(第十二話 終)柳十兵衛 駿府に到着する 2

 敵の襲撃を突破した十兵衛たちは、大井川を渡ったのち道順率いる本隊と合流。その後は順調に藤枝宿や岡部宿などを越えていく。

 そして間もなく駿府という道中で江戸にいるはずの柳生家家臣と出会い、駿府に宗矩たちがいることを知る。どうやら宗矩たちもその腕を買われて雅親の護衛に選ばれたそうだ。

 無事駿府までたどり着いた十兵衛たちは柳生家の家臣たちと再会し、そして宗矩とも顔を合わす機会を得たのであった。


 江戸の家臣たちとの再会を祝してささやかな酒宴を催していた十兵衛たち。そこに間借りしている屋敷の下男がやってきて宗矩が戻ってきたことを伝えた。

「ただいま宗矩様がお帰りになられました。十兵衛様をお呼びですが、いかがなされますか?」

「おぉ、父上も帰ったか。ではすぐに参ろうか。お前たち、怒られる前に酔いを醒ましておけよ」

 十兵衛は若干ふらつきながら立ち上がり、下男の案内で宗矩が待つ座敷まで案内された。

「こちらでお待ちください。お連れの方も先にお待ちになっております」

(お連れの方?)

 はて、誰か別に客がいるのだろうか?不思議に思いつつもとりあえず部屋に入ってみる十兵衛。そこでは四十代くらいの見知らぬ武士が一人座していた。

 男は十兵衛が酒の匂いをさせていることには触れずに柔らかな笑みを見せた。

「これはこれは、十兵衛殿ですよね?話は聞いております。護衛の任務、まこと大儀でした」

 どうやら向こうはこちらを知っているらしい。十兵衛はとりあえず頭を下げたのち、失礼にならない程度に相手の素性を探ってみた。

「ありがとうございます。ですが某は某がすべきことをしたまでにございます。……ところで不躾ですが、父上にはどのような御用で?」

「はっはっはっ。これは失礼。某は伊豆守いずのかみ、松平信綱のぶつな様の使い・斎藤正肥まさみつにございます。明日からの護衛の監督を任されておりまして、そのため十兵衛殿のお話を聞きに来た次第にございます」

「いっ、伊豆守様の使いの方でしたか……!?そ、それはまた、そうとは知らず失礼いたしました!」

 快活に笑った正肥に対し、十兵衛はそれこそ酔いが覚めかねないほどの勢いで頭を下げた。

 正肥の主君である伊豆守こと松平信綱のぶつなは、十兵衛よりも十ほど年上の小姓組番頭で、二十代で従五位下を叙位された次期老中候補筆頭とも言われている俊英であった。

 まさかそのような人物もかかわってくるとは。どうやら江戸もこの件に関しては相当気を揉んでいるようだ。

「そ、それで伊豆守様もこちらにいらしているのですか?」

「ははは。さすがに危険ですので殿は江戸におりますよ。某も肩書きこそ代理の監督ですが、実際に働いてもらうのは伊賀者や……そう、宗矩様方などですよ」

 そう呟いた正肥はちらと廊下の方を見た。その視線の先からは誰かがこちらに近付いてくる気配がし、まもなくして一人の人物が部屋に入ってくる。

「お待たせしました、正肥殿。……それに七郎(十兵衛の幼名)」

 入室してきたのは十兵衛の父・柳生宗矩であった。


 部屋に入ってきた宗矩は一瞬ちらと十兵衛の方を見たのち、座して一礼した。

「お待たせしました、正肥殿。……それに七郎も」

 おおよそ二年ぶりに見た父・宗矩の姿。それに十兵衛は妙なを覚えたが、隣に控える正肥の手前彼はぐっと表情を硬くして頭を下げた。

「お久しぶりです、父上。壮健そうで何よりです」

「うむ、話は聞いている。まさかこんなところでお前と会うとは思ってもみなかったぞ。……だが個人的な話はまた後だ。聞いているかもしれないが、そちらのお方は伊豆守様の使い・斎藤正肥殿。江戸までの護衛の監督をなされるお方だ」

 改めて紹介された正肥は小さく頭を下げた。

「此度の護衛の任を成功させるため十兵衛殿のお話を聞きにまいりました」

 今回の護衛任務は三区画に分かれており、十兵衛や道順たちはその第二区画目、甲賀・駿府間を担当した。対し宗矩や正肥は第三区画目、駿府・江戸間を担当する。彼らは任務成功のために前区画を担当した十兵衛の話を聞きに来たと言うわけだ。

「もちろんおおよその話は城での引き継ぎの際に聞いておりますが日坂宿あたりで隊を分けていたと聞きましたので、そのあたりの話を改めて聞きに来た次第にございます。親子水入らずの場に割って入ってしまい申し訳ございませんが、どうかお力添えをお願いいたします」

「いえ。一助になれば幸いです」

 十兵衛は深く一礼したのち、ここ数日の出来事を順序だてて話し始めた。


 とはいえ大まかな流れは道順たちがすでに話しているとのこと。そのため十兵衛は彼らと別れて囮部隊として動いていた時の話――小夜の中山での攻防や、妖術関連で気付いたことに焦点を絞って話した。

「伊賀での襲撃は雇われた牢人によるもので、隠れていた百地の方々によって一瞬で倒されました。対し小夜の中山での敵襲は全員覆面をつけており、妖術との連携も慣れた様子でした」

 十兵衛は自身の武勇伝にならないように、できる限り客観的に気付いたこと・見聞きしてきたことを話す。報告は、時折宗矩や正肥からの質問に答えたりもして、最終的に半刻ほどで一段落した。

「――宇津ノ谷うつのや峠で駿府からの増援と合流し、そこからは道のままに進んで駿府に来て今に至るというわけです。某からは以上となります」

 話し終えた十兵衛は(果たしてこれで満足してもらえたのだろうか?)と気を揉んだが、一応正肥は満足そうな反応をしてくれた。

「なるほど。覆面に連携。それに正体が露見するのを恐れていた、ですか……。ありがとうございます、十兵衛殿。大変参考になりました。某はこれから他の方々にも話を聞いてきますので、これにて失礼させていただきます」

 正肥は必要なことを書き留めるとさっさと立ち上がり去ろうとする。おそらく明日朝一で発つために時間がないのだろう。

 十兵衛と宗矩はその見送りに立とうとしたが、正肥はそれは不要だと返す。

「公的な訪問ではないためお気になさらず。それよりも宗矩様は明日に向けて、十兵衛殿は長旅の疲れを癒すことに専念してくださいまし。では宗矩様、また明日に」

 そう言って正肥は去っていき、部屋には改めて十兵衛と宗矩の二人きりとなった。

 唐突に二人きりにされたため、若干気まずくなる二人。そんな中で先に動いたのは十兵衛の方だった。

「あー、改めてお久しぶりです、父上。お元気そうで何よりです」

 こそばゆさを隠すかのように気さくに話しかける十兵衛。それに宗矩も表情を柔らかくして返す。

「お前もな。まったく、さっきも言ったがこんなところでお前と会うとは思ってもみなかったぞ」

 二人は改めて再会を確かめ合ったのち、一度宗矩の借りている部屋に戻ることにした。


 この時宗矩たちは忠長家臣の屋敷内の平長屋を一時の宿として借りていた。部屋に戻った宗矩は早速携帯式の煙管を取り出し、縁側に腰掛け一服くゆらせた。十兵衛もその隣に腰を下ろす。

「早速煙草ですか。変わりませんね、父上も」

「そう言うな。これでも最近は控えている方だ。それより柳生庄の方はどうだ?何か変わりあったか?」

 おおよそ二年ぶりに再会した宗矩・十兵衛親子。二人は江戸にいた頃は特別好き好んで会話するような親子ではなかったが、それでも二年の歳月があれば積もる話も多々あった。

「変わらず皆元気ですよ。頼元殿もその他家臣たちも。今年は雨の具合もよく、作物もよく実るのではないかと言っておりました」

「それはよかった。領主だというのにもう長いこと戻ってないからな。皆には悪いことをしていると思っている」

「里の者が聞いたら喜ぶことでしょう。江戸の方はいかがですか?」

「江戸か。江戸は……良くも悪くもいつも通りだな。新しい屋敷や道ができてにぎやかになる反面、夜には辻斬りのような不埒な輩もあらわれる」

「辻斬り……。やはり牢人ですか?」

「確証はないがそういう噂はある。大通りの辻に夜番を立ててはどうかという話も出ている」

 情報交換がてら、たわいもない会話を続ける十兵衛親子。そして話題は剣士らしく剣術の話となる。

「そういえば先程の報告で、敵と対峙している最中にひどく集中した状態になったと言っていたな。確か頭が冴えて、とかなんとか……」

 宗矩が話題に出したのは十兵衛が小夜の中山で覆面の男と対峙した際、集中力が異様に増した、いわゆるゾーン状態になった時のことだった。正肥が隣にいた際は本筋とは関係なかったため軽く流したが、宗矩は同じ剣士として詳しい話を聞きたかったようだ。

「はい、あれは平時の鍛錬では決して至ることのできない領域でした。頭が冴え、体が自在に動く……。あの状態が常に引き出せれば俺ももう一段上の剣士になれるのでしょうが……」

 これまでも剣を握っている最中に集中力が研ぎ澄まされたことは多々あった。しかしあれほど周囲がはっきりと見えていたのは今回が初めてである。原因は怒りか、それとも生存本能か、そもそも再現可能なことなのか……。

 悩む十兵衛であったが、ここで宗矩が自分も似たような経験をしたことがあると明かした。

「ふむ。私もそのような感覚には覚えがあるが……そうか、お前もそこに至ったか……」

「父上もご経験がおありで?」

「まぁ戦場では稀に起こることだ。人によっては『無心』や『無我の境地』などと呼んだりしている。私も何度か覚えがある。もう久しく経験してないがな……」

 最後に宗矩がその境地に至ったのは大坂夏の陣の時だった。あの時秀忠の護衛をしていた宗矩は不覚にも豊臣方の奇襲を受けてしまう。狙いは当然秀忠。このままでは討たれるのは必至。その窮地に宗矩は無心の領域に至り、鬼神がごとく立ち回った結果、世に名高い『武者七人切り』の伝説を打ち立てたのであった。

(あの時は本当にすべてが見え、思うように体が動いた。あれが最後……。いや、そもそもあれ以降大きな戦自体がなかったからな……)

 宗矩自身あれは戦場特有の緊張感がもたらす現象だと思っていた。ゆえに戦場に出ることのない、戦を知らぬ若い世代でそこに到達する者は現れないだろうとも。だがその境地に至るものが現れた。

(まさか七郎がその境地に至るとはな……。戦乱の世ではなくとも腕は育つということか……)

 嫡男の成長に感慨深く頷く宗矩。剣の道を歩く者としてこれほどうれしいこともないだろう。

 しかし感動に浸ってばかりもいられない。今、剣の道は非常に危うい状況にあるのだから。宗矩の顔にわずかに陰が差し、十兵衛はそれを見逃さなかった。

「どうかなされたのですか、父上?何か問題でもありましたか?」

 心配そうに覗き込む十兵衛に宗矩は一度「いや、なんでもない」と返したが、やがて思い直して十兵衛に向き直る。

「……いい機会だ、七郎。一度お前に父の胸中を話しておこうと思う」

「えっ。ど、どうしたのですか、突然……!」

「突然は承知。だがお前もいい年だ。今後の柳生家、そして新陰流について……。今すぐ答えを出せとは言わないが、これから言うことをよく聞き、そしてよく考えるがいい」

 そう切り出し、宗矩は己の思うところを十兵衛に語りだした。


 平長屋の縁側にて、宗矩は改めて煙草葉を詰め直したのち語り始めた。

「さて、どこから話そうか……。……まず七郎。お前はこの先また大坂の役のような大きな戦が起こると思うか?」

「大きな戦ですか?それは、その……多くの方が起こりえないとおっしゃられておりますね……」

 宗矩がまず問うたのは、大坂の役のような戦が再度起こるかということだった。

 大坂の役とは約十年前に起きた大阪冬の陣・夏の陣のことで、参戦した兵士の数は冬夏合わせて四十万人以上。非戦闘員も含めれば百万人以上に影響を与えた天下の大戦おおいくさである。

 そんな大戦がまた起こるだろうかと聞かれれば、おそらく多くの者が否定的に首を振ることだろう。理由は単純、それだけの戦を仕掛けられる敵勢力が存在しないためである。

 この点については十兵衛だけでなく、この時代の多くの者が同じ意見を持っていた。それについては宗矩もまた同意見であった。

「うむ。当時西側についていた者もほとんどが代替わりをして恭順、あるいはとうの昔に壊滅させられている。もちろん牢人連中の中に現御公儀を恨んでいる者もいるだろうが、その恨みが戦と呼べるほどのものにはなるまい。それこそ先日の出羽守の残党騒動の時のようにな」

 出羽守の残党とは秀忠治世時の武将・坂崎直盛の家臣たちのことで、彼らは主君・直盛が不遇の死を遂げたことで幕府を恨んでいた。十兵衛や宗矩は彼らと熾烈な攻防を繰り広げたのだが、それでも客観的には数十人の牢人がケチ臭く暴れた事件に過ぎない。

「禄一万石を越えた武将の元家臣でもその程度。もはや数万の大軍を率いる戦など起こりえないのかもしれない。となると誰もが疑問に思うだろう。『果たしてこの太平の世にて剣術を学ぶ意味があるのか』と。……それこそ上様(家光)ですらな」

「上様!?まさか……!?」

 驚く十兵衛に宗矩は険しい顔で頷いた。

「うむ。はっきりとおっしゃられたわけではないが近頃の稽古の様子を見るに、上様も薄々と勘付いてはおられるのだろう。このように鍛錬したところで自分が戦場で剣を振るうことはないのだろうということに」


「上様が、そのようなお考えを……」

 宗矩の話を聞き言葉に詰まる十兵衛。もはや一般人ですら戦とは縁遠い世である。江戸城の最奥にて厳重に守られている家光がそう思うのも仕方のないことだろう。

 だがだからといってそう安直に剣術の価値を否定するわけにもいかない。何故なら柳生家は将軍家の剣術指南役の御家。つまり今の宗矩たちの地位は『剣術を学ぶ価値』があるからこそ認められている地位なのだ。

 言ってしまえばジレンマである。当事者である十兵衛たちですら剣術は時代遅れになりつつあると感じている。しかしその価値を認めさせなければ地位を失いかねない。前々から気付いていた問題であったが、それがとうとう家光にまで届いてしまった。もはやこれ以上先延ばしにはできない。だがどう決着をつければいい?十兵衛はすがるように宗矩に尋ねた。

「父上は……どうなさるおつもりなのですか?」

 もはや衰退に身を任せるしかないのだろうか?だが宗矩は諦めてはいないようだった。彼は煙草の煙を大きく吸ったのち、己の考えを語り始める。

「単なる技術を語る剣術ならば、確かに今の世には必要ないものなのかもしれないな。だがお前もわかっているはずだ。剣術とは小手先の技量を鍛えるものにあらず。振るう得物が違えど、鍛錬によって得た知識や精神は平時の時でも有用であると」

「振るう得物が違えど、ですか……?」

「そう。例えば商売や政治の世界でも、振るう得物が刀でないだけ間合いの押し引きや駆け引きはあるだろう?そのような場面では剣術を介して学んだことが役に立つはずだ。他にも世のことわりを剣の道理で説くことができれば、この太平の世でも間接的に剣術の価値を証明することができるだろう」

「父上はそれを説こうとしておられるのですか?」

「そうしたいのは山々なのだが……これがなかなかうまく言葉にできなくてな……」

 困ったように頭を掻く宗矩。そして彼は続けてぼやく。

「その編纂を沢庵和尚に協力してほしかったのだが、今の状況ではそれも難しくてな……」

「和尚ですか……」

 沢庵和尚とは柳生家と親交の深い高位の禅僧・沢庵宗彭のことである。彼の見識の深さや話のうまさは十兵衛もよく知っており、なるほど彼からの協力が得られればこれほど頼もしいこともないだろう。

 だが残念ながらその沢庵は今現在、紫衣事件の重要参考人として京都所司代監視の元、取り調べを受けている最中であった。確かに今の和尚と自由に会話するのは難しいことだろう。

 しかも宗矩は意味深に言葉を続ける。

「特に今回の件で和尚の立場はより悪い方に転がっただろうからな。下手をすればもう二度と会うことも叶わぬかもしれん……」

「『今回の件』?どういうことですか?」

 尋ねる十兵衛。対し宗矩は横目でちらとその顔を見た。

「そうか、お前は……、お前は今回の件――雅親様出府の件は何が原因かは聞いているのか?」

「原因ですか?確か、次期天皇候補であらせられる親王様が亡くなられたせいだと……」

 頷く宗矩。十兵衛が答えた通り、今回雅親が江戸に向かうこととなったきっかけは、徳川家の血を引く次期天皇候補・高仁親王が急死したためである。

「そう。親王様急死を受け、江戸と朝廷との関係を守るために派遣されたのが雅親様だ。ただ交渉の場に手ぶらで来たわけではあるまい。おそらく彼が持ってきた交渉材料、それが沢庵和尚の裁判についてだろう」

「そ、そんな馬鹿な!?いったいどういうことですか、父上!?」

 驚く十兵衛。彼はどういうことですかと説明を求めたが、宗矩はそれを落ち着かせるようにゆっくりと煙草の煙を吐いた。


 今の煙草葉を吸い尽くした宗矩は、次の葉を詰め火を灯してから話を再開した。

「七郎。そもそもお前は雅親様を送ったのがどなたなのかは知っているか?」

「い、いえ、そこまではさすがに……。武家伝奏の方というのは聞いておりますが……」

「うむ。正確にはそのお方は正二位中宮大夫の三条西さんじょうにし実条さねえだというお方でな。このお方は、まぁよく言えば中庸。悪く言えば迎合的として知られている人なのだ」

 宗矩曰く、今回護衛してきた雅親は三条西実条という人物の部下らしい。そしてこの実条という人物は武家伝奏としては迎合的な人物として知られているとのことだった。

 これがどういうことかと言うと、武家伝奏のお役目は天皇の代わりに幕府との交渉を行うのだが、この際実条は交渉を成立させるために朝廷側に不都合な内容があっても、そのまま呑み込んでしまう傾向があるそうだ。

 確かに幕府との交渉は簡単に決裂してもいいものではない。しかし彼はあくまで朝廷側の人間。第一に考えるは朝廷側の利益であり、そのためのポジショントークも求められる立場である。

「だが実条様は面子よりも江戸と敵対しないことを第一としていた。時に同じ公家から獅子身中の虫と罵られることがあろうともな」

「そのようなお方なのですか……」

「そう。そんなお方だから今回の交渉の場も設けられたのだろう。……問題はかの人が今回の交渉で何を用意してきたか、という点だ」

「それが和尚だというのですか?」

 言葉に出しつつ十兵衛は間違いであってほしいと願っていた。しかし宗矩は無情にも首を縦に振る。

「あくまで推察に過ぎないが交渉材料としては十分だろう。伊豆守様もそこが落としどころになれば双方にとって都合がいいともおっしゃられていた」

 宗矩の返答に十兵衛は顔を青くし、まさしく絶句した。

 ここで少し現在の沢庵和尚について説明しておこう。現在沢庵和尚は幕府の法度を無視して人事権を行使したとして、京都所司代からの取り調べを受けていた(紫衣事件)。ここで大事なことは京都所司代が幕府の機関であるということだ。つまりこの取り調べは幕府の面子を守るため、初めから沢庵に有罪判決が出ることが確定していた。

 だがその帰結こそ決まっていたものの、所司代は長いこと明確な判決を下せずにいた。その原因はひとえに沢庵和尚の影響力および朝廷との関係性を懸念してのことである。沢庵は当代一の禅僧とも呼ばれている高僧で、同じ僧侶だけでなく公家や大名の中でも彼を信奉している者が多くいた。そんな人物に重い刑を下せば反発は免れられないが、かといって幕府の立場上軽い刑になってもいけない。沢庵をめぐる裁判にはそんなジレンマが存在した。

 そんな折に今回の件だ。ここであらかじめ朝廷側と判決内容の相談をしておけば、判決後の騒動をある程度抑えることができるだろう。幕府からすればいらぬ反発を抑えられ、朝廷からしても有罪が確定している坊主一人の首で江戸との関係を維持できる。

 確かに交渉材料とするには双方にとって都合のいい案件であった。


「まさか……私は協力しない方がよかったのでしょうか……?」

 任務の帰結を聞かされて青い顔をする十兵衛。要点だけ見れば十兵衛は沢庵和尚の害となる人物を護衛していたこととなる。

 しかしそれは違うと宗矩は首を振る。

「いや、お前が協力しようがしまいが武家伝奏の使いは江戸に来ていたし、和尚にも判決が下されていた。どうしようもない流れというものは存在する。今の太平の世のようにな」

 平和な時代と言えば聞こえはいいが、武芸者にとっては冬の時代に他ならない。しかし嘆いたところでどうしようもない。大事なのはそんな時代の中でどう生きていくかだ。

「いろいろと脅したが、お前の実力ならばそのまま上様の小姓にも里の領主にもなれるだろう。あるいは怪異改め方を続けるという道もある。ただ私と同じ剣術指南役の道はないかもしれない。もうそういう時代ではなくなりつつあるということだ。それを踏まえたうえでお前はどの道を進むのか――お前もいい年だからよく考えておけ。今後後悔しないようにな」

 言うだけ言うと宗矩は最後にもう一度煙草を吸ったのち、自室へと帰っていった。縁側に残された十兵衛は苦悶の表情でしばらくそこから動けなかった。

 こういう時は酔ってしまいたい。十兵衛は懐に手を入れいつもの竹水筒を探したが、ここで彼はそれを酒宴の席に置いて来たことを思い出す。十兵衛はちっと舌打ちしたが、わざわざ取りに戻るほどの気力はなかった。

(ただ頼まれて任務をこなす。それだけではダメなのか?俺はいったいこれから先どうすればいいのだ?)

 依頼された護衛任務は成功した。これで柳生家の株はまた一つ上がったことだろう。しかしそれだけでは時代の流れに取り残される。

(今まではただ言われたことをしているだけでよかったのだがな……)

 しかしいつまでも甘えたことは言ってられないだろう。十兵衛は自身の青年期が終わりつつあることをを感じ取り、苦し気に一つ溜め息をついたのであった。

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