植田与六郎 弥彦郎を護衛する 2

 元坂崎家残党であった弥彦郎は、奮闘の甲斐あって柳生家と関わりのある忍び・与六郎と合流することができた。

 その際裏切った残党たちに監視されていることを知らされるが、与六郎の機転でこの監視から逃れて二人は波止場近くの小屋へと避難する。

 二人はこの小屋に隠れ、明日朝一で出港する山中屋の廻船にて大坂を目指す予定でいた。


 与六郎と弥彦郎、二人が隠れた小屋は波止場近くにある山中屋所有の小屋だった。広さは土間板間合わせて六畳ほどで、普段は備品倉庫として使っているのだろう、中には古いもやい綱や何かに使う板がそこかしこに置かれている。

 逆に言うとそれ以外の物はほとんど何もなく、唯一の窓も明かりを取るためにほんの少し開けられているだけで、しかもそこから磯の腐った匂いが流れ込んでくるという有様だった。そんな環境なためか、連れてこられた弥彦郎は終始不服、あるいは退屈そうにしていた。

「ふぅむ、何もないな。こんなところに明日の朝までこもらねばならんのか。……一応訊くが外に出てはいかんのだよな?」

 早速この場所に飽きたのか、のんきなことを言う弥彦郎に与六郎は釘を刺す。

「当たり前だろう。万が一監視していた奴らに見つかったらどうするんだ。一歩も外に出るな。窓にも近付くな。小便もそこの壺にしろ」

 そう言って与六郎はビシッと部屋の隅にある小壺を指さした。これに弥彦郎は「うへぇ」という顔をしたが、さすがに彼も彼なりに状況を理解しているのだろう、それ以上文句を言うようなことはなかった。

(まったく、こっちの苦労も知らないで緊張感のない奴だ。……だがまぁ退屈だと思う気持ちはわからんでもないか。まだ九つの鐘も鳴ってないしな)

 与六郎たちは午前のうちに宿を引き払ったため時刻はまだ正午にもなっていなかった。加えて安全な場所に逃げ込めた安心感もあったのだろう、二人は声を落としてではあるが世間話をするくらいにはリラックスしていた。

「そういえばお前はこの冬はどこに隠れていたんだ?これでも結構探したのだぞ。姫路に現れたということは西国のどこかなのだろうが……」

「ああ、お察しの通り、西国の療病院りょうびょういんを転々としていた。この腕だからな。だいたいどこでも手厚くもてなしてもらったよ」

 療病院とは仏教の慈悲思想に基づいて建てられた当時の病院施設のことである。名前の違いや規模の大小はあったものの同様の施設は各地に存在しており、弥彦郎はそういった施設を修験者の格好をして転々としていたそうだ。なるほどこれなら与六郎や孝蔵たちが彼のしっぽを掴めなかったことにも納得がいく。

「そうか、療病院は軽く調べていはいたが見落としてしまったようだな。ではその前は――腕を落とされる前はどこで暮らしていたんだ?」

 そのまま何気なく尋ねる与六郎。しかしこれに弥彦郎は軽く手を挙げて拒絶の意を表した。

「おっと。悪いがこれ以上は言えないな。ここから先はちゃんと柳生庄についてから話そう。それまできちんと護衛をしてくれよな」

 どうやら弥彦郎は、与六郎が重要な情報を聞き出そうとしていると勘繰ったようだ。彼にとってそれは大事な交渉材料であるため、そう易々とは話せない。それ対し与六郎はただ「そうか」とだけ言って頷いた。

(ふむ、存外食えない相手だな。まぁいまさら聞いたところで役に立つとは思わないのだがな)

 実を言えば弥彦郎の警戒は正しかった。世間話に見せかけて相手から重要な情報を抜き取るのは忍びにとって基本中の基本の行動であり、与六郎もそのつもりでさりげなく話題を誘導していた。

 ただその一方で、この時与六郎は彼の持つ情報は大して重要ではないとも考えていた。というのも彼の裏切りはもう残党たちに知れ渡っていたからだ。並の頭を持っている奴ならば裏切りが発覚した時点で彼の知っている隠れ家や符号は破棄しているはず。つまりいまさら彼から情報を得たところで、それが役に立つかはかなり怪しいところであると言えた。

 にもかかわらず与六郎たちが弥彦郎の脱出に力を貸すのは、彼を優遇することで第二第三の裏切り者が誕生することを願っての事だった。

(上手くいけば残党たちを分断させるくさびになるかもしれないからな。今はせいぜい自分の思い通りにいっていると思っておけばいい)

 そんなことを考えながら彼らは怠惰に時間を潰していた。


 さて、そんな腹の探り合いをしていた二人であったが、ここで与六郎はどうしても聞いておかなければならないことがあったことを思い出した。

「そういえば聞いてなかったが、お前はどうやって山中屋の事を知ったのだ?今後の護衛のためにもそれだけは今のうちに教えてはくれないか?」

 与六郎が尋ねたのは弥彦郎が山中屋に接触したことについてであった。当然だが山中屋と柳生家の関係は公には伏せられている。ある程度の権力者ならば耳にしていてもおかしくはないだろうが、ただの牢人である弥彦郎が知っているのはどう考えてもおかしい。もしや残党たちの背後には独自の情報網を持つ大物が潜んでいるのではないか。そう警戒する与六郎であったが、弥彦郎は存外簡単に山中屋の行商人の話をしてくれた。

「ああ、そのことか。別におかしな話じゃないさ。西国には山中屋の行商人が結構行き来しててな、彼らのする噂話で知ったんだ」

 弥彦郎としては噂になっているくらいだから大した話ではないと思ったのだろう。だがこれを聞いた与六郎は非常に苦々しい顔をしていた。

「まさかそんなところから話が漏れていたとは、人の口に戸は立てられぬというやつか……。……だとするとこれは少し面倒なことになったな」

「どういうことだ?」

「流れてきた噂で知ったということは、他の残党たちも知っているかもしれないということだろう?ということは山中屋に絞って監視される恐れがあるということだ」

 与六郎はここまで、監視をしていた残党たちは道中で弥彦郎を見つけ、彼を追う形で姫路に集結していたと思っていた。だが彼らが山中屋の事を知っていて、初めから港町である姫路で待ち伏せをしていたのだとしたらどうだろう。彼らは見失った弥彦郎を探すために山中屋の船を見張りに来るかもしれないし、陸路を使って大坂港に先回りしてくるかもしれない。いかに与六郎たち伊賀忍者であっても出入口を完璧に抑えられたらかなり厳しいことになる。

「そうか、そういうのもあるのか……。どうするんだ?予定を変更するのか?」

「いや、海路が一番安全なのは変わりない。ただ乗船時と下船時に少し気を付けた方がいいかもしれないな。船頭たちにもそれとなく伝えておこう。お前も顔や左腕を見られないように注意しておけよ」

「わ、わかった。気をつけよう」

 こうして二人は少しばかり気を引き締めてこの日を終えた。


 一夜明けた翌日、ぐっすりと眠っていた弥彦郎は誰かに肩を揺さぶられる感覚で目を覚ました。

「おい、起きろ」

「ん……朝か……?お前は誰だ……?」

「寝ぼけているのか。俺だ、与六郎だ」

「与六郎?誰だ……?」

 弥彦郎はしばらくまどろみ状態でボケっとしていたが、不意に腐った磯の香りを鼻で感じ意識を覚醒させ、ようやく昨日までの事を思い出した。

「うっ、この磯臭さ……。そうか、朝一で船に乗るんだったよな……。それでもう朝なのか?」

 弥彦郎が目ヤニの溜まった眼をこすりながら周囲を見渡せば、小屋の中はまだ互いの輪郭すら見えないほどに暗い。初めは窓を閉めているのかと思ったが、よく見れば細い月明かりが差し込んでいる。どうやら外はまだ夜のようだ。

「うぅん……今何時だ?」

「七つ(夜明け二時間前)を少し過ぎた頃といったところだな。出港自体はまだ先だが、もうすぐ荷物を積み込むための人夫たちが集まってくる。それに紛れて船に乗り込むから、しっかりと目を覚ましておけよ」

「本当か?まだこんなに暗いというのに……」

 聞き耳を立てれば外に人の気配はなく波の音しか聞こえない。いぶかしむ弥彦郎であったが、与六郎によると朝凪(明け方、地熱の影響で無風となる時間帯)が来る前に出港する船のために日の出前から働く人夫が結構な数いるらしい。実際しばらくすると誰かの息遣いや足音、衣擦れの音が増えてきた。おそらくこれが与六郎の言っていた荷積みの人夫たちなのだろう。

「……そろそろだな。では外に出るぞ。あまりキョロキョロとするなよ」

 その気配が十分に増えたのを見計らい、与六郎はほっかむりを被せた弥彦郎と共に小屋の外へと出た。


 時刻は日の出前、夜明けの白みが天頂付近にまで伸びている頃であった。まだ太陽は出ていなかったが互いの顔や足元がしっかりと見えるくらいには明るく、それに伴い人夫たちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。

 今回与六郎たちはこの荷積みの人夫たちに化けて船に乗り込むのだが、彼らの仕事には大きく分けて二種類あった。一つは船によって運ばれた荷物を内陸に配るために整理する作業。この頃大坂から流れてくる荷物は主に綿花と肥料用の干魚であり、これらを内地に分配するために荷車に乗せたり川を渡る十石舟に乗せたり、あるいは問屋の大きな蔵に押し込んだりする。

 もう一つが内地から集められた商品を大坂に運ぶために船に積み込む作業である。彼らは方々から集めた米や味噌、木綿、紙などを船に積むのだが、この時彼らは波止場から直接船に乗り込むわけではない。というのもこの時代は水深の都合上、大型船は接岸することができず常に沖合に泊められていたからだ。そのため彼らは代わりの小型の舟――上荷舟うわにぶねに荷物を乗せて船に近付き、海上で荷物の積み下ろしを行う。このように上荷舟を使って積み下ろしを行う人夫のことを『上荷差うわにさし』と言い、与六郎たちはこの上荷差しに成りすまして乗船する予定だった。

「よう、与六郎。待っていたぞ」

 波止場を歩く与六郎たちにそう声をかけてきたのは、山中屋の紋の入った小袖を着た中年の人夫であった。彼は伊賀忍者ではなかったが与六郎たちの存在を知っている協力者であり、今回も彼の手を借りて乗船する手筈となっていた。

「毎度すまないな。それで手筈は整っているか?」

「ああ、もちろんだ。というわけで早速そこの積み荷を向こうの小舟に乗せてくれ。連れの兄ちゃんもな」

「えっ!俺もか!?俺は片手がないんだが……」

 まさか力仕事を振られるとは思ってもいなかった弥彦郎は思わず目を丸くしたが、男は当然だろうと豪快に笑い、与六郎も不自然でない程度に演技をしろと諭してくる。

「ははは。安心しろ。見た目よりは軽いものを集めておいた。これなら他の奴らも不審には思わないだろう」

「何もすべての荷物を運べというわけじゃないんだ。さっさと反対側を持て。あぁそれと上手く両手があるように演技をしろよ。どこで残党たちが見張っているかわからんからな」

「く、くそっ!わかったよ!やればいいんだろ、やれば!」

 思わず怒鳴る弥彦郎。だが皮肉にもその短気な振る舞いは粗暴な波止場の人夫そのものであった。


 その後四苦八苦しながらも荷物を乗せ上荷舟の体裁を整えた一行は協力者の男の舵取りの元、目的の山中屋所有の廻船へと近付く。

 男は巧みに舵を操り、そしてごく自然に船の反対側へと回り込んだ。この反対側とは波止場から見て反対側、つまり沖合側ということだ。これで船体自体が壁となり波止場からの目を遮ることができる。この隙を突いて与六郎たちはするりと廻船へと乗り込んだ。

「お待ちしておりました、与六郎様。さぁこちらに」

 甲板では船員に扮した与六郎の部下が待っていた。こちらは本物の伊賀忍者であり、同時にこの廻船の乗組員でもある。二人は上荷舟の男に礼を言うと何食わぬ顔で彼の後に続く。甲板には事情を知らない船員がそこかしこにいたからだ。

 そうして案内されたのは荷物を積み上げる『胴の間』の一角――そこには積み荷を組み合わせて作った広さ二畳、高さ四尺(約120センチメートル)ほどの空間があった。ここが密航中二人が隠れるスペースらしい。

「狭いですがどうぞお入りください」

 指示された通り二人がそこに入ると、部下の男は別の積み荷で空間の入り口をふさいだ。二人が隠れた空間は一気に暗くなり、光はこぶし大ほどの隙間からわずかに漏れてくる程度になった。

「おいおい、これじゃあ座敷牢じゃねぇか。こんな狭いところで半日過ごすのかよ」

「文句を言うな。これでも普段よりは広いくらいなんだぞ。……それで船が出るまではあとどのくらいだ?」

「まもなくかと。日が昇り、周囲の岩礁がはっきりと見えるようになったら出港すると思われます」

 その言葉通りまもなくして荷物の積み込みが完了し、山中屋の廻船は姫路の港を出港した。

 船は始めは乗組員たちの手漕ぎで進み、やがて立てられた帆が風を捕らえると一気にスピードに乗る。こうなると船員たちも一息つけるようになり、その合間を縫って与六郎の部下が寄ってきてこそりと報告した。

「与六郎様。ただいま無事出港いたしました。また船内や波止場に不審な影は見受けられませんでした」

「そうか。天気については何か聞いているか?」

「荒れるような話は何も。揺れるとしたら明石海峡ぐらいでしょう。昼前くらいに通過するでしょうからお気を付けくださいまし」

「承知した。また何か変化があったら報告してくれ」

「はっ」

 一礼し持ち場へと去っていく部下を見送ると、弥彦郎が「はぁぁ……」と安堵の息を吐いた。

「はぁ……。これであとは大坂まで一直線ってことか」

「まぁそうなるな。天候の方も大丈夫そうだし、しばらくは気を抜いていても大丈夫だろう」

 与六郎の見立て通り彼らの乗った船は特に問題なく東進し、やがてまもなく大坂の街並みが望めるところにまでやってきた。


 与六郎らの船旅は問題なく進んでいた。船は播磨灘の北岸を進み昼頃に明石海峡を通過。そして八つの頃(午後二時から三時頃)、例の船員でもある部下が再度報告に寄ってきた。

「与六郎様。まもなく大坂に到着いたします。下船はいつも通り上荷差しの振りをしてお降りください」

「承知した。それと波止場で待っている奴らに周囲を警戒するようにと暗号を飛ばしておいてくれ。もしかしたら残党らも山中屋のことを知っているかもしれないからな」

「かしこまりました」

 最低限のやり取りをして部下が離れると、続いて弥彦郎が話しかけてきた。

「上荷差しの振りをして……。つまり乗り込んだ時と同じようにして波止場に戻ればいいんだよな?」

「ああ。ただし油断はするなよ。もしかしたら残党たちが見張ってるかもしれないからな。顔と手はしっかりと隠しておけ」

「わかってるって。こっちも命がかかってんだ。そうそうヘマなんかしないさ」

 そこからしばらくして船の速度がガクンと落ちた。おそらく岸が近くなったので帆を畳んだのだろう。続けて乗組員たちの呼吸を合わせる掛け声が聞こえてくる。これは櫓を掻いて船の位置を微調整しているのだ。それも終えて錨を下ろすといよいよ上荷差したちの出番となる。

「与六郎様、こちらへ。あとは迎えの者の指示に従ってください」

 二人は部下の案内で隠れ家から出て甲板の定位置に着く。そこで上荷差しの振りをして荷物の積み下ろしをしたのち、流れるように波止場へと引き返す舟に移った。この舟を操っているのももちろん与六郎の部下で、彼は巧みに舵を操作しながらさりげなく与六郎に耳打ちをした。

「……与六郎様。今のところ町中に残党らしき牢人たちは現れていません。波止場から船を監視しているような者もいなかったとのことです」

「そうか。町の外はどうだった?」

「街道の方は現在調査中。柳生庄に報告に向かわせた者もまだ帰ってきてはおりません」

 この報告に与六郎は若干不満げに「そうか」と返した。

 与六郎の思惑では大坂に到着したらすぐに柳生庄へと向かうつもりであった。というのも今回残党たちは与六郎たちの目的地が柳生庄であることを十中八九把握しているからだ。時間をかければかけるだけ、そこに至るまでの道を塞がれかねない。

 だがかといって道中の安全がわからぬうちに飛び出すのもまた危ない。もしかしたら残党たちは一目の多い街を避けて街道の方に先回りした可能性もあるのだから。

(兵は神速を貴ぶが、急いては事を仕損じる。仕方がない。まだ日は高いが、今日は一日待つとするか)

 波止場へと到着した与六郎は、部下に対し改めて街中は安全なのかを尋ねた。

「俺たちは一度長屋に戻るが、長屋の方には問題はなかったな?」

「はい。お留守の間、見張りの者以外誰も侵入してきておりません」

「承知した。今日はそこで休むから、街道からの報告が戻ったらすぐに来るようにと伝えておいてくれ」

「かしこまりました」

 こうして与六郎と弥彦郎の二人は今日の道程をここまでにして、与六郎の長屋で休むことにした。

「まだ明るいのにもう休むのか?」

「安全かどうかわからないからな。街道で夜襲でもされたら目も当てられん。お前だって半日じっとしていた体で峠越えなんてしたくないだろう?」

「まぁな。だがもうちょっととんとん拍子で行けると思ってたからよぉ」

「馬鹿を言うな。これでもかなり早い方だ」

 そんな会話をしながら二人は与六郎の長屋へと続く通りを進んでいくのであった。

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