柳十兵衛 小夜の中山を越える 2

 十兵衛は護衛部隊の半数を率いて東海道を東に進む。その目的は本隊が無事に迂回できるように、囮役として敵の目を引き付けることだった。

 彼らは会敵の場所を東海道有数の難所・小夜さよの中山という峠道と定め、いざ決戦と足を踏み入れたのであった。


 日坂にっさか宿と金谷かなや宿との間にまたがる山塊。そこを越える峠道が東海道有数の難所『小夜さよ中山なかやま』であった。

 その全長は10キロメートル弱で最高地点の標高は250メートルほど。おおよそ一本道ではあったが崖や狭い道のせいで死角が多く、そのせいか山賊や妖怪の噂も絶えない不穏な峠道である。

「なんでも仲間に殺された商人だか盗賊だかの霊が出るそうだ。どうです、十兵衛様?何か感じられますか?」

「いや、今のところは特に……。おそらく脇道の方に出るんじゃないか?」

「ああ、そうかもですね。さすがに本道の方に出たら誰かが除霊してますか」

 そんな峠道を登りながら取り留めのない話をするのは十兵衛のお供の一人・康成であった。彼は歩きながら愚痴や噂話、目に付いたものについて適当に喋っている。ただその軽口は軽薄な性格のためではなく、彼なりの周囲に対する気遣いから来るものであった。

 囮となって敵を引き付ける十兵衛たちであったが、一行の中には政治的問題から未だに詳しい事情を説明されていない者も多かった。彼らは単にこの一団は偵察部隊だとしか聞かされておらず、もし敵がいたら対処するがそうでないなら帰ってくる――その程度の遠征だと思っていた者が大半だった。十兵衛たちの班も、十兵衛と与六郎以外は全員そのように聞かされていた。

 だがそんな彼らも峠道に入ってからの雰囲気で、この遠征が単なる偵察でないことに気付き始めているようだった。おそらく自分たちの働きが護衛任務の成否を分けるのだろう。気付かぬうちに与えられた重要なお役目。その重圧に無意識のうちに体が硬くなっている者もちらほらと出てきている。

 康成の軽口はそんな彼らの緊張を少しでも和らげようとしてのものだった。実際これのおかげで年若い常隆や四郎五郎は落ち着いてついてこれていた。十兵衛はそんな康成を後方から感心しながら見ていた。

(人を動かすにはこういった才覚も必要なのだな。俺はない才能だから頭が下がる)

 こうして十兵衛たちは適度な緊張感を保ちながら、狭い峠道を一列に進んでいった。


 小夜の峠道は急坂と曲がりくねった道が続く、前評判通りの難所であった。そのため一行は途中何度も休憩を挟みながら進んでいた。

 もちろん鍛えている十兵衛たちや百地の忍びたちならば一気に駆け抜けることもできただろう。しかし今回は敵襲が予想されたため、隊列などにも気を配りつつ万全を期して進んでいるというわけだ。

 今もまた十兵衛たちは隊列の確認がてら立ち止まり、日陰に入って汗を拭っていた。

「ふぅ、暑い……。もう少し早い時間に来れればよかったのだがな……」

 季節は夏、時刻は昼前。まだ暑さの盛りではなかったが、すでに汗は止まる気配がない。十兵衛は汗で張り付いた服をパタパタとさせ、肌に風を送りながら愚痴った。

「まったく、前来たときははこんなではなかったのだがな……」

 これにお供の一人である善祐が返す。

「以前といいますと、江戸から柳生庄に参られた時ですな。あれは確か晩秋の頃でしたか」

「ええ。あの時はカラッとした天気で、特に休むことなく越したのを覚えてます。ですが今は……」

 ちらと後方を振り返る十兵衛。そこには伸びた隊列と、だらだらと歩く百地の忍びたちがいた。

 一応誤解がないように断っておくと、彼らは別に怠惰でそのように歩いていたわけではない。隊列が伸びているのは途中何度も道幅が狭いところを通ったせいであり、だらだらと歩いているのは前後との間隔を取らずに歩くと狭いところで一ヵ所に固まってしまい、万が一襲われた時に動きづらくなるためだ。

 それに加えて一行は敵が襲ってきそうなところでは逐一立ち止まり最低限の安全確認もしていた。そういったものが重なった結果、彼らの歩みは思わず焦れるほどに遅々としたものとなっていた。

「まぁこの人数では仕方ありますまい。十兵衛様がいらしたときはお供の数も少なかったのでしょう?」

「もちろんわかってはいますとも。ですがやはり某は体を動かしていた方が性に合っているようで……」

(いっそさっさと襲ってきてくれたら……、というのはさすがに不謹慎か)

 十兵衛は酔わない程度に酒を口に含み、それを舌の上で遊ぶように転がした。それほど手持ち無沙汰だったのだが、そこに隊列を指揮していた百地の忍びの一人がやってくる。

「十兵衛様。後ろが詰まってきましたゆえ、そろそろ前進をお願いします」

「承知いたしました。では参ろうか」

 重い腰を上げる十兵衛たち。中途半端な休息はむしろリズムを崩しかねないのだが、十兵衛たちはこれも仕方のないことだと割り切り再度急坂を登り始めた。


 さて、そのように遅々とした足取りで進んでいた十兵衛たちであったが、それでも歩き続けた結果峠越えも間もなく半ば――最高地点付近にまでやってきていた。そこを越えればあとは下り坂。登りと下り、どちらが襲われたとき危険かは一概には言えないが、突破ということを考えるなら進行方向に勢いを付けられる下りの方が都合がいい。つまり進行が楽になるということだ。

 だがそんな頂上付近にて、一行は今日何度目かの襲撃されやすそうな場所に出くわした。

「十兵衛様……」

「ああ、わかっている。さて、今度は出てくるかな?」

 現在十兵衛たちは縦長の隊列を組んでいた。これは意図して組んだものではなく、細い坂道などのせいで自然と隊列が伸びてしまったのだ。ただ偶然できた形ではあるものの、これには前後の挟撃がされにくいというメリットがあった。これだけ長い隊列だと前後を抑えても横に逃げられてしまうからだ。

 それでもなお逃げられないように襲うのなら場所を選ぶほかない。例えば長い隊列がすっぽりと収まって、かつ左右に逃げられないような場所だ。そんな場所に今十兵衛たちは出くわしていた。

「右手には登れないほど急な崖。左手には見通しの悪い茂み。茂みの先は崖かな?」

「おそらくは。植生を見るに相当な高さかと」

 一行が出くわしたのは崖沿いの緩い右カーブで、左手側に見通しの悪い茂みが数十メートルほど広がっているような場所だった。そしてその茂みの先は見たところ切り立った崖で逃げ道にはなりそうにない。つまり例えるならばここは、道にこぶができたような場所であった。

 また厄介なことにこの瘤の区間の出入り口は、木や岩によって人が一人通れる程度の隙間しかなかった。

「入り口も、出口も狭いな。まとまって侵入すれば前後を塞がれかねないが、かといってこれ以上隊列を伸ばせば分断される恐れがある。さて、どうしたものか……」

 十兵衛や百地の忍びたちは、入り口付近で休憩する振りをしながら道の先を観察する。

「見たところ人影はないが、あの茂みだ。隠れようと思えばいくらでも隠れられるだろう。伏兵には気を付けたいな」

「右手の崖は急すぎて登れそうにはないな。ただ角度が急な分、逆に上からの攻撃はできなさそうだ。……十兵衛様。妖術の類は感じられますか?」

「妖術ですか?いえ、今のところは何も。ですがだからといって『罠がない』と断定はできませんよ?某がわかるのは発動している術のみで、発動前のそれは感じ取ることができませんので」

「うぅむ……。わかりやすい気配はなしということか」

 各々意見を出し合うも、敵の有無に関して決定的な何かは発見できなかった。しかしいつまでもここで立ち止まっているわけにはいかない。十兵衛は進行を指揮する百地の忍びの方を見た。

「やはり進むのですか?」

「まぁ怪しいからといって逐一立ち止まっていては日が暮れてしまいますからな。もとより会敵は覚悟の上。最初の一手さえ凌げれば後はどうとでもなるでしょう」

 このあたりの思い切りの良さは、さすがは前線で活躍している忍びといったところだろう。どうせ襲われるときは襲われるのだと一行は覚悟を決めて歩み出す。

 そうして部隊全体がこの瘤のようなところに収まった頃、いよいよその時がやってきた。


「……!来るぞ!全員構えろっ!」

 叫んだのは前方で警戒している百地の忍びではなく、列の中央にいた十兵衛であった。十兵衛は隠れている敵を見つけたのではなく、不穏な術の気配を感じ取ったのだ。

 そして次の瞬間、山奥には似つかわしくないキィーンという高い金属音が響いた。

 キィィィーーーン……

「これは……何事だ!?」

 思わず音の出所を探る一同。だが十兵衛はすぐさまこの音に、注意を散漫にさせる術がかけられていることを見抜く。

「遠くの音に気を取られるな!これは陽動だ!近くの死角に気を付けろ!」

 そう叫ぶとほぼ同時に、周囲の草むらから幾つかの影が一気に襲い掛かってきた。彼らは一番近い相手目掛けて凶刃をきらめかせる。

「はあっ!」

「なっ!?くそっ、小癪なっ!」

「気を付けろ!囲まれてるぞ!」

 数人による強襲、それに合わせて四方から手裏剣や短刀も飛んできた。どうやら離れたところに伏兵が潜んでいたようだ。

 それらは恐るべき正確さで一行を襲ったが、十兵衛の声掛けが功を奏したのか、どうにか第一波での壊滅は免れることができた。

「っ!全員、無事か!?」

「こ、こっちは大丈夫です!」

「こちらも問題ない!」

「……す、すまない。肩にくらった!」

「くそっ!こっちも同じくだ!」

(何人か深手を負ったか。だがまだ陣形が崩されたわけではない……!)

 不意打ちからの手痛い一撃を貰いながらも、どうにか戦線は維持できた一行。彼らが改めて抜刀し攻撃された方に構えると、道の前後を塞ぐように黒覆面の男たちが現れた。その数、前後それぞれに十五人ほど。あるいは背後にまだ隠れているかもしれない。

「くっ!予想通り、道の前後を塞いできたか……!」

 伏兵によって前後を塞がれた十兵衛たち。しかし敵の挟撃は予想の範囲内のことであり、当然その対策もしていた。

 囲まれた時の対処法は包囲の薄い部分に突破をかけることである。そのため十兵衛たちはあらかじめ百地の忍びの一人に、敵布陣の観測をする役目の者を用意していた。もし敵が現れたらこの人物が敵の陣形を観察し、突破する方向を指示するのだ。

 しかし敵が動きを見せてからそれなりの時間が経っているにもかかわらず、その者からの連絡はまだ来ない。しびれを切らした忍びの一人が思わず虚空に向かってがなる。

「何をしている小一郎こいちろう!早くどっちに向かえばいいか報告しろ!」

 どうやらその小一郎とやらが観測手を任されていたようだ。呼ばれた男は一行の頭上の枝の上から困惑気味の声で返答した。

「も、もう少しばかり待ってくれ!急に周囲の草むらからの気配が増えたんだ!皆気を付けろ!まだ十以上、あるいは二十近くいるかもしれん!」

「なにっ!?」

 思わぬ報告に動揺する一同。まさか敵がそれほどまでに人員を用意していたとは。しかし十兵衛だけはこれを聞いて思うところがあった。

「急に大量の気配?まさか……!」

 十兵衛は感覚を研ぎ澄ませて周囲を探る。すると草むらの中から幾つもの異質な気配を感じ取った。それは人が発する気配に似ていたが、それにしては薄く頼りない印象を受けるものだった。

「これは……惑わされるな!それも妖術――人がいるように見せかけたただの人形ひとがただ!実際の敵の数はもっと少ない!」

「なっ、何だって!?くそっ、妖術だなんてどうすればいいんだ!?」

 おそらく先の金属音をきっかけに発動する仕掛けだったのだろう。だがタネがわかれば恐れることなど何もない。

「落ち着け!人形ひとがたは所詮は気配を似せただけの人形にんぎょうだ。動いたり、痛みに反応などはしないはず。そこで判断しろ!」

「そ、そうか、わかった!ちっ、舐めやがって!すまないがもう少し待っててくれ!」

 そう言うと小一郎はぴょんと別の枝に飛び移った。仕掛けがわかった以上突破口の発見は時間の問題だろう。しかし敵がそれを黙って見逃すはずもない。

「ふんっ!術を見破ったくらいでいい気になるなよ!全員、さっさとこいつらを囲ってしまえ!」

「仕方がない!一時応戦するぞ!」

「おうっ!」

 突破のためには時間を稼ぐ必要がある。十兵衛一行は全員抜刀したのち腰を据え、応戦の構えを取った。


 小夜の中山山頂付近にて敵に前後を塞がれた十兵衛たち。彼らは撤退の準備が整うまで抗戦の構えを取ることにした。

「全員、戦線を下げるな!互いを守れるように立ちまわれ!」

 一行は形こそ逃げ場のない状態であったが、見た目ほど劣勢ではなかった。というのも長い隊列のおかげで、敵の前後の包囲部隊が連携が取れないほどに離れていたからだ。

 敵からすれば前後を塞いだのちは部隊をスライドさせて合流し、外線を取って包囲をもくろんでいたのだろう。しかしこの状況下で下手に合流しようとすると逆に各個撃破される恐れがある。そのため彼らは思ったように兵を動かせず、とりあえず十兵衛たちが逃げないように道の出入り口を固く閉じることに注力せざるを得なくなったというわけだ。

「お前ら、気ぃ引き締めろ!絶対に奴らを逃がすなよ!」

 十兵衛たちは撤退のための時間を稼ぐために、敵は十兵衛たちを逃がさないために互いに相手の行動を受ける姿勢をとるが、こうなると必然戦況は睨み合いの形となる。

 互いに一定の距離を取り、切っ先を向け合い殺気を飛ばし合う。そんな中で百地の忍びの一人が、こちらの顔を確認しようとしている者がいることに気付いた。

(む?なんだあいつは?こちらの顔ぶれを確認しようとしている?もしや……)

 思うところがあった彼は試しに叫んでみる。

「そこの者!誰かを探しているのか?だとしたら残念だったな。薄々勘付いているだろうが、ここにお前が探している者はいないぞ!」

「くぅっ!」

 敵の男は苦虫を噛み潰したかのような顔をした。やはり彼らの狙いは武家伝奏の使い・雅親だったのだろう。そして彼らはその雅親がここにいないことを悟った。つまり自分たちが罠に嵌められたと気付いたということだ。

(さて、このまま撤退してくれるとありがたいのだが……)

 雅親がいない以上、彼らにとってもここでの戦闘に意味はないはず。十兵衛らはこのまま撤退してはくれないかとかすかに期待したが、さすがにそれは甘い考えであった。

「えぇい!どうせ屠る予定だった連中だ!先んじてここで数を減らしてくれようぞ!いくぞ、皆の者!」

「おおっ!」

 半ばヤケクソ気味に奮起する敵一同。どうやら攻めに転じるようだ。こうなれば十兵衛たちも迎え撃つほかない。

「ちっ!来るぞ!全員構えろ!」

 そう叫ぶが早いか、最初に奇襲をかけてきたうちの一人が一番槍として飛び込んできた。これを最前線に立っていた百地の一人が刀で受ける。

「くっ!?」

 小夜の山中でガキンと刀同士がぶつかる音が響く。これを契機に敵は流れ込むように前進し、本格的な戦端の幕が切って落とされることとなった。


「はぁっ!」

「舐めるな!その程度の腕でっ!」

「そちらこそ!」

 十兵衛たちと襲撃者との本格的な戦闘が始まった。小夜の山中のそこかしこで怒声に罵声、刃物を打ち付けるような音が響く。ただ完全に無秩序な乱戦になったというわけではない。敵もまたある程度訓練された組織らしく、冷静に出入口を固めつつ、手の空いている者で四人前後の組を作って攻撃に当たらせていた。

 これはおそらく一ヵ所でも分断できれば、あとは流れで殲滅できると踏んでの戦略だろう。実際十兵衛たちは包囲される寸前のところにいる。どこか一端でも崩れれば崩壊は免れられないだろう。

 それを防いでいたのが戦巧者の老齢の忍びたちであった。

「迎え撃て!不用意に打って出るでないぞ!互いの背中を守れるように立ちまわれ!」

 彼らは部隊に的確に指示を出し、時には手裏剣等を使って敵が自由に動けないように牽制などをしていた。十兵衛たちからすれば撤退の準備ができるまで耐えきればいい戦いである。いかに相手が外線を取っていようとも、守りに専念すれば局地的には対等。特に相手は道の前後を塞いでる分、見た目ほど戦力に余裕があるわけでもなさそうだった。

(これはいけるか!?)

 十兵衛も戦局に手応えを感じ始めてきた。――そんな折だった。敵の一人が茂みに隠れながら接近し、十兵衛に向かって短刀を投げてきたのだ。

「十兵衛様、危ない!」

 ガキンと弾かれる短刀。間一髪で防いだのは与六郎であった。そして騒ぎに気付いた善祐や康成が十兵衛をかばうように前に立つ。

「出てこい!もはや奇襲は成功せんぞ!」

 善祐が叫ぶと草むらの中から黒覆面の男たちが現れた。数は四人。彼らは皆明らかに十兵衛に照準を合わせている。

「狙われているようですな、十兵衛様。妖術を見破ったことを警戒してのことでしょうか?」

「おそらくは。ここで仕留めた方が後々楽になると見たのでしょう」

 もはや向こうも少しでも戦果を挙げようと必死なようだ。だが当然そう簡単にやられてやるわけにはいかない。

「四人か。ならば各自が一人相手すればいいだろう。常隆と四郎五郎は後ろを任せたぞ!」

 十兵衛たちは荷物を若い二人に預けると、各々横に間隔を取って正眼に構えた。敵もこの誘いに乗ったようで、一人の前に一人の敵が立つ。そして狙いである十兵衛の前には一番体格のいい覆面の男があてがわれた。

「一応訊くが、名乗るつもりはあるか?」

「……」

 十兵衛の問いかけに男は応えず、抜いた刀を正眼に構えた。その構えの力強さから、何かしらの流派を修めているであろうことは容易に見て取れた。

(簡単にはいかなそうだな……)

 難しい一戦になることは必至。しかし気持ちで負けてはいられない。

「問答無用か。それもよかろう。柳十兵衛、参る!」

 十兵衛は呼吸を整え、同じく正眼に構えて相手を見据えるのであった。

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