多比羅雅行 交渉に挑む 3

 堪忍袋の緒が切れた大ムカデはそれまでの手加減を止め、本格的に攻勢を仕掛けてきた。

 その力はすさまじく、終始三厳を圧倒し痛めつけたのち、とうとう彼の刀まで噛み砕いて二つに折ってしまった。

 折れた刀は大ムカデの牙の間をするりと抜けて落下し、まるで墓標のように地面に突き刺さる。これを見て三厳は心の底から自らの敗北を悟った。

(おしまいだ……。俺の、負けだ……)


 生物としての圧倒的な膂力の差を見せつけられた三厳は心から自身の敗北を認めた。

(完敗だ……。よもやここまで差があるとはな……)

 打ちのめされて天を仰ぐ三厳。そんな彼の胸中に現れた感情は悔しさでも死への恐怖でもなく、人間としての限界を知ってしまった諦観の感情であった。

(ははっ、何が新陰流だ。何が怪異改め方だ。本当の化け物相手では手も足も出ないではないか……。戦のない時代に生まれ、そして化け物にも勝てない。俺のやってきたことは何の意味もなかったのだ……)

 三厳は自分の剣に絶対の自信を持っていた。幼少期からの訓練に天賦の才。戦乱の世こそ去ってしまったが、かわりに就いた怪異改め方でも自分の力はきっと生かされることだろうと信じて疑っていなかった。だがそんな自信は一あやかしの牙によって簡単に噛み砕かれた。

 これは単に強い相手に一敗したという話ではない。単なる敗北ならばその後修行をこなせば雪辱を果たすこともできるだろう。だが彼らとの差はそんなものではない。おそらく今後数十年修業したとしてもひっくり返せないであろう力の差、三厳はそんな生物としての絶対的な差異をまざまざと見せつけられた。言ってしまえば大ムカデは三厳の未来までも噛み砕いたのだ。

(これ以上剣の道を進んでも意味などないのかもしれないな……)

 心身ともに完全に打ちのめされた三厳。その体からは一気に戦う気力が失せ、もはや指一本動かすことすらままならない。そんな三厳を見て大ムカデは満足そうにうなずいたのち、大きく顎肢を広げて三厳を食らおうとした。

 絶体絶命の窮地でありながら、三厳は自分に迫る大ムカデの真っ黒な大口をどこか他人事のように眺めていた。

(俺を食らうか。……それもよかろう。負けた武士は儚く消えるのがこの世の道理なのだからな……)

 しかしその毒牙が三厳の頭蓋に触れようとしたその瞬間、それを止めようとする必死の声が響いた。

「待て!止めろ!そいつを食うと後悔するぞ!」

 声の主は雅行であった。彼は打ちのめされた三厳を見て慌てて駆けてきたようだ。雅行は荒れた呼吸も気にせず声を張る。

「おい、大ムカデよ!そこの者はとある里の領主の息子にして、江戸の将軍の小姓も務めている男だ!そんな者を手にかけたとなれば里の者も、江戸の将軍も黙ってはおらぬぞ!」

 これを聞くと大ムカデは寸でのところまで近付けた口を三厳から離し、歩脚を動かし会話を始める。

「ホウ。コの者、江戸の将軍の小姓ナノか?」

「ああ、そうだ!こいつを害するということは江戸の将軍を害したも同義!下手に手を出せばその報復のために千や万の軍勢がここやってくることになるぞ!」

 高らかに言い切る雅行に対し、三厳は誰にも聞こえない程度の声で「そんなわけがあるか」と呟いた。

 三厳は確かに現将軍・家光の小姓であったが、所詮は数十人いるうちの一小姓に過ぎず、そんな者のために幕府が近江くんだりまで兵を派遣するはずがない。幕府の人間ではないとはいえ行政側の雅行がそれを知らないはずがなく、つまりはこれは大ムカデの動きを止めるための雅行の咄嗟のハッタリであった。

 その心意気はありがたいものであったが、残念ながら今の気力を失った三厳にとっては余計な雑音に他ならない。

「よせ、雅行……!俺は負けたんだ……。これ以上俺に生き恥を晒させないでくれ……!」

 武士は潔く死ぬもの。三厳は自分は死を受け入れたのだと主張するが、雅行はこれを真正面から否定した。

「腑抜けたことを言うな!命あっての物種だろうが!とにかくお前は疲れてるんだ、しばらく黙ってろ!」

「お、おい……!」

「黙ってろと言っただろう!おい、大ムカデよ!一つ質問に答えてもらおう!俺たちを食らうのはそれからにしてもらおうか!?」

 挑発された大ムカデは三厳がもはや動けぬほどに満身創痍なのを見て取ると、スッと離れて雅行の方を向いた。

「面白イ。尋ネテみヨ。ただし下ラぬ質問ダッタらオ前も食ラウてヤルゾ?」

 静かに殺気を放つ大ムカデに対し雅行は、足の震えを誤魔化しながら「ああ、上等だ!」と啖呵を切った。


「シテ、私に聞キたいコトとは何ダ?」

 八つの単眼で冷たく睨みつける大ムカデ。雅行は頬を叩いて気合を入れると、相手をまっすぐに見つめ返して問いかけた。

「大ムカデよ!仮に貴殿が某らを食らうとして、貴殿はいつまでそれを続けるつもりなのだ!」

「?」

 いまいち質問の意図がわからなかった大ムカデに対し雅行は言葉を続ける。

「そこの男を一人、ついでに私も殺して二人食らったとしよう。そこから貴殿はどうする?よもやそれで都が恐れて手を引くとは思っておるまい。むしろ危険な妖怪とみなされて改めて討伐隊が組まれて送られてくるはずだ。数は二人で足りなかったのだから倍の四人……いや、さらにその倍の八人くらいは来るかもしれないな。その八人を貴殿はどうするというのだ?」

 大ムカデは呆れたように返答する。

「くだラヌ問答ダな。八人ダロウが十六人ダロウが関係ナイ。漏レナク全員食ライ、私に向カッテきタコトを後悔サセてヤロウ」

「なるほど。ではその次は?」

「次ダト?」

「前にも言っただろう?我々は貴殿が憎いのではない。ただここが京の都に近いから、そこに危険な妖怪がいるから排除したいのだ。つまり貴殿がここにいる限り兵は際限なく送られてくる。十六人がダメならば次は三十二人。それがダメなら次は六十四。それを退けたとしても次はいよいよ百を超えるぞ。さぁ貴殿はそれでも戦い続けるのか?」

「……」

 雅行の質問の意図を汲んだ大ムカデはしばらく考えたのち愉快そうに歩脚を動かした。

「ナルホド。確カにいずれ私の手に余ル軍勢が押シ寄セテくルこともアルだろう。だがソウなればソレこそ逃ゲればイイ。そう、動クのはソの時にナッテからでイイ。にモかかわらずオ前は自分タチを殺サず、かつ今スグにコの場を去レと言ッテくル。逆に訊クが、オ前タチにソれほどまでの価値がアルのか?オ前タチにいったい何がデキるといウのだ?」

 今この場で雅行たちは何ができるのか。そう問われた雅行は不敵に笑って答えた。

「交渉ができる。貴殿と約定を結ぶことができる。陰陽寮の判入りのな」

「……ホウ」

 まんざらでもない反応の大ムカデ。その反応を見て雅行はここが交渉の勝負どころだと察し、慎重かつ大胆に論を続けた。

「先ほど言った通り、貴殿はいつか数に負ける。そしてその時貴殿はすべてを奪われる。なにせこのままでは将軍の小姓を殺した妖怪だからな。加減などしてくれるはずもない。交渉の目途もない。仮にうまく逃げおおせたとしても、それで追跡の手が止まるとも限らない。今や江戸の御公儀はこの国全土をその手中に収めているからな。その御公儀に睨まれれば貴殿はこれから一生追われる身となる。これから先、一生まんじりもできぬ夜を過ごすこととなるのだ」

「フム、考エタだけで面倒ソウだナ」

「できることならこんな事態は避けたいだろう?」

「否定はシナイ。ソれをオ前ならどうにかデキると?」

「ああ、陰陽寮経由で働きかけてやろう。『陰陽寮の名において、この者に手出しをしてはならない』とな。望むならばどこぞの神社の境内を紹介してもいい。そこならさらに落ち着いて暮らせることだろう。もちろんみだりに人を襲わぬことが前提だがな」

 この時代の『境内』には建物だけでなく、寺社所有の周囲の土地・山なども含まれていた。そういった場所は一般人の立ち入りが禁止されているところも少なくなく、ゆえに人目を気にせず暮らすことができるだろう。

「神社が嫌なら寺にも多少は伝手はあるぞ。生活ついでに仏心にも目覚めるかもしれないな」

「仏心ニは興味はナイが後ろ盾がデキるのは悪くナイ。だがソれも約束が守ラれてこそダ。オ前タチが約束を反故にしナイ確証はドコにアル?」

「はっきりと言えば『信じてくれ』としか言いようがない。強いて言うなら某たちがこの約束を反故にする利点が少ないというところだろう。それと……そこの男だな」

 雅行は三厳を指さした。

「その者は今時珍しい、敗北を恥じて命を捨てれるような男だ。そんな男が約束をたがえるような真似はするまい」

 雅行がそう言うと大ムカデは愉快そうに笑って見せた。

「……フフ。ナルホド確カに将軍の御小姓ともアロウ者が情ケをかけラレた上に、結ンダ約定を反故にスれば、ソれはモウ恥なんてものではナイな。……面白イ。オ前の口車に乗ッテやルとしよう」

「ということは……」

「ああ、コの地から去ッテやろう。コチラとて面倒事は御免だからナ」

 ひとしきり笑ったのち大ムカデはこの地を去ることを約束してくれた。交渉成立である。雅行はこの返答に満足げに強く拳を握った。


 大ムカデとの交渉の大枠がまとまった雅行は、細かい決め事は後回しにしてすぐさま三厳に駆け寄り、傷の治療に取り掛かった。当の三厳は始め武士の恥がどうこうと言って抵抗していたが、雅行が「敗者が文句を言うな」と恫喝すると黙り込み、その後は素直に雅行に体を預けていた。

 三厳は全身に打撲痕や擦り傷、切り傷を負っていたが、すぐさま処置が必要だったのは大ムカデの牙でえぐられた左腕くらいであった。

「これは……肉がだいぶ削げているな。しかも骨にはヒビが入っているようだ。支え木が必要だが近くに木はないし……。お、折れた刀があるな。これで支えるが、構わないか?」

「好きにしろ……。俺にどうこう言う権利はない……」

 雅行は手拭いと折れた刀を使い、手際よく三厳の腕を固定し吊る。その後は大きめの傷を選んで携行していた塗り薬を塗ってやった。小さな傷は富川に戻ってから処置するつもりだった。

 雅行がそうして治療をしていると、それを見ていた大ムカデがつつつと寄ってきて声をかけてきた。

「トコロデ人間ヨ。先ノ話だが、コチラからも二つホド要求がアルが構ワないか?」

 どうやら今回の件に関して大ムカデ側にもいくつか要求があるようだ。雅行は初めから無償で交渉が成立するとは思っていなかったため、これに二つ返事で頷く。

「要求?ああ、ここから離れてくれるのならできる限り聞こう。何が望みか?」

「デハまず一つ目だが、私を頼リにして集マッタ他の者たちは引キ続キここに住マわせてほしい。人が恐レているノは危険ナ私だけなのだろう?ならば木っ端ノ者は居テも構ワぬはずだ」

 大ムカデが遠くを見る。それにつられて雅行も目を向ければ、その先では道中見かけた下級のあやかしたちが不安そうにこちらを見ていた。

「彼らのことか。元からこの山に住んでいた者たちか?」

「半数はソウだが、もう半数は他所から流レテきタ者タチだ。近年人間同士ノ争いがめっきり減ッタだろう?そのセイで人間の敵意ノ目が彼らに向ケられるヨウになり、住処を追ワれる者が増エタというわけだ。彼らは人間のイナイ場所、そして人間を追い払エルだけの力を持つ者をヲ求メてここまで流れてきた」

 ここで言う『人間を追い払えるだけの力を持つ者』とはもちろん大ムカデ自身の事である。

「さすがに頼ッテきた者タチを放り出スのは心残リになる。ゆえに貴様が彼らノ権利も認メてくれたらコチラとしてもうれしイことだ」

「承知した。必ず上に掛け合おう。ただしあくまで人里に害をなさないことが前提だからな。徒党を組んだり目立つ動きをされたらこちらも動かざるを得ないことは理解してくれ」

 雅行がこう答えると大ムカデは安堵したように頷いた。

「ワかっている。コれで一つ安心できた。私も追ワれてココまで流ワてきた身だからナ。彼らの気持チがワかるのだ」

「なにっ!?貴殿ほどの相手を追い立てる者がいるのか!?いったいどんな化け物なんだ……」

 雅行は目を丸くして驚くが、大ムカデはそうではないと首を振った。

「私は以前はココより西、オ前タチで言ウトコロの美作みまさかの国にイた。アのあたりは村々が争ッテいたから私に手を出すヨウな輩はいなかったのダが、近年ソの争いがナクなってな。窮屈に感ジルようになって出テきたというわけだ」

 大ムカデの言った美作とは現在でいう岡山県北部にあった国である。この国は領地の大半が未開の山々だったせいで長期政権を敷ける戦国武将がおらず、ゆえに所属する村々は互いに状況に応じて協力したり敵対したりする独特の関係性を持っていた。聞くところによると大ムカデはこの村々の隙間を上手く渡り歩いて暮らしていたらしい。

 だが秀吉が天下を統一し、家康が元和偃武を宣言したことにより状況は一変。美作の村々の間にあった緊張は緩和され友好関係が改善された結果、その間で暮らしていた大ムカデに敵意の目が向いたのだという。

「ヒドイ話ダろう?山は人間だけノものではナイというのに。トはいえ下手に手を出シても山狩リされて数で押し切ラレるだけ。仕方なく別の住処を求メテ山を下リてきたというわけだ」

「そうか、貴殿も大変だったのだな。それでもう一つの願いとは何だ?」

「モウ一つは、暖カクなるまではココに住マわせてほしいとイウものだ。本格的ナ冬はコレからだろう?さすがの私モそんな時分に住処を追イやラレルのは少し困ル。その代ワリ草木が芽吹イてきたら必ずコの地から去ッテやろうゾ」

 この願いを聞いた雅行は少しの間考えたのち、「承知した」と頷いた。

「……承知した。確かにこれから冬本番だというのに住処を追うというのは、いくら何でも酷だからな。ただし春分の節句の頃までにはここから離れてもらうぞ」

「感謝スル。私もモウ少し食べ物のあるトコロで子供タチを生ミたいカラな」

 安心した様子の大ムカデに対し雅行は(こいつ、雌だったのか……)と秘かに驚愕した。


 雅行と大ムカデは春先にこの地を明け渡すことで同意した。細かい話はその時にまたすればいいだろうということで、雅行はひとまず富川まで戻ることにした。

「ではまた後日。その時は移住先の候補も絞れていることだろう」

「ウム。期待シテおるゾ、人間ヨ」

 大ムカデに別れを告げ、雅行は三厳に肩を貸しながら太神山を下山し富川へと戻った。その後神社の一室を借りて改めて三厳の治療をする。その頃になると三厳の頭もだいぶ冷めたようで、包帯代わりのさらしを巻かれながら自分の先の発言を謝罪した。

「……先程はすまなかったな。確かに死んで楽になろうというのは逃げだった。命を粗末にすることこそが何よりの不孝だというのにな」

「なに、わかればいいのさ。それにお前に無茶を言ったのは俺だ。お前がいなければ交渉もきっとまとまっていなかった。本当に感謝する。ありがとう」

 そう言うと雅行は片手が使えぬ三厳のためにお猪口に酒を注いでやった。三厳は照れ臭そうにそれを手に取り一息に煽いだ。

 こうして一仕事終えた三厳たちは富川で一晩過ごしたのち、来た道を戻る形で柳生庄へと戻ることにした。朝宮、湯船といった村々を抜け、和束まで戻ってきた三厳たちはここで一泊することに決め、柳生庄に向けて手紙を出した。ここから里まではたいした距離ではなかったが、道中坂崎家の残党に襲われたらいけないのでその護衛を呼んだのだ。

 翌日、早速複数名の柳生家家臣が迎えにやってきた。

「ご無事ですか、三厳様!?」

「よく来てくれた、皆の者。……すまないな。このような情けない姿を見せてしまって」

「何をおっしゃられますか!化け物と死闘を繰り広げたということはすでに聞き及んでおります。それで命があるのなら何を悔やむことがありましょう!もし万が一三厳様の身に何かあれば、殿や上様をはじめとした多くの人たちが悲しみまするぞ!」

 どうやら雅行が手紙を出す際に三厳が恥をかかぬよう手を打っていたようだ。改めて生存したことを喜ばれた三厳はこそばゆい気持ちを誤魔化すかのように頬をかいた。

「そう、だな……。うん、すまない。少し弱気になっていたようだ。……ところでここ数日里の方に問題はなかったか?」

 三厳がこう尋ねると家臣らは少し表情を硬くしたのち、神妙な様子で返答した。

「お体に障るかもしれませぬが報告させていただきます。三厳様が里を出られた翌々日、里に出羽守の残党関係者と思われる男が訪ねてまいりました」

「なに!?残党が里にだと!?それで里は無事なのか!?」

「被害はありませぬ。またその際いろいろと手に入れたものもありまして……。まぁこれに関しては里に戻ってから詳しくお聞きください。今はとりあえず無事に里へと帰りましょう」

「そうだな。護衛の方、任せたぞ」

 どうやら三厳たちが太神山へと出向いている間に柳生庄の方でも一悶着あったようだ。三厳は(これはいつまでもくよくよしている場合ではないな)と弱っていた心を奮い立たせて立ち上がった。

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