柳十兵衛 小夜の中山を越える 1

 遠江・袋井ふくろい宿までやってきた十兵衛たち。彼らは目的地である駿府まであと数日というところにまで来たが、敵の気配も確実に大きくなっていた。

 おそらくそろそろ決着を付けに来ることだろう。そう悟った一行は囮作戦を決行する。

 囮役となった十兵衛は十数人の手勢を引き連れて夜明け前の宿場を発った。


 時刻は日の出まであと二時間ほどの七つ頃。夜更けの重い静寂の中、囮役を任された十兵衛率いる一行は、道順に見送られながら袋井ふくろい宿を発った。

「十兵衛様。無事の再会を心より願っております」

「ええ。そちらもどうかお気をつけて」

 十兵衛たちが目指す先は次の宿場である掛川かけがわ宿。距離はおおよそ9キロメートル、昼間なら歩いて二時間程度の距離である。

 一行は月明かりが照らす街道を疲れない程度の駆け足で、警戒しながら東に進んでいた。

「うぅ……。見晴らしはいいですがやはり暗いですね。気付いたときには囲まれてた、なんてことにならなければいいのですが……」

 駆けながらぼそりと弱音を吐いたのは十兵衛が連れてきたお供の一人、四郎五郎であった。若くて腕っぷしもある彼だったが、このような夜間行軍にはまだ慣れていないようである。そんな四郎五郎を励ましたのは同じく十兵衛のお供である康成であった。

「なに、周囲には百地の方々がいるのだ。不意を突かれることなど万が一もあるまい。大事なのはお役目を忘れぬことだ。某らのお役目は十兵衛様をお守りすること。お前はただそれだけを考えていればいい」

 この時一行は十兵衛たちの班を中心にして、前後を道順から借り受けた百地の忍びたちで固めた隊列を組んでいた。また見える分とは別に数名が伏兵として潜んでいるとも聞いている。これだけの目を盗んで奇襲をかけるのはまず無理だろう。四郎五郎もそれを聞いて安心したのか、「承知しました!」と威勢のいい返事をして背すじを伸ばした。

 十兵衛はそんな二人の光景を微笑ましく眺めながら、同時に少しばかり申し訳なくも思っていた。

(すまんな、二人とも。いや、皆……。囮であることも告げずに付き合わせてしまって……)

 十兵衛は自分の部下たちに、この部隊が囮であることを告げていなかった。あくまで自分たちは本隊の露払いをする先発隊――この先の峠道に山賊が出るかもしれないから、それを見てくるための部隊と教えていた。これは情報が漏れることを懸念して――今回の件が政治的に非常に高度であるがための措置である。十兵衛もそのことは納得していたが、罪悪感はまた別の話であった。

 さて、そんな十兵衛の心情など露知らず、小高い道を越えた康成は白んできた空の下に見える遠い街並みを指さした。

「あ、十兵衛様。掛川の町が見えてきましたよ」

 ちょうど日が昇り始める頃、十兵衛一行は掛川宿が見えるところにまで到達した。そしてここで与六郎が十兵衛の元に近付き、小声で耳打ちをする。

「十兵衛様。このあたりで一度やっておくべきかと」

「うむ、そうだな。では少し体を貸してくれ」

 十兵衛は他の者たちが宿場の遠景に気を取られている隙に、与六郎の体の陰に隠れる。そして精神を落ち着かせたのち虚空に向かってパチンと一つ指を鳴らした。仏教系の不浄祓いの一種『弾指だんし』である。そうして不浄祓いをしたことで十兵衛に掛けられていた術が発動する。

(……来た!予定通りだ!)

 十兵衛が指を弾くや、彼の周囲ににわかに薄い雲のようなものが現れる。それはゆっくりと集まるように渦を巻いていき、やがて一本の針状になったのち天へと昇っていった。敵の術師が雅親にかけていた位置情報を知らせる術式である。

 だが今しがた見てもらった通り、この術式は現在十兵衛に移植されている。つまり敵が受け取るのは未だ袋井宿にいる雅親の座標ではなく、掛川宿近くにいる十兵衛のそれということだ。

(さぁ、敵はこれを見てどう動くかな?)

 十兵衛はいたずらっぽくにやりと笑ったのち改めて歩き出す。そして一行は開かれたばかりの掛川宿の門をくぐった。


「十兵衛様には囮となって敵の襲撃部隊を引き付けていただきたい」

 時は遡って前日袋井宿の宿屋の一室。術式移植の成功を確認した道順は、ようやく準備が整ったと作戦の全容について話し始めた。

「術式が移動したことにより今後は十兵衛様の位置が敵に通達されます。十兵衛様にはそれを逆に利用して敵をおびき寄せてもらいます」

「敵をおびき寄せる……。確か敵の情報網の信頼性を低下させるためでしたよね?」

 こくりと頷く道順。作戦の目的自体は先んじて聞いていた。

 今回の作戦は敵を壊滅させるのではなく、「お前たちの術はお見通しだぞ」と見せつけて敵の足並みを乱すことを目的としていた。足並みが乱れれば襲撃の勢いも弱まる。襲撃の勢いが弱まれば十兵衛たちの最大の目的――雅親を江戸まで送り届けるということも成功に近付くという流れである。

「ですがどこに誘い出すのですか?某が北や南などに向かえばいいのですか?」

 当たり前のことだが、敵が襲撃してきた際に雅親が近くにいては元も子もない。そのため自分は東海道から遠く離れるものだと十兵衛は思っていた。しかしこれに道順が首を振る。

「いえ、十兵衛様には護衛十数名を率いて、先んじて東海道を進んでもらいます。おそらく敵はこの先で待ち構えているでしょうから」

「待ち構えている?襲撃場所に心当たりでも?」

「ええ。十中八九『小夜さよ中山なかやま』でしょう。もうここ以外に我らを襲えるような場所はありませんからね」

 道順が挙げた『小夜の中山』とは掛川宿よりさらに東、日坂にっさか宿と金谷かなや宿との間にある山間部を通る峠道のことである。総距離は約8キロメートルで最高地点の標高は約250メートル。一般的な旅人の足で二時間から三時間ほどかかる峠道で、東海道では箱根峠や鈴鹿峠に並ぶ難所として知らていた。

「ここを越えますとしばらく見晴らしのいい平坦な道が続きますし、駿府の城からも近くなる。江戸に近付けば近付くだけ警備も厳重になることは向こうも承知のはず。ゆえに狙うとしたらもうここしかないということです」

「小夜の峠ですか。何度か通ったことがありますが、確かに待ち伏せて襲うにはちょうどいい場所ですね。ここで敵を誘い込むのですか?」

「『誘い込む』というよりは、ここが急所であると敵に錯覚させる感じですかね」

 道順の作戦はこうだった。

 まず明日の早朝、十兵衛は部隊の半数を率いて囮として東海道を進む。その道中、適宜不浄祓いをすることで位置情報を発信し、敵に『小夜の中山を越えようとしている』と錯覚させる。

 雅親を江戸に向かわせたくない敵は襲撃に適した場所、つまり小夜の中山にて待ち構えることだろう。またこの時彼らは、襲撃をより確実にするために予定地点の手前に目視での監視を置くはずである。

「この術は不浄祓いを行った時にしか発動しませんからね。ゆえに奇襲をより確実にするために敵は監視の者を寄越すはず。そこでようやく彼らは気付くでしょう。我々が半数になっており、雅親様の馬や姫君の駕籠もないことに」

 敵はすでに護衛団一行の人数や外見上の特徴を把握していることだろう。それゆえに一行がいつもと違う動きをしていることにもすぐに気付くはずである。

「敵も馬鹿ではない。すぐに自分たちの術式が露見したこと、および陽動の可能性に気付くでしょう。しかしそれはそれとして十兵衛様たちの一団を無視するわけにはいかない。もしかしたらその中に雅親様が潜んでいるかもしれませんからな」

「向こうの目的は雅親様を江戸に到着させないこと。そのためには多少怪しくとも、最悪の事態を避けるために手を出さざるを得ない。それを某たちが迎え撃つというわけですか」

「ええ。ですが繰り返しになりますが無理に戦う必要はございません。適当な頃合いを見計らって逃げてください。向こうもそちらに雅親様がいないとわかれば手を引くことでしょう。その間に我々は……」

「北の方から迂回する、でしたよね?」

 道順は自信ありげに「ええ」と頷いた。


 十兵衛たちが囮として動くこの作戦。では彼らが敵を引き付けている間に本隊はどう動くのかと言うと、道順らは北を大回りすることで小夜の峠道を回避するつもりでいた。

「小夜の中山の西側の宿場、日坂宿。その少し手前に逆川さかがわという川が流れておりまして、それに沿って北上すると粟ヶ岳あわがたけの近くまで行くことができます」

 粟ヶ岳とは現代で言う静岡県掛川市の北東部にある山で、近くには長松院ちょうしょういん長福寺ちょうふくじといった歴史ある寺院が建てられていた。これらの寺院の周囲には巡礼のための道が設けられており、その中にはさらに北の大井川の支流、大代おおしろ川へと続いているものもあった。

 この大代川は小夜の中山の反対側・金谷宿近くを通って大井川に合流する。つまり粟ヶ岳方面の山道を使えば小夜の中山を迂回できるということだ。

 ただしこれは言葉ほど簡単なルートではない。小夜の中山は難所と言っても所詮は一般人向けの街道。宿場が近いということもあり、よく整備もされている。対し粟ヶ岳周辺のそれは修験者が修行として使っていた険しい山道である。歩く距離は小夜の峠の倍以上。安全が保障されていないのは言うまでもなく、梅雨の大雨で土砂崩れでも起きていれば道が途切れている可能性すらあった。

「本当に大丈夫なのですか?百地の方々は心配いらないでしょうが、その……雅親様や陰陽寮の方々にはなかなかに厳しい道かと……」

 心配する十兵衛に対し、道順は気にすることはないとでもいう風に肩をすくめた。

「難しい旅路になることは承知の上。ですがこのくらいしなければ相手の裏をかくことはできますまい。まぁ最悪雅親様だけでも背負って運んでみせますよ」

 そして道順は挑発じみた笑みを見せた。

「もちろん成功には、敵の襲撃がないことが前提条件ですがね」

 分かりやすい煽りに十兵衛もまたにやりと笑って返す。

「お任せください。囮のお役目、必ずや全うして見せましょう」

 こうして囮役を請け負った十兵衛は自身の部下と与六郎、そして道順から託された百地の忍び十数名を引き連れて宿場を出た。彼らは道すがら不浄祓いをしながら――敵にこちらの位置情報を発信しながら東海道を進んでいた。

(さて、敵もそろそろこちらの動きに気付いて手駒を動かしたはずだ。次の宿場あたりで何か変化がみられるかな?)

 掛川宿を抜けてから約半刻。十兵衛一行は峠道のふもとの集落・日坂宿へとたどり着いていた。


 日坂宿は小夜の中山の西側ふもとに位置していた。城下町である掛川宿と比べるとややこじんまりとはしてるが、峠道のふもとというだけあって茶屋や草鞋売り、軽食の棒手振りなどでそれなりの賑わいを見せている。

 十兵衛たちも到着するやどこで休もうかと相談していたが、彼らの場合は他の旅人とは少し事情が異なっていた。

「十兵衛様。やはりまだ敵の監視は来ていないようです」

「やはりそうか。困ったな……。これでは敵を引き付けられているのかがわからない……」

 周囲の確認に出ていた百地の忍びの報告を受けて、十兵衛はガシガシと頭を掻いた。このあたりにいると踏んでいた敵の監視が見当たらなかったのだ。

(こちらの位置は適宜送っていたから向こうも気付いていると思っていたのだが……。それとも何か間違ってしまったのか?)

 囮である十兵衛たちの目的はいち早く駿府に向かうことではなく、後続の道順たちのために敵を引き付けておくことである。そのため適当な場所で敵に見つけてもらうことも計画のうちであり、その場所として挙げられていたのがここ日坂宿であった。ここならば道が集中しているし、待ち伏せしているであろう仲間との連絡も取りやすい。敵が見張りを発てるならここしかないという場所である。

 しかしそんな予想に反して、十兵衛たちを監視するような怪しい者の姿は見つけられなかった。これでは敵が今どこにいるのかがわからない。

(困ったな。早く着すぎてしまったのか?それとも敵の動きが想定よりも遅いのか……)

 あるいは敵の方が一枚上手で、十兵衛たちの策など見抜いて本隊の方に向かってしまったのか。

(……っ!?……まずいな。なんにせよ早く手を打たなければ……)

 嫌な予感に一瞬悪寒を覚える十兵衛。とにかく後続のためにもここで確実に敵と接触しておきたい。なにせこの近くにはこれから道順たちが進む逆川沿いの道があるのだ。ここら一帯の敵の目を全て引き付けられなければ作戦そのものが破城しかねない。

 そういったわけで彼らは道順らに伝令を寄越しつつ、敵に見つけてもらうために適当な茶屋で時間を潰すことにした。

「少しとどまって様子を見てみるか。まぁここで一息入れるのはそう不自然でもあるまい」

「十兵衛様。それなら少し先に有名な神社がありますので、そちらに参拝してみてはいかがでしょうか?ここを通る旅人が安全祈願のためによく立ち寄っているそうですよ」

「ふむ。では行ってみるか。もしかしたらその近くで張っているかもしれないしな」

 こうして彼らは近くの神社・事任ことのまま八幡宮を参拝をした。そしてそのまま手頃な土手に腰掛け、少し早めの昼食をとる。彼らは棒手振りから買った餅をちびちびと食べつつ往来の人たちを観察していた。しかし今なお怪しい人物は見当たらない。

「うぅむ……。本当に敵は何をしているんだ?俺たちの居場所を把握していたんじゃなかったのか?」

 もしかしたら何か大切なことを見落としてしまったのではないか。不安になってきた十兵衛であったが、それを年長の百地の忍びが諫めた。

「少し落ち着きなされ、十兵衛様。何かあれば道順様の方からも報告が来ましょう。その便りがないということは、まだ最悪の事態にはなってないということ。それならばもう少し気長に待ちましょうぞ」

「……そうですな。貴殿の言う通りにございます。事の大きさに少し気圧されていました」

 年季の入った言葉に平静を取り戻した十兵衛。そのおかげか、まもなくしてやってきた敵発見の報告も落ち着いて聞くことができた。

「十兵衛様!敵の監視が峠の方からやってまいりました!やはり敵はこの先で待ち構えているようです!」

「やはりか。では一般人を巻き込まないようにして引き付けようか。道順殿への報告も忘れるなよ」

 十兵衛一行は気合を入れなおして立ち上がった。幸いにも休憩できたことで精神的な余裕も持てたようだ。

「おそらく一戦交えることとなるだろう。しかし某らの目的は敵を倒すことではない。全員、命を無駄にするなよ」

 一行は「おお!」と力強く返事をしたのち、小夜の中山の峠道へと足を踏み入れた。

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