荘田之平 柳生庄へと向かう 1
津、二日目。
之平は丑三つ時を少し回った八つ半頃(午前三時頃)に起床した。之平は寝ぼけた目をこすりながら部屋の隅で寝ずの番をしていた康成に夜中の具合を尋ねる。
「おはよう。夜間に何か異変はあったか?」
「いえ、何も。宿に誰かが近付いた気配もありませんでした」
「そうか。ではあとは私が起きているからお前は少し休むといい。今日は大変な一日になるだろうからな」
「はっ。ではお言葉に甘えて……」
康成は壁を背に丸くなる。やがてか細い寝息が聞こえてくると、之平はそろりと窓を開けて階下の通りを眺めてみた。昼のにぎやかさとは打って変わって深夜の通りには人影一つなく、ただ静寂のみが延々と続いている。
(誰もいないようだな。まぁこんな時刻だし当然か)
之平はふぅと安堵の息を吐いた。どうやら思っていた以上に気を張っていたようだ。夜の冷えた空気が之平の火照った頬を撫でた。
之平らが寝ずの番まで立てて警戒していたのは、昨日から彼らの周囲に現れた不審人物のためであった。
中川家常の長屋を出てから現れたそいつらは之平たちの動向を探るような動きを見せている。おそらくは坂崎家の残党だろう。というよりそれ以外にここまで付きまとわれる心当たりがない。
柳生関係者と知って尾行したのか、それとも単に家常の長屋から出てきたから注視しているのかは知らないが、ともかくこちらもお役目がある以上油断はできない。
(遠くから探るだけなら害はない。問題は情報を渡すまいと襲ってきたときだ)
坂崎家残党ならば柳生に情報が渡ることを望まないはず。おそらくは里に着くまでに何かしらの妨害があるはずだ。
特に今回之平は家常より坂崎家残党の名前や人相を記した名簿を渡されていた。これがあれば残党への対策は大きく進むことだろう。これだけはなんとしてでも里に届けなければならない。
(そう、これだけはなんとしてでも里に持ち帰らねば……。何を犠牲にしたとしてもだ……)
静かに闘志を燃やす之平。その横で、窓の隙間から入った冷気のせいだろうか、善祐がぶるりと体を震わせて起床した。
「……む、之平殿か。何かあったか?」
「いえ、何もないのを確認していただけです。すみません、起こしてしまいましたかな?」
「お気になさらずに。そろそろ起きようと思っていたところだ」
ぐっと伸びをする善祐。なお彼が之平よりも遅れて目覚めたのは彼が寝ずの番の一人目だったからだ。
「さすがに夜襲はかけてこなかったか。となると今日の道中が勝負だな」
「ええ。できれば今日のうちに長野峠を越えられればいいのですが……。行けるでしょうか?」
「おそらくは大丈夫だろう。もとより津から峠越えは一日で行ける距離だ。問題があるとすれば天候くらいか。空はどんな具合だ?」
言われて之平は窓から空を見上げる。そこでは一面に張った薄雲が月明かりを弱めていた。
「……あまりいい具合ではないですね」
不穏な気配を感じ取り、之平はわずかに眉をひそめた。
しばらくして津の町に明け六つの鐘が響いた。それと同時に各地の木戸が開かれにわかに町が活気づく。之平らはその賑わいに紛れるように宿を出た。
この時代、六つに宿を出るのはやや遅い出発と言える。普通は暗いうちに宿を出て、明るい時間を最大限生かすように旅をする。街灯も何もないこの時代、一度日が暮れれば夜が明けるまで立ち往生するしかないからだ。
にもかかわらず彼らが出発を後らせたのはやはり不審者のためだった。互いの顔も見えないうちに外を歩けば不意の接近を許してしまうかもしれない。それを恐れての『待ち』というわけだ。
「……そろそろいいか。では俺らも出発しよう。出遅れた分急ぐことになるぞ」
「途中の休憩も最小限になるでしょうな。覚悟はいいか、長右衛門?」
「も、もちろんです!しっかり寝ました故体力も万全です!」
「それは頼もしい。では行こうか」
短い滞在であったが惜しむような余裕はない。一行は不自然でない程度に顔を伏せながら津の町を出た。
伊勢・津から大和・柳生庄までの旅程は往路に通った伊賀街道をそのまま逆走する形になる。隊列もまた昨日と同じく先頭に善祐、後方に康成、その間に之平・長右衛門親子が置かれていた。
そんな一行の今日の目標は長野峠を越えた先――伊賀の
「往きは二日かけて歩いたところを今日は一日で行くのですね」
「ああ。往きで一泊したのは無駄に体力を使わぬためで、もとより長野峠から津までは一日で行ける距離だからな。とはいえ遅れると日が暮れてしまうから油断はするなよ」
之平たちは往路では前田宿で一泊したが、それは安全面と家常との面会時間を考慮したためであって、本来伊賀街道の伊勢側は一日で踏破できる距離であった。
ただし津側から向かうと午後に峠越えをしなければならなくなるため、之平の言う通りあまり時間に余裕はない。山中で日が暮れたら目も当てられないことになる。特に今日は薄雲が張っているため暗くなるのは早いだろう。先頭を歩く善祐は時折前方の布引山地を見上げては渋い顔をしていた。
「……ダメだな。雲が晴れん。今日は一日あの感じかもな」
薄雲は朝から山頂部をほのかに隠している。今のところ雨が降る気配はないが、それもいつまで持つかはわからない。この地方は伊勢湾からの湿った風が吹き込むため天気が急変することは珍しいことではなかった。
「之平殿、少し急ごうか。雲があると周囲が暗くなるのも早まるからな」
之平たちは善祐の言葉に従い街道を進む足を速めた。そのおかげか一行は一刻と経たないうちに前田宿に到着した。
前田宿は津から二里程度のところにある宿場で、往路で一泊した町でもある。しかし今回は宿泊はもちろん腰を下ろしての休息すらする予定はない。之平たちは歩きながら水と食料を補充して、そのまま町を通り過ぎた。
そして町を出てしばらくしたところで康成がさりげなく後ろを確認する。
「……おそらくですが、つけられてますね。二人組です」
「む。昨日監視していた奴らか?」
「服は変わっていますがおそらくは。つかづ離れずの距離でついてきております」
康成曰く、津を出て少しした頃より一定の距離を保って二人組がついてきていたらしい。それだけなら偶然同じ方向を目指している旅人かもしれないが、彼らは之平たちが道中歩速を速めた後も、前田宿を通り過ぎた後も相変わらず距離を保ってついてきているという。十中八九尾行しているとみて間違いないだろう。之平は前を向いたまま尋ねる。
「外見は?」
「背は中肉中背で風貌は牢人風。
「裸足か。ならば山まで行けば諦めるかもな」
この時代はまだ常に履物を履くような文化は根付いておらず、地方では冬場であっても裸足で外を出歩くような人も多かった。とはいえそれはやはり日常生活圏での話であり、長旅や山越えの際には草鞋を履くのが普通である。つまり裸足の彼らは峠を越えるだけの準備はしてこなかったということだ。
このことを先頭の善祐にも伝えると彼も山までが勝負だと同意した。
「峠が文字通り分水嶺になりそうだな。そこさえ越えればあとは流れるように行けることだろう」
「ですが越えられますかね?雲は相変わらず張ったままですよ」
「ふぅむ。とりあえず長野宿まで行ってみよう。そこまでに雨が降れば宿を取ればいいし、行けそうなら行けばいい。考えるのは宿場に着いてからでも遅くはないはずだ」
「ですね」
伊賀街道は吹上坂のあたりから指針を北に変える。北上する道の先には伊勢国と伊賀国とを分ける布引山地がそびえ立っていた。
街道が北に向いたあたりから道は本格的に山道の様相を呈してきた。起伏が増え、進むたびに標高が上がり、道脇で休む者の姿もよく見かけるようになる。山影や林が視界を遮ることも多くなり、不審な影を警戒している之平たちにとっては神経を使う道が続いた。
そんな折、長野宿までもう間もなくというところで康成が背後の異変に気付いた。
「之平様。尾行していた連中が消えました」
「本当か?諦めたのだろうか?」
之平が堂々と振り返れば確かに背後にそれらしき人影は見えない。尾行者たちは山越えの装備をしていなかったから手を引いたのだろうか?しかし康成は険しい顔を崩さない。
「それならば吉。襲撃のために先回りしているのが凶ですな。どうしますか、善祐様?」
「いまさら慌ててもどうにもならん。俺らは俺らのやることをやるだけだ。ほれ、長野宿も見えてきたぞ」
善祐は遠く、長野川沿いに並ぶ町を指さした。そここそが長野峠ふもとの宿場、長野宿であった。
長野宿は伊勢側の長野峠ふもとの宿場である。それはつまり峠越えに挑戦するかしないかを決める最後の宿場であるということだ。
之平らはできれば今日中に峠を越えたいと思っているが時間も天候も微妙なところである。というわけで彼らは適当な茶屋に寄り、英気を養いつつ峠の情報を集めることにした。熱い茶で体の芯を温めながら善祐は店の主人に声をかけた。
「時に主人。雲が出ているが雨は降りそうか?」
「おや、お侍様方、今から峠越えですか?そうですな……おそらく今日か明日あたりには降ると思いますよ。このあたりは一度降り出すとしばらく続きますから、雨の中進みたくないならば今日のうちに出るべきですかね。……あー、でも今出ると山中で日が暮れるかもしれませんね」
「そこは問題ない。通ったことのある道だし足には自信がある」
「いらぬ心配でしたか。では息災を祈ってますよ。それともし雨が心配なら少し先に蓑を売ってる店がありますので、そこで買っていくといいですよ」
「助かる。寄らせてもらおう」
どうやら一日待っても天候は好転するかはわからないようだ。ならば進んだ方がいいだろう。之平たちは助言に従い先の店で蓑を買って長野宿を出た。
長野宿を出ると目に見えて街道を進む人影が減っていた。おそらく時間的に今日の峠越えをあきらめた者が多いのだろう。
急な静けさと徐々に暮れていく空に之平たちも心細くなるが、今はそんな弱音を吐いてはいられない。街道は山奥ということもあり足場が悪く、木々や道のうねりによる死角も増えてきた。長い行程で集中力も切れかけているし足も痛み出している。ここが今回の正念場だろう。善祐は後ろの之平たちに檄を飛ばしながら山道を進んでいく。
「一番高いところまでもう少しだ。そこさえ越えればもう難所なんてない。さぁあと一踏ん張り行くぞ。……っと、嫌な道だな」
先頭を歩いていた善祐は思わず顔をしかめた。彼が出くわしたのは倒木の脇を通る狭い道、死角の多いうねりのある
「こんなところ、さっさと通り過ぎてしまおう」
一行を促そうとする善祐。しかしそれより先に道の脇から二つの影が之平たちの前後を塞ぐように現れた。
「おっと、悪いが止まってもらおうか」
「しまった!?待ち伏せか!」
一行を挟み込むように現れたのは藍鉄色の小袖をまとった牢人風の男たち――之平たちをつけていた男たちである。どうやら彼らはどこかで草鞋を調達し、無理矢理山道を突っ切って先回りをしてきたようだ。
(くっ!森を突っ切ってきたか!それなりに急いだつもりだったのだがな!)
しかし地の利は向こうの方が一枚上手だったようで前後共に隙なく塞がれている。こうなればもう戦う他ないと善祐は柄袋を外し鯉口を切った。
「之平殿に長右衛門、二人はとにかく身を守ることだけを考えてください。康成!そちらは任せたぞ!」
「承知!」
こうして之平一行と謎の尾行者たちは布引山地の山道にて対峙した。
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