植田与六郎 弥彦郎を護衛する 1

 旧坂崎家の残党一派を裏切った弥彦郎。彼は自身の身を守るために瀬戸内海有数の港町・播磨国は姫路の町へとやってきていた。

 彼がここに来た理由は、廻船問屋・山中屋が柳生家とつながりがあるという噂を聞いてのことだった。もし噂が本当ならわざわざ大和の山奥にまで足を運ばなくとも柳生家と接触することができる。そう目論み弥彦郎が山中屋の船頭に声をかけるととんとん拍子で話は進み、柳生家関係者に話を通してもらえることとなった。

「ふぅ。どうやら上手くいきそうだな」

 安堵した弥彦郎は近くの宿で一夜を明かす。

 その翌日、弥彦郎が目覚めると部屋には柳生家からの使いの者が入り込んでいた。驚く弥彦郎であったが、使いの者が言った言葉に彼はさらに驚いた。

「この宿は何者かによって監視されている。下手に動けば命はないぞ」

 弥彦郎の顔が一気に青ざめた。


「なっ!?監視されてるとはどういうことだ!?」

 思わず怒鳴りつける弥彦郎であったが、侵入してきた男は呆れるように舌打ちをしたのち声を落とすよう指示を出す。

「どうも何も聞いての通りだ。心当たりがないわけでもないだろう?それとあまり騒ぎすぎると外の連中に勘付かれるぞ」

「!」

 慌てて自分の口元を手で覆う弥彦郎。いまさら意味のない行為ではあったが、一呼吸置いたおかげで少し思案するくらいの余裕はできた。

(監視だと?くそっ、孝蔵たちか。まったく、しつこい連中だ!)

 自分を監視するような奴らは幕府の連中か孝蔵たち残党一派くらいしか心当たりがない。そして侵入してきた男が柳生家の関係者と名乗っていたから幕府側の線は消える。となると残るはもう残党たちしかない。

 弥彦郎は孝蔵の憎たらしい顔を思い出してむかっ腹を立てていたが、しばらくして(これは思ったより悪い状況ではないんじゃないのか?)と思うに至った。というのもいずれ残党たちに見つかることは予想できていたことだし、それより先に柳生家からの援軍が来たのだ。一人の時よりずっと心強い。

 弥彦郎は口を覆っていた手をどけて、小声で侵入してきた男に確認した。

「へへっ、どうやら厄介な状況のようだな。だがそんな中で潜り込んでくるってことは、あんた俺を助けに来たって思っていいんだよな?」

「……まぁそういうことになるな」

「そりゃあありがとうよ。頼りにさせてもらうぜ。それであんた、名前は?」

「……」

 名前を聞かれた男はわずかに渋る顔をした。こんな胡散臭い相手に自分の素性をバラしてもいいものかと悩んだためだ。だが名無しのままではこれから先いろいろと不都合も多いだろう。結局彼は面倒そうに溜め息を吐いたのち自らの名を名乗ることにした。

「俺は与六郎よろくろう。柳生家に縁ある忍びで、大阪での諜報活動を取り仕切っている者だ」

 弥彦郎を迎えに来た男は三厳の旧友にして大坂の情報網管理を任されていた伊賀忍者・植田与六郎であった。


 植田与六郎。柳生家と縁のある伊賀忍者の家系の者で、三厳とは元服以前からの友人である。年はまだ二十と少しであったが、大坂では山中屋と協定を結ぶ際に活躍し、その功績から今は大坂方面の諜報網の管理を任されている。

 そんな与六郎を弥彦郎は興味半分疑い半分の目で眺めていた。

「ほう、若いのになかなか立派な奴が来たということか」

「なんだ?不満か?」

「まさか!頼りになりそうで安心したって言いたかったのさ!」

 そう言ってにやけ顔で胡麻をする弥彦郎。彼がこうも浮ついていたわけは、柳生家が自分を高く買っていると思ったからだ。

(わざわざ忍びを寄越してくるなんて、どうやら柳生の家は俺の持っている情報が喉から手が出るほどに欲しいらしい。こりゃあ上手く交渉すれば屋敷の一つくらいはもらえるかもしれないな!)

 こっそりと野卑な笑みを浮かべる弥彦郎。そんな彼を横目で見ながら与六郎は呆れたように溜め息を吐く。

(まったく、いくら三厳様たちのためとはいえ、こんな輩の護衛をしなければならないとはな)

 与六郎は(やはり別の者に任せればよかったか)と少しばかり昨日の自分の判断を後悔していた。


 そもそもなぜ諜報活動の長となっている与六郎がわざわざ姫路までやってきたのか。事の起こりは前日、弥彦郎が山中屋の船頭に話しかけたところにまでさかのぼる。

「では柳生家の関係者にきちんと伝えてくださいね」

「承知した。早ければ明日にでも返事が来るだろう」

 弥彦郎は自分の名を出して船頭に柳生家と連絡を取るようにと迫った。これを受けて船頭は手紙を出して返事を待つと回答したのだが、彼は弥彦郎が港から去るやすぐに船員として紛れ込んでいた伊賀忍者にこのことを相談した。弥彦郎にはああ言っていたが、実はすでに相談できる関係者が近くにいたのだ。

「相手は『弥彦郎の名を出せばわかる』と言っていたのだが、何か知っているか?」

「なにっ!?弥彦郎だと!?」

 相談を受けた忍びはすぐにピンときた。ここ数か月行方を追っていた男の名前である。ただし下っ端である彼はこの男が何者かまでは聞かされていなかった。これはこの一件が下手をすれば幕府の根幹を揺るがしかねないものだったからだ。

 ゆえにどうするべきか困った彼は、とりあえずひとっ走りして大坂の与六郎の判断を仰ぐことにした。姫路から大坂まではおおよそ二十里(約80キロメートル)ほどあったがさすがは忍びの者、暮れ六つ前には大坂に到着し与六郎に事の次第を報告し終えていた。

「なんだと!弥彦郎を見つけただと!?」

 こうして報告を受けた与六郎であったが、実は初め彼はこの報告をあまり信用してはいなかった。なにせここ数か月いくら探しても影も形もなかった男が急にひょっこりと現れたのだ。警戒の方が勝るのは致し方ないことである。

 だがそんな与六郎も、接触してきた男には左手がなかったと聞くと少しばかり考えを改めた。

(三厳様からの報告に欠損についての話はなかった。ということは左手を失ったのは里を去ってから……。なるほど、隠れて療養していたのか。それならこれまで一切接触してこなかったのも納得できる)

 与六郎は少し考えたのち、それまで読んでいた報告書を天井裏の隠し扉にしまった。

「……わかった。俺が直接会いに行こう」

「えっ!?与六郎様自らですか!?何もそこまでしなくとも……」

 驚く部下に対し与六郎は苦笑して首を振る。

「残念ながら事情を知っている者は俺以外出払っていてな。それにもしかしたら時間もあまりないかもしれないからな」

 この時彼は追手の可能性について憂慮していた。弥彦郎の欠損が事故でないならば、それを行った者がいる。十中八九裏切りがバレて他の残党たちから攻撃されたのだろう。そこから生き延びたということは片腕だけで許してもらえたのか、あるいは上手く逃げおおせたということだ。どちらが真実かはわからないが、こういった時は最悪の事態を想定しておいた方がいい。つまりこの場合は上手く逃げおおせた弥彦郎の口封じを狙う者がいるという可能性だ。

「まぁ何かあっても一日二日で帰ってこれる距離だ。大事にはなるまい」

 こうして与六郎は数人の部下を連れて姫路へと駆けたのだが、その道中予想通り姫路郊外の廃寺や宿屋の周囲に不穏な人影を見つける。

(やれやれ。これは思ってたよりも切羽詰まった状況のようだな……)

 どうやら追手は想像以上に弥彦郎に迫っているようだ。このまま迂闊に動けば彼の命は明日の昼までもたないだろう。

 そう思った与六郎は接触と忠告のために彼の泊まる部屋へと忍び込んだというわけだ。


「それでよぉ、与六郎って言ったか?これからどうするんだ?」

 場所は戻って宿屋の一室。柳生家関係者と接触したことで気が楽になった弥彦郎はこれからどうするのかを尋ねた。その言い方は随分と馴れ馴れしいものであったが、与六郎は気にしないそぶりをして返答する。

「とりあえず最終的な目的地は柳生庄だ。そのためにまずは大坂に向かうわけだが、そこまでは船で向かうことにする」

「ほう、船か。だが山中屋の廻船は人は運ばないと聞いているぞ?」

「そんなもの、荷物に隠れるなり船員に紛れるなりいくらでも手はある。問題は出港日だ」

「遠いのか?」

「いや、一日空けた明日だ。だがこの一日というのが存外難しい。この間に仲間を呼ばれるかもしれないし、しびれを切らして押し入ってくるかもしれない。出来ればさっさとここを引き払って別の場所に身を隠したいところだが……」

 与六郎はちらと窓の隙間から通りを眺めた。

「お前を監視している残党たちだが、昨日確認した限りだと通りを挟んだはす向かいの別の宿屋――そこの二階に部屋を借りている。正面から出ればすぐに見つかることだろう」

「本当か!?……それじゃあ裏口から出ればいいんじゃないのか?勝手口くらいあるだろう」

 これに与六郎は首を振る。

「出たところで宿から逃げたと知られれば町中を探される。俺もこの町にはあまり詳しくはないからな。出港までの一日を逃げ切れるかは確実ではない」

「ならどうすればいいんだよ!?」

 焦る弥彦郎。それに対し与六郎は余裕の笑みを見せた。

「手は用意してある。ほら、ちょうど来たみたいだぞ」

 与六郎がそう言うとほぼ同時に、彼らの部屋のふすまがカタリと開かれた。


 さて、視点代わってこちらは宿屋を見張る男たち。彼らは与六郎の予想通り弥彦郎を追っていた残党たちの一部であった。

 人数は三人で、身なりはいずれも牢人を少し小ぎれいにした程度のもの。これはうっかり同心与力らに目をつけられないようにするためのものであったが、それでも各人からは近寄りたくない破落戸の雰囲気が漂っている。

 そんな彼らは通りを挟んだはす向かいの別の宿屋から弥彦郎が泊まっている宿屋を見張っていた。

「どうだ?出てきたか?」

 声をかけたのはこの中では二番目に若い二十代中頃の男。それに答えたのは見張りをしている十代後半の男であった。

「いえ、まだです。もしかしたら今日一日出てこないなんてこともあり得ますね」

「チッ、回りくどい。だから昨日見つけた時にさっさと殺しておくべきだと言ったのだ」

 彼らはとある密告から弥彦郎が廻船問屋・山中屋と接触しようとしているということを知り、廻船が多くやってくる姫路で待ち伏せをしていた。そして昨日ようやく弥彦郎を見つけたのだが、悪運強いことに彼の周りには常に人がいて襲う機会がないまま今に至るというわけだ。

「サッと行ってバッとやれば捕まることもなかっただろうに」

 好戦的な若い男がそう言って寝転がると残る一人、年嵩としかさの男がそれをたしなめた。

「馬鹿を言うな。俺たちの本懐はそこではないのだぞ。こんな些事で無駄な危険を冒す必要もないだろうが」

 だが若い男はこれに鼻で笑う。

「小心者だな。これから俺たちは将軍相手に弓を引くんだぞ。年長のあんたがそんな弱気でどうするんだ」

「なんだと!?お前、あまり舐めた口を利くんじゃないぞ!?」

 思わず睨み合う二人。おそらく二人ともこれから柳生庄および江戸を襲うとあって気が立っていたのだろう。そしてそんな二人をよそに監視をしていた男が叫んだ。

「あっ!出てきました!弥彦郎です!」

 この声に睨み合っていた二人も急いで格子窓に寄る。

「どこだ?どれだ?」

「ほら、あそこ!ちょうど今宿屋の正面にいます!」

 二人が言われた通りに宿屋の正面を見ると、そこには確かに鈴懸すずかけ結袈裟ゆいげさといった修験装束を纏った男が立っていた。距離があったことと通りに人が多いために顔までは識別できなかったが、あの服は間違いなく昨日穴が開くほどに見た弥彦郎の修験者服である。

「間違いない!よし、あとをつけるぞ!」

 宿屋を飛び出し後をつける一行。対し修験者様相の男は今日は港ではなく町の北東――町を出て街道へと続く通りを進んでいく。

「弥彦郎の奴、何のつもりだ?まさかこのまま町を出ていくつもりか?」

「かもな。おそらく山中屋の当てが外れたんだろう。だがこれは好都合だぞ。おい、人気のないところに行ったら殺しても構わぬよな?」

 若い男が歯をむき出して笑うと年嵩の男は仕方がないなという風に肩をすくめた。

「手を出すのは構わんが、どれほど情報を流出させたのか訊かねばならんからな。喋れる程度には生かしておけよ」

「わかっている。楽に死なせてなんかやらないさ」

 こうして残党たちがしばらく機会を窺っていると、いよいよおあつらえ向きの場所がやってきた。場所は町から少し出た先にある竹林沿いの細い道。生えっぱなしの真竹によって視界が遮られている上に道も若干曲がっていて見通しが悪い。

 残党一行はここで襲うと決めると、一番好戦的だった男を一人迂回させて挟み撃ちの形をとった。

「これで逃げ場はあるまい。終わりだ、弥彦郎め!」

 しかし挟み撃ちのつもりでいた二人と一人は、竹林の一本道でばったりと出くわした。

「なっ!なぜお前がここにいる!弥彦郎はどうした!?」

「それはこっちの言葉だ!俺はちゃんと回り込んで誰も逃さぬようにしていたぞ!?」

 思わぬ事態に一行は一時固まっていたが、年嵩の男がすぐに気付いて顔に憤怒の色を浮かべる。

「くそっ!あの犬畜生め!こっちに気付いて竹林を突っ切りやがったんだ!」

 三人は急いで竹林を出て周囲を見渡す。しかし街道に見えるのは行商人や旅装束の武士ばかりで、修験者風の男はどこにも見当たらなかった。

「……いったいどうなってるんだ?あいつはどこに消えたんだ?」

 煙のように消え去った弥彦郎にしばし呆然と立ち尽くす残党たち。そんな彼らを背に、行商人風の男は何食わぬ顔で姫路の町へと戻っていった。


 残党らが呆気に取られていたほぼ同時刻、与六郎と小袖に着替えた弥彦郎は波止場近くの小屋に身を潜めていた。

「大丈夫なのかねぇ、俺に変装した奴は」

「安心しろ。そんじょそこらの牢人に後れを取るようなヤワな奴ではない」

 ここでタネを明かすと、実は先ほどまで残党たちが追っていたのは与六郎の部下の忍びが変装したものだった。

 部下の忍びは弥彦郎の修験装束を着こんで残党らを誘い、そのまま町の外にまで誘導した。これは残党らを与六郎たちから引き離し、かつ弥彦郎が陸路を使って大坂に向かうと思わせるためである。そして見通しの悪い竹林に入るやすぐに道の脇に隠しておいた行商人の格好に着替えて追手をやり過ごし、自身は姫路の町へと戻ったというわけだ。

 またこの隙に与六郎たちは宿から脱出し、波止場近くの山中屋所有の小屋へと移っていた。ここならば余程念入りに調べられない限り見つかることはないだろう。強いて不満点を挙げれば立地のせいで腐った海の匂いが流れ込んでくることくらいだった。

「うぅ……磯臭ぇ……。こんなところに明日までいるのかよ……」

「文句を言うな。陸路に比べればはるかに安全なのだから」

 彼らは今日一日ここに隠れ、明日朝一で出港する山中屋の船に同乗して大坂へと向かうつもりであった。与六郎の言う通り船は一度乗ってしまえば襲撃されることはなくなるため非常に安全な移動手段だと言える。問題が起こるとすれば船に乗り込む瞬間と、向こうに着いた瞬間くらいだろう。

(さて、見張ってたやつらは気付くかどうか)

 与六郎らは監視の目を街道側に向けさせたが、それでも海路が完全に候補から外れたわけではない。もしかしたらすでに船の出港予定を把握していて、その瞬間だけ監視にやってくるかもしれない。

 また到着時も完全に安全とは言い切れなかった。姫路から大坂までの陸路は壮健な男子であれば、おおよそ二日で踏破できる。今から向かえば到着はおそらく明日の暮れ六つ頃だろう。対する海路は明日の朝一で出港し、その日の七つあたり(午後三時頃)に大坂に着く。つまり大坂に到着してからの時間的猶予は一刻ほどしかないということだ。しかもそれも相手の熱意次第で大きく変化する。

(残党らが道中の探索に時間を割いてくれればもっと楽に動けるようになるが、逆に開き直って大坂に来られたらばったりと出くわす可能性もある。まったく、難しい局面だな)

 そんなことを思いながら与六郎は生あくびを一つした。どうやら昨晩走り通した疲れが今になって出てきたようだ。

「……まぁなんだかんだ言って今は安全だからな。とりあえずまずは英気を養おうか。向こうに到着したらすぐにまた柳生庄に向けて歩き出すのだからな」

 そう言って与六郎は差し入れに貰った酒饅頭を一口かじり、もう一つを弥彦郎に差し出した。

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