(第十三話)春豪坊 柳生利厳に出会う 1

 寛永五年(1628年)七月某日。時刻は東の空がわずかに白んできた夜明け前。

 場所は駿河国・駿府城下町。

 未だ隣に立つ者の顔すらはっきりと見えない時分であるにもかかわらず、とある屋敷の門前では旅装束に身を包んだ男たちが無言で待機していた。

「……」

 男たちの数は九人。またそれとは別に見送りだろうか、着流し姿の男たちも別に四人いた。

 彼らはひたすら動くことなく待機していたが、遠くでヒュウと鳥が鳴くのを聞くや彼らの中の一人が出発の頃合いであることを告げた。

「殿。出発の合図にございます。合流地点へと向かいましょう」

「そうか。では参ろうか」

 殿と呼ばれた老齢の男は軽く頷いたのち、見送りに来ていた一人の青年の方を向いた。

「さて、名残惜しいが発つ時刻だ。七郎しちろう十兵衛じゅうべえの幼名)、また会う時までよく励んでおけよ」

「はっ。父上方もどうかご無事で」

 一礼した青年に軽く手を挙げ、旅装束に身を包んだ江戸柳生の当主・柳生宗矩むねのりは彼の家臣を引き連れて未だ薄暗い駿府の町へと消えていった。


 一団を率いて去っていった男は江戸にて将軍・徳川家光の剣術指南役をしている柳生宗矩であった。そんな人物がなぜ駿府の城下町にいるのか。それは彼らが、京都からやってきた朝廷の使いの護衛任務を承ったからであった。

 少し事情を説明すると、とある事情にて江戸御公儀と早急に協議する必要性が生まれた朝廷は、武家伝奏ぶけてんそう・三条西実条さねえだの使い・足立雅親まさちかを派遣した。京から江戸へと向かう彼には当然道中護衛が着くのだが、この件は何よりも早さが求められたため一組の護衛団が一貫して守るのではなく、伝馬制のように幾つかの区間に分けてその都度適切な護衛を用意して進むこととなった。宗矩はその護衛団の一つに選出されてここに至ったというわけだ。

 そしていよいよ江戸へと向かう出発の日。護衛対象である雅親は昨晩は駿府城内で一夜を過ごしたため、護衛団参加者は各々城門前で合流することとなっていた。合図に合わせて集合場所へと向かう宗矩一行。それを見送ったのは雅親を駿府まで護衛してきた柳生三厳もとい柳十兵衛と、その家臣たちであった。


 十兵衛たちは宗矩たちが通りの角に消えていくまでその場で見送り、そして彼らが見えなくなるや一仕事終えたようにふぅと一つ息を吐いた。

「行ってしまわれましたね。何事もなければよろしいのですが……」

 そうぽつりと呟いたのは柳生家家臣の一人・木村友重ともしげであった。急な護衛任務ということで宗矩たちを心配しているのだろう。それに隣に立つ十兵衛が返す。

「ええ。ですがまぁ問題ないでしょう。剣の腕は言うまでもないですし、妖術関係でも信頼できる方々が護衛についておりますからね」

 実際に敵勢力と相対した十兵衛の見立てでは、敵勢力内に宗矩たちが後れを取るような猛者はいなかった。護衛計画は俊英・松平信綱のぶつなが立てたとのことだったので想定外の奇襲に会うということもないだろう。妖術関係も幕府直属の精鋭術師たちが固めている。つまるところ宗矩たちが十全に働けば、一行が無事に江戸に到着するのはまず間違いないということだ。

 それを聞いた友重はほっと胸をなでおろす。

「それはよかった。突然の話だったんでいろいろと心配してたんですよ。……ですがそれでも十兵衛様はついて行かれてもよろしかったのではないですか?打診はされていたんでしょう?」

「え?あぁまぁ……どうしようか迷いはしたんですがね……」

 十兵衛の護衛任務は駿府までであったが、一応その能力の高さを買われて江戸までついてくる気はないかと打診は受けていた。だが熟考の末十兵衛はこれを辞退した。

 理由は幾つかあるが、一つは敵の程度が知れたこと。襲撃者たちは確かに厄介ではあったが、十兵衛がいなければ突破できないというほどではない。またなんだかんだで疲労が溜まっていたことも大きい。今回の護衛任務は何よりその進行速度を重視していた。だからこそ伝馬制のように区間を分けていたのに、そこに疲れている十兵衛たちが加われば本末転倒である。

「確かに久しぶりに江戸を目にしたい気持ちはありましたが、大事なお役目ですからね。足を引っ張るわけにはいきますまい。まぁいずれ正式に戻るよう辞令が出るはず。その時を素直に待ちますよ」

「なるほど。では十兵衛様たちはもうこのまま柳生庄の方に帰られると」

「ええ。とはいえそれも道順どうじゅん殿たちの報告待ちですがね」

 十兵衛たちの任務は一応終わってはいるので帰ろうと思えばすぐに帰ることもできた。だがその帰路で敵とばったり鉢合わせる可能性があったため、道順らの安全確認が済むまではここ駿府に一時待機することとしたのだ。

 それを聞いた友重は「ふぅむ」と考え込むような仕草を見せる。

「そうですか……。早くても出立は明日以降ですか……」

「どうしたのですか?何か頼みたいことでも?」

 何かを言わんとしている友重。このまま里に帰れば次に会うのがいつになるかはわからないので、何か用があるのならば数日ぐらいなら都合をつけてもいいと十兵衛は思っていた。

 しかしどうやら事情は逆らしい。彼は十兵衛たちに、あまり長くここ駿府に留まらない方がいいと忠告した。

「いえ、それよりも人に気付かれる前に里に戻った方がいいと思われます。というのも少し面倒な噂が流れておりまして……」

「面倒な噂?」

 首をひねる十兵衛。『悪い噂』や『怪しい噂』ならばわかるが、噂に『面倒な』という形容動詞が付くのは珍しい。いったい何事かと問うと、友重は歯切れ悪く返答した。

「それがその……最近駿府では、近々武芸者たちによる御前試合が行われるんではないかという噂が流れているんですよ……」

「御前試合!?ここ駿府でですか?」

 友重から噂を聞いた十兵衛は驚きで目を丸くする。

 御前試合とは貴人が上覧している中で行われる試合のことである。今回の場合は駿府城城主・徳川忠長の御前で試合を行うということで、そのために全国各地から腕利きたちを集めている――そんな噂が流れているとのことだった。

「……一応訊くが、根も葉もない噂ですよね?」

「当然です。こんなご時世にそんな真似、大納言様でもいたしませんよ」

 友重がこう断言したのは、この時代下手に人を集めると減俸や改易の恐れがあったためである。

 天下が太平になって久しいが、江戸御公儀は未だに幕府に仇名す者を警戒していた。もし不穏な動きがあれば、それが身内であっても罰するというのが今の御公儀の方針だ。例を挙げれば秀忠時代に改易された松平忠輝などが挙げられるだろう。彼は徳川家康の実子であるにもかかわらず、大坂の役の際の不審な動きを咎められ改易・配流の憂き目に遭った。そのことを知っていればいかに現将軍・家光の実弟である忠長でも、不用意に大会を開いたり武芸者を集めたりなどはしないだろう。

 しかしそれならばこの噂はどこから生まれた?誰かが流布したのだろうか。だとすればいったい誰が、どのような目的で?

 十兵衛は(もしや何者かの陰謀か!?)とにわかに警戒したが、友重はおそらくそうではないと返す。

「いえ、おそらく誰かが意図して流した噂ではないと思われます。というよりも……おそらく噂の原因は殿、宗矩様であるかと……」

「父上が!?いったいどういうことですか!?」

「それは……まぁ長い話になりますので、一度部屋に戻りましょうか……」

 渋い顔をする友重に連れられて、十兵衛とそのお供たちは一度屋敷内へと入っていった。


 間借りしている部屋に戻った十兵衛たちは、各々口慰みのお猪口を並べたのち改めて先の話の続きを聞く。

「それでどういうことなんですか、友重殿。御前試合の噂の原因が父上にあるだなんて……」

「はい。実はですね、殿は二ヶ月ほど前にも一度ここ駿府に参られているんですよ」

「二ヶ月前と言うと……」

「出羽守の残党と争っていた時分にございます。殿はここより西の鞠子宿近くで残党らを迎え撃ちました」

 友重が語ったのは数か月間続いていた坂崎家残党との攻防、その最終盤の戦いのことだった(第十話)。いよいよ江戸に向けて動き出した残党らを迎え撃つために、宗矩たちは駿府まで赴き、敵がこちらを狙うように自分たちは駿府にいるという噂を流していた。

「出羽守の死には父上もかかわっていた。だから噂を流せば恨みを持つ彼らは父上たちを狙ってくるというわけですか」

「はい。その目論見通り敵は釣れたのですが、代わりに殿が駿府にいたという噂が残ってしまいました。加えて出羽守の事を伏せていたため、それがかえって市井の人たちの好奇心を刺激してしまったようです。『江戸の有名な剣士が理由もなしに駿府まで来るはずがない!きっと何か理由があるはずだ!』とね……」

 坂崎家の顛末は幕府にとっては掘り返されたくない過去であった。そのため噂を流す際には伏せていたのだが、それが仇となってしまったようだ。

「その妄想の果てが御前試合ですか」

「左様で。……実を言いますと他にも『柳生宗矩は大納言様の命を奪いに来た江戸御公儀の刺客だ』みたいな噂もありましてね。そちらの火消しに躍起になっている隙に、こちらの噂が広まってしまった次第にございます」

 あまりの笑えない噂話に、顔を見合わせた二人は逆に苦笑した。

「それはまた無茶苦茶な……。それで結局どうなんですか、噂の具合は?」

「初動は遅れましたが火消しは順調です。噂自体の否定はもちろん、『この噂は牢人を捕らえるために御公儀が流した嘘だ』なんていう話も流布させております。噂が流れた当初こそ怪しい牢人らが流れてくることもありましたが、今はいたって平穏無事ですよ。まぁ遠方の方はまだ信じられているかもしれませんが、それもいずれは収まることでしょう。ただここに十兵衛様がいることが知られたら……」

「また蒸し返される恐れがあるということですか。なるほど、確かに早めにここを出た方がよさそうですね」

 事情を知った十兵衛は「また面倒なことが起こったものだ」とため息をついたのち、安酒が注がれたお猪口を傾けた。


 十兵衛は御前試合の噂に驚いたものの、友重の話を聞くに今はさほど気にしなくともよさそうだ。

 そう安心していた折、同席していた家臣の一人・康成やすなりが冗談半分で尋ねて来た。

「でももしですよ?もし本当に御前試合が開かれるとしたら、十兵衛様たちは参加なさいますか?」

 丁度二人は油断していたため、思わぬ話にギョッとする十兵衛と友重。

「おいおい。うちは今は他流試合は禁止されているんだぞ」

「もちろんそういった禁止事項は全部一旦無視するとしてですよ。東西から腕利きたちが来るかもしれないんでしょう?こんな機会もう二度とないかもしれない。ならばやはり二人は参加なされるのですか?」

「それは……」

 十兵衛たちは少し思案する。

 なるほど康成の言う通り、御公儀の目が厳しい現在、全国各地から腕利きたちを集めた大会など二度も行われないだろう。この機を逃せば今日まで鍛えた新陰流の技を披露する機会は一生訪れないかもしれない。

 だがそれでも十兵衛は最終的に首を横に振った。

「いや、参加することはないだろうな」

「おや、なさらぬのですか?」

 この回答は意外だったのだろう、友重や康成は目を丸くしている。十兵衛はそれに若干疲れたような笑みを見せて続けた。

「そりゃあ興味がないと言えば嘘になるが、御家のことを考えれば渡る必要のない危ない橋は渡れまい」

「むぅ、十兵衛様。そういったものを無視してどうするかという話ですよ」

「馬鹿を言うな。今の俺は御家や江戸御公儀あってこその俺だ。それを無視することなんてできん。……もし参加するとすればそれは御家のために必要か、あるいは上様のために必要なときのみだろうな」

「ほう……」

 友重たちは十兵衛の大人びた答えに感心したのち、そもそもの質問をしてきた康成を嗜めた。

「ご立派な考えです、十兵衛様。それに引き換え、康成、まったくお前は……。安直な質問などして十兵衛様を困らせおって」

「へへえ、すいませんでした、十兵衛様」

「なに、気にするな。強い奴がいると聞けば興味を持つのは剣士の性だ。おかしなことではない」

(そして一戦交えてみたいと考えるのもな……)

 模範的な回答をした十兵衛であったが、それに満足していないことはほかならぬ自分自身がよくわかっていた。

 本音を言えば戦いたい。自分の腕を試してみたい。新陰流の名を世に知らしめたい。

 しかしそんな願望を抱くたびに、十兵衛は昨晩宗矩に言われたことを思い出す。

『もはや武芸に秀でているというだけで評価される時代ではない。どうやってこの時代で新陰流を活かすか。それを見つけなければ我らに未来はないぞ』

(……そうだ。もはやただ腕を見せるだけでは御家は守れないのだ。ゆえにこんなところで無駄に戦う理由はない)

 そう自分に言い聞かせお猪口を傾ける十兵衛。しかしいまいち気持ちよく酔えない。もどかしさに眉根を寄せる十兵衛であったが、それに友重達が気付く。

「どうかなされたのですか、十兵衛様?険しい顔を成されてますが……」

「ん、何でもないですよ。ちょっと疲れが出ただけです。……それよりも友重殿も今日はお暇なのでしょう。昨日飲み足りなかった分、付き合ってもらいますぞ」

 十兵衛は誤魔化しながら全員のお猪口に濁酒を注ぐ。そしてそれを、自分の熱を抑え込むかのように一気に飲み干した。


 さて、三厳が己の衝動を抑えながら一杯傾けたその同時刻。場所は尾張国・宮宿。東海道有数の宿場町の往来を、一人の巨躯の僧侶が歩いていた。

 男の身長は履物込みでおおよそ六尺半(約195センチメートル)。くたびれた袈裟を身にまとい、右手にはボロ布でくるんだ身の丈ほどの大長巻を携えていた。その姿はまるで絵巻物に出てくる僧兵のようで、本人は気付いていなかったが、すれ違う人たちは皆目を付けられぬように小さく縮こまりながら彼の脇を通り抜けていた。

 そんな周囲に威圧感を与える男の名は春豪しゅんごう。以前室生むろうの山中にて十兵衛と共に山賊退治を行った怪僧である(第十一話)。彼はしばらく通りを歩いたのち、おもむろに立ち止まっては振り返り、そして小さく溜め息をついた。

(ここまで御前試合の噂はなし……。やはり駿府で御前試合が行われるという話は根も葉もない噂だったのか……)

 春豪は駿府で開かれるという御前試合の噂を聞いてここまでやってきてたのであった。


 話は少し遡り五月の中旬。十兵衛たちと室生で別れた春豪はそのまま北上し、近江おうみ周辺の古い寺院を渡り歩いていた。その道中彼はいくつもの噂を耳にする。このあたりは幾つもの街道が通っていたため人の往来が多く、自然と耳に入る噂話も多かったのだ。そしてその中に例の御前試合の噂があった。

「なんでも武芸好きの殿様が御前試合を開こうとしているらしい。いいところを見せれば仕官も夢じゃないかもな」

「仕官はともかく御前試合か……。腕利きたちが集まってくるのだろうな」

 春豪は仕官話には興味なかったが、集まってくるであろう強者つわものたちについては大いに興味があった。最後の大戦が起こってからもう十年。刀や槍を置いた者も多い中、果たして未だに武を磨いている者はどれくらいいるのだろうか。他に行く当てもなかった春豪は、実りある出会いを求めて一路駿府へと向かう。

 だが途中立ち寄った尾張・宮宿にて彼は「おや?」と違和感を覚えた。東海道でも有数の規模の宿場・宮宿――そんな巨大な宿場町であるにもかかわらず、誰も御前試合の噂をしていないのだ。

(おかしい……。近年では珍しい名を挙げる好機だというのに、誰もその話をしていない……。仮に武芸者でなくともこのような大きな催し、誰かが話の種にしててもおかしくないというのに……)

 違和感を覚えた春豪は通り過ぎるだけの予定だった宮宿に留まり情報を集める。そして飯屋や酒屋などでさりげなく聞いて回ってみたところ、どうやら御前試合の噂はガセだということがわかった。

「駿府での御前試合?あぁ少し前に話題になったな。だが話題になってすぐにその噂は出鱈目だって話を聞いたぞ」

「俺もそう聞いているな。だいたいこのご時世にあり得ないだろ。むやみに人を集めれば謀反とみなされても文句は言えないのだから」

「それどころか俺は、この噂はお上が牢人取り締まりのために流した噂だって聞いたぜ。のこのこ集まってきた奴らを一網打尽にするそうだ。ひひひ。危なかったな、旦那」

 聞けども聞けども実際に試合があるという話は出てこない。ここまでくればさすがに春豪も御前試合がないことを確信する。

「そうか、試合はないのか……。一戦交えてみたかったのだがな……」

 これで春豪が駿府に向かう理由はなくなった。だが困ったことに他に行きたいところがあるわけでもない。

(さて、どうしようか。いまさら伊勢や近江に戻っても詮無いし、北にでも向かってみるか?)

 そんなことを考えながらぶらりと往来を歩いていたその時、彼は一人の壮年の武士とすれ違った。

 そして彼は戦慄する。

(……今の者、できるっ!)


(今の者、只者ではないな!)

 宮宿の往来で一人の武士とすれ違った春豪。二人はただすれ違っただけであったが、その身のこなしや雰囲気から、春豪は一瞬で相手が並の武士でないことに気付いた。

(まさかこの太平の時代にこれほどの猛者がいたとは、いったい何者か……)

 思わぬ出会いに春豪が顔でも拝んでやろうと振り返ると、向こうも春豪が只者でないと気付いたのだろう、同じように振り返っていた。必然両者の視線は交錯する。

「……」

「……」

「い、いかがなされたのですか、殿?」

 困惑するお供を無視して春豪を見据える壮年の武士。春豪もまた一縷の隙も見せてはいけないと、視線を逸らさずに見つめ返す。

 そのまま二人はしばらく無言で視線をかわしていたが、先に壮年の武士の方が気配を崩して口を開いた。

「不躾ながら相当な武芸者とお見受けする。名をお聞きしてもよろしいかな?」

「……某の名は春豪。取るに足らぬ流れの者にございます。貴殿こそ並みの者ではありますまい。差し支えなければこちらも名を教えてもらいたい」

 春豪が尋ねると男は不敵に笑ったのち名乗り返した。

「某は尾張にて剣術指南を行っている柳生利厳としよしと申す。……どうかな、春豪殿。時間があるならば某の屋敷に参られんか?」

 春豪とすれ違った男は、いわゆる尾張柳生の当主・柳生利厳としよしであった。


 柳生利厳としよし。その名字が示す通り柳生家の血縁で、宗矩の父である柳生家先代当主・柳生宗厳むねよしを祖父に持つ。関係性としては宗矩から見れば甥にあたり、三厳からは年の離れた従兄弟となる。

 生まれ年は天正7年(1579年)で、現在数えで五十歳。この頃の彼は尾張城城主・徳川義直の剣術指南役としての地位を確立しており、屋敷や禄も相応のものが与えられていた。見れば確かに同年代の武士と比べて小奇麗な格好をしている。

 そんな彼が今しがたすれ違っただけの荒々しい見た目の僧侶――春豪を自身の屋敷へと招いたのだ。

「某を屋敷にですか?一体何故に?」

「なに、深い理由などありませぬ。見たところ貴殿は相応の使い手。少し話をしてみたいと思うのは、武士もののふとしてさほど不思議なことではありますまい。いかがかな、春豪殿。無論無理強いはせぬが……」

「ふぅむ……」

 春豪はすぐには応えずしばし思案する。

(さて、どうしたものか。一見すると御公儀側の者のようだが……)

 春豪は利厳のことを知らなかったが、質のいい服を着てお供を連れているところを見るに御公儀側の人間であることはすぐに分かった。ならば牢人同然の自分を捕らえるつもりなのかもしれない。そう一瞬考えもしたが、利厳からは近年めっきり見かけなくなった武人の魂のようなものが感じ取れる。

(かの人ならば無粋な真似はするまい……と思いたい……)

 確証が持てたわけではなかったが、どうせ向かいたい場所などないのだ。ならばと春豪は自分の勘を信じてみることにした。

「……何も与えられるようなものはありませぬが、それでもよろしいならば」

「ふふふ。それでもかまいませんよ。これもまた縁ですから」

 こうして春豪は利厳に誘われて、利厳の屋敷がある名古屋城城下町の方へと歩き出すのであった。

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