春豪坊 柳生利厳に出会う 2
流浪の武僧・
結局噂自体はガセであったものの、彼はこの地で尾張徳川家の剣術指南役をしている柳生
利厳は初対面であったにもかかわらず春豪を気に入り、彼を自分の屋敷に招待した。春豪はそれを了承し、利厳の後に続いて名古屋城城下町にまでやってきたのであった。
柳生利厳とそのお供四名は名古屋城城下町の
彼らはこの地ではそれなりに顔が知られているらしく、一行を見つけた町の与力や若侍たちは一礼して道を譲る。そして顔を上げた彼らは、そのすぐ後ろを歩く春豪を見つけてはギョッとするのであった。
「な、なんだあの比叡山にでもいそうな僧侶は……。利厳様が捕らえたのか?」
「それにしては随分悠々と歩いているが……。古い友人とかだろうか。柳生家は興福寺などとのつながりも深いと聞いているしな」
「なるほど、さすがは利厳殿だ。あんな恐ろしい奴と知り合いだなんて」
春豪は(好き勝手言いおって……)と思いつつ、前を歩く利厳の評判のよさに驚いていた。
(しかしあれだな。やはりあの利厳という男、かなり名の知れた者のようだ)
利厳は自分のことを単に『尾張にて剣を教えている者』としか言ってなかったが、周囲からの敬意の払われ方は並のそれではない。加えてお上にも顔が利くようで、とある与力が春豪を捕らえた方がいいのではないかと利厳に進言したのだが、利厳が自分の客だと言うと与力は素直に謝罪して引き下がるなんてこともあったくらいだ。
(……もしや私は相当立場のある者の後についていっているのか?)
薄っすらと自分の迂闊さに気付いた春豪をよそに、利厳一行は堀川沿いの武家屋敷が建ち並ぶ通りへと入っていく。
この通りは家禄五百石から千石ほどの中級武士のための屋敷が建ち並んでおり、雰囲気も騒々しい町人通りとは一線を画すようにしんと静まり返っていた。
真剣での立ち合いとはまた違う緊張感が漂う中、やがて彼らは辻に面する立派な長屋門を持つ屋敷の前で立ち止まった。
「こちらが我が屋敷となります」
「これはまた……なんと立派な……!」
紹介された屋敷を前に春豪は素直に感嘆した。それもそのはず、利厳の屋敷はよく手入れのされた長屋門や漆喰壁を持つ、広さは五百坪はあろうかという立派な武家屋敷であったからだ。
また屋敷の大きさは家主の家禄や家格に正比例するものである。これほどの規模の屋敷なら主である利厳の総合的な格は千石前後と言ったところだろうか。これは
(立ち振る舞いから二人扶持程度の武士でないことは察していたが、まさかここまでとは……。)
想像以上の大物に柄にもなく背すじを寒くさせる春豪。しかしいまさら背中を向けて逃げ出すわけにもいかない。
春豪はもうなるようになれと半ばあきらめながら、利厳に続いて長屋門をくぐった。
屋敷正面の長屋門をくぐった先では、家臣たちが主君・利厳を迎えるために待機していた。
「殿、お帰りなさいませ!」
「宮宿への視察、お疲れさまでした!」
彼らは口々に利厳らを迎え入れ、そして春豪の姿を見て顔をこわばらせた。
「と、殿……!そちらのお方は……!」
「ん?あぁ彼は私の客だ。奥へと通しておいてくれるか?」
「えっ、客ですか……!?」
家臣らは利厳の顔とみすぼらしい恰好の春豪とを何度か見比べていたが、主君が客と言えばそれは客以外の何物でもない。
「えっと、しょっ、承知いたしました。……では御客人、お手の物はこちらに」
「うむ。丁重に頼む」
春豪は長巻を刀番に預けて履き物を脱ぎ、若い家臣の案内で屋敷の奥へと向かった。
その道中のことだった。春豪が廊下を歩いているとそこから庭が見えたのだが、そこでは若い家臣たちが各々武器を持って鍛錬しているのが見えた。得物は刃を
(ほう、活気があるな。それに筋もいい)
口先ばかりの流派も少なくない中、柳生家で教えられている剣術はかなりしっかりしたもののようだ。
それを眺めていた春豪はふと思い出す。
「剣術を教えていている柳生……。そういえばここは大和からもそう遠くない。もしや利厳殿は……」
何か思い浮かんだ春豪であったが、それを確認する前に案内役の男が声をかけた。
「春豪殿。殿の準備もできますのでそろそろ……」
「おっと、失礼した。では参ろうか」
浮かんだ推察は直接本人に訊けばいい。春豪は案内に任せて廊下の先へと進んでいった。
案内に任せて奥書院に腰を下ろした春豪。そこでしばらく待っていると、まもなくして軽装に着替えた利厳がやってきた。
「お待たせしました、春豪殿」
「いえ、お気になさらずに。……ところで不躾にならぬよう、先んじて訊いておきたいことがあるのですが」
「はい、何ですか?」
ここで春豪は先程ふと思いついたことを尋ねてみた。
「思い違いであったら申し訳ないのですが……、もしや貴殿は大和国、新陰流の柳生家の方ですか?」
「ええ、その通りで。……言ってませんでしたかな?」
キョトンとした表情でそう答えた利厳。それに春豪はどっと疲れたかのような様子で頷いた。
「単に剣を教えているとしか聞いておりませんでしたので……」
春豪は利厳と出会った際、単に『尾張で剣を教えている』としか聞いていなかった。そのためてっきり腕に自信のある隠居爺が近隣の暇な若侍に手ほどきでもしているのだろうと思っていたのだが、まさかその教えている相手が尾張徳川当主・徳川義直とは予想できるはずもない。
(確かに只者ではないと感じてはいたが、それにしたって酷い不意打ちだ)
「てっきり知っているものだと思っていたのですが、これは失礼した。……確かに名を聞けばわかってもらえるというのは少々驕ってましたな」
「いえ、某が不勉強なだけですので……」
春豪は生まれも育ちも西の方だったため、このあたりの事情には詳しくなかった。また彼がすぐに気付けなかった理由は他にもある。
「柳生家は耳にしたことはあったのですが、今は江戸の将軍に仕えていると聞いていたものですから。……そういえば尾張の城主様も江戸の御一門でしたね。もしや利厳殿も江戸の柳生の近縁で?」
柳生姓で新陰流、しかも教えている相手は徳川家御一門。ここまで一致しているのだ。おそらく利厳は江戸の柳生宗矩と関わりがあるのだろう。そう思って春豪は何気なく尋ねてみたのだが、これに利厳は是とも非とも答えず、痛々しい苦笑のような表情を返答とした。
実のところ前述した通り、利厳は宗矩たちとは血縁関係である。しかし柳生庄領主の座を巡る様々な思惑やすれ違いの結果、現在両者はほぼ絶縁状態にあったのだ。利厳は皆まで答えはしなかったが、その表情はすべてを物語っていた。
「……差し出がましい質問でしたな。申し訳ない」
「お気になさらず。身内のことですので。……強いて言うなら今の某は大和でも江戸でもない、尾張の人間。ただそれだけの話です」
利厳はそっけなく答えたが、それなりに人を見てきた春豪の目には利厳の意固地がよく見えていた。
(これは根が深そうだ……。しかし世に名高い柳生家でも御家の問題があるのか。まったくままならまいものだな)
春豪は世の無常さを憐れみつつ、話題を変えて本題に入ろうとした。
「ところで利厳殿は何の御用で某を招いたのでしょうか?」
少々込み入った話題に触れてしまった春豪。これはいけないと思った彼は話題を変えて、利厳が自分を招いた理由を聞くことにした。
(相手は尾張徳川の剣術指南役。そんな人物が一体自分に何の用があるのか……)
利厳の素性を知った今、若干緊張しながら尋ねた春豪であったが、これに利厳は一瞬不意を突かれた様な顔をしたのちくすくすと笑い出した。
この思わぬ反応に、春豪は当然わけがわからず困惑する。
「……いかがなされましたか?」
「いや、失礼。実を申しますとな、貴殿をなぜ招いたのか――それは私自身もよくわかってないんですよ」
「はい?今何と?」
今度は春豪の方が不意を突かれた顔をした。
対しひとしきり笑った利厳は軽く宙を見上げ、自分の考えを整理するかのように語り始めた。
「貴殿とすれ違った時、懐かしさにも似た感覚を覚えたんです。『あぁ昔はこのような者がそこら中にいたな』と……。常在戦場と言いましょうか、武力を示すのにためらいのない……、『喧嘩っ早い』とはまた違う……、そう、雑に言ってしまえば本物の
「本物の武士ですか……。過ぎた表現です」
「謙遜なさらないでください。……正直若い頃の血が騒いで思わず刀を抜こうとしたくらいですよ」
「……」
対面しながらピリッと剣気を飛ばす利厳。春豪はそれを無言で受けた。
なるほど、名の知れた剣豪だけあって利厳の剣気は
「……迷っておられるのですね」
「っ!?……そう見えますか?」
「これでも三宝に帰依していた身ですからね。道に迷っている者は幾度となく見てきました。時代の移り変わりに嘆く者は殊更に」
春豪が
「お恥ずかしながらおっしゃる通りです。御家を確立させるためにここまで
春豪は黙って頷いた。
「あれはうちの若い門下たちなのですが、あの中に人を切り殺したことがある者は一人もおりません。戦場を経験したことがある者も……。おそらく今後も経験することはないでしょう」
「一般的にはそれは喜ばしいことですな」
「ええ、喜ばしいことです。今後もそれは変わりなくあってほしい」
だがそう語る利厳の横顔はどこか寂しげである。
「『武士としてそれはどうなのか』と思っている顔ですな」
「否定はしません。矛盾した想いであることも自覚しております。ですが……貴殿ならいかがなされますか?この時代に、何をもって『本物の武士』としますか?」
すがるような目で問いかける利厳。だが春豪はこれに残念そうに首を振る。
「某は所詮世に爪弾きにされた者。参考になどなりませんよ」
「それでもお聞きしたい。貴殿からはそれこそ坊主が経文を読んでいるかのような、一つの悟りを追い求めているかのような印象を受けました。……それが目についたから私はあなたに声をかけたのかもしれませぬな。ともかく何が役に立つかはその時次第。是非とも一つ貴殿の
大きな屋敷を持つ武士とは思えぬくらいに丁寧に頭を下げる利厳。それを見させられれば春豪も無下にするわけにはいかない。
彼は諦めたかのように一つ溜め息をつくと、以前十兵衛にも話したハマグリの夢の話を語り始めた。
「某がこの道を選んだきっかけは、ハマグリの夢を見たためでした」
「ハマグリの夢ですか?」
春豪は以前十兵衛にも話したハマグリの寓話を利厳に話した。
人に食べられそうになっているハマグリは一見すると不幸のようだが、自らをささげて徳を積むという点では幸福なのかもしれない。その逆も然りで、誰かにとっての幸福も誰かにとっては不都合かもしれない。それは『太平の世』ですら変わりなく、戦のない極楽のような現世に馴染めず、地獄のような戦場を渇望している者もいた。
そんな彼らのために春豪は『都合のいい敵』として存在する道を選んだ。彼という『戦場』の存在は誰かにとっての救いとなるはずだ。その一心で春豪は常在戦場を貫いており、そして彼はこれを『戦場の布施』と呼んでいた。
「なるほど、『戦場の布施』ですか。興味深いお考えだ……」
話を聞いた利厳は感心した様子でしきりに頷いていたが、一方で悩まし気に眉根を寄せたのを春豪は見逃さなかった。
「参考にはならなかったでしょう?某のこれは言わば世を捨てた生き方です。今の世に寄るべき場所がある者にはできない生き方でしょうし、するべきではない。……そう、貴殿のような人が選ぶべき道ではないのです」
かつての十兵衛もそうであったが、利厳ももうすでに尾張徳川の剣術指南役という地位を得ており、弟子や周囲の環境にも恵まれている。そんな彼らが太平の世に牙をむくなんて真似はすべきことではないし、許されることでもない。
それは利厳もわかっているようで、彼は残念そうに首を振ったのち春豪に感謝の意を述べた。
「興味深いお話、ありがとうございました。おっしゃる通り、私が歩むべき道ではないようですな。……できることなら歩いてみたくもありましたが」
彼もまた武に生きると誓った者。だが武のために死ぬには背負ったものが多すぎた。
……なら若い者ならばどうだろうか?例えば今庭先で剣を振っている若侍たち。彼らならばまだ背負っているものが少ないため、春豪のような生き方を選ぶことができる。師である利厳がそう願えば、彼らはそれに応えて武のために世を捨ててくれることだろう。
(だがそれは死出の旅に他ならない……。そもそもあいつらはそのようなことを望んでいるのか……)
利厳はしばらく思案したのち、ままならないといった風に首を振ったのち春豪に尋ねた。
「時に春豪殿はこれからどこに向かうおつもりで?」
「これからですか?特に予定はございません。強いて言えば北の方にでも向かおうかと思っていたくらいで……」
「ほほう。ならばしばらく我が屋敷に留まってみてはいかがかな?このあたりは人も多いゆえ、面白いものも多いですよ」
「……何が目的なのですか?」
あからさまに裏がありそうな利厳からの誘い。これを手放しで喜べるほど春豪も単純ではない。
利厳も初めから騙せるとは思ってなかったようで、早々にその目的を話す。
「春豪殿には少しばかり若い者への手ほどきをお願いしたい。技術的な話ではありません。『在り方』の話です。春豪殿はある意味では某よりもはるかに武士ですからな」
「某が『武士』の見本になれと?」
「……あるいは
「……」
確かに今の若い世代は良くも悪くも戦場を知らないせいで、武士という生き方の過酷さを知らない。それを口先だけではなく肌で理解させるには、直接それを知るものが見本となるのが一番だろう。
そこから改めて武士という生き方に憧れてもいいし、あきらめてもいい。あるいは後者の方が利厳の本命なのかもしれない。
(さて、どうするか……)
尾張という町に対してはさほど興味のなかった春豪であったが、若い世代に指針を示すというお役目には少し心惹かれた。
どうせ他に行きたい場所もないのだ。たまには『戦場の布施』以外で徳を積むのも悪くないだろう。
「……承知いたしました。どこまで役に立てるかはわかりかねますが、少しばかりお世話にならせていただきます」
こうして春豪は一月ばかり利厳の元に留まる約束を交わしたのであった。
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