植田与六郎 追手に狙われる 3
監視していた男たちは慌てて追ってくるが、それは
だがこれに怒った追手の一人が秘薬である黒い丸薬を服用したことで状況は一変。怒涛の勢いで一行に迫り、そして男の凶刃が綱二の腹部を大きく切り裂いた。
背後を確認していた与六郎は、残党の凶刃が綱二の腹部を掻っ捌くのをその目にしっかりと写していた。
「つ、綱二殿ぉぉぉ!!!」
与六郎は叫び、すぐさま助けようと足を止める。
しかしそれも一瞬で、彼は舌打ち一つすると反転し、後ろの惨劇に立ちすくんでいる弥彦郎の肩を乱暴に叩いた。
「何をしている!?走れ!走らなければ殺されるぞ!」
「えっ……でももう一人の奴は……」
「あれはもう助からん!助からんのだ……!」
与六郎は若いながらも忍び仕事の中で多くの死を目撃してきた。その経験から言って綱二の傷は助かるようなものではない。ならばここは彼に構わず逃げるのが最も合理的であった。
一見すると非情な判断に思えるが、もちろん与六郎に情がなかったわけではない。情よりも任務を優先するのが忍びの世界である。この時与六郎は歯が割れんばかりに食いしばりながら、弥彦郎の袖をつかみ早く走れと檄を飛ばしていた。
(許せよ、綱二殿!)
与六郎は弥彦郎の尻を叩きながら撒き菱を納めた袋を取り出し、それを一斉に背後にばら撒いた。本来撒き菱は敵が通る経路の一部に不意打ちするように撒くものだが今回は隙間なく、百歩歩けば百回踏むように敷き詰める。このくらいしなければ相手は止まらないだろうと見ての判断だ。
(これで少しは怯んでくれたらいいのだが……!)
だがこの考えすら甘かった。綱二を仕留めた追手の男はそのまま狂気の表情でこちらへと駆けてくる。
「次はお前だぁっ!弥彦郎っ!!」
(くそっ!止まらない!あの丸薬には体を固くする効果もあるのか!?)
男は撒き菱を撒いたはずの道を問答無用で走ってくる。与六郎は彼の足裏が固くなったのかと推察するが、実はそうではない。男の足の裏にはしっかりと幾本もの撒き菱のトゲが刺さっており、それに伴う流血も裂傷も起きていた。だが薬による高揚感がその痛みを麻痺させていたのだ。
「く……っそ!この痴れ者がっ!」
与六郎は苦し紛れに綱二も使った鉛玉を投げる。しかし追手の男はこれを紙一重でかわし、その勢いで大きく与六郎らに飛び掛かった。その手には綱二の血で濡れた脇差が握られている。
「しゃあぁぁらぁっ!!」
「マズい!」
直感的にこれは危険だと感じ取った与六郎は弥彦郎を横から蹴り飛ばし、自身もその勢いで道の反対側に飛んだ。そうして二人がいなくなったところに男の脇差が叩きつけられる。
「……んあ?外したか?くへへ、いけねぇいけねぇ。もっとよく狙わねぇとな」
男はしばらくしてから自分が誰もいない地面を叩いたことに気付き、頭をふらふらさせながら不気味に笑った。その目におおよそ正気はない。おそらく薬の効果と無意識下の痛みで錯乱しているのだろう。まもなく限界が来ることは誰の目から見ても明らかであったが、それまで逃げ切れるかはまた別の話である。
「くっそ……!弥彦郎!逃げろ!早く立って走るんだ!」
「あ、あぁ……」
「何をしている!早くしろ!死にたいのか!?」
叫ぶ与六郎であったが道脇に蹴飛ばされた弥彦郎は腰が抜けたのか、ただ目を見開いて震えているばかりであった。そしてその眼前に追手の男が立つ。
「くはは。今度は外さないぞ、弥彦郎」
「あぁ……あぁ……」
「くそっ!この馬鹿野郎が!」
与六郎は飛び起き小刀、棒手裏剣、鉛玉を手当たり次第に投げる。だが痛みに鈍感になっている男にはまるで効果がなく、その間に彼は改めて脇差を天高くに掲げた。
「死ね!裏切り者が!」
「あ……あぁ……」
「くそっ!逃げろ!逃げろっ!」
だが与六郎の叫びむなしく、男はまっすぐに血塗られた脇差を弥彦郎の脳天に振り下ろした。
またも与六郎の眼前で男の凶刃は振り下ろされた。
男が振り下ろした脇差は弥彦郎の頭蓋骨を割り、鼻のあたりにまで達した。それを受けた弥彦郎は目玉をぐるりとさせ、鼻と口から血を噴き出し、そして「へぎょっ」と間抜けな断末魔を上げたのちその場に倒れた。脇差が彼の頭から離れる際、ぱっくり問われた傷口からは白い頭蓋骨と薄灰色の脳味噌がぼろぼろとこぼれ落ちていた。もはや誰が見ても弥彦郎が死んだのは明らかだった。
「ふ……ふはははは!どうだ、これが俺たちを裏切った報いだ!わかったか?なぁ返事くらいしてみろや!」
弥彦郎を殺した追手の男は満足そうな笑みを浮かべながら、ざすざすと彼の死体に何度も脇差を刺す。余程鬱憤が溜まっていたのだろう、その行為はもう一人の追手が合流して声をかけるまで続けられていた。
「おい!何してる!?まさか殺しちまったのか?こいつはまだ殺すなって指示だっただろうが!?」
男はズタボロの死体を見て顔を青くする。彼らは弥彦郎がどれだけ情報を流出させたのか把握するために生け捕りにするようにと命じられていたのだ。
「んあ?……あー、そうだったか?まぁいいじゃねぇか。こんな小者、どうせたいしたことはしてねぇよ」
「くそっ!孝蔵さんにはお前が説明しろよ!……それともう一人いたやつはどうした?」
「もう一人?……あー、そういえばなんかもう一人鬱陶しいのがいたな。確か後ろの方でいろいろやってたようだが……」
溜飲が下がった男はもう一人の邪魔をしてきた奴――与六郎が残っていたことを思い出し振り返ったが、そこにはもう誰もいなかった。
「逃げられたみたいだな」
「みたいだなじゃねぇよ!あいつはどう考えても柳生家が寄越した護衛だろ!むしろあいつこそ殺しとくべき奴じゃねぇか!」
「そう
そこまで言ったところで弥彦郎を殺した男はその場にバタンと倒れた。
「なっ!?おい、どうした!?大丈夫か!?」
「あ……ぐ……あ……!い、痛ぇ!!く……そ……!体中が痛ぇ!!」
どうやら薬の効果が切れたのだろう。これまでアドレナリンで抑えていた痛みが一気に男に襲い掛かる。
その怪我はわかっているだけでも顔面骨折に口唇付近の裂傷。また背中には棒手裏剣が、足裏には撒き菱のトゲが刺さっている。それら痛みが一度にぶり返したのだ。男はあっという間に泡を吹いて気絶した。
「お、おい!どうした!?しっかりしろ!……畜生!なんだってんだよ、もう!」
残された男は慌てて来た道を戻り仲間たちとの合流を急ぐことにした。
そしてこの間に与六郎は残党らの包囲を抜けて柳生庄まで帰還することができた。
監視の目が途切れたことで一人柳生庄に戻ってくることができた与六郎。その心中には深い傷を負ってしまったが、それでも彼は気丈にここまでのことを三厳に報告した。
「そうか。弥彦郎は殺されたか……」
「申し訳ございません!完全に某の不手際でした……!」
伏せた顔に無念の思いをにじませる与六郎。そこに三厳は気に病む必要はないと労いの言葉をかける。
「気に病むな。もとより搦め手程度にしか使えんと思っていた奴だ。末路がわかっただけでも儲けと思えばいい。……それよりも綱二と言ったか?その者の方こそ残念だったな」
綱二の名が出ると与六郎はキュッと喉の奥を締めた。
「俺は会ったことはなかったが、どのような者だったのだ?」
「はい……。綱二殿は元は近江のとある寺に捨てられた子でして、その才を見出した伊賀の者が養子として迎え入れたとのことでした……」
綱二は元は捨て子で伊賀出身の者ではなかった。だが絶え間ぬ訓練でその才覚を伸ばし、その後伊賀の因習のない大坂の地で与六郎の部下として台頭してきたところだったという。
「出自や年の長幼など気にせずよく働いてくれる方でした。里の年長者たちからの覚えもよくなってきており、まもなく大きな仕事も任されることだろうというところを……残念です」
「そうか。惜しい者を亡くしたのだな。かの者の親族にはよく見舞金を出しておこう。……だがその前にしておかなければならないことがあるな」
「残党たちの事ですね」
三厳は引き締まった顔で「ああ」と頷いた。
与六郎の報告により旧坂崎家の残党たちが柳生庄のかなり近いところにまでやってきていることがわかった。
彼らが柳生庄を襲うのか、それともここを無視して江戸に向かうのかは不明だが、どちらにせよ里を守る準備は整えておかねばならない。三厳はすぐさま下男らを走らせ、里の主要な譜代に集まるように指示を出した。
この急な令に柳生家譜代たちは四半刻と経たぬうちに柳生屋敷に集結。早速ふすまをあけ放った十六畳の大広間にて軍議が開かれる運びとなった。三厳はずらりとならんだ引き締まった表情の譜代たちの前に立ち一礼した。
「此度は急な招集にもかかわらず迅速に集まってくれたことに感謝する。聞き及んでいる者もいるだろうが、現在この柳生庄近くに旧出羽守の残党らが集結しているとの情報が入った。奴らがこの里を襲うかはまだ未知数だが、防衛のための準備はしておかなければならない。これはそのための軍議であり、皆の忌憚なき意見を期待している」
三厳が再度礼をして締めると、それを継いで与六郎や代官の頼元らからさらに詳しい説明がなされた。あらかた情報を共有したのちは互いに気になったところを質問し合う。
「相手の規模はどのくらいか?」
「以前之平様が持ち帰られた資料によりますと残党らは二十一人確認されておりました。うち三人は捕らえましたが、ここから他の旧家臣や牢人を加えて増えている可能性は十分にあります。とはいえ唐突に大所帯になるとも思えませんので、多くても三十人を少し越える程度だと思われます」
「三十人前後か……。烏合の衆とはいえ、それだけの数で一気に来られたらかなり面倒なことになるな」
「加えて奴らには例の丸薬もありますからね。牢人とはいえ侮らない方がいいでしょう」
警戒する一同であったが、そんな中ある一人の家臣がおずおずと発言のための挙手をした。
「そもそもなのですが、奴らは本当にこの里を狙ってくるのでしょうか?奴らの復讐の相手は江戸におられる宗矩様たちです。この地を襲う利はあまりないように見受けられますが……」
確かに実利だけ見ればそういう考え方もある。だがこれに与六郎は首を振る。
「奴らは裏切り者の弥彦郎とこちらの部下を一人手にかけております。そのことで気が大きくなって攻め入ってくる可能性は十分にあると思われます」
「なるほど、浮かれ調子で襲ってくる可能性もあるということか。まったく、厄介な連中だ」
「まぁ準備をしておくに越したことはないでしょう。何も起こらなければ笑い話にすればいいだけの話ですからね」
「そういうことだ。ではそろそろ具体的な配置について話そうか……」
こうして柳生屋敷での軍議はその日の遅くまで続けられた。
さて、柳生家家臣らが残党らを迎え撃つ準備を進めていた同時刻。この時当の残党らは東大寺より一里ほど南西にある、大安寺近くの廃寺に集まっていた。
その数実に二十五人。これは元よりいた残党らに加え、噂を聞きつけて一暴れするために合流した牢人たちを含めた数である。彼らは数人ごとに輪になり非常に楽し気に酒盛りをしていた。
「ははは。さぁさぁ飲め飲め。前祝いだ!」
「お。そっちの酒も美味そうだな。こっちと少し交換しないか?」
「あぁどこかに琵琶でもないか?あれば俺が一曲弾いてやるというのに」
彼らがここまで盛り上がっていた理由は、裏切り者であった弥彦郎と彼を護衛していた推定柳生家家臣の綱二の二人を討ち取ったためである。実はこれが彼らにとって初めての戦果であった。
旧坂崎家の家臣らが徒党を組んだのはここ一二年の話である。彼らは口では柳生家への報復や幕府打倒を叫んでいたが、その実これまでやっていたことと言えば幕府に不満を持つ同士を集めたり、資金調達と言って表店に金をせびる破落戸まがいの行為ばかりであった。それがここに来ての首級二つである。彼らが「自分たちは戦えるんだ」と無駄に自信を持つには十分な成果であった。
「そう!御公儀とはいえ恐るるに足らず!俺たちの力で正しき戦乱の世を取り戻すのだ!」
酔った一人の高らかな宣言に周囲の者たちがおぉと沸いた。彼らのほとんどが十代二十代の若者で、そんな若者たちの熱狂を年嵩の者たちは遠くから複雑な表情で眺めていた。
「……いいのか、孝蔵?酒の席にしたって少々無謀が過ぎるぞ」
「ああ、わかってはいる……」
熱狂の輪から少し離れたところで徒党の頭領格・孝蔵は安酒を傾けていた。彼の周りには同じく三十代の古参たちが腰を下ろしている。彼らもまた弥彦郎と綱二の二人を始末したという報を聞いたときは歓喜したものだが、今は若い世代の異様な盛り上がりを見てすっかり興が冷めていた。
(俺たちの目標はあくまで江戸の古狸たちなのだがな……)
彼らの目的はかつての主君・坂崎直盛の仇討ちであり、その相手は徳川秀忠や立花宗茂、そして柳生宗矩と江戸に固まっている。つまり彼らが目指すべき第一の戦場は江戸であって、柳生庄を目指すのは寄り道以外の何物でもなかった。
だが若い世代はそう思ってはないようだ。彼らは柳生庄を『名を挙げられる絶好の戦場』として見ているようで、先程から「新陰流など目ではない」だとか「このまま一気に滅ぼしてやる」といった不穏な言葉が聞こえてくる。そのたびに孝蔵らはどうしたものかと眉根を寄せていた。
「いい加減に止めた方がいいんじゃないか?あのまま放っておいたら、あいつら本当に柳生庄にまで向かって行きかねんぞ」
「うむ。だが下手に水を差してヘソを曲げられても困るからな……」
孝蔵らにとって悩ましかったのは、この場に集まっている者の大半が噂を聞きつけて合流した後発組だったという点だ。彼らは一暴れするために集まった者たちで、年も若く直盛とのつながりもほとんどない。下手に水を差すようなことを言ってしまえば反発して徒党を抜けてしまう恐れがある。
(せっかく集めた戦力だ。出来ることならこの士気のまま江戸まで連れていきたいのだが……)
また単に抜けるだけならまだマシで、脱退した者が先の弥彦郎のように幕府に情報を流すかもしれない。そうなれば仇討ちはさらに難しいものとなるだろう。それだけはなんとしても避けたいことであった。
(せめて柳生宗矩があの里にいれば襲う道理もあったのだがな。今は嫡男がいるそうだが、嫡男と山奥の田舎侍を食ったところで殿の仇討ちにはならん)
酒盛りを始める前から孝蔵の中では柳生庄は無視する方向でほとんど決まっていた。しかしこうして若い世代の熱意を目の当たりにすると、それが正しいのかわからなくなってくる。そしてとうとう空気の読めぬ配下の一人が孝蔵にこれからどうするのか尋ねてきた。
「それで次はどうするんですか、孝蔵様?やはり柳生庄を襲うんですか?」
「うっ、それは……」
「もちろん襲いますよね?なにせ山奥にこもってるような連中だ。俺らの敵じゃないですよね!?」
若人たちの脂ぎったギラギラとした瞳が孝蔵に向けられる。孝蔵の中ではすでに答えは出てたはずだったが、彼らの悪い意味で純粋な瞳は孝蔵の考えを揺るがせた。ここで彼らの熱意に水を差せば、江戸までの道中で瓦解する恐れがある。
(若い目だ。あるいはこの若い力こそが戦場では必要なのかもな……)
そしてしばし悩んだ末、孝蔵はあきらめたように溜め息をついた。
「はぁ……わかったよ。お前たちの望み通り、次は柳生庄を襲うとしよう。ただし忘れるな?我らの目標はあくまで江戸の御公儀だ。柳生庄への襲撃は江戸までの路銀稼ぎ程度に考えておけ」
この決定に残党たちは大いに沸いた。彼らの目は一様に暴力と略奪に飢えた獣の瞳をしていた。
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