柳生宗矩 坂崎事件を思い出す 4

『直盛が腹を切って降伏すれば御家取り潰しは免除する』

 そう書かれた奉書を持って江戸城を出た宗矩は外で待たせていた家臣と合流し一度自身の屋敷へと戻ることにした。今回宗矩に与えられたお役目は万が一によっては命を落としかねないもののため、最低限の準備をするために屋敷に戻る時間が与えられたのだ。

 屋敷に戻った宗矩が家臣らに事の次第を説明すると、当然のことではあるがひどくその身を心配された。

「それは大丈夫なのですか、殿?相手は江戸の町に兵を集めるような常識外れなお方。そんなお方に切腹を迫るだなんて、逆上して襲われかねないことですよ」

「危険は承知。むしろそんなお役目に指名していただけるだなんて誉れなことだ」

(それにこのお役目は単に奉書を持っていくだけではないからな)

 家臣には伝えなかったが、今回のお役目の真の目的は御家取り潰しを餌に坂崎家内で謀反を起こさせることにある。かなり高難易度な任務であったが、それ故に成功させれば利勝をはじめとした幕府上層部からの評価は大きく上昇することだろう。一命を賭けるだけの価値は十分にある。

「万が一私が戻らなくとも、あとのことは良くしてくれると大炊頭様らはおっしゃってくださった。皆の者、留守は任せたぞ」

 宗矩は念のための遺言を数通したためると足早に屋敷を出た。その際見送る家臣たちの表情は皆一様に最悪の展開を予感した悲痛なものだったそうだ。


 直盛の湯島の邸宅は江戸城天守から北東に半里、約二キロメートルほどのところにあった。このあたりは普段は道が広くゆったりと歩けるのだが、今日ばかりは手前約一キロのところから道の封鎖とやじ馬でごった返していたため、宗矩と彼の家臣はそこをかき分けるようにして進むしかなかった。

「御公儀にござる!通してくれ!」

 通常の倍ほどの時間をかけてどうにか屋敷前まで来た宗矩は、現場を仕切っていた目付に城からの使者だと名乗り出る。

「城からの奉書を持ってまいりました。早速訪ねようと思うのですが、向こうに何か大きな動きはあったでしょうか?」

「これはこれは、よくぞ参られました。出羽守様ですが包囲して以降固く門を閉ざし何の動きも見せてはおりませぬ。さすがに使者を無下にすることはないでしょうが、それでもゆめゆめ気を付けて参られよ」

「お心遣い感謝いたします」

 話がまとまると坂崎邸を包囲していた足軽たちの壁に人一人分の道ができた。宗矩は腰から大小を抜き、それを今にも泣き出しそうな顔をしている家臣に預けた。

「では少し行ってくる」

「殿!無事の御帰還を祈っております!」

「そう辛気臭い顔をするな。するべきことをすれば万事上手くいくはずだ」

 そんなやり取りをしていると、それを見ていた周囲の兵たちのひそひそとした会話が宗矩の耳に入ってきた。

「おや、誰だ、あれは?」

「上様の剣術指南をしてらっしゃる新陰流の柳生殿だそうだ。城の使者として屋敷に向かうらしい」

「ほぅ剣術師範か。まさか一人で逆賊をやっつけるつもりなのか?」

「そんなわけないだろ。いくら腕に覚えがあったところで剣士一人で屋敷一つを制圧できるはずもない。きっと急な話で使者に出せる人がいなかったとかだろうよ」

「あぁそうか。しかし指南役も大変だな。もしかしたら殺されるやもしれないというのに」

 そう、使者がある程度丁重に扱われるのはあくまで一般論で、見せしめや宣戦布告として殺されることだってないわけではない危険なお役目である。ましてや相手は江戸の町に兵を集めた坂崎直盛だ。どんな対応をしてくるかわかったものではない。

 宗矩もその点は重々承知していたが、それ以上に好機だととらえていた。もはや武芸者は斜陽となりつつある時代。そんな中で老中勅命のお役目などそうそう与えられることはない。この機を逃せば柳生新陰流は今後二度と浮上してくることはないだろう。

(ここが柳生の天下分け目よ!)

 意を決した宗矩は丸腰で足軽たちの間を抜け、そして固く閉ざされた坂崎邸正門のくぐり戸を叩いた。


「御免、御公儀からの使いの者にござる」

 丸腰となった宗矩は屋敷を包囲する兵たちに見守られながら坂崎邸のくぐり戸を叩いた。だがこれに対する返答はない。宗矩は再度戸を叩く。

「御免、御公儀からの使いの者にござる」

 屋根の上には小僧が見張りに上っていたため気付いてないということはないはずだ。おそらくどう対応するかを上に伺いに行っているのだろう。

(もし出羽守様が本当に武力のみで解決するつもりなら門前払いされるだろう。しかし交渉の余地があるのならば中に入れてくれるはずだ)

 しばらくするとくぐり戸が拳一つ分ほどゆっくりと開いた。隙間からは警戒した面持ちの若い武士が見える。

「……城からの使いとは貴殿のことか?」

「いかにも。老中・土井大炊頭様方からの奉書を持ってまいりました」

 宗矩が懐にしまった奉書をちらと見せると拳一つ分だった隙間は胴幅ほどに開かれ、乱暴に「入れ」と促された。宗矩が言われた通りするりと隙間をくぐると扉はすぐに閉じられた。

 門を抜けた先では坂崎家の家臣らが待ち構えていた。彼らは殺気を隠そうともせずに宗矩を囲む。その数前後に三人ずつの計六人。しかし宗矩はこれに動揺していなかった。これは勝てる自信があったからなどではなく、初めから一種の諦めの心地でここに来ていたためである。

(ここは敵陣ど真ん中。相手が殺そうと思えばどれだけ抵抗しても殺されてしまうだろう。ならば今更うろたえたところで意味などない。先んじて命を捨て置くだけのことよ)

 その覚悟が功を奏したのか、入念な身体検査の結果宗矩が寸鉄一つすら帯びていないことを知ると、囲んでいた家臣らは驚愕に言葉を失った。

「まさか本当に裸一貫で飛び込んでくるとは……」

 宗矩の命を惜しまぬ態度に家臣らは一種の敬意を抱いたようで、宗矩は丁寧に奥座敷まで案内された。


「少々お待ちくださいませ」

 通された奥座敷にて言われた通りしばらく待っていると、やがて憔悴しきった様子の初老の武士が入ってきた。彼は一礼し自らを坂崎家家老・坂崎勘兵衛かんべえと名乗った。

「お待たせいたしました。某、津和野つわの国坂崎家家老・坂崎勘兵衛にございまする」

「大和国柳生家当主・柳生宗矩にございます」

 勘兵衛は宗矩の名を聞いて「ほう」と小さく漏らした。どうやら名前くらいは知っていたようだ。

「して宗矩殿。御公儀の使いとして参られたと聞きましたが、年寄様方らは何と?」

「その件につきましては奉書を預かってまいりました。こちらを出羽守様にお渡しください」

 そう言って宗矩が懐から奉書を取り出すと、勘兵衛は微妙な表情でそれを受け取った。

「確かに預かりました。……これは先に某が拝見してもよろしかったでしょうか?」

「それは某からは何とも……。出羽守様はお休みになられているのですか?」

「いえ、殿は明朝より蔵にこもっておりまして……」

 勘兵衛によると直盛は今朝方家中の者に戦の準備をするように指示を出すと、すぐに自身は蔵にこもってしまったらしい。どうやら彼は蔵を本丸に見立てたようで、食事睡眠はもちろんのこと排泄まで蔵の中で済ませているそうだ。

「殿曰く、下手な甘言など聞くつもりもないとのことで……。故にこの奉書の中身次第では余計に意固地になられる恐れがありまして……」

(意固地……。どうやら勘兵衛様は今の出羽守様のやり方を過剰だと思っているようだな……)

「なるほど、苦労なされているようですね。ではどうぞご一読ください。某は何も見なかったことにいたします」

「かたじけない。では……」

 勘兵衛は礼を述べると奉書を開いた。宗矩はそれを見て、(さて、どう出るか……)と勘兵衛の反応に注視した。


 宗矩が渡した奉書の内容――それは直盛に自刃を促すものである。家長である直盛が責任を取って腹を切れば御家は存続させる。そんな一方的な、上から目線の内容だ。憤って刀を抜いたとしても不思議ではない。

 だが読み進める勘兵衛の反応は「なんと……なんと……」と苦し気に呟くばかりで憤っている様子はない。そして読み終えると大きく息を吐き、しばしの間苦しげな表情で固まっていた。おそらく幕府の敵となってしまったことに、引き返せないところまで来てしまったことに今更後悔の念がわいてきたのだろう。

「あぁ何ということだ……。某が事前にきちんと諫めていれば……。まだ年若い者もいるというのに……!」

 もはや戻らぬ時を嘆く勘兵衛。初老の男がさめざめと嘆く姿は痛ましいものであったが、それは十分付け入る隙であった。

(この様子……。どうやら勘兵衛様は根っからの強硬派ではないようだ。加えて家老としての責任感もある。ならば行けるか……?)

 宗矩は、若干良心が痛んだが、勝負に出ることにした。

「……勘兵衛様。某も貴殿らの国とは比べものにはなりませぬが小領の主。御家の危機に心痛めるお気持ち、我が身のことのように感じます。……それを踏まえたうえで、勘兵衛様。実は某、奉書を持ってくる以外にももう一つお役目を与えられておりまする」

「もう一つのお役目?それは何ですか?」

「それは『出羽守様が腹を召された』と確かに伝えるお役目でございます」

「?」

 勘兵衛は意味が分からないという顔をしたが、それも当然だろう。直盛はまだ腹を切ってないし、これからも切ることはないはずだ。だからこそ宗矩はもう一言だけ付け足した。

「勘兵衛様。某のお役目は城の方々に『出羽守様は自刃成された』と報告することにございます。……たとえそれがどのような死であったとしても」

「どのような……なっ!?そ、それは……それは……!」

 勘兵衛の乾いた額に脂汗がにじむ。どうやら彼も気付いたようだ。誰かが直盛を殺せばそれを『切腹なされた』と宗矩が報告してくれるということに。そしてそれで御家が守られるということに。

 さらに言えば現在屋敷の中でこのたくらみを知っているのは勘兵衛のみである。つまり直盛を殺す役目を担うのは……。

「しょっ、少々考えるための時間をいただけますか?」

「もちろんです。ですがあまり時間がないことはご理解願います。この策が失敗したと知れば、上はすぐに二の矢三の矢を射ってくることでしょう」

「承知しております……」

 勘兵衛はぶるぶると体を震わせながら部屋を後にした。宗矩は『結果』が出るまでこの奥座敷に留まることとなった。


 それから時は一刻二刻と過ぎていった。気付けば江戸の町は夕闇に包まれ、隣人の顔も判別できないくらいに薄暗くなっていた。

 坂崎家奥座敷で待機していた宗矩はふと庭の方でガサゴソと人の動く気配を感じ外を見た。薄暗がりを何事かと思って眺めていると、やがて庭にぼうっとかがり火が一つ焚かれた。火は煌々と周囲の庭木や建物の影を照らす。おそらくは夜間の侵入者を防ぐためのものだろう。

 またよく目を凝らせば壁の向こうにも揺らめく炎の影が見えた。こちらはおそらく外で屋敷を囲んでいた幕府の兵たちのかがり火だろう。向こうも屋敷からこっそりと逃げる者を見逃さないつもりのようだ。

(かがり火か。いよいよ戦場じみてきたな)

 この時代は木造建築が多いため夜間であってもこのような大きな火を焚いたりはしない。逆に言えばそれだけ今が非常事態だということだ。江戸の町の緊張が直に肌に伝わってくる。

 ただ渦中の宗矩は状況の割には落ち着いていた。

(ここで私がするべきことはもう終わっている。あとは勘兵衛様のお心次第だ)

 宗矩は静かに瞑想しながらその時を待っていた。勘兵衛が動き出したのはそこからさらに数刻後、夜の八つの鐘が鳴る頃(午前二時頃)であった。


 草木も眠る丑三つ時。長いこと自室にこもっていた勘兵衛はいよいよ意を決し静かに部屋から出た。向かう先は直盛がこもっている蔵である。

 その蔵であるが直盛がこもっているだけあって扉の前には小さなかがり火が焚かれており、さらに近くには二人の寝ずの番が立っていた。彼らは偉いものでこんな時間であってもしっかりと起きており、初め近付いてくる影を警戒し槍を構えていたが、やがて相手が勘兵衛だとわかると緊張を解いて楽にした。

「勘兵衛様でしたか。いかがなされたのですか、このような時刻に?」

「うむ、実は殿に折り入って相談したいことがあってな。すまぬが通してくれるか?」

「こんな夜更けにですか?おそらく殿もお休みになっておられると思いますよ」

 今の時刻は午前二時頃。見張りたちの疑念はもっともであったが勘兵衛もここで引くわけにはいかない。そのための言い訳はすでに用意してある。

「殿にお話していないことがあったのを思い出してな。ほら、昼に城から使者の方がいらしたのはお前たちも聞いているだろう?かの人が報告に帰る前にそのことについて細かく確認しておきたいのだ」

 見張りの二人は少し不審がっていたが相手は家老である勘兵衛だ。結局二人に彼を止めるだけの力はなく、小さな灯明皿とうみょうざら(皿の上に油とこよりを乗せた当時の照明器具)を渡し蔵への侵入を許可した。

「おそらく殿は奥でお休みになっていると思われますが……」

「申し訳ないが起きてもらうさ。御家の危機だからな。……あぁそうだ。すまないが話の内容が漏れるといけないから、私が入ったら蔵の扉は閉めさせてもらうぞ?また私の許可があるまで誰も中に入れるなよ?」

「承知いたしました。蔵の外の見張りはお任せください」

「うむ。すまないな……」

 罪悪感を張り付いた微笑で隠しつつ、勘兵衛は何食わぬ顔で蔵の中に入ってその扉を閉めた。


 直盛は蔵の一番奥で横になっていた。直盛の元まで来た勘兵衛はまず振り返って蔵の扉が閉められていることを確認した。扉はきちんと閉ざされている。これなら中の音が外に漏れ聞こえることはないだろう。

 続けて勘兵衛は小声で直盛に声をかけてみる。

「……殿。起きておられますか?」

 しかし返事はいびきのみである。少し鼻を利かせれば周囲には酒の匂いもした。おそらくは籠城のストレスから酒を飲んでそのまま寝入ったのだろう。これならば異変に気付いて急に起きてくるなんてことはないはずだ。

 そんなあまりに完璧な状況に勘兵衛は思わず小さく笑みをこぼしてしまう。

(ここまでお膳立てされるとは、因果なものだな……)

 覚悟を決めたつもりでいたが、やはり人情としてどこか失敗してほしい気持ちもあったようだ。だがどうやら天はここで直盛を殺せと言っているらしい。ならばと勘兵衛は改めて自らの宿命を受け入れた。

 勘兵衛はまず返り血を防ぐために静かに小袖を脱いだ。そしてそれを脇にやるといよいよ隠し持っていた小太刀を抜く。小太刀は父の代から使っていたもので刃渡りは二尺ほど。護身用程度のものであるが寝首を掻くならこの程度で問題ない。勘兵衛はそれを両手で握り、切っ先を首元に定めた。狙うは首の気道から頸動脈にかけて。これらを一気に断てば声を出したり暴れたりする前に絶命してくれることだろう。

 灯明皿の火がゆらゆらと二人の影を照らす中、勘兵衛は最後の深呼吸をした。

(人は一代、御家は末代。殿。すべて終わればすぐに後を追いますゆえ、どうかお許しください……!)

 そして勘兵衛はその小太刀を一心に突き立てた。


 勘兵衛が蔵から出てきたのは半刻ほど経ってのことだった。

「おや、勘兵衛様。もうよろしかったのですか?」

「……ああ。どうにか殿にはご理解いただけたよ。夜分に急に訪ねてきてすまなかったな」

「いえ、御家のためとならば仕方ありますまい。……ですが大丈夫ですか?非常にお疲れのご様子ですが!」

「そうか?……いや、そうかもな。うむ、ゆっくりと休ませてもらうさ……」

 そう言って勘兵衛はふらふらと蔵を後にした。この時この見張りたちがもう少し感覚を研ぎ澄ませていれば、勘兵衛の体からわずかに血の匂いがしたのに気付けただろう。しかし幸か不幸か見張りの二人はそれに気付かず、そして勘兵衛はその足で奥座敷にまで向かった。

「宗矩殿。起きておられますか?」

 勘兵衛が外から声をかけると、深夜であったにもかかわらず宗矩はすぐに返事を返した。

「はい。何か御用でしょうか」

「……殿がただいま自刃なされました」

「……そうですか。では某はそのことを伝えに参ります」 

「承知いたしました。では門までご案内いたしましょう」

 奥座敷から出て正門へと向かう二人。その間二人は特別言葉を交わしたりはしなかったが、いざ門から出るその直前、勘兵衛が宗矩を呼び止める。

「宗矩殿……!」

「どうかなされましたか、勘兵衛様?」

 宗矩が顔を向けるとそこには死人のような生気のない顔をした勘兵衛がおり、そして彼は丁寧に頭を下げた。

「宗矩殿。どうか御家をよろしくお願いいたします……」

 この瞬間、宗矩は勘兵衛の胸中を悟った。

(あぁ、このお方は後を追うつもりなのだな……)

 宗矩は小声で、しかし力強く「お任せください」と答えた。


 その後、夜が明けると直盛の死はすぐに発覚した。当然屋敷はパニックとなるが、そこに追い打ちをかけるように幕府より降伏勧告がなされる。これに一部の家臣は徹底抗戦を唱えたが直盛の死による士気の低下は否めず、最終的に家老・坂崎勘兵衛が全面降伏を宣言することにより事態は収束した。

 事件の詳細は公表されなかったが、多くの者が使者として屋敷に向かう宗矩を目撃していたため必然宗矩の内外からの名声は一気に高まった。敵陣に丸腰で乗り込む武人としての評価は当然のこと、何より政治的に難しい場面での落ち着いた立ち振る舞いにより利勝ら上層部からも一目置かれるようになった。

 しかしそんな躍進とは裏腹に、この事件は宗矩にとっては思い出したくもない苦い記憶となる。その理由は事態終息後、坂崎家が御家取り潰しになったためであった。

「どうしてですか!なぜ坂崎家が御家取り潰しになるのですか!?」

 そう食って掛かったのは事件から半月ほど経った頃の宗矩である。相手は会議に参加していたとある幕臣。相手の方がはるかに高位であったが向こうも負い目があるのだろう、彼は格下のはずの宗矩の詰問を黙って聞いていた。

「家老の勘兵衛様も後を追って腹を召された!そこまでしたというのに約束を反故になさるおつもりですか!?」

「それはわかっている。その家老も気の毒だとは思っている。しかし決まったことは決まったことなのだ」

 幕府の奉書では直盛が腹を切れば御家は見逃すという約束になっていた。宗矩も勘兵衛にそう伝え、勘兵衛はそれを実行し、のちにけじめとして自らの腹を切った。そこまでしたにもかかわらず幕府は坂崎家に御家取り潰しを言いつけたのだ。勅使となった宗矩としては当然受け入れがたい話である。

「我々も初めは約束を守るつもりだった。しかしながら駿府から戻った金地院(崇伝)様がそれでは甘いとおっしゃられたのだ。万が一坂崎家が他所に泣きつけば上様の御威光を疑問に思う者が現れるやもしれないとな」

「……どういうことですか?」

「よく考えてもみろ。此度の件、始まりは戦場での命令とはいえ権現様のお言葉だ。だが上様や大炊頭様らはそれをなかったことにした。権現様の跡を継いだとされているにもかかわらずにな」

 秀忠は家康の跡を継いで将軍となった。そんな秀忠が先代の約束を引き継がなかったというのは外聞の悪いことである。

「そして別の誰かが……例えば尾張の近衛中将様(徳川義直)あたりが代わりに褒美を与えたら、周囲の者はどう思う?」

「それは……」

 仮に徳川義直が直盛に褒美を与えれば、『家康の遺言を継ぐ者は義直である』と周囲の者が判断するかもしれない。少なくとも坂崎家は義直側につくだろうし、そこから彼に追従する者が出てくるかもしれない。特に今は家康が死んで代替わりをした直後である。最悪の場合天下が二分されたとしてもおかしくはない。

 それを防ぐために崇伝は約束を反故にしてでも坂崎家そのものを潰すことに決めたのだ。

「わかるだろう、宗矩殿。今はまだ不安定な時期だ。ならば不安の芽はとりあえず抜くに限るのだ」

「わかっております……わかっておりますが……!」

 結局この決定は覆ることなく、元和二年十月、坂崎家は御家取り潰しとなった。今から十一年前のことである。


(あれからもう十一年か……。いや、どれだけ時が経とうともあの日の理不尽を受けた側からすれば関係ないか……)

 宗矩は『山姥の槍』を軽く撫でた。この槍は坂崎事件解決の褒美として拝領したものであったが、宗矩からすれば当時の罪の象徴でもあった。

 あの日からいったい何度後悔したことだろう。何度勘兵衛に謝りたいと思ったことだろう。できることならすべてを投げ捨てて罪を贖いたい。しかしその思いとは裏腹に今の宗矩には守りたい家がある。まだ討たれるわけにはいかない理由がある。

(申し訳ない、勘兵衛様。私はまだ倒れるわけにはいかないのだ……!)

 宗矩は槍が納められた桐箱の蓋を閉じ、蔵から出た。その顔にはもう迷いはない。

(とりあえずまずは情報収集だな。大炊頭様も気に掛けてはいるようだが私個人でも動いた方がいいだろう。それから目立たぬ範囲で見張りを増やし……そうだ、柳生庄にも使いを出さねば。なにせあそこには出羽守様のご子息がいるのだからな)

 十一年前の坂崎家御家取り潰しの報告を聞いたとき、実は宗矩は利勝に一つ嘆願を出していた。それは坂崎直盛の嫡男・坂崎平四郎へいしろうを柳生家預かりにすることであった。今回の坂崎家取り潰しの背景に権力闘争があるのなら彼の命も危ないと思ったからだ。

 結果としてこの嘆願は受理された。今回の事件の功労者である宗矩の頼みというのもあるが、やはり利勝らにも負い目があったのだろう。その後平四郎は柳生庄へと送られ今日に至る。

(坂崎家の残党が接触を図るやもしれない。七郎に警戒するようにと忠告しなければ……)

 そう思ったところで宗矩の足は一瞬ピタリと止まった。自分もまた個人の都合で家族を巻き込んでいることに気付いたからだ。

(親の確執が子に伝わる、か……。情けない話だな……)

 だがその慚愧の時間も一瞬だった。宗矩は今自分がするべきことを理解している。

(何はともあれ七郎に手紙を書かねばな。懇意にしている忍びに持たせれば、早ければ明後日までには届くはずだ。そう、御家を守るためにはこれは当然のこと……当然のことなのだ……)

 部屋に戻った宗矩は墨をすり筆を手に取った。しかしその筆はなかなか思うようには走らなかった。

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