柳十兵衛 囮となる 3
駿府まであと数日のところにまで来た十兵衛一行。しかしその日十兵衛は二川宿にて、今現在護衛団の位置情報が敵に漏れていることを知らされる。
それだけでも驚くべきことであったが、道順はこれを利用して敵に打撃を与える案を提案してきた。全容はまだ聞かされていないが、どうやらそのためには十兵衛が囮になることが必要だそうだ。
敵の術により現在位置を把握されていた十兵衛一行。それを打開するための策として、道順は十兵衛に囮になってくれないかと提案してきた。
「十兵衛様。貴殿に囮役をお願いしたいのです」
「なっ!?」
突然の打診に当然驚く十兵衛。隣の与六郎も険しい顔で腰を浮かす。
しかし二人以外に特に反応はない。どうやらこれすらもすでに彼らのうちで話し合われていたことだったようだ。
(なるほど。ここまで織り込み済みということか)
よく手回しがされていたが十兵衛も伊達に江戸にて小姓仕事についていたわけではない。このくらいの小競り合いなら江戸城では日常茶飯事である。十兵衛は落ち着いて呼吸を整え、その真意を問いただす。
「必要とあらばやぶさかではありませんが、何はともあれまずは何をなさるおつもりなのか説明してください。それを聞いたうえで納得できたのなら、こちらもそのお役目を引き受けましょう」
存外冷静に返した十兵衛に道順は少し驚いたような顔をしたが、すぐに取り繕って形式ばった柔和な笑みを見せた。
「……もちろんですとも。さて、どこから話をしたものか……」
道順はしばし考えて話の筋道を組み立てたのち、やがて諭すような口調で話し始めた。
「順番にお話しましょう。まずこの位置を特定する術式ですが、敵が襲撃するためのものと見て間違いないでしょう。相手の位置がわかることがどれだけ戦場で役に立つか、それはもはや言う必要もありますまい?」
とりあえず頷く十兵衛と与六郎。当然だがこの時代にはGPSどころか監視カメラですらない。そんな時代に、ラグがあるとはいえ相手のおおよその位置がわかるのは攻守において非常に大きなアドバンテージとなる。特に襲撃や奇襲のようなタイミングが重視されるような場面ではそれはより顕著となるだろう。
だが道順たちはそれを理解していながら、あえてこの術式を放置していた。
「某たちがこの術式を未だ放置している理由。その一つが、まだ発見されていない術式を警戒してのことです」
ここにゑいが捕捉を入れる。
「時間がなくてな。他にこやつに掛けられている術式があるのかまではわかっていないのだ。例えば解呪をきっかけに発動する別の術式が組み込まれているかもしれない。そのため安易に術を解くこともできない。ここまでは納得できるな?」
「はい。それならば仕方がないかと。しかしそれでは常にこちらの情報が相手に漏れてしまう……」
頷く道順。
「無論それは由々しき問題だ。放っておいていいものではない。だが根本である術を止めることはできない。ではどうするか?ならば視点を変えてみればいい。つまり敵に与える情報を偽装すればいいということだ。例えば別人に術を移し替えて位置を偽装するとかな」
「術を移し替える……。可能なのですか?」
「姫君」
「可能だ。この術はかけられている者が行った不浄祓いに反応し発動するもので、個人の識別ができるほど厳密なものではない。先ほど言った通り他の術式との兼ね合いを調べる必要があるが、問題がなければ術式を崩さず移植することで別人が成り済ますことも可能ということだ」
(なるほど。しかし『別人』か……)
十兵衛は『別人』という単語に引っかかりを覚えた。おそらくこれが『囮役』につながるのだろう。しかしわざわざそれを自分がしなければならない理由までは思いつかなかった。
「それならば別に某が囮にならなくてもよいのではないですか?それこそ適当な旅人に金を持たせて西にでも向かわせれば……」
「そう結論を急がないでください。確かにそれならば術による位置情報の漏洩は防ぐことができるでしょう。しかしそれだと術に頼っていない、肉眼での監視を防ぐことができない。敵はこちらが東海道を進んでいることを知っているのです。当然生身の人間による監視も行っていると見ていいでしょう」
十兵衛は(なるほど)と内心納得する。
一行はもうすでに数度襲撃を受けている。これにより十兵衛たち護衛団一行が何人くらいいるのか、どのような格好をしているのか、どれほどのスピードで街道を進んでいるのか。そういった情報はすでに敵に知られていると思っていいだろう。それだけわかっているのなら、街道沿いで張っていれば目視で一行を見つけることもそう難しくはない。
そして道順はもう一つその案の問題点を挙げた。
「何よりその案の重大な欠点は、敵に『こちらが術を見破ったこと』を早々に伝えてしまうという点です。見破られたと気付けば敵も次の一手を打ってくるでしょう。そしてそれがこちらの喉元に迫らないと誰が断言できましょう?」
これはいかにも諜報の世界に生きる道順らしい視点であった。
彼の言うことはつまり、『十兵衛たちが術式を見破ったこと』はまだ敵には伝わっていない。しかしそれがバレてしまえば向こうも「もうこの情報源は信用できない」と判断して切り捨て、また別の未知の手段を使ってくるかもしれないということだ。
そしてその次の手段も十兵衛たちが見抜けるとは限らない。そもそも最初の術式を見抜けたのも偶然が重なったおかげである。それならばまだ知ってる術の相手をしているほうがいい。
『
「……ですが、それだとそもそもの問題――敵にこちらの位置がバレている問題が解決できていません」
「承知しておりますとも。これは前提条件の確認です。そしてその対策に必要なのが十兵衛様の囮となるのです」
道順は自分でも気づかぬうちに、わずかにその口角を上げた。
「囮役……。いったい何をなさるおつもりなのですか?」
道順の策は未だ全容が見えてこない。十兵衛の顔にも不安の色がにじみ出て来ているが、道順はそれを受け止めるようにこくりと一つ頷いた。
「そうですね。先にそちらを話しておきましょう。十兵衛様には問題の術式を引き継ぎ、先行して敵をおびき寄せてもらいます」
問題の術式とはもちろん覆面の貴人に掛けられていた位置情報を知らせる術式のことである。それを引き継げば、漏洩するのは十兵衛の位置情報となるはずだ。
「おびき寄せる?……それはつまり、某がエサになって敵を釣れということですか?」
半信半疑で尋ねた十兵衛であったが、道順は簡潔に「左様」と頷く。どうやら本当に十兵衛で釣りをするつもりのようだ。
するとこれに横に控えていた与六郎が怒りながら腰を浮かせた。
「そんな無茶苦茶な!十兵衛様を捨て駒にするというのですか!?」
確かに怒られても仕方のないような無茶な策である。しかし道順はそれは誤解していると首を振る。
「それは誤解ですぞ、与六郎殿。我々は十兵衛様を無下にするつもりはないし、そもそも敵と決戦をするつもりもない。我々の目的は情報の信頼性を損ねることにある」
「情報の信頼性?」
「左様。あやかしを見ることのできる十兵衛様ならわかるはずだ。作戦の場で『見えない者』と足並みをそろえることがどれだけ難しいということが」
道順の言葉に十兵衛は頷く。――いや、十兵衛だけでなく隣の栗斎らも神妙な顔で頷いていた。頷いていたのは皆あやかしが『見える側』の人間である。
彼の言う通り『見えない者』にあやかしや妖術といったものを納得させるのは想像以上に難しいことであった。なぜならそれが見えないからだ。どれだけ恐ろしい悪霊も、危険な術も見えない者からすればそれは無と変わりない。ゆえに大事なお役目の場でも信じてもらえず真剣に動いてもらえない。十兵衛たちがそういった認識のズレに苦しんだことは一度や二度ではなかった。
もちろんプロならば多少の疑問は呑み込んで行動することもできるだろう。しかしそれも情報源との信頼関係がある時の話である。
「敵のすべてがあやかしを見れる能力者ということはありますまい。また妖術と武術を両立しているような者も滅多にいない。つまり襲撃者と術式の観測者は別ということ。そんな観測者に虚偽の情報を伝えれば……」
「虚偽の情報をつかまされた観測者は襲撃者に誤った情報を教える。襲撃者側からすれば当てが外れた……いや、罠に嵌められたと思うかもしれませんね」
「左様。そうなればもう両者の間に信頼関係はなくなる。もちろん完全に決別するほどではないでしょうが、それでも一歩目は遅れてしまう。だがそれで十分。我々の目的は件のお方を江戸まで無事にお連れすることですからね。ゆえに余計な犠牲を出す必要もない。では誰が囮役に最適かと言うと……」
「某ということですか……」
十兵衛は一行の中でも数少ない、妖術にも武術にも対抗できる人物である。確かに彼が引き受ければ部隊の損害は最小限に抑えられることだろう。
しかしそれはあくまで道順側の都合である。矢面に立たされる以上失敗すれば当然命はない。そんな危険なお役目を、単に救援として来た十兵衛が引き受ける義理が果たしてあるのだろうか?彼の主君は将軍・家光であり、朝廷でも京都所司代でも、ましてや道順でもないのだ。
(確かに某が最適ではあろう。しかし某でなければならないわけでもない……)
「どうか頼まれてくれませぬか、十兵衛様……?」
「……」
道順の策は悪いものではなかった。しかし十兵衛は彼の要請に重い沈黙をもって返答とした。
(悪い案ではない。しかしそんな危険なお役目を、俺がしなければならないのだろうか……?)
護衛任務成功のために道順から出された囮の提案。それを十兵衛は沈黙という形で拒否していた。
もちろん十兵衛にも任務を成功させたい想いはある。しかし十兵衛の主君はあくまで家光であり、幕府とも柳生庄とも関係ない場所で、誰とも知れぬ相手に命を張れるほどお人よしでもない。二人の立場の違いは重い沈黙となって両者の間に横たわった。
「十兵衛様……!」
「……」
十畳ほどの部屋には息も苦しくなるほどの沈黙が満ちていた。
それを唐突に打ち破ったのはゑいであった。彼女は部屋を満たす不穏な空気を壊すかのように、パンと一つ柏手を打った。
「まぁ睨み合いはそのくらいにしておけ。各々立場があれば、そう簡単に振れぬ首もあるだろう。ならばここは一つ、一番力のある者が音頭を取ってやるのが温情というものではないか?」
「姫君、何を……?」
「水は高い所より流れる。わからぬわけではあるまい。のう、小僧?」
ゑいが試すような視線を向けたのは、ここまで一度も発言せずに見守っていた覆面の貴人であった。つまるところゑいは、この場で一番位が高いこの人物に正体を明かして仕切るように命じたのだ。
「いや、姫君!そのお方は……!」
意図を解した道順は動揺するが、ゑいはすぐさまそれを制する。
「黙っておれ。このままでは埒が明かんだろう。何かを頼むにはそれなりの道理が必要だ。今この場でそれを示せるのはこいつしかおるまい?お前とてわかっているのだろう?」
ゑいはぐいっと覆面の貴人を覗き込む。対し彼はバツが悪そうに口を紡いだまま目を逸らした。
「……」
「だんまりか。それともあれか?
覆面の下の顔は見えないながらも、かの人が決断を迫られ身を固くしているのは感じ取れた。そこからしばらく十兵衛たちの時とはまた違う沈黙が部屋を満たしたが、やがて覆面越しの溜め息によってその沈黙は破られた。
「……そうですな。確かに顔も見せずに身代わりになれというのは、少々筋が通っておりませぬな」
どうやら彼も自身の正体を明かすことが最善であると判断したようだ。彼はゆっくりと覆面の紐を解く。
そうして現れたのは育ちのよさそうな四十代くらいの男であった。彼は部屋に集まった一行の顔をざっと眺めたのち、恭しく頭を下げた。
「いまさらながら名乗らせていただきます。某は武家伝奏にして正二位・中宮大夫様に仕える者――
「正二位……中宮大夫……!」
ざわめく室内。予想はしていたが、やはり護衛対象は朝廷の高官に仕える人物だった。当然この中の誰よりも公的な位は高い。
そして雅親は今回の旅の目的も白状した。
「此度はとある火急の件で、江戸御公儀と協議するために江戸を目指している次第にございます」
「協議?いったい何の……」
「それは……言葉にするのもはばかられますが、
「高仁殿下……?」
「名前に覚えがなくとも聞いたことくらいはございましょう。二年前に御生誕なされた現天皇の御子息にて次期天皇候補。そしてその母親は中宮であらせられる
十兵衛はしばらくその言葉の意味が呑み込めなかったが、やがて意味に気付くや今度は驚愕で言葉を失った。
彼が名を挙げた
そんな人物が急死した。幕府と朝廷の仲がぎくしゃくしている今、この情勢の渦中でだ。
十兵衛が事の重大さに絶句している隙に、もう少し
上で述べた通り、高仁親王は現天皇である後水尾天皇と二代将軍・秀忠の五女・和子との間にできた皇子であった。
彼の誕生は今から約一年半前の寛永三年十一月十三日。つまり現時点でまだ二歳にも満たない幼子であったが、周囲の大人たちは皆彼を次期天皇に据えるべく動いていた。具体的には彼は数えで四歳になった時に天皇の地位を譲渡――譲位されることとなっていた。
四歳で譲位と聞くと異様な早さに聞こえるだろうが、実際異例中の異例と言ってもいい。それがまかり通っているのは、それが幕府・朝廷双方にとって望ましいことだったためである。
まず幕府側としては、早々に天皇の地位を確保することにより余計な横槍を防ぐ思惑があった。というのも後水尾天皇の妻は和子だけではなかったからだ。もし先に他の妃たちが男児を生んでいれば、その子が次期天皇になっていてもおかしくはなかった。特に和子はすでに二子を出産しており、そのどちらもが女児だったのでそれに対する危機感は常に持っていただろう。そのため待望の男児である高仁が生まれるや、幕府は早速彼が天皇の地位に着けるように動き出した。
この動きは実は天皇側にとっても悪い話ではなかった。高仁に帝位を譲るということは、現天皇は上皇となるということだ。どうせこのまま天皇の地位についていたところで幕府からの口出しは止まらない。ならばさっさと高仁を緩衝材に置き、改めて上皇として政治的基盤を作り直した方が合理的である。
そんなわけでこと高仁親王の譲位に関しては、珍しく幕府と朝廷の思惑は合致。両者はともに譲位に向けて歩みだし、そして多くの人はこれをきっかけに幕府と朝廷の関係が改善されることを期待した。
そんな中で高仁親王は急死した。亡くなったのはほんの数十日前の寛永五年六月十一日。享年は一歳と七か月であった。
大まかなことのあらましを聞かされた十兵衛は、その運命のいたずらに軽くめまいを覚えた。
「……確か殿下は来年には譲位をなさる予定でしたよね?」
「ええ。京では隠居用の屋敷なども造られていたというのに……いえ、今それは関係ありませぬね。ともかく多くの人たちが平和裏に譲位が行われると思っていた。……あるいは信じたかった」
「しかしそうはならなかった」
「運命とは非情なものです。……そして我々はそれに嘆く暇すら許されてはいない。目下の問題は、この件に関して根も葉もない悪い噂が流れているということです」
「悪い噂?それはどのようなものですか?」
十兵衛の問いかけに雅親は皮肉めいた笑みを見せた。
「言わせる気ですか?だいたいわかるでしょう。京と江戸との仲が険悪な中、譲位を翌年に控えた殿下が亡くなられたのですぞ。それはもう……馬鹿げた噂ばかりですよ……」
そして雅親は大きくため息をついた。
確かにこんな絶妙なタイミングで絶妙な人物が亡くなったのだ。誰であれ噂せずにはいられないだろう。
『高仁殿下は、徳川の血が入ることを良しとしない朝廷側の誰かが手を下したのではないか』と。
「そんな……馬鹿な……」
「ええ、まったく、根も葉もない馬鹿な噂です。……ただまぁ中立的な目で見れば不審に思う者がいてもおかしくはない。あるいは立場上疑わざるを得ないという面もあるのでしょう。江戸の御公儀は某らに詳しい事情の説明を求めた。それくらいは仕方のないことです。だから某らはそれに応えて江戸に向かっている。それがこの旅の目的です。ですが……」
「ですが……?」
「貴殿も相対したのでしょう?某らを邪魔してくる者たちがいる。京と江戸が協議するのを望まぬ者がいるのだ」
雅親の冷たい口調にゾッとする十兵衛。事情を知った今、あの襲撃者たちがどれほど恐ろしい存在だったのかを理解した。
もし彼らの襲撃が成功して幕府と朝廷の会談が行われなかったら、もし高仁親王の件で誤解が解けなかったら、それは幕府と朝廷の決定的な決別へとつながるだろう。そしてそれは戦乱の時代の再来を意味する。戦火が平穏を焼き尽くす時代が再度やってくるということだ。
事情がはっきりとしたところで、改めて道順が口を開いた。
「聞いての通りです、十兵衛様。我々は最善を尽くすしかないのです。もし失敗すれば各地でまた戦火が上がる。そしてその火は我々の大事な場所さえも燃やし尽くしてしまうかもしれない。それを防ぐためにも十兵衛様のお力が必要なのです」
道順の熱弁に、十兵衛は今度こそ迷うことなく頷いた。
「浅慮を恥じるばかりです。某も身命を賭してお役目を全ういたしましょう」
「では囮役の件は……」
「謹んでお受けいたします」
雅親の交渉が失敗すれば江戸が、あるいは柳生庄が火の海になるかもしれない。それを防ぐためならば断る理由もない。
こうして十兵衛は護衛任務を成功させるために囮役――雅親の身代わりとなることを承諾したのであった。
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