柳十兵衛 囮となる 4
護衛対象であった覆面の貴人の正体は、朝廷の武家伝奏の家臣・足立
また彼の江戸出府の目的は、徳川家の血を引く皇太子・
この協議いかんでは江戸と朝廷との関係は完全に崩壊し、戦国の世に戻ってしまう恐れもある。それを防ぐために十兵衛は敵を引き付ける囮役となることを了承した。
ついに明かされた護衛対象とその目的。それにより事の重大さを理解した十兵衛は、改めて今回の護衛任務に尽力することを宣言した。
「江戸の安全を守るためとあらば、某も身命を賭しましょう。囮役の件、謹んでお受けいたします」
一礼した十兵衛に道順は安堵し、覆面の貴人――
「十兵衛殿の非凡な才は箱木の姫君や他の者たちからも聞き及んでおります。ご協力、まこと心強く思います」
「恐縮です。それで某は具体的には何をすればよろしいのでしょうか?」
十兵衛の質問には道順が答えた。
「十兵衛様には雅親様にかけられた術式を引き継いでもらい、それを用いて敵を引き付けてもらいます。ですが今すぐにというわけではございません。他にもいろいろと準備が必要ゆえ、実際に動いてもらうのは明日以降となることでしょう」
「承知いたしました。……ちなみに護衛はつけていただけるのでしょうか?」
身命を賭す覚悟ではあるものの、できることならば生きて帰りたい。道順がそのあたりをどう考えているのか尋ねると、彼はそこは安心してほしいと返す。
「作戦の際には部下を半数ほどそちらに回します。加えて先程も申しましたが、この囮の目的は敵を打ち倒すことではございません。目的は敵に『この情報網は信頼できない』と思わせること。それを達成したらすぐさま逃げていただいて結構です。無論その補助も全力でさせていただきます」
手厚い保護を約束する道順。あるいは彼としても将軍・家光と近しい十兵衛に死なれては困るのかもしれない。顔には出していなかったが相当綱渡りな計画なのだろう。そして計画をより完璧に仕上げるにはもう少し時間がかかるという。
「まぁ実を言いますと未だ情報不足でして、細部はまだ詰められていないのですよ。詳しい話は後日改めて。明日も早いですし、本日のところはこのあたりでお開きということにいたしませんか?」
時刻は夕闇迫る七つ半。いくら夏場といえど、さすがにそろそろ日も暮れる。集まっていた者も皆道順の意見に賛同し、この日はこれで解散となった。
「あぁ十兵衛様。言うまでもないことですが、雅親様らのことはくれぐれもご内密でお願いいたしますよ」
十兵衛は「わかっておりますとも」と返し部屋を辞す。
その後あてがわれた部屋に戻ると部下である康成たちにいろいろと聞かれたが、二人は旅の疲れを言い訳にして早々に床に就いた。
横になった十兵衛。しかし与えられた情報で高揚したせいか、なかなか眠気はやってこなかった。
(武家伝奏に高仁親王、そして敵の術か……。まったく、一気に面倒事が増えたな)
今日一日でいろいろなことが明らかとなった。それにより護衛任務は今や江戸の存亡をかけた一大任務へと変貌していた。
事の大きさにぶるりと震える十兵衛。これが恐れから来たものか、それとも武者震いなのかは十兵衛本人にもわからなかった。
衝撃の開示から一夜明けた翌日。十兵衛を含めた護衛団一行はいつものように支度を済ませて、日の昇らぬうちに
(いつも通り明け六つ前の出立か。まぁ急にいつもと違う動きを見せれば、敵に勘付かれるかもしれないしな)
敵の術に気付いた十兵衛たちであったが、現段階でできることはほとんどない。ならば下手に抵抗して『術に気付いたこと』を感付かれるよりは、わざと無防備なところを見せて敵を油断させた方がいいという判断だ。
知らぬ者は当然として、事情を知っている十兵衛たちも素知らぬ顔で東海道を東に進む。
「とはいえ……」
十兵衛は歩きながら軽く振り返った。これを見て与六郎が尋ねる。
「どうかなされましたか、十兵衛様?」
「いや、雅親様が不浄祓いを行ったみたいでな。先程道脇に死んだ野良犬がいたから、それに向かってやったのだろう」
「えっ!?ということは……」
「ああ。しっかり敵の術も発動したようだ」
一般人には見えていないが、今まさに後方の雅親がいるあたりから一本の針状のものが天へと昇っていた。あれが敵に位置情報を伝える術である。
「不用心な……。誰も止めなかったのですか?」
面白いものでしっかり見えている十兵衛よりも、まったく見えていない与六郎の方が事態を深刻に受け止めているようだ。これに十兵衛は軽い調子で首を振った。
「普段からああやって不浄祓いをなさっているのだろう。簡単なものならそれこそ片手でもできるからな。それを急に辞めたら逆に敵に不審がられてしまう」
「理屈はわかりますが……、そもそも不浄祓いとやらは、そんなに頻繁にするものなのですか?」
「それはもう人によるとしか言えないな。まったく気にしない者もいれば、食事の前後や睡眠前。便所に行くたびに行う潔癖な奴もいる。雅親様がどのように考えているのかは知らないが、まぁ箱木の姫君が止めていないのならば問題ないということだろう」
道中は気付かなかったが、どうやら雅親は日常生活でも頻繁に不浄祓いを行っていたようだ。そんな彼の性格を知っていて敵が利用したのだとしたら、敵は相当に頭が切れるということである。
(一般人は術に気付かないし、能力者も術の一部だと解釈するだろうからな。その道に詳しい姫君がいなかったらどうなっていたことか……)
ゑいのおかげで十兵衛たちはどうにか五分の状態で持ちこたえている。しかし五分では勝ち越せない。いったい道順はここからどうやって巻き返すつもりなのだろうか。そして自分はどのようなお役目を与えられるのか。
そのようなことを考えながら十兵衛たちは三河国から
三河国・二川宿を出発してから約二刻。遠江に入った一行は浜名湖南岸の水路『
「また船か。今度はどうやってわたるのだろうな」
今切の渡しとは、浜名湖と遠州灘とをつなぐ水路を渡る渡し船のことである。全長は3キロメートルほどで、西の渡船場は
十兵衛たちがたどり着いたのは西の渡船場・新居宿。ここで一行は『七里の渡し』の時と同様に、幾隻かの船に分かれて水路を渡ることとなった。
「今回も某たちは前の方か」
「ええ。ですが今回は船が小さいため一番初めというわけではないそうです」
今切の渡しは一里もないため、用意されている船も五人乗りから十人乗りの小型のものが多かった。ゆえにまず最初に対岸に渡るのは道順の部下である忍びたちからで、続けて十兵衛たちが渡り、安全が確保された頃合いを見計らってゑいや雅親らも渡ってくるという寸法だ。
その後十兵衛たちの班は予定通り無事に対岸へと渡る。すると先んじて渡っていた百地の忍びから報告が入った。取り次いだ与六郎によると、どうやらこちらの船着き場近くにて監視をしていた不審人物がいたそうだ。
「十兵衛様。報告によりますと、渡船場付近にて監視していた者がいたそうです」
「監視……。尾張ではないよな?」
「こちらを一目見るや逃げたらしいのでその可能性は低いかと。百地の方曰く、こちらが予想通りに進んでいるのかを確認しに来たのではないか、とのことです」
雅親にかけられている位置情報を知らせる術は、常に発動しているものではない。そのため正確な現在位置を割り出すには直前に得た情報とそれから経過した時間、一行の移動経路や移動速度を考慮して導き出す必要がある。その変数がどれだけ正確か、それを確認するための監視だったのではないかというのが百地の忍びたちの意見であった。
「なるほど、ありえる話だ。ところで先程逃げたと言っていたが追跡はしなかったのか?」
「こちらをおびき寄せる罠かもしれないのでそれはしなかったそうです。人手も足りていませんでしたしね」
「まぁそれが妥当か。こっちが囮に引っかかってちゃ世話ないからな。……いよいよ襲撃が近いのかもな」
「かもしれませぬね」
駿府が間近に迫ってきた今、いよいよ敵も本格的に動き出してきたようだ。
(囮役か……。大層なお役目を引き受けてしまったものだ……)
自然と身が引き締まる十兵衛。その間も渡船場には、護衛団の仲間が乗る舟が次々と到着していた。
複数組に分かれて今切の渡しを越えた護衛団一行。彼らが改めて街道に沿って進むと、その先には
その後一行は浜松宿を抜け、天竜川を渡り、やはり見通しのいい
「ふぅ。ようやく今日の宿場か。今日は結構疲れたな」
「川越えもしましたからね。今日は早めに就寝するのがよろしいかと」
宿に着いたことで少し気を緩めていた十兵衛たち。そこに百地の使いが近付いてくる。
「十兵衛様、与六郎殿。お疲れのところ非常に申し訳ないのですが、荷物を置き次第道順様のお部屋にまで向かってもらえるでしょうか?」
「道順様の?……承知いたしました」
「ではお早めにお願いいたします」
言うだけ言って去っていく道順の使い。彼は用事の内容までは話さなかったが、二人は内心勘付いていた。いよいよ十兵衛が囮となる時が――雅親にかけられた術式を移し替える時が来たのだと。
その予想通り、向かった道順の部屋では先日とほぼ同じ面子――道順に雅親、ゑいや栗斎などがすでに集まっていた。
「これは……お待たせしてしまったでしょうか?」
「いえ、十兵衛様。ちょうど術を移し替える準備が整ったところです。何事もなければすぐにでも始められますが、準備はよろしかったですか?」
「準備と言われましても、特に何もしていないのですが……」
「なに、心構えの話です。諸々は姫君らが行いますので」
そこからの詳しい話はゑいが引き継いだ。
「とりあえず術式を移植しても問題ないことまではわかった。流れとしてはまずこやつ(雅親)を座らせて、かけられている術を一時的に解除する。解除したらその座していた場所にお前が入れ替わりで座る。そして入れ替わったお前に術をかけなおすという流れだ。お前はただ座るだけだが、何か聞いておきたいことはあるか?」
「入れ替わる時分は何を目安にすればいいですか?」
「それはこちらの者が案内するから気にする必要はない。あとはそうだな……無駄に抵抗しようとするなよ?かけなおす際は術式が不安定になっている。力ある者が抵抗すれば簡単に崩れてしまうほどにな。他に気になることはあるか?」
少し考えたのち十兵衛が首を振ると、ゑいは早速術式移植に取り掛かった。
「では手筈通りに行こうか」
彼女の指示に合わせて栗斎ら陰陽寮の術師たちは雅親を囲むように四方に座した。そして印を組みぶつぶつと呪文を唱え始める。これは彼ら自身が雅親を取り囲む結界の柱になろうとしているのだ。こうして彼らを起点としてできた結界――霊的な隔離空間内に向かい、ゑいは聞いたこともない呪文を唱え始める。
(これは……相当古い呪文だな……)
それは文字だけでは表現しきれない非常に複雑な呪文であった。おそらく文言だけでなく、声の調子や呼吸も事細かく決められているのだろう。その声色は時に極楽を思わせる歌のように聞こえ、時にこの世の終わりを思わせる地鳴りのようにも聞こえた。
そして効果のほども折り紙つきだった。彼女の呪文に合わせて結界内の雅親の体からゆっくりと術式が分離していく。彼の表情を見るに痛みなどはないのだろう。やがて術式が完全に引き剥がされると、ゑいの従者が手で合図を出した。これに合わせて雅親はゆっくりと立ち上がり、結界の外にいた十兵衛と入れ替わった。
十兵衛は雅親とすれ違うような形で結界内に入る。彼が中に入ってまず感じたのは桃の花のような甘い香りであった。
(淀みのない澄んだ空気だ。これなら術式もそう簡単には崩れんだろう。……おっと、いけない。気を取られている場合ではなかったな)
十兵衛はゆっくりと雅親が座っていた場所に腰を下ろした。出来る限り彼と同じような体勢を取り、そして目を閉じ体の力を抜く。下手に抵抗すればその衝撃で術式が壊れかねないからだ。
そうしてぼうっと成り行きに身を任せていると、結界内で分離していた術式が十兵衛にまとわりついてきた。これはゑいの呪文の力でもあったが、術式自体にも自身の監視対象を求める働きが組み込まれていたためである。こうして術式は徐々に十兵衛の肌に馴染んでいく。これに痛みなどはなく、むしろ上質な羽毛に包まれているかのような心地よさすらあった。
そのせいか十兵衛は眠気にも似た感覚を覚え始める。瞼が重くなり、体の中心部が熱を持ち始め、自身の境界が曖昧になる。
そしていよいよ意識が途切れようとしたその瞬間、ゑいが「はあっ!」と気を吐いて呪文を完成させた。
「はあっ!……よし。こんなところだろう。どうだ、小僧?声は聞こえているか?」
はっと覚醒する十兵衛。それまで頭の中は霞がかかったかのようにぼやけていたが、呪文の完成と共にまるで薫風が吹いたかのように明瞭になった。
「うぉっ!?……え、ええ、はい。大丈夫そうです」
「その様子だと問題はなさそうだな。術の移し替えは成功だ。結界を解いてもいいぞ」
ゑいの言葉に、四方に座して結界を作っていた陰陽術師たちも安堵した様子で力を抜いた。相当な重労働だったのだろう。彼らは皆極度の疲労と、ちょっとした安堵の表情を見せていた。
「さて、小僧。今の段階で違和感はあるか?」
ゑいに言われて十兵衛は自分の体を隅々まで確認する。一見すると何も変わっていないようにも感じたが、意識を集中させれば確かにほんの少しだけ引っかかりを――袖に蜘蛛の巣が引っかかってしまったかのような、そんなささやかな違和感を覚えた。
「集中すれば感じる、という程度でしょうか……」
「十分だ。では次は効果がきちんと発動するかどうかを確かめるか。小僧、不浄祓いはできるか?」
「
弾指とは仏教系の不浄祓いの一種で、指をパチンと鳴らすだけの簡単なものである。
「んー、系統は違うが、まぁ物は試しだ。やるだけやってみようか」
そう言うとゑいは昨日と同じように従者に皿を持ってこさせた。その上には死んだ魚が一尾。夏場で時間が経っているせいかすでに腐り始めており、ツンとした臭いが鼻につく。わかりやすく『不浄なもの』である。
「やってみよ。力むなよ」
「はっ」
一行が見守る中、十兵衛は呼吸を整え、親指を弾いてパチンと澄んだ音を鳴らした。するとこれにより死んだ魚から漂っていた不浄の気配が薄れ、そして同時に十兵衛の周囲ににわかに雲のようなものが発生した。雲はやがて針のように一つの形を成し、そして天へと昇っていく。不浄祓いに連動して発動する位置を知らせる術式である。これが発動したということは移植は成功したということだ。
「うむ。どうやらこっちも問題ないようだな。……どうだ?何か不調は感じるか?」
「いえ、何も……」
わざと敵の術式を発動させたのだ。十兵衛も多少の反動を覚悟をしていたのだが、痛みや疲れといった発動時のコストのようなものは全く感じられなかった。
(それだけ効率のいい高度な術式ということか。こんな術を使える相手が敵にいるとはな……)
相手の力量を察し眉根を寄せる十兵衛。それを見て道順が心配そうに尋ねてきた。
「本当に大丈夫なのですか、十兵衛様?険しい顔をなさっておりますが……」
「あぁいえ、姫君の技術に感嘆していただけです。気にしないでください」
「そうですか。では問題なく作戦を進めることができますね」
そう、術式の移植はまだ第一段階に過ぎない。道順はこれを逆に利用して、敵を罠にかける作戦を用意していた。
「では改めて今後の策をお話いたします」
一行は道順の話に耳を傾けた。
十兵衛が術式の移植を行ったその翌日、朝の七つ頃(日の出二時間前)。まだ夜空に星が
ただし旅装束に身を包んでいるのは護衛団の全員ではない。集まっていたのはその半分――十兵衛たちの班・六人と彼らの護衛をする道順の部下・十数名のみであった。
見送りも道順ただ一人。その道順が深く笠をかぶった十兵衛に声をかける。
「十兵衛様。無事に再会できることを心より願っております」
「ありがとうございます。そちらもお気をつけて」
最低限の言葉だけを交わしたのち、十兵衛は今度は同行する一行の方に顔をむけた。
「ではそろそろ出発するぞ。改めて言うが我々は敵を誘い出す囮だ。我々の働きが本隊の安全、延いては任務の成功につながることとなる。栄誉あるお役目だ。全員心してかかれよ!」
十兵衛の檄に一行は小さく「おお!」と掛け声を上げ、そして出発した。彼らは敵を欺くために結成された、偽装の護衛団一行であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます