたためるのであった。
宗矩が手紙をしたためてからその十数日後。そのうちの一通が柳生庄へとたどり着いた。
受け取った代官・小沢頼元は中を確認するやこれはただ事ではないと察し、すぐさま三厳が稽古をしている庭へと駆けていった。
「三厳様!三厳様!殿より火急の手紙にございます!」
「父上から?どれ、見せてくれますか?」
珍しく慌てている頼元から手紙を受け取り中を見ると、三厳はその内容に眉根を寄せた。手紙には署名と花押を除くとただ一文が書かれているだけだった。
『のちに来る
手紙の内容はいたってシンプルだった。これは宗矩が道中うっかり中を見られてしまっても問題にならないようにと配慮したためであったが、そんなことを三厳が知るはずもない。思わず偽書を疑ったくらいだが、署名と花押を見るに宗矩本人からの手紙で間違いないだろう。
「これは……父上はいったい何をさせようというのだ……」
目的はまるで見えてこない。だが戯れでこんなものを送ってくるような父ではない。しかも文中に出てくる『幸徳井家』――これは幸徳井家の養子となった柳生家の親族、幸徳井友景のことだろう。
宗矩の甥、幸徳井友景。宗矩は彼に協力を仰いだようだが話はそう単純ではない。というのもこの友景は現在陰陽寮の陰陽頭を務めているからだ。言うまでもなく陰陽寮は朝廷勢力。対する宗矩は幕府方。いくら親族とはいえむやみやたらに接触すれば問題になることは間違いないだろう。
(それがわからぬ父上ではない。つまりはそんな危ない橋を渡らざるを得ないほどの急務ということか……)
相変わらず事情は分からないが、切羽詰まった状況であることは理解した。三厳はすぐさま刀を納め準備に取り掛かる。
「ともかく出立の準備だ。父上のことだから陰陽寮からの使いとやらも明日明後日には来ることだろう。それまでに準備を済ませるぞ」
「承知いたしました。三厳様の護衛はこちらで足の速い者を手配しておきます」
「頼んだ。今年中に帰ってこれるかもわからないから、そのつもりで選ぶようにな」
「はっ」
こうして慌ただしく準備を整える三厳と頼元。そして三厳の予想通り、手紙を受け取った二日後に陰陽寮からの使いはやってきた。
宗矩からの手紙を受け取ったその二日後、柳生庄に陰陽寮からの使いがやってきた。
出迎えた三厳は使いの顔を見て驚いた。というのもやってきたのが見知った顔だったからだ。
「
陰陽寮から使いとしてやってきたのは、三厳の旧友の
また三厳は雅行をここまで連れてきた護衛にも驚いた。なぜならその護衛の一人もまた三厳の旧友である伊賀忍者・植田与六郎だったためである。
「しかも与六郎まで!まさか二人は知り合いだったのか?」
これに雅行は呆れたように首を振る。
「そんなわけあるか。一昨日初めて会ったばかりだ。京に迎えに来た与六郎殿がお前の旧友とのことだったから俺が選ばれたんだよ」
雅行曰く、宗矩が友景へと送った手紙は途中与六郎を経由して届けられたとのことだった。その内容は『迎えに来た伊賀の忍びと共に駿府まで来てほしい』というもので、これを受けて陰陽頭・幸徳井友景は柳生家と縁があった雅行を名代として選出した。
「そうだったのか。ご苦労だったな、与六郎」
「これも任務ですのでお気になさらずに。……それよりも三厳様は今回駿府で何をなさるのかお聞きになっているのですか?」
「いや。俺も特には聞かされていない。……危ない橋を渡りそうなことは予想できるのだな」
伊賀忍者として多忙な生活を送る与六郎に、朝廷に属する陰陽寮からの使者・雅行。そんな彼らを無理して呼んだのだ。宗矩の抱えている問題がそれほど難問ということなのだろう。
早くも険しい顔になる三厳であったが、これに旧友二人は頼りがいのある笑顔で返した。
「まぁ俺は去年お前に世話になったからな。出来る限りのことはするつもりさ」
「某も同じにございます」
「うむ。頼りにしているぞ。それじゃあ着替えてくるから中で待っていてくれ。軽食も用意してあるから好きにつまんでくれよ」
奥へと引っ込む三厳。急な出立になることは予想できていたので準備の方は万端であった。まもなくすると旅装束に着替えた三厳と、選出した護衛一名が合流する。
駿府に向かうために柳生屋敷門前に集まったのは以下の五人であった。
まずは柳生三厳。そして三厳の護衛として柳生家家臣の守山
「急な話でしたので、こやつしか手の空いている者がおりませんでした。年は若いですが基本的なことはできますのでお好きなようにお使いください」
「蜂助か。お前も頼りにしているからな。よし、それでは参ろうか」
こうして三厳を筆頭とした五人は駿府へと向かうために柳生庄を発ったのであった。
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