春豪 楽田にて立ち合いを挑まれる 1
哨戒任務を無事に終えた春豪と清厳たち。
しかし彼らのあずかり知れぬところで、彼らの命運を左右しかねない問題が秘かに進行していた。
それは春豪たちが尾張北部の見回りを終えてから四日後のことだった。
この日も春豪は柳生屋敷の庭先で柳生家家臣たちと共に汗を流していた。そこに門番当番だった下男が慌てた様子で駆けてくる。
「しゅ、春豪殿はこちらにおられますか!?」
下男の剣呑な様子に春豪だけでなく他の皆も鍛錬の手を止めて彼に注目した。
「ん?ここにいるが、何かあったのか?」
「あぁよかった。実は今しがた、とある童がこんなものを持ってきたんです」
そう言って下男が渡してきたのは表に何も書かれていない一通の手紙であった。
「手紙?これを某にか?一体どこの誰からだ?」
「それがその……果たし状とのことでした」
「なっ、果たし状!?」
思わず声を張る春豪。そして聞き耳を立てていた家臣たちも同様にざわめいた。果たし状とは日時や場所を指定して決闘を申し込む書状のことである。それを誰かが春豪に差し出したということだ。
ちなみに家臣たちはすでに春豪がこれまで多くの腕利きたちの挑戦を受けてきた経歴を知っていた。それゆえこの果たし状に驚きこそすれ、不審がる様子は見られなかった。
「春豪殿。それは春豪殿がおっしゃられていた『戦場の布施』というやつですか?」
「それは見てみないと何とも……。その持ってきた童とやらがこれを果たし状と言ったのか?」
「ええ。見知らぬ男からそう言って渡してくれと駄賃を貰ったとのことです。ただ中身は見ておりませんので、それがどこまで本当かは……」
「確認する他ないか」
春豪は息がかかるくらいに寄ってきた野次馬家臣たちの注目を浴びながら、その無地の果たし状を丁寧に開いた。
受け取った推定果たし状を開く春豪。そこには簡素ながらも力強い筆跡で春豪を呼び出す旨が書かれていた。
『二日後、
息を呑む一同。これはもう果たし状で間違いないだろう。
「二日後の廃寺か……。この楽田とは?」
春豪が尋ねると近くにいた地理に詳しい家臣が答えた。
「ここから五里ほど北にある集落です。春豪殿が先日向かわれた小牧宿のさらに北ですね。確かあのあたりには幾つか遺構がございましたから、そのうちの一つで待つということでしょう」
「なるほど。小牧の先か」
(もしや先日の視察の際に顔を見られたのか?)
春豪が尾張に来てから半月ほどが過ぎていたが、目立たぬようにふるまってきたおかげか今日この日まで立ち合いを挑まれるようなことはなかった。それがいきなり来たということは、おそらく先日の視察中すれ違った者の中に偶然春豪の顔を知っている者がいたのだろう。
(そいつが同行していた清厳殿たちのこと調べ上げ、寄宿している柳生家に果たし状を寄越したといったところか)
そうやって春豪が無言で内容を精査していると、待ちきれなくなったのか野次馬家臣たちが騒ぎ出した。
「しゅ、春豪殿!その果たし状、是非とも見せてはいただけないでしょうか!」
「ん?……あぁもう好きにしろ。破くなよ?」
紙自体に仕掛けはなさそうだと思った春豪は家臣らに果たし状を渡した。すると彼らは興奮した様子でそれを回し読みし始めた。
「おぉこれが!簡素ながらも力強い意志を感じまするな!」
「しかし身の程知らずめ。春豪殿の実力を知っての挑戦なのだろうか?」
「いやいや。知っているからこそ戦ってみたいという武人の性なのだろう」
わいわいと騒ぐ家臣たち。果たし状――それは言ってみれば単なる一枚の紙切れに過ぎないというのに、いったいどこにそんな興奮する要素があるのかと春豪は苦笑する。
「まったく、何がそんなに面白いのか……」
「まぁいいではありませぬか、春豪殿。武士たる者、一度は果たし状を貰ってみたいものですし」
春豪の何気ない呟きに反応したのは、いつの間にかすぐ隣にまで来ていた清厳であった。
「清厳殿。……まぁこんなご時世ですからね。まったくわからないとまでは言いませんよ」
太平の世になって久しいこの時代、幕府は武力ではなく法による支配を目指しており、そのために不要の戦闘を固く禁じていた。国同士の争いは言うまでもなく、村同士の小さな諍いにすら御公儀が出張って判決を下しており、必要のない暴力を振るった者は厳しく罰せられた。
そんなご時世では当然果たし状を送っての決闘なんてことはそうそう起きるものではなく、それゆえにこの珍しい手紙に家臣たちは武人心を刺激されたというわけだ。
「それで受けるのですか、春豪殿?」
清厳が少し期待するかのような声で尋ねて来た。彼もまた春豪の『戦場の布施』を知っていた。そのため彼は春豪が武人として闘いに向かうのだろうと思っていたのだが、意外にも春豪はどうしようか迷っていると返した。
「受けたいとは思っておりますが、色々と思うところもありましてね」
「おや、意外な。春豪殿なら一二もなくお受けなさると思っていたのですが、何か心配事でもあるのですか?」
「……今某は柳生家の食客なのですよ?むしろ某が不都合なことをしないか心配するのはそちらの方でしょうに」
春豪の懸念は柳生家に対してのものだった。
現在春豪は実質柳生家の食客扱いである。そんな春豪が城近くで刀を交えれば、その責任は柳生家にも及びかねない。いかに戦場の布施を重視している春豪とはいえ、一宿一飯の恩義がある柳生家に後ろ足で砂をかけるわけにはいかなかった。
「とりあえず利厳殿にお伺いを立てるのが筋でしょう。返答次第ではこの者には悪いが此度は諦めてもらう他ないだろう」
こうして果たし状の件は保留とすることにした春豪。
これに対し清厳は「ふぅむ……。父上は反対などせぬと思いますがね」とポツリと呟いた。
さて、時間は過ぎて夕刻頃。利厳が何かしらの会合から屋敷に戻ってきた。
春豪は自室で横になりながら、その気配に耳をそばだてていた。
(どうやら利厳殿が帰ってきたようだな。下男はきちんと伝えてくれただろうか?)
春豪は下男の男に果たし状が来たことと、その件で相談があると利厳に伝えるように頼んでいた。分別のある利厳ならば事の重大さに気付き、すぐに時間を割いてくれることだろう。
そう思いながら目を閉じて待っていると、まもなくして誰かが近付いてくる足音が聞こえてきた。足音の主は伝言を頼んだ下男であった。
「春豪殿。殿がお話ししたいとのことでしたが、大丈夫でしょうか?」
「ああ、問題ない。すぐ参ろう」
すぐさま利厳の私室に向かう春豪。どうやら下男は過不足なく伝言を伝えてくれたらしく、二人の話はスムーズに始まった。
「果たし状が来たとお聞きしました。拝見してもよろしいですかな?」
「はい。こちらを」
春豪が貰った果たし状を手渡すと、利厳はそれを面白がるように一読した。
「なるほど、確かに果たし状だ。ふふふ。いやぁ未だこのようなものを送り付ける輩が存在したとは」
「利厳殿のお立場からすれば、あまり笑い事ではないと思うのですが……」
現在御公儀は大っぴらな武力の使用を制限している。柳生家は御公儀に仕える家であるため牢人同士の衝突など本来は忌避してしかるべきことであった。
だが当の利厳は気にすることはないと返す。
「城下町や宿場ならいざ知らず、郊外の廃寺で起こったことなど誰も気になどしませんよ」
「……止めないのですか?」
「止めたところで今度は『柳生家が果たし状から逃げた』なんて噂が広まるだけですからなぁ……」
「あっ……」
この時代は武力からの脱却を目指している一方で、未だ戦国時代の尚武を尊ぶ風潮が残っていた。そのためもし戦いから逃げるような真似をすれば、軟弱者だと後ろ指を指されてしまうことだろう。
春豪は思い至らなかったが、この果たし状が柳生家に届いた時点で春豪や利厳はある種の八方塞がりに陥っていたのだ。
「も、申し訳ございません!某がここにいるせいで……!」
「なに、気にしないでください。春豪殿を招いた時点である程度は予想していたことですから。それよりも春豪殿はいかがなさるおつもりですかな?」
「某がですか?某は……もし利厳殿たちの不利益となるのならば軟弱者の
この回答に利厳は「そうではない」とでも言いたげに首を振る。
「それは先ほど言った通り、城から離れているのなら問題ないでしょう。我々のことなど気にすることなく、春豪殿がどうしたいのかを聞きたいのです」
「それは……」
春豪はしばらく目を閉じて熟考したのち、普段と比べて申し訳なさそうな口調で返答した。
「某の信念に従うのならばこの挑戦、受けたいと思っております……」
もしかしたらこの果たし状の主も太平の世に絶望していた武士なのかもしれない。そういう武士を救うために春豪はこれまで生きてきた。
だがだからといって他者に迷惑をかけるつもりはない。具体的に言えば利厳や柳生家に被害が及ぶというのなら春豪は身を引く覚悟でいた。しかし利厳はひどくあっけらかんと春豪の挑戦を肯定した。
「ではどうぞお受けなさってください。何なら立会人もこちらから出しましょう」
「ちょっ、ちょっと待ってください!?本気でおっしゃられているのですか!?」
この投げやりにも見える肯定には春豪の方が困惑したほどであったが、利厳は動じることなく続けた。
「もちろん本気ですとも。なに、このくらいで我が柳生家が崩壊することなどありえませんよ」
「……罠の可能性だってあるのですよ?十人くらいで待ち構えている可能性だってある」
敵の目的は春豪を討ち取って名を挙げることである。(あるいは本気で戦って死ぬことを目的としている者もいるが、今回は割愛する。)そのためなりふり構わず多人数で勝負を仕掛けてくる挑戦者も何組かいた。もしこの挑戦者もそうならば春豪だけでなく、利厳が出す立会人たちにも危険が及ぶだろう。
だがそれでも利厳は「無論承知の上です」と返す。そのぶれることのない態度にとうとう春豪も折れた。
「……本気なのですね。わかりました。そこまで承知の上ならばこれ以上固辞するのも失礼ですね。……では某はこの果たし状、受けようと思いまする」
「ええ、それがいいでしょう。立会人に関しては明日改めてお伝えいたしますね」
「重ね重ね感謝いたしまする。ではこの話はこのあたりで……」
春豪は丁寧に一礼し、利厳の部屋を辞した。
そして彼の足音が遠くなったところで利厳は大きく溜め息をついて頭を掻いた。
「これはまた随分と劇薬になってしまったな……」
春豪との会合を終え一人となった利厳。彼はここまでの話を思い返し大きく溜め息をついた。
「さて、春豪殿に許可を出してしまったが、これはまた随分と劇薬になってしまったな……」
その顔には春豪と話していた時とは打って変わって不安の念が色濃く出ていた。
実のところ利厳は果たし状の件が柳生家にとって都合の悪い話であることを理解していた。春豪が心配した通り、このことが上にバレたらあまりいい帰結にはならないだろう。
そこまでわかっていてなお利厳は春豪の挑戦を許可した。その理由は
(確かに危ない話ではあるが、牢人同士の本気戦いを間近で見られる機会などそうそうない。これが家臣たちにとって意義のあるものとなればいいのだが……)
利厳の想いは一貫していた。それは次の世代の柳生家の在り方である。
元和元年(1615年)に徳川義直の剣術指南役になって以降、利厳は己が武術の腕を存分に発揮し地位を築いてきた。その甲斐あって今や利厳の新陰流は尾張徳川家の御流儀と言ってもいいほどの地位を得た。義直からの覚えもめでたく、利厳が退いた後もきっと柳生家を重宝してくれることだろう。
その一方で広い視野で見た時、時代は柳生家の様な武術家にとっては厳しいものになっていた。争いのない世界。机仕事が重視される世界。暴力を振るえば罰せられる世界……。太平の世は武士にその在り方の変革を迫り、それは柳生家とて例外ではなかった。
だが当の利厳は武術しか知らず、それゆえ言葉や規律だけでは家臣たちの価値観を変えることはできなかった。。
(どこかで抜本的な改革を行わなければ柳生家は尻すぼみとなってしまうことだろう。しかし私は剣を振ることしか知らない身。いったいどうすればいいというのか……)
残念なことに尾張国内では利厳は新顔の外様。近くに信頼できる相談者もいない。悩む利厳。そこに現れたのが時代錯誤な武士の気風を纏った春豪房であった。
(ここまで愚直に生きる者が未だ残っていたとは……。彼ならばあるいは……!)
彼の存在が毒になりうることはわかっていた。それでも変化が必要だった利厳は彼を食客として招く。その結果は知っての通り、彼の熱量は家臣たちに新たな価値観を植え付けた。これが将来的にどう発芽するかはわからないが、それでも利厳にとっては一つの希望であった。
あとはもう一声――もはや時代は戦うだけの武士を求めていないと確信させられるほどの何かがあれば……。そう思っていた矢先にやってきたのが今回の果たし状の件であった。
(果し合いは確かに武士にとっては憧れのものだ。その一方で家を危険に晒す行為でもある。この戦いを見てその無為さに気付いてくれればいいのだが……)
これからの時代に必要なのは武侠に憧れることではなく、家を守るだけの賢明さである。それに気付いてくれればいいのだが。
そう願いながら利厳は春豪の立ち合いについて行く立会人を選出した。
選ばれたのは利厳の嫡男である清厳、そして儀信と兼平の三人であった。
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