柳十兵衛 囮となる 1
十兵衛たちの護衛の旅は順調に進んでいき、三日目にして伊勢国・桑名宿と尾張国・宮宿とをつなぐ海路『七里の渡し』に到着した。
ここで彼らは三組に分かれて船に乗り宮宿へと向かう。
十兵衛たちの班は一組目、先鋒として船に乗り、四時間半ほど船に揺られたのち尾張国へと降り立った。
おおよそ四時間半の船旅を経て、十兵衛ら先発隊は本隊より先んじて尾張国・宮宿の船着き場に到着した。
「んん……!長い船旅だった……!」
船から降りた十兵衛たちは他の人たちの邪魔にならないよう適当な建物の壁際まで行き、凝り固まった体をうんと伸ばした。そしてそれと同時にさりげなく周囲の気配を探る。彼らのお役目は後続のためにここ宮宿の安全を確保することであった。
(パッと見たところ監視等はいないようだな。……いや、一人だけこっちを見ているな)
十兵衛は通りの反対側からこちらに視線を向けてくる男を見つけた。それは同じ船に乗っていた山伏の格好をした百地の忍びで、彼は十兵衛と目があうや小さく頭を下げてから人混みの中に消えていった。おそらく自分たちはもっと広い範囲を警戒するから船着き場周辺は任せるといった意図だろう。隣の与六郎も同じように解釈したようだ。
「周囲の安全確保は彼らに任せて、某らはここで牢人や妖術使いの警戒に努めましょう。……四郎五郎殿もまだ動けないようですしね」
幸いと言っていいのかはわからないが、一行の中には船酔いで完全にダウンした四郎五郎がいた。彼の顔が青いうちはここに留まっていても不審がられることはないだろう。
これを聞いた康成はにやにやと笑いながら四郎五郎を茶化した。
「聞いての通りだ。だからもう少し青い顔をしておけよ、四郎五郎」
「……言われなくてもやってますよ」
青い顔をしながらツッコむ四郎五郎。彼には悪いが、どうやらもうしばらくはここにいても大丈夫そうであった。
ここで少し現在彼らがいる宮宿について説明しておこう。
七里の渡しの東岸側である宮宿は別名
同時にここは名古屋城から二里と離れておらず、少し北に目をやればその天守を拝むこともできるほどの距離にある。そしてその城主は尾張徳川家の祖にして徳川家康の九男・徳川義直。つまり宮宿は交通の要所にして、熱田神宮の門前町にして、徳川家のお膝元――そんな宿場であるということだ。
そんな環境ゆえにこの地には方々から様々な人たちが集まっていた。例えば七里の渡しを渡って江戸や駿府に向かう者。逆にこれから京都や大坂に向かう者。あるいは熱田神宮や尾張の城下町を目指してここまで来た者もいるだろう。
見た目や格好も様々で、十兵衛たちのように立派な旅装束に身を固めた武士がいると思えば、近くの店からひょいと出てきたような着流しの奉公人がいたりする。これから霊山にでも向かうのだろうか無口な山伏の集団が目の前を足早に横切り、芸人が小銭稼ぎに波止場の一角で長口上の芸を始めだす。若い船乗りが次の船の準備ができたぞと叫びながら歩き、とある老船頭は一仕事終えたのか桟橋の端の方でのんびりと煙管をくゆらせている。そんな人混みの合間を地元の棒手振りたちはするすると抜けていき、対照的に波止場の警護を任されている与力たちは自分の持ち場にじっと立ち不審者に目を光らせていた。
黒山の人だかりとはこういった光景を言うのだろう。何十という人たちが十兵衛たちの前を通り過ぎていく。やがて康成は流れていく人の顔に酔ったかのように顔をしかめた。
「……尾張の城が近いだけあって本当に人が多いですな。どこに目を向ければいいのかわからないくらいですよ」
「ああ、まったくだ。幸いなのは地元の警備が多くいることだろうか。牢人程度なら彼らに任せてもいいだろうな」
交通の要所なだけあって、波止場を含めた宿場には数多くの警備の与力が立っていた。彼らは辻ごとに持ち場に立ち、六尺棒を片手に怪しい者がいないか道行く人たちに目を光らせている。彼らがいるならば金で雇われた牢人程度なら何とかしてくれるだろう。むしろ十兵衛たちは自分たちが不審者として連行されないように気を遣ったくらいである。
「牢人の心配は必要なし。となると気を付けなければいけないのは、未だ姿を見せていない妖術を使う一派ですか。……どうですか、十兵衛様?不穏な術の気配はありますか?」
与六郎の質問に怪異改め方である十兵衛は首を横に振る。
「まったく感じんな。正確に言えば水難除けのまじないがちらほらと感じられるくらいだ」
「水難除け?」
「ほら、新しく家を建てる際に地霊を鎮めたり、怪しいところを進む前に九字の印を切ったりするだろう。それと同等の、ちょっとした不浄祓いのまじないだ」
与六郎は「ああ、あれですか」と納得した。こういった場で安全祈願のまじないがかけられている例は珍しくはない。
「ということは妖術を使う敵も近くにはいないと見てもいいということですか?」
「いや、まだ断言はできない。俺が感じ取ることができるのは発動中の術だけで、発動前の術式の感知はできない。極端な話その時が来るまで物陰に隠れ、相手が現れるや居合のように瞬間的に術を使われたら防ぎようがない」
「なるほど。それを防ぐにはどうしたらいいんですか?」
「……怪しい奴が護衛対象に近付く段階で止めるしかない」
「……つまり普通に護衛するしかないと?」
「まぁ身も蓋もないことを言うとそうなるな」
苦笑する十兵衛。結局それは妖術関係なく普通の護衛の仕事である。だが他に手がないのだからしょうがない。
「とにかく今はそれくらいしかできることがないんだ。まぁ本隊が見えたら動き出すかもしれないから、それまでは適度に英気を養っておくといいだろう」
十兵衛はそう言うと近くの棒手振りを呼び止めた。本腰を入れるのは本隊が到着してから。彼らには串団子を買って食うくらいの余裕があった。
さて、十兵衛たちが宮宿に到着してから早くも半刻ほどが経とうとしていた。その間数えきれないほどの人たちが彼らの前を通り過ぎたが、幸い誰かを襲おうとしている不届き者は一人もいなかった。この調子だと本隊が乗った船が到着するまでは楽な監視が続くことだろう。
そんな若干手持ち無沙汰の中、三本目の串団子を食い終えた康成が何気なく呟いた。
「そういえば尾張での護衛の引き継ぎはないんですね」
「ん?どうした急に」
「いえ、今回の旅って伝馬のように途中途中で護衛役が変わるじゃないですか。だったら位置的にここで次の護衛役に引き継いでもよかったんじゃないかと思いましてね」
康成が呟いた通り、今回の護衛任務は大きく三区画に分かれており、区画ごとに担当する護衛も入れ替えていた。具体的には京都から近江・甲賀までは甲賀の忍びが、甲賀から駿河・駿府までは十兵衛たちを含めた伊賀の忍びが、そして駿府から江戸までは江戸からの使いが護衛することになっていた。
これは言葉にすれば単なる三区画であったが、実際の距離には大きな
これを康成が言った通り七里の渡しで分割すると、道程はおおよそ100キロと150キロとなり収まりのいい配分となる。しかしこの案は取られなかった。思えばこの件に尾張は不自然なほどにかかわっていなかった。
「言われてみれば少し変だな。尾張ならば護衛に出せる人材がいないということもないだろうし、何か事情でもあったのだろうか?」
不思議がる十兵衛たち。それにやや冷ややかな口調で答えたのは与六郎であった。
「……そう不思議がることでもないでしょう。今回の件は政治的に非常に重要との話。ならば江戸が尾張を遠ざけたいのも道理かと」
「む?どういうことだ?」
「つまり……、はっきりと申し上げれば江戸は尾張が重大な情報を得て、それを利用して敵対するのを恐れているということですよ」
与六郎の考えにギョッとする十兵衛たち。
「なっ!?そんな数年前ならいざ知らず、まさかいまさら下克上だなんて……」
尾張が江戸と敵対するかもしれない。
これが数年前の話なら十兵衛たちも少しは信じていたかもしれない。というのも尾張と江戸の間には三代将軍の座を巡る浅からぬ因縁があったからだ。実際四、五年ほど前は似たような噂をよく耳にしていた。
しかし所詮噂は噂。家光が将軍宣下を受けてからもう五年以上が過ぎており、その政治的基盤も当初とは比べものにならないくらいに強固なものになりつつある。そしてこの間義直らが不穏な動きを見せたという話は聞かない。もし今仮に「尾張の殿様が下克上を狙っているぞ」なんて噂が出てきたとしても、それを素直に信じるのはおそらく少数派だろう。
にもかかわらず与六郎は、幕府は尾張を信用してないだろうと言い切った。
「猜疑心に終わりなどありませんよ。特に尾張は血筋的にも地理的にも江戸に匹敵するほどですからね。警戒などしてもし足りないはずです」
「だから身内同士でも疑うと?しかし仮に情報一つ得たとして、それでひっくり返るような江戸ではなかろう」
「いえいえ。大坂の方では未だ江戸御公儀は盤石ではないと考えている人は結構な数おりますよ」
与六郎曰く、大坂はつい最近まで豊臣政権の中心地だっただけあって政治の動向に敏感な者が多いらしい。そしてそんな彼らによると徳川政権はまだまだ安泰ではないという。例として幾つか懸念点を挙げれば、各地であぶれる牢人問題。政権中枢の世代交代。他にも家光に未だ実子がいないことも将来的には問題になるだろうとのことだった。
以上のことより、江戸幕府はまだまだ盤石ではないと言える。そして盤石でないということは、その地位を脅かす恐るべき存在がいるということだ。今回の場合は尾張の義直がそれにあたる。彼が下手に力を得れば、今の体制が破壊されかねない。それゆえ江戸御公儀は尾張に協力を要請することができなかったというわけだ。
「むぅ……確かに筋は通っているようだが……」
与六郎の解説に微妙に納得のいってない表情をする十兵衛。彼が挙げた幾つかの懸念点は十兵衛も認めてはいたが、それが幕府をひっくり返すまでのイメージまではわかなかった。
いまさら下克上だなんて戦国の時代に捕らわれた者の妄想ではないだろうか?だが逆に、危機感のなさは太平の世に生まれた世代がゆえかもしれない。
一体何が正しいのか。複雑になりそうな話に十兵衛は面倒そうに頭を掻いた。
「なんと言うか……立場が違えば考え方も違うのだな……」
「まぁ今のはあくまで某の推察です。現実はもっとくだらない理由なのかもしれません。確実なのはこの護衛任務に尾張が参入していないこと。そして参入してないながらも、気にはなっているということでしょうか?……気付いてますか、十兵衛様?先程から何人か、尾張の忍びが某らを監視をしているということに」
「なにっ、監視だと?」
十兵衛は慌てて、それでいて顔に出ないように冷静に周囲の様子を探る。しかしそれらしい者は見つけられない。
「……本当に監視はいるのか?」
「手練れが数人。距離もありますので感じ取れなくても仕方がないでしょう。某も先程偶然気付いたばかりです」
十兵衛はもう少し気配を探ってみるも、やはりその姿は確認できない。だが与六郎が言っているのならば本当に監視がいるのだろう。
「どんな様子だ?」
「どうと言われましても、あれは文字通り単に監視をしているだけですね。悪意や敵意もない、おそらく牽制としての監視でしょう」
「牽制?」
「ええ。『無事に通過してくれよ』という牽制に、『こちらは無関係なんだから責任は取らないぞ』という牽制でしょうね」
与六郎曰く、現段階で尾張が一番恐れていることは、尾張領内で十兵衛たちが失敗した際に道中の管理不届きとしてその責任を追及されることだという。
理不尽かもしれないが各地の大名はその地の安全を維持する義務があるため、道中で問題が起きれば責任問題となり、最悪転封改易となることも珍しくない。特に今回は朝廷もかかわっているため、事件次第では一人二人の首でも足りない話になるかもしれない。
だが協力の要請が来ていない以上表立って手を貸すことはできない。無許可で近付けば、それこそ敵なのではないかといらぬ嫌疑をかけられかねない。
「それゆえの『単なる監視』です。つまり『協力はできないが見ているぞ』、『無理に責任を押し付けようとしても、きちんと見ているぞ』というね」
「要は向こうも向こうでこっちを信用していないということか。まったく、無常だな……。それで?その監視とやらは放っておいてもいいのか?」
十兵衛の質問に与六郎は肩をすくめて首を振った。
「百地の方々が放っておいているなら、こちらもそれに倣えばいいでしょう。互いに揉め事は避けたいはずですから変なことにもなりますまい。それより……どうやら次の船のようですね」
与六郎が波止場の群衆に目をやると、そこには先程見かけた山伏の格好をした百地の忍びがいた。
彼は与六郎と目があうや素早くハンドサインを出す。解読した与六郎によると、本隊の先導はこちらが行うから襲ってくる者がいないか見張っていてほしいとのことだ。
「なるほど。それでどう動けばいい?」
「船着き場を囲むように散りましょう。これならば襲撃されても最低一人が対処できます」
与六郎の指示通り十兵衛、与六郎、善祐、康成の四人は船が着く桟橋を囲むように人混みに紛れた。また腕前が劣る常隆と四郎五郎の二人は十兵衛たちの荷物番と、万が一の際の尾行要因として波止場の入り口付近に立たせた。百地の忍びたちも各々位置に着いている。
そんな警戒態勢の中、本隊の乗った平田船がようやく船着き場に姿を現した。
「では皆様方、足元にお気をつけてお降りになってください」
船頭が桟橋に渡り板をかけると、早速百地の忍びが一人降りてきた。彼は桟橋に降り立つや素早く周囲を見渡し、例の山伏に扮した同僚を見つけるとすぐに駆け寄った。そして彼らは熱心に何かを話し合う。
(……何だ?船で何かあったのか?)
単なる現状の確認なら一言二言で済むはずだ。だが見れば二人は真剣な顔で何かを話し合っており、そしてその間彼以外の護衛仲間は未だ船から降りてくる気配がない。
何かがあったのは明白だろう。しかし警護の持ち場を離れるわけにもいかないため十兵衛は歯噛みしながら伝令の報告を待った。
(もし本当に大惨事が起こっていたらこちらにも報告が来るはずだ。それまではここで自分のお役目に専念すればいい)
しばらくして無関係な客が全員降りると、ようやく道順たち本隊も船から降りてきた。彼らの中には疲れた顔をしている者もいたが、それが船上で起こった事件のせいなのか、それとも単に長い船旅によるものなのかはわからなかった。
その後彼らは先発隊の忍びに案内されて安全な場所へと連れて行かれたのだが、このあたりでようやく十兵衛たちにも計画に変更があったことが伝えられた。
「十兵衛様、伝令です。これから我々はすぐに次の宿場へと向かいます。十兵衛様たちには再度先頭に立ってもらいたいので、すぐに準備に取り掛かってください」
「えっ。後続は待たないのですか?」
「はい。我々は三組目を待つことなく次の宿場へと向かいます」
今回十兵衛たちは三組に分かれて七里の渡しを渡る計画を立てていた。十兵衛たちが一組目の先発隊で、今しがた上陸した本隊が二組目。そして最後の三組目が到着、合流してから宮宿を出る予定だった。
しかしその計画は変更され、三組目を待つことなく一行は次の宿場へ向けて出発するらしい。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「申し訳ございませんが、急いでおりますゆえ今はご勘弁を。後々改めてお伝えする機会もございましょう」
こう言われれは十兵衛もこれ以上訊くわけにもいかない。腑に落ちないながらも彼らは急いで荷物をまとめて部隊の先頭に立った。
ふと振り返れば疲れた顔をした護衛仲間たちが見える。彼らからすれば窮屈な船旅ののち休憩なしでの出発である。そんな顔になっても仕方なかろう。
「……これは出発しても大丈夫なのか?」
「確かに皆お疲れのようですが、やむにやまれぬ事情があるのでしょう。とりあえず某らは指示通りに進むだけです」
百地の忍びはすでに進行の合図を出していた。十兵衛たちはそれに従いあわただしく宮宿を出た。
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