柳生宗矩 坂崎事件を思い出す 2
『
(とうとうこの時が来てしまったか……)
土井利勝から報告を受けた宗矩の表情は屋敷に戻ってからも一向に険しいままだった。それこそ見かねた家来が「何かあったのですか?」と尋ねるほどであったが、宗矩はただ「何でもない」とだけ返し、人払いをして自室に篭ってしまう。そしてまもなく暮れ六つになるという頃、宗矩は唐突に草履をひっかけて一人庭へと出た。
宗矩が向かった先は屋敷の北西に建てられた延べ床八畳ほどの小さな蔵だった。堅牢な錠前を開けて中に入るとひんやりとした空気が肌をなめるが、宗矩は表情を変えることなくその奥へと向かう。そして一番奥、記憶通りの場所に目的の桐の箱はあった。
箱の長さは三間三尺(約6.3メートル)ほど。それを開けると中には三間を超える(約6メートル)笹穂槍が丁重に納められていた。この槍は『山姥の槍』と呼ばれる名槍で、元は坂崎直盛所有のものであった。
(もう11年になるのか……)
宗矩と坂崎家との因縁――それは元和二年(1616年)に起こったいわゆる『坂崎事件』にまで遡る。
事の始まりは慶長二十年(1615年)五月、歴史で言う大坂夏の陣の頃であった。
この戦は知っての通り徳川と豊臣の雌雄を決する一戦であったが、実際は前年の冬の陣の時にほぼほぼ決着はついており、あとはもうただ豊臣を滅ぼすだけの戦であった。本格的な開戦は四月の末。そこから十日余りで徳川方は次々と戦線を突破、五月の初週が終わる頃には大坂城の包囲をほとんど完成させていた。
各地から入ってくる順調な報告に歓喜する徳川本陣。だがこうなると勝敗以外のことも気になってくる。この時総大将である家康が勝敗以外で最も気にしていたのは孫娘の
「ええぃ。千の安否はまだわからぬのか!?」
千姫。二代将軍・秀忠の長女であり家康からは孫娘、家光からは姉に当たる人物である。この時千姫は政略結婚で豊臣秀頼の正室という立場にあり、落城寸前の大坂城内に残されていた。残っているのが彼女の意思なのか豊臣の策略なのかはわからないが、ともかくこのままでは千姫が死んでしまうことは間違いなく、故に彼女を溺愛していた家康は焦っていた。
「申し訳ございません。自軍が優勢になったためか城下で略奪に動く者が増え、城攻めに参加する者が足りていないとのことです」
「くっ、役に立たない奴らだ!そんなに褒美が欲しいなら千を助け出した者にくれるだけくれてやる!片っ端からそう伝えろ!」
「しょっ、承知致しました!」
こうして駆けていった伝令を見送ったのち家康はふと思った。
(『くれるだけくれてやる』というのは大将の出す令としては適切ではなかったかもな。これでは都合よく解釈する者もあらわれるやもしれぬ)
初孫可愛さに無茶な命令を出したと自覚する家康。しかし家康はそれを打ち消すような命令をわざわざ出したりはしなかった。
(下手に相反する令を出しても現場を混乱させるだけだからな。何か起こればその都度対処すればいいだろう。それよりもまずは千だ。あぁ誰でもいい!早く千をあの城から助け出してやってくれ!)
だがこの判断がのちの大騒動を引き起こすこととなる。
さて、その後の大まかな展開であるが、まず渦中の千姫は無事救出された。助け出したのはのちに坂崎事件を起こす出羽守・坂崎直盛。ここで家康の命令通りなら直盛に『特別な褒美』が与えられることになるのだが、残念ながら直盛に与えられたのは通常の範囲内での褒美のみであった。幕府が直盛に『特別な褒美』を与えることができなかった理由はいくつかあるが、一言で言うならそれは『多忙』のせいであろう。
この頃の幕府はとにかく忙しかった。その例でまず挙げられるのは戦後処理であろう。一時は全国統一を果たし、さらには天下の大都市・大坂を押さえていた豊臣家の滅亡だ。その瓦解の影響は計り知れない。第二の豊臣家を生み出さないための残党追跡。豊臣家に味方した武将の改易や転封命令。自軍に対しての信賞必罰。大坂の町の再興手配。かかわってくる人数も膨大なためその処理はまさに目が回るほどの忙しさだったという。
また家康自身も休む暇はなかった。家康は豊臣を滅ぼすやすぐに京へと上り元号を元和に改める。そして武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定し、名実ともに徳川の世になったことを世間に知らしめた。その後は駿府城へと移り大御所として戦後処理の政務に追われ、そして年が明けた元和二年一月、鷹狩の途中で病に倒れるとそのまま回復することなく、三か月後の四月十七日享年七十三歳でこの世を去った。
家康の死によって御公儀はさらに多忙となる。葬式等の手配は当然のこと、豊臣残党の蜂起や家臣の反逆などにも気を使わなければならない。ただ幸いだったのはこれが幕府の一大事であるということを理解している者が多くいたことであった。
「代替わり時は騒動が起きやすい。皆気を引き締めて権現様(家康)が残してくれたこの天下を守るのだ!」
やはり皆戦乱よりは泰平の方がいいのだろう。多くの者が奮起した甲斐あって、幕府は代替わりが起こったにもかかわらず大きな混乱なくこれを乗り越えることができた……かのように思われた。
家康の死から五か月ほど経った九月の某日。老中・土井利勝は何の前触れもなく直盛謀反の知らせを聞いた。
元和二年九月某日。家康死後の混乱が一段落した頃、その日利勝は江戸城内にて政務を行っていた。そこに部下の一人があわただしく入室してくる。作法に厳しい江戸所内にてこのような振る舞いは非常に珍しいことである。
「大炊頭様!か、火急!火急の知らせにございます!」
「どうしたというのだ、そのように慌てて」
利勝は落ち着くように促すが、部下はそれすら遮って言葉を続けた。
「出羽守様が……出羽守様が湯島の邸宅に人を集め、挙兵の構えを見せているとのことです!」
「……何だと!?」
この報告にはさすがの利勝も筆を持つ手を止め思わず固まった。湯島とは江戸城本丸から北東へ半里(約2キロメートル)のところにある地区である。そこで挙兵の動きだと?利勝は一瞬我を忘れかけたが老中という役職が彼を正気に戻させた。
「……どういうことだ!?詳しく話せ!」
「それが某も今しがた耳にしたばかりでして……。聞いた話によると出羽守様は今朝より屋敷の門を固く閉め、門番として全身を具足で固めた者を置いていたそうです。その仰々しさに気になった誰かが何事かと尋ねたところ、『これから兵を率いて上様にお目通りを願うところだ』と答えたことで今回の件が発覚した次第にございます」
「兵を率いてだと!?馬鹿な!なぜそのような真似を!?……いや、それよりも今はどうなっているのだ!?誰か対処に動いたのか!?」
「騒ぎに気付いた目付が配下を使って城までの道を塞いでいるそうです。ただ情報が錯綜しているためまだ完全には封鎖できてないとのこと……」
「封鎖!いい判断だ!ではそのまま出羽守邸を囲んで誰も出入りできないようにしろと指示を出せ!それと指示あるまで決して手を出してはいけないということもな!絶対に徹底させろ!さあ、早く!」
「は、はっ!」
利勝にせかされて部下は返す刀で部屋を出ていった。そして利勝はすぐさま思考を巡らせる。
(何が起こっている?いったいなぜ出羽守はそのような真似を?あるいは西の残党か?いや、そもそも誤報だという可能性も……。しかし後手に回っては取り返しのつかないことになる……!)
何一つとして確証のない中であったが、利勝の中には一つの決意があった。
「決して江戸の町を大坂のようにはさせない……!」
ほんの一年前、利勝は討ち滅ぼされた大坂の町を見ていた。城は焼け、田畑は荒らされ、めぼしいものはすべて略奪された町。家康亡き後江戸を託された者としてそのような惨劇をこの町で起こさせるわけにはいかない。
そのためには迷う時間すら惜しい。利勝は別の部下を呼び出すと幾人かの名前を挙げ、すぐに江戸城へと来るようにと伝令を走らせた。
利勝の指示から半刻後、江戸城の一室にて今回の暴挙に対処するための緊急会議が開かれた。利勝はまず集まってくれた面々に対して礼を述べる。
「此度は急な呼び出しにもかかわらず早急に集まってくれたことに感謝する。さて、集まった者の中にはすでに耳にした者もいるかもしれないが、現在出羽守が湯島の邸宅にて立てこもり挙兵の構えを見せている。此度はそれを解決するために皆に集まってもらった」
利勝の言葉に半数近くの幕臣が狼狽した。彼らはおそらくここで初めて今回の件を耳にしたのだろう。残りの半分はすでに知っていたのだろうが、前例のないことなだけに全員大なり小なり不安そうな顔をしている。
利勝は動揺する幕臣らを咳一つして黙らせると、自身の部下にこれまでに集めた情報を報告するよう命じた。
「では報告させていただきます。まずは事の真偽ですが、出羽守様がご自宅に立てこもられたのは事実にございます。加えて具足を付けた者を屋敷内に徘徊させているのも事実。ただし弓や砲といったものが並べられているという報告はございません。またこれに関連するような破壊活動も今のところ確認できてはおりません」
直盛が立てこもっていることは事実だが、それによる被害は今のところ出ていない。その情報に参加者たちは安堵と苦悶が入り混じったような表情をした。
「兵を率いて登城するという話も聞いているが、そのあたりはどうなのだ?」
「現在出羽守様の兵が屋敷外に出ているという報告はありませんね。事件初めの頃は数名の門番が正門前に立っていたとされますが、それらも道が封鎖された際に中に入っていったそうです」
「通りの封鎖状況は?」
「目付を筆頭に二百人規模で四方の通りを封鎖しております。ただし陣が厚いのは天守方面の通りのみです。数が足りないのは伏兵を警戒してのことで、江戸の各地に見張りとして立たせております」
これは豊臣残党を警戒しての配置であった。後世の人間はこれが出羽守単独による騒動だと知っているが、当世の利勝たちにそれを知るすべはないためである。
「それで他の者に動きはあったのか?」
「今のところ出羽守様以外に目立った動きはありませんね。気を見計らっているのかもしれませんので警戒は怠れませんが。……それと耳の早い一部の町人はすでに江戸の町から離れだしたとか」
時代は戦国時代が終わってすぐの頃である。町人らも『戦場になる』ということがどういうことなのか理解していた。
「……好ましくありませんな。せっかく人も店も増えてきたというところに」
「ええ。このまま騒動を長引かせれば江戸の評判も悪くなる。やはりここは早期解決が望ましいでしょう」
「そもそも出羽守は何をもってそのような暴挙に出たのだ?原因がわかれば対処も楽になりましょうぞ。それについての報告はないのか?」
幕臣らが尋ねると利勝の部下はこれまでの報告とは打って変わって「ええと……それはですね……」と躊躇するような態度を見せた。
「なんだ、歯切れの悪い。さっさと報告せい」
「はい、それが……どうやら出羽守様は千姫様救出の褒美に、かの姫を妻にできると考えていたようです……」
この報告に集まった一同は一様に呆けた顔をした。
「な……千姫様を?ど、どうしてそのようなことになったのだ?」
「それが、大坂の役の際に権現様(家康)が『千姫様を助け出した者に褒美を出す』と言っていたらしく、それを千姫様との婚約だと解釈なされたようです」
これに何人かが「あぁ!」と思い出す。
「そういえば……そういえば確かに上様からそのような命令が出てはいたな。しかしなぜそれが千姫様との婚姻の話になるのだ!?」
「これは推察の話になりますが、千姫様の境遇故に半端な者では再婚相手になれないだろうと考えたのだと思われます」
報告者の推察は以下の通りだった。
まず前提としてこの時代は積極的な政略結婚が行われている時代であった。それは千姫も例外ではなく、寡婦となった以上は徳川のために改めて誰か有力な武将の元に嫁がせる必要があった。
しかし千姫は家康・秀忠の血を引く上に、前夫は豊臣の当主・秀頼である。半端な者には荷が勝ちすぎるし、かといってめぼしい武将にはすでに正室がいる。つまり再婚相手の用意には相当難儀するであろうということだ。
「なるほど。そこにきて権現様のご金言というわけか」
「はい。落城しそうな城から姫様を助けたとあらば相当な武功になりますからね」
この時代はまだまだ戦場での武功に価値があった頃である。なるほど、それほどの功績を上げれば確かに内外から姫の再婚相手にふさわしいと認めてもらえるやもしれない。
「つまり出羽守はあの令を、姫様の再婚相手を探すためのものだと勝手に解釈したということか……」
「状況を見ればおそらくは……。ところが当然そのような空約束を守る者などいるはずもなく……」
おそらく直盛も戦後処理や家康の死などを鑑みて今日まで黙って待っていたのだろう。だがいつまでたっても婚約の話は入ってこない。そこでとうとう我慢の限界が来たというわけだ。
「それで湯島の屋敷に立てこもったのか?いくらなんでも短絡的ではないか?」
「いや、確か出羽守はかつて大坂でも似たようなことをしていたと聞いている。昔気質の人だからな。一度意固地になると引けぬ人なのだろう」
「しかしもうどうしようもないぞ。なにせ姫は
そう、実はこの時すでに千姫の再婚相手は決まっていた。相手は本多忠刻。本多姓からわかる通り徳川四天王の一人・本田忠勝の孫で、母は徳川家康と織田信長の孫・妙高院と血脈的には申し分ない人物である。
「そのことは伝えたのか?」
「現在交渉に向かった者が伝えているはずです。そも特別隠し立てもしてませんし別筋から耳にしているやもしれません。あるいはそれを聞いての今回の暴挙かと……」
「ふむ。これであきらめてくれればよいのだが……」
しかし戻った使者からの報告は望ましいものではなかった。どうやら直盛は千姫再婚の話を知っており、それが最後の引き金となったとのことだった。
「不憫なことだ。出羽守からすれば無視された上に姫様を取られたようなものだからな。そりゃあ面目も立つまい」
この時代、武士の面目は何よりも重視されていた。それが侮辱されれば相手が誰であれ刀を抜くことも厭わない、そんな昔気質の人間がまだ多くいた時代である。
故にこの話を聞いて同情の気色を見せる者も少なからずいた。しかしそんな雰囲気を利勝は一喝する。
「……言うまでもないことだが、よもや情を挟もうなどと考えている者はおらぬだろうな?なるほど、きっかけ自体は同情できるところもあるやもしれない。しかしそれと兵を用意することは全くの別問題だ。出羽守は兵を並べた。それは江戸に戦火を灯しかねない行為である。つまり……」
利勝は(嫌な役目だ)と内心嫌悪しながら断言した。
「出羽守は上様に弓を向けた逆賊。必ず討ち取らなければならない相手だということだ。異論はありませぬな?」
利勝の言葉に反論する者は誰もいなかった。この時より正式に直盛は幕府に弓を引いた逆賊となり、処分することが決定したのであった。
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