荘田之平 伊勢の津へと向かう 3
「おぉ!ここが津の町か!」
柳生庄を出てから四日目。伊賀街道を越えた之平一行はとうとう伊勢の津へとたどり着いた。
伊勢・津。現在の三重県津市に相当する地域で、津城城主には藤堂高虎が収まっていた。
この地は古来より伊勢の経済的中心地として栄えていたが、泰平の時代になり高虎によって改めて水路陸路が整備されるとその発展は益々著しいものとなる。港にはひっきりなしに東西の船が寄港し、伊勢神宮参拝のために拓かれた参宮街道には活気ある店々が並んでいた。陸路交通の要所であった上野もなかなかに賑やかな町であったが、港町・津はそれとはまた違った開放的な雰囲気で満ちていた。
「大きい……!ここもまた大きな町ですね……!」
長右衛門はとある宿の二階より往来を眺めながら興奮気味に呟いた。その瞳はキラキラと輝いている。大和の山奥しか知らなかった彼は、今まさに世界が広がる経験をしている最中なのだろう。
「すごい……!人がこんなに……!あぁっ、きれいな召し物だ。向こうの男はなんと派手な……。おや、向こうに見えるのは船か?なんと大きい……!」
「……若旦那はすっかり町に夢中なようですな」
「まぁ今まで柳生庄くらいしか知らなかったんだ。ああなっても仕方あるまい。私とて時間があればゆっくりと散策に出かけたいくらいだからな」
そう返した之平は改めて旅装束を着直し、再度外出する準備を整えていた。午前のうちに津に到着できたため今日のうちに本来の目的である情報提供者――坂崎直盛の元家来・中川家常の元に向かうことにしたのだ。
「では私と善祐殿は先方に会いに行ってくるが、その間長右衛門たちは……」
「あぁ美味そうなものを売っている棒手振りもいるな。いい匂いだ。……おや?なんだこの香りは?何か青臭い……川のコケのような……」
「青臭い?……あぁ、それは潮の香りではないか?津は港町だからな。風向きが変わって海から吹いてきたのだろう」
「海!聞いたことがあります!塩辛い水が延々と続いているとか!」
「あぁそうか。お前は海も初めてなのか。それならば……」
之平がちらと康成を見ると、意を汲んだ康成はこくりと頷いた。
「長右衛門、それに康成殿。すまないが某らが目的のお方に会いに行っている間、この町の調査に行ってもらえるか?」
「調査ですか?」
「ああ。なにせ知らぬ町だからな。何かあってもいいように、どこにどんな通りがあるのかざっと見てきてほしいのだ。頼めるか、康成殿?」
これに康成はにやりと笑って「承知いたしました」と返した。『調査』などとは言ったが、要はせっかく遠出してきたのだからいろいろ見て楽しんでこいということだ。
(之平様も存外に甘いお方だ。まぁ俺も宿でじっとしているよりは外をぶらつきたいからな。お言葉に甘えさせてもらおうか)
こうして長右衛門と康成は少しばかりの小遣いをもらい嬉しそうに通りに駆けていった。それを之平と善祐は微笑まし気に見送る。
「やれやれ。羽目を外しすぎて変なことに巻き込まれなければいいのですが」
「まぁ大丈夫だろう。康成はあれで賢い奴だ。その間にこっちはこっちでやることを済ませてしまおう。確か
「ええ。そこに出羽守様の元家来、中川家常殿というお方が隠居しているそうです」
之平と善祐も続けて宿を出た。目的地は津の南方・阿漕地区。時刻は四つ半(午前十一時)頃であった。
目的の小物屋は津城の南を流れる川・岩田川を越えた先にある阿漕という地区の一角にあった。
之平らが表店を訪ねると先んじて話を通してあったのだろう、二人はすぐに裏の長屋に案内された。
「隠居は長屋の一番奥の部屋に住んでおります。今の時間なら起きてると思いますので少々お待ちください。……もし、爺様!この前言ってた侍様方が来られましたよ!」
小間使いが乱雑に戸をどんどんと叩くと、奥からしわがれた声で「あい、わかった。入ってくだされ」と返事があった。それに従い戸を開けるとそこには頭のすっかり禿げた老人が着流しのまま座していた。二人は小間使いが店に戻ったのを見届けると早速相手の確認をする。
「卒爾に御免。某らは大和柳生庄・柳生宗矩様の使いの者だが、貴殿が中川家常殿か?」
「いかにも、某が坂崎出羽守直盛様の元家来・中川家常にございます。と言ってもご存じの通りお仕えしていたのは十年以上前の話ですがね。今はしがない小物屋の隠居ですよ。さぁかび臭い部屋で申し訳ないですが、どうぞお入りくださいな」
之平と善祐は促されるままに部屋に入り、改めて自己紹介をした。
「旅装束で失礼。某、大和柳生庄・柳生宗矩様の使い、荘田之平にございます。そしてこちらは護衛役の松木善祐殿にございます」
「ご丁寧にどうも。某、元坂崎家の
「坂崎家……。出羽守様、それと備前宰相様ですね?」
「ふふふ。聞いていたのですね。そうです、某は備前様の間者として出羽守の下についておりました」
この家常、立場こそ直盛の家来であったがその正体は直盛の政敵・宇喜多秀家が送り込んだ間者――いわゆるスパイであった。
とはいえ直盛も秀家も共に失脚してしまったため、今は主君を持たないしがない小物屋の隠居爺にすぎない。そんな隠居爺が恐れているのが最近不穏な動きを見せている坂崎家の残党たちである。
「まったく困ったものですよ。こっちはもう出羽守のことなど忘れていたというのに。連座で罰せられたらどうしてくれるというのか」
家常が恐れているのは残党らが暴れることで元坂崎家家臣への風当たりが強くなることだった。ただでさえもう依るところがないのだ。この年で、直盛に仕えていたというだけでお上から目をつけられてはたまったものではない。
故に今回家常は身の保証を条件に情報を提供してくれるというわけだ。
「心中お察しします。こちらもできる限りの協力は致しましょう。そのためにも貴殿が知っている残党らの話をお聞かせ願いたい」
「そうですな。しかし、ふむ……。これは根の深い話だ。さて、どこからお話ししましょうか……」
家常はしばし宙を見上げ考えたのち、二人に尋ねた。
「お二方は出羽守と宗矩様との間に何があったのかはご存じなのですかな。正確に言えばあの日御公儀からの使者として赴いた宗矩様――かのお方がどのようなお話をなされたか、その内容およびその顛末はご存じでしょうか?」
「それは……!」
固まる二人。家常が言っているのはおそらく当時の宗矩の交渉――直盛が腹を切れば御家は存続させるという提案、そして直盛が死んだにもかかわらず結局坂崎家が取り潰しになったことを言っているのだろう。
古くからの家臣である二人はその話は聞いていた。しかし家常がどこまで知っているのかまではわからない。もしかしたらカマをかけている可能性もあるため、之平は慎重に言葉を選んで返答した。
「……当時の某は取るに足らない身分だったため詳しいことは存じ上げませぬ。ただあの件に関しては種々様々な噂が出回っていたことは聞いております」
この之平の返答に家常は老人らしいいやらしい笑みを口端に浮かべた。
「あぁそうですね。貴殿らの立場ならそう答える他ない。これは気の利かないことをしてしまって申し訳ない。……では宗矩様が奉書を持って屋敷に来たとこより話し始めましょうか。互いの認識に齟齬があると困りますからね」
そう言うと家常は坂崎事件当日のことを、まるで講談師のように饒舌に語り始めた。
「……というわけで宗矩様は勘兵衛様に伝えたんですよ。『どんな形であれ、某は出羽守が腹を召したと伝えよう』とね。いやぁ上手いことを考えたもんですよ。御家存続を秤に乗せて殿を討つことをそそのかしたわけですからな」
懐かし気に『あの日』のことを語る家常。それを聞いていた之平と善祐は驚愕していた。なぜなら家常が語る話が、自分たちの聞いていた坂崎事件の全容とほとんど同じだったからだ。
(どういうことだ!?『あの日』の真実は極一部の者しか知らぬはず。なのに何故一家来でしかないはずの彼がここまで事細かに知っているのだ!?)
坂崎事件は政治的にとても複雑な事件だったため、その詳細を知る者は多くはない。特に御家存続の密約のくだりなど当時の幕府上層部と宗矩の類縁者、そして坂崎家家老の坂崎勘兵衛くらいしか知らないはずだ。
それをなぜ一家来にすぎない家常が知っているのか。困惑する之平を見て、家常はしわの満ちた顔にさらにしわを作って、くっくと笑った。
「種を明かしますとね、実は十一年前のあの日、勘兵衛様と宗矩様との会談を天井裏からこそりと覗いていた者がいたのですよ。その者がすべてを聞いておりました」
「天井裏……まさか忍びですか!?」
忍びと言えば伊賀や甲賀が有名だが当然似たような隠密活動を行う組織は全国に存在した。坂崎家ほどの家ならば忍びの一人や二人くらい抱えていたとしてもおかしな話ではないが、しかしそれならそれで新たな疑問が出てくる。
「ではなぜ出羽守様は寝首をかかれたのですか?企みを聞いていたというのなら警告を出していたことでしょう。よもや主君の危機をそのまま放っておくなんてことはしないはずですし……あっ!」
そこまで言って之平は何かに気付いてハッとした。
「……まさかその忍びも備前宰相の間者だったと?」
「ふふふ。さすがに鋭い。当時すでに殿は八丈島に流されておりましたが、かといって出羽守に与する理由もなかったですからね」
なんと宗矩らの会談を監視していた忍びもまた秀家の息がかかった者だったのだ。なるほど共に秀家の間者なら家常が事の次第を聞いていてもおかしくはない。彼らは危険が迫っていることを知りながら、本当の主君ではないため直盛にそのことを警告しなかったのだ。
(いや、単に主君云々の話ではないだろう。彼らの本当の主君――備前宰相はその数年前の関ヶ原の時に西軍についていたためすでに失脚している。対し出羽守は東軍について出世した。つまり彼らにとっては黙っていることが真の主君のための意趣返しになったというわけだ)
因果な話だと之平はぞっとした。
「……まさか先日亡くなったという出羽守の右筆も備前様の手の者で?」
「いえ、彼は普通に出羽守の家臣でした。しかしどこかから噂を聞いたのでしょう。立場上顔も広いですしね」
宗矩によると今回の旧家臣らが動き出したのは坂崎家の右筆の葬儀がきっかけらしい。右筆とは貴人に代わって文章を代筆するお役目のことで、現代で言えば秘書に近い役職である。地位が高く顔も広いため、どこからか噂が入ってきてしまったのだろう。
「噂を聞いた彼は自分の胸にとどめておけず、つい周囲の者に漏らしてしまったそうです。そしてそれを聞いたものが葬式の場でふと話してしまった」
「そこで十一年前の真実を知った家臣たちに復讐心が芽生えたということですか……」
「そういうことですな。彼らは旧坂崎家の縁故を頼りに人を集め、お上らに一矢報いようとしているそうです。少し前に私のところにも来ましたよ。もちろん追い払いましたがね」
「それはありがたいことです」
之平はこの言葉にほっとしつつも残党らの動きの速さに気を引き締めた。家常のような老人にまで声をかけているということは、もうおおよその旧家臣に接触したのだろう。そのうち何人が残党に加わったのかは知らないが、どうやら事態は思っていた以上に進んでいるようだ。
「これは警戒を強めるように進言した方がいいやもしれませぬな。家常殿、集まった残党らの名前などはわかりますか?」
「ええ。上手く聞き出しました。私の知る限りですが、こちらにまとめております」
そう言うと家常はあらかじめ用意していたのだろう、脇のつづらの中から折りたたまれた古紙を取り出した。そこには賛同した旧家臣の名前と簡単な人相および年齢が記されていた。その数二十一人。しかし人数もさることながら之平を驚かせたのはその年齢であった。
「これは……存外若いのですな」
残党連中の年齢層は三十代が八人と最も多かった。十一年前に家臣だった者かつ今も活動的に動ける者と考えれば妥当なところだろう。しかし続く世代は二十代が七人、そして十代が五人と若い世代が続く。これは当の事件が十一年前だと考えるとかなり異様なことである。
「なぜこんなにも若い連中が賛同しているのですか?この年齢だと忠義はおろか出羽守の顔すら覚えてないでしょうに。一番若い者など十三歳でうちの倅よりも幼いですぞ」
之平が尋ねると家常は困ったように頭を掻いた。
「まぁ一見すると異質ですよね。彼らは旧家臣の子供たち、次男坊や三男坊たちです。高齢になった親に代わって主君の敵を討ちたいと言っているそうですが、それもどこまで本当か……」
「といいますと?」
「あくまで軽く耳にした話ですが、若い連中の『主君の仇討ち』というのは建前で、その真の目的は単に暴れたいだけだろうとのことです。なにせ何事もなければ四万石の大名の家臣の家だったのが、その御家がなくなり侘しい農民生活です。盗賊じみた事でもしないとやってられないんでしょうよ」
「なるほど坂崎家の者ならば再雇用もままならなかっただろうからな。彼らも牢人のようなものか」
「ええ。そしてそんな牢人まがいの若造でも仲間に加えるほど、残党連中はなりふり構わぬ姿勢だということです。どうかゆめゆめ油断なさらぬようお願い申し上げます」
「承知いたしました。必ずやこの件、鎮めて見せましょうぞ」
どうやら事件は相当に逼迫しているらしい。之平は神妙な顔で残党らの名前が書かれた紙を懐にしまうと改めて家常に頭を下げた。
「では貴重な情報、ありがとうございました。どうぞ家常どのもお気をつけて」
家常から情報を貰った之平と善祐は一礼して長屋を出た。時刻はまだ正午を超えたあたりだった。
「さて、まだ日は高いですね。せっかく津まで来たのですから海のものでも食べに行きましょうか」
之平が善祐に尋ねるも、彼は怪訝な顔で何もない通りの方を睨みつけていた。
「……どうかなされましたか、善祐殿」
「いや……誰かに見られている気配がしたものでな……」
善祐の真剣な雰囲気に之平も気を引き締める。
「まさか残党?家常殿は罠だったのか?」
「それはどうだろうか。初めから罠ならばそもそも俺たちに会う必要はない。おそらく単に家常殿を見張っていたのではないか?かの人は本当は備前宰相の家来だったのだろう?ならば残党らにとっても疎ましい相手のはずだ。もちろん知っていればの話だが」
「ありえますね。……私たちも目をつけられたでしょうか?」
「さあな。とりあえずここは町を適当に回って向こうの出方を窺うとするか」
こうして誰かの気配を感じ取った之平らは津の町をぐるりと回ることにした。
「まったく、観光ならもっと落ち着いてしたかったのだがな」
「同意しますよ。幸いだったのは長右衛門たちが同行してないことですかね。できれば宿に戻るまでに撒ければいいのですが……」
しかし津の町はほとんど知らぬ町。おそらく土地勘は向こうの方がはるかに上だろう。一応之平らはたっぷり二刻ほどかけて宿に戻ったが、不穏な影を撒けた自信はない。二人がこれからどうしようかと悩んでいると長右衛門たちも宿に戻ってきた。
「父上!ただいま戻りました!海やら船やらを見てきました!いやぁもう本当にすごかったです!」
始めてみた海に興奮状態の長右衛門。どうやら長右衛門たちは普通に津の町を楽しんできたようだ。
「それはよかった。時に二人は散策中に不審な人物を見かけなかったか?」
「不審な人物?私は何も感じませんでしたが、何かあったのですか?」
「うむ、実はだな……」
之平が簡単にいきさつを話すと長右衛門は覚えがなかったが、康成の方は心当たりがあるように頷いた。
「あぁなるほど。だから宿を見張っているような奴らがいたのですね」
「えっ!そんな人がいたんですか!?」
「ええ。辻の物陰からちらちらと窺っている者がおりました。上手く溶け込んでいたので若旦那が気付けなかったのも無理はないでしょう」
「ふむ、やはり撒けなかったか。顔は見たか?」
善祐の問いに康成は首を振る。
「いえ、私どもが来たのとは逆の辻でしたので……。格好もよくいる牢人風でしたので町で見つけるのも難しいでしょう」
「構わんよ。もうここでの目的は達成したからな。明日朝一でここを発てばいい。よろしかったですな、之平殿?」
之平は一も二もなく同意した。
「もちろんです。早く事態が進んでいることを三厳様らにお伝えせねば。長右衛門も文句ないな」
長右衛門は青い顔でこくこくと頷いた。
「某はもう十分得難い経験をさせてもらいました。あとはもう皆様方の邪魔にならないようについていくだけです」
こうして之平一行は来たばかりであったが明日朝一で津を発つことに決め、早めに床に就いたのであった。
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