木嶋弥彦郎 柳生庄へと向かう 3

 寛永五年の春。厳しい冬を耐えた各勢力は、それぞれの思惑を持って動き出していた。

 三厳を筆頭とした柳生庄組は今年こそ残党らの憂いを断とうと手がかりを求め、孝蔵率いる残党たちも過去の因縁に決着をつけようと隠れ家から出て東へと向かう。

 そして残党一派を裏切った弥彦郎もまた自身の身を守るために、柳生家との接触を目指して一人山間いの道を進んでいた。


「……畜生。やっぱり片手がないと歩きづらいな……」

 乱れた呼吸を整えながら、弥彦郎は路傍の石に腰を下ろした。彼は現在山伏・修験者の格好をして備後(現広島県東部)の山沿いの道を進んでいた。

 なお道と言ってもこの時代の地方の道である。歩きやすくなる舗装などしていない、獣道を少し広くした程度の荒れた道だ。片手を無くしたばかりの彼にとっては非常に歩きづらい道であろう。

 そうと知りつつ彼がわざわざこんな道を選んだ理由は、ひとえに残党らの追跡から逃れることを第一としたからだ。普通の街道ならば道が定められているため監視が楽な上に、近い距離ですれ違うから顔の確認もしやすい。対し人気の少ない田舎の道なら怪しい人物がいたらすぐに気付くし、そんな人物を見つけたら進行方向を変え、山岳修行の振りをして山へと続く道に入ればいい。遠くからなら片手がないことはバレないだろうし、多少怪しまれても山奥にまではついてこないだろうという算段だ。

 これにより弥彦郎はこの数日難なく旅を続けられている。ただしその代償として疲労はほぼピークに達しており、その苛立ちから彼は早くも二本目の竹水筒を空にしていた。

「あぁくそっ!もう空か。こりゃあ早く川を見つけないと、のどの渇きで死んじまうな」

 弥彦郎は顔を上げて道の先に目をやるが、向こう数町は人影もなく水辺も見えない。追われている身からすれば怪しい人影がないのはいいことなのだが、立ち上がった弥彦郎の顔にそのような色は見受けられなかった。

「はぁ……。仕方がない。進むか」

 ここに頼れるような仲間はいない。弥彦郎は大きな溜息を一つ吐いたのち、相変わらず凹凸の激しい山道をのろのろと歩みだした。


 こうして隠れるように東に進んでいた弥彦郎は数日後、備前(現岡山県南部)の内陸部にあるとある村にたどり着いた。彼がここを目指したのは、この村に古い知り合いが住んでいたためである。彼ははあわよくばここで一泊するつもりで、その知り合いの住む家の戸を叩いた。

「おぉい、吉平きっぺい、居るか?おい、居ないのか?」

「むぅ……。なんだ、人が気持ちよく寝ている時に……」

 数度戸を叩くとまもなくして寝ぼけた様子の中年の男が顔を出した。彼ははじめ見知らぬ山伏に怪訝な顔を見せていたが、それが旧友だと気付くと目をぱっちりと開けて破顔した。

「お前、弥彦郎か?おぉ!久しぶりじゃないか!八年ぶりくらいか!?何故ここにいるんだ!?」

「なぁに、ちょっと入り用で近くまで来たから寄ってみたんだ。入ってもいいか」

「おぉ入れ入れ。何もない家だがな。ははは」

 予想通り旧友の吉平は快く弥彦郎を迎え入れてくれた。弥彦郎は(これなら一泊できそうだ)と思いながら敷居をまたいだ。

 この吉平という男は坂崎直盛がまだ伏見にいた頃に、とある宇喜多家家人の小者をやっていた男である。大の博打好きで弥彦郎とは賭場で知り合い、以降気の合う友人となっていた。その後彼は宇喜多家のお家騒動時に解雇されこの村に戻ることとなったのだが、弥彦郎との交友は続いており今に至るというわけだ。

 そんな吉平の家は土間を含めても十畳もないほどの小さな家だった。独り身らしく物が乱雑に散らばっており、風通しも悪いのかカビのにおいが鼻につく。ただそんな部屋であっても一か所だけ丁寧に掃除された箇所があり、そこには小さな位牌が一つ置かれていた。

「それは……?」

「ん?……ああ、数年前に死んだ嫁の位牌だ。そういえばお前に会わせたことはなかったな。俺にはもったいない気立てのいい女でな。自慢してやりたかったよ」

「そうか……」

 弥彦郎はひざまずき片手で拝む。それを見て今度は吉平が弥彦郎の片手がないことに気付いた。

「お、お前、どうしたんだ、その手は?手首より先が無くなってるじゃねぇか!?」

「あぁこれか?なに、ちょっとヘマをしたってだけさ。色々あったんだよ、色々な」

「そうか。色々あったのか……」

 思わず二人の間に老いの哀愁の空気が漂う。しかしそれも一瞬の事。そんな空気を嫌った吉平が、それを振り払うかのように明るい声を出したのだ。

「あー、辛気臭い話はやめだ、やめ。そんなことより飲もうじゃないか?お前も酒くらいは大丈夫なのだろう?」

「ああ、この格好は旅の都合でしているだけだ。生ぐさでも全然問題ないぞ」

「よし。それなら俺のとっておきを出してやるよ」

 そう言うと吉平は早速旧友のために酒盛りの準備を始めるのであった。


「さあさあ飲め飲め。どうせ取っておいても飲む相手がいないんだ。遠慮なく平らげてくれ」

 吉平は秘蔵の酒を開け、保存していた干し肉なども大盤振る舞いで皿に並べた。彼がここまで豪勢に振舞うのは、おそらく長いやもめ暮らしで寂しかったためだろう。ならばここは素直に堪能するのが人情だと、弥彦郎は隠すこともなく舌なめずりをした。

「おぉ!これはありがたい!それじゃあ遠慮なく堪能させてもらおうか!」

 弥彦郎は早速干した鹿肉をつまみ上げ一口で頬張る。

「う、美味い!こんな美味いものをを食ったのは本当に久しぶりだ!」

「ははは、そうかそうか。ほら、少し古いが酒もあるぞ。こっちもどんどん飲むがいい」

「おぉありがたい!では遠慮なく飲ませてもらおうか」

 出された食事をバクバクと平らげていく弥彦郎。彼は去年孝蔵らに追われて以降浮浪者まがいの生活を続けていたため、吉平の豪勢なもてなしに比喩ではなく本当に涙を流して喜んでいた。

 それからしばらく二人は酒と食事を楽しみ昔を懐かしむ会話をしていたが、それも語り尽くすと話題は必然最近の話となった。

「そういえばよ、訊いていいのかわからんが、お前のその腕はどうしたんだ?傷口から見るにそんな古くない傷のように見えるが……」

「ん?あぁちょっとヘマをしたってだけだって言っただろう?気にするようなもんじゃねぇよ」

「ヘマって……明らかに刀傷じゃねぇか。お前、何か危ない橋を渡ってるんじゃねぇだろうな?」

「んー?どうだろうな?」

 酔ったふりをして適当に誤魔化す弥彦郎。坂崎直盛と何の関係もない彼が残党らのことを知る必要はないと考えたからだ。

 それでも吉平はしばらく問い詰めていたが、弥彦郎が話す気がないと悟ると溜め息をついて諦め、話題を変えた。

「わかったよ。これ以上は訊かねぇ。その代わりってわけじゃないが、これからどこに向かうかくらいは教えてくれないか?」

 そう言って酒の入った土徳利を差し出すと、弥彦郎もお猪口でそれで受けた。

「んー、まぁそれこそお前に行っても仕方がねぇんだが、とりあえず東に――柳生庄ってところを目指してんだ」

「柳生庄?どこだ、そこは?」

「大和の都を越えた山奥にある小さな村さ。一遍行ったことがあるが、まぁ何もない集落だったな」

「何もないというのなら、何故そんなところを目指すのだ?」

 質問を続ける吉平。弥彦郎としてはこれ以上は突っ込んだ話になるため答える必要はないのだが、旧友からの酒が入ったことで彼の口も軽くなっていた。

「実はな、その柳生庄ってとこの領主様が俺を追っている奴らと敵対してるんだ。だからうまく取り入れば俺も匿ってもらえると思ってな。敵の敵は味方ってやつだ」

「追われてるって……あ、まさかその左手、そいつらにやられたのか?」

「ああ、そうだ。まったくあのクソ野郎ども、狡い手を使いやがって。あれで義を語るんだから始末におけねぇ」

 愚痴を吐きながら左腕の傷を撫でる弥彦郎。それを見ながら吉平は少しばかり顔を青くしていた。

「おいおい、大丈夫なのか?まさかここが襲われるなんてことはないだろうな?」

「はっ、安心しろ。ここに来るまでに見張ってるような奴はいなかったし、俺も明日にはここを発つ。ここが襲われるなんてことはありゃしねぇよ」

「だがお前の手を切り落とすような非常識な相手なのだろ?そんな奴らに道理を求めたところで……」

「ええい、心配性め。いらぬ心配をしたら酒がまずくなるだろう。ほら、くだらないことなど忘れて飲め飲め」

 今度は弥彦郎が酒を注いで勧めると、吉平は心配そうな顔をしながらも一息でそれを煽った。

「ふぅ……。わかったよ。とりあえずお前の言うことを信じよう。だがお前は大丈夫なのか?ここから大和まではまだ結構あるぞ」

「まったく、心配性はやめろと言っただろうに……」

 呆れたように溜め息をつく弥彦郎。だがなるほど、ここ備前から大和の中心までは軽く見積もっても、ざっと五十里はある。途中には峠や川がいくつもあるため、片手を無くしたうえに追手までいる弥彦郎が無事に到着できるかはかなり怪しいところだ。

 しかし当の本人はまるで気にしていないという風に鼻で笑う。

「まぁどうにかなるさ。それに大和まで行かなくとも大坂、あるいはその手前でいいかもしれんからな」

「どういうことだ?」

 吉平が首をひねると、弥彦郎は得意げに笑って見せた。

「『山中屋』って知ってるか?大坂を拠点にしている新興の廻船問屋なんだが……あくまで噂だが、その山中屋と柳生家が裏でつながっているそうなんだ。つまりどこかの港で山中屋と接触すれば、柳生家とも接触できるって寸法よ」


 山中屋と柳生庄はつながっている。だから山中屋と接触すれば柳生家とも接触できるだろう。

 弥彦郎の計画を聞いた吉平は再度首をひねった。

「大坂の廻船問屋と大和の山奥の村?なんでその二つが裏でつながってるんだ?」

 いまいち背景が理解ができていない吉平の顔を肴に、弥彦郎はお猪口を小さく傾けた。

「実はな、さっき言った柳生家ってのは江戸ではそこそこ評判の家でな、西の国々の情報を集めてお上に報告することで今の地位に就いたそうだ。そんな柳生家が情報収集のために目をつけたのが、最近廻船問屋を始めた山中屋だったというわけだ」

「なるほど。廻船問屋なら方々から色々な話が入ってくるからな。……だがその噂本当か?だいたいなんでお前はそんなことを知っているんだ?」

 確かに一見すると津和野の牢人である弥彦郎がそのようなことを知っているのは少々おかしい。だが弥彦郎はこれに別に不思議ではないと返す。

「あぁそれはだな、津和野の殿様がその山中屋の創業者と遠縁でな、酒売りの行商人がよくこっちまで来てたんだ。その縁で聞こえてきた噂だな」

 ここで弥彦郎が言った『津和野の殿様』とは直盛の事ではなく、そののちに入封した亀井政矩まさのりらのことである。実はこの政矩は戦国武将・山中幸盛の戸籍上の孫に当たり、そして山中屋創業者の鴻池直文(山中幸元)は山中幸盛の長男に当たった。つまり彼らは甥と叔父の関係になるというわけだ。

 そんな縁から政矩入封以来津和野には山中屋の酒売りがちょくちょくやってきていた。そしてその酒売りは一日で帰れるはずがないので途中の村で宿を取る。何度も泊まっていれば村人と顔見知りになる者もあらわれ、一泊ついでにちょっとした噂話をすることもあるだろう。そうしてポロリとこぼれた噂話が巡り巡って弥彦郎の耳に入ってきたということだ。

「ほう、そんな縁が……。だが噂話は噂話だろ。もし違っていたらどうするんだ?」

「どうするも何も、その時は普通に柳生の里を目指すだけさ。運が良ければそこまで歩かなくってすむって話だ」

「なるほどなぁ。お前もいろいろと考えているんだな」

「ふふっ。見直したか?」

 弥彦郎はいたずらっぽく笑ったのち、なみなみに酒を注いだお猪口を傾けた。

 そんな酒盛りに盛り上がった翌日、弥彦郎は二日酔い気味の頭を無理矢理持ち上げて修験者装束を締めなおした。彼が戸口に立つと、同じく二日酔いで顔を青くした吉平が残念そうに声をかける。

「もう行くんだな。もう一泊くらいしていけばいいのに」

「俺もそうしたかったが一応追われてる身なんでな。まぁ俺が無事に生き延びられたらまた一杯やろうや」

「縁起でもないことを言うな。だがまぁその日を楽しみにしておくよ」

 こうして弥彦郎は後ろ髪を引かれながらも吉平の家を辞し、東へと続く山影に消えていった。

 対する吉平は弥彦郎が見えなくなるまでその場で見送ったのち、やがてもう見えぬ弥彦郎の背に向かって静かに謝った。

「しかし大坂、そして山中屋か……。すまんなぁ、弥彦郎。こっちも借金で首が回らなくてな。まぁ上手く生き延びてくれよ」

 そう言うと吉平は自宅に引っ込み、おもむろに一筆握るのであった。


 さて、それから数日後、弥彦郎は播磨国は姫路の港までたどり着いていた。

 姫路は瀬戸内海有数の港町というだけあって、荷下ろし場にはまだ肌寒いにもかかわらず人夫たちの熱気が立ち込め、播磨灘には幾隻もの廻船が並んでいる。修験者姿の弥彦郎は不審がられない距離から彼らの様子を観察していた。

「さて、山中屋は出入りしてるかな?」

 姫路の港には複数の問屋が出入りしているようだが、弥彦郎の持つ知識では誰がどこの問屋かまではわからない。そのため彼は口の軽そうな若い人夫に目をつけると、早速話しかけてみた。

「あー、ちょっといいかな、そこのお兄さん?この港には山中屋さんの船は出入りしているのかな?」

「あん?なんだ、アンタは?」

 若い人夫は船着き場に似合わない格好の弥彦郎に不審な目を向けるが、自分に害はなさそうだと感じると思ったよりも素直に受け答えしてくれた。

「山中屋か。ああ、よく出入りしているし、ちょうど今船も来ているよ。ほら、あそこの百石船がそれだな」

 人夫は遠くで並ぶ廻船の一角を指さすが、弥彦郎からすればどれがどれかなど見分けがつかない。だがそれでもよかった。今はただ山中屋がここにいるとわかればそれでいいのだ。

「なるほど、ありがとうございます。それでその山中屋さんの船頭さんにはどこに行けば会えますかね?」

「なんだ、船にでも乗りたいのか?だがあそこは人の運搬は請け負ってないぞ。もしそのつもりなら、うちの船なら融通が利くがどうする?」

 若い人夫は唐突に営業をかけてきたが、弥彦郎は愛想笑いでそれを断った。

「い、いえいえ。私はただ山中屋に古い友人がいるから、それがどうしているのか話を聞きたいだけなんですよ」

「なんだそうなのか。ならばもう少し東に行くといい。しばらく歩くと『五つ山』の紋をつけている連中がたむろしているから、そいつらが山中屋だ」

「五つ山ですね。親切にどうもありがとうございました」

 礼を述べた弥彦郎は言われた通り、人夫の紋を確認しながら波止場を東へと進む。なるほど初めは気付かなかったが、波止場に出入りしている人夫たちの小袖にはそれぞれ目立つ場所に違う紋が入っていた。これは彼らが所属している問屋の紋なのだろう。

 そうしてしばらく歩いていると、教えられた通り、桔梗の紋様を崩したかのような五つ山の紋をつけた人夫たちがたむろっているところに出くわした。

(あれが山中屋の船乗りたちだな……)

 弥彦郎は物陰に隠れ、話しかける隙を伺うことにした。


 山中屋の船乗りたちを見つけた弥彦郎。だがいきなり話しかけたりなどはしない。彼の目的はあくまで柳生家の関係者と接触することにあり、下っ端連中だと話が通じない可能性があるからだ。

(できれば船頭と直接話をしたいのだが……。あいつか?)

 しばらく観察していた弥彦郎は立ち振る舞いから一番目上であろう者を見出した。その男は貫禄のある四十歳前後の船乗りで、部下や波止場の役人に細かく指示を飛ばし、そして何より背中に一番大きく山中屋の紋を背負っていた。彼が船頭と見て間違いないだろう。目星をつけた弥彦郎は周囲から人がいなくなった隙を見計らってその男に声をかけた。

「もし、ちょっとよろしいかな?」

「ん?なんだお前は?俺に何か用か?」

 この男もやはり修験者姿の弥彦郎に怪訝な顔をするが、弥彦郎はそれに構わず不意打ち気味に本題を切り出した。

「実は某、火急で柳生家の方と接触したいのですが、どうにかお取次ぎしてはいただけないでしょうか?」

「……貴様、何者だ?なぜ柳生家とのつながりを知っている?」

(ほう、半信半疑だったが本当に柳生家とつながりがあるのだな)

 男の顔に警戒の色がわかりやすく出る。実のところ弥彦郎は柳生家とのつながりは噂程度にしか知らなかったのだが、せっかくハッタリで驚いてくれたのだからとそのまま勢いで押し通すことにした。

「まぁ柳生家に関係のある者ですよ。『弥彦郎が会いたがっている』と伝えれば向こうもわかるはずです。それで取り次いでもらえますか?」

 男は山中屋の人間であるため坂崎家残党については全く知らなかったが、弥彦郎のただならぬ雰囲気からこれは自分が勝手に判断するべきではないなと察し彼の願いを聞き入れた。

「……承知した。大坂に手紙を出すから早ければ明日にも返答があるだろう。それまで貴殿はどうするつもりか?」

「ふむ、早ければ明日ですか。では私は近くの安宿にでも泊まりましょうかね。明日の昼頃またこちらに寄らせていただきます」

 そう言って弥彦郎は波止場を後にし、波止場近くの安宿を借りた。

(ふぅ。どうにか孝蔵たちに見つかる前に柳生家側と接触できそうだな。あとはどれだけ俺を高く売れるかだが、まぁそれは明日になってから考えればいいか)

 大あくびをする弥彦郎。どうやら先の見通しがついたことで、これまでの旅の疲れが一気に出てきたようだ。

(もう寝るか。土の上以外で寝るのは吉平の家以来だな)

 弥彦郎は重くなる瞼に任せて心安らかに眠りについた。


 翌日、弥彦郎は六つの鐘を聞いて目を覚ました。昨日横になったのは暮れ六つ前だったため、たっぷり十二時間は寝たことになる。

(ははっ、寝すぎだろう、俺。思ってた以上に疲れていたんだな)

 久方ぶりにぐっすりと寝た弥彦郎は気持ちよさげに伸びをする。するとそこに不意に声をかける者がいた。

「起きたか、弥彦郎」

「うおぉっ!?なっ、何だお前は!?」

 思わず飛び上がる弥彦郎。当たり前だが彼が借りたのは一人部屋だ。寝覚めに声をかけてくる者などいるはずもない。

 弥彦郎はすわ強盗かあるいはいよいよ残党たちが押し入ってきたのかと思ったが、当の男は特に慌てることなく声を立てるなという仕草をする。

「落ち着け。俺は柳生の関係者だ。お前が弥彦郎で間違いないな?」

「柳生!?……ほ、ほぅ。なかなか気の利いた出迎えをしてくれたな。しかし少々唐突だな。言っておくが俺に衆道の気はないぞ?」

 弥彦郎は気を取り直して強がった。これは弱いところを見せては後々の交渉に響くと思ったからだ。

 だが忍び込んできた男は呆れた様子でそれを遮ると、指をびしりと弥彦郎に向けこう言い聞かせた。

「いいか、落ち着いてよく聞け。この宿は監視されていて、街道にはお前を待ち伏せている奴が複数いた。心当たりくらいあるだろう?命が惜しければ下手な真似をするんじゃないぞ」

「なっ!?」

 弥彦郎の顔が一気に青ざめた。どうやら彼が安寧の日々を得るにはまだまだ先のようだった。

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